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怪談屋  作者: 伊藤修平
徒桜の怪
11/14

9

 燃えるような茜に、絹のような雲が紫色の差し色を加え、月は東に日は西に、その顔を朧に浮かべる。(やが)て、一方はその輝きを、地平の凸凹(でこぼこ)とした影絵のような公団や摩天楼(まてんろう)に隠し、他方はその太古から続く暗闇を導く光を、街の灯りを照らし返す雲居の奥に隠している。

 主たる輝きを反射し、夜を照らすと言う点に於いては、この光害の明かりも、夜月の光も、そこに大きな遜色は無いのだろうか。

 私を今、照らしているのは何方(どちら)だろうか。

 宵の暮れが通り過ぎ、郊外にぽつぽつと暖色や白色の灯りが灯り出す暮夜(ぼや)に、そんな感傷に耽っているのは、()る種の現実逃避なのだろうか。それとも、今私の立っている現状に、確かな充実感を覚えているからだろうか。

 何れ、非現実的な現実に居るのは(たし)かである。

 4人乗りの軽自動車の助手席でそんなことを思う。私の右手には運転手として虎さんが座っている。つまり私は助手席に位置しているということになる。

 赤子をあやす女の人影の検証が終わった後、事務所に戻ると、出来るだけ動きやすい長袖長ズボンの格好で18:00頃、怪談屋に再度赴くように言いつけられて帰された。

 そうして私は今、体操服のジャージ姿でちょこなんと身を(すぼ)め、座している。

 エンジンは既にかかっており、腹の底に響く細かな揺れが胃にまで到達し、胃液と内容物を攪拌(かくはん)させているような気持ちになる。車酔いの大まかな要因はこれと、車内の匂いにあると思っている。

 ふと気付いて、シートベルトを締めようと左肩の上辺りに手を伸ばすと、虎さんが「あ」と軽く呟いて制止する。

「シートベルトは付けないでください。危ないんで」

 車内に()いての危険から極力身を護ってくれるシートベルトを、付けた方が危なくなると言う状況とは一体どのようなもののことを指すのか。と言うより、今からそんな目に私は遭うのかと思うと、堪らなく恐ろしくなった。

 それに気づいたのか、それとも何か企みがあるのか、虎さんは「あと、出来ればなるべく俺の近くにいてくださいっす。牡丹さんさえ良ければ、腕を掴んで貰ってても構いません。とにかく、それくらい近くに居てくれないと困りますっす」と言った。

 企み……そんなものがあるとすれば、きっとあのいけ好かない卑屈男の指示に違いない。虎さんは至って素朴な人の筈だ。

 私は虎さんに言われた通り、シートベルトを付けずに身を寄せる。腕に優しく触れてみると、彼も緊張からか、手が震えているのが分かった。また、頬にはじっとりとした汗が滲んでいるのが(うかが)える。

 怪談屋として、実地経験が豊富そうな彼でさえ、これほどまでに緊迫する事が今から起こるのか。そう思うと、余計に恐ろしくなってギュッと彼の腕を掴んだ。

 怪談屋は同席していない。理由は聞いていないが、なんとなく察しはつく。女子中学生と肉迫するレベルなのだ。危険な実務には極力関わらないと言うことだろう。


「それじゃあ、行くっすよ」

 虎さんは意を決したように言って、ハンドルを強く握り、車を発進させた。

 見上げると、少しずつ暗色の夜空の範囲が狭まって、曇りの様相を(てい)していた。

 雨が来るな。

 そう直感したが早いか、蕭々(しょうしょう)と雨滴が落ちてきた。ぽつり、ぽつりと降り落ちるそれはしとり、しとりとアスファルトを濡らす。


 チク、タク、チク、タク。

 一定のリズムで振り子のようにウィンカーが音を立てる。

 チク、タク、チク、タク。

 軈て雨足は強くなっていく。

 チク、タク、チク、タク。

 気付けば見覚えのある(みち)を車のヘッドライトが照らしていた。


 あの女の居る路である。

 当の女は案の定、車道にてその無防備な背中を此方(こちら)に向けている。

 否、あれこそが魅せるものであるとしたならば、あの背中は怪異にとっての武器。ラフレシアにとっての香りのようなものだろう。

 差詰め、私達は香りに誘き寄せられた蝿。

 ひやり、と嫌な汗が背を伝う。

 知らぬ間に相手の謀略に()まっているような、何か取り返しのつかぬ選択を余儀なくされているような、そんな薄ら気味の悪い錯覚に陥った。

 錯覚であれと、そう願った。


 虎さんが女がいるのか確認してくる。

 私は、それに応答して、車の真ん前にいることを伝えた。

 刹那、ぐん、と女が迫ってきた。否。女が迫ったのではない。私達が迫ったのだ。


 途端、鈍い音が響いた。

 ()いたこともなければ、轢いているところを見たことも聞いたこともない。しかし、確実に何か質量のある肉を轢いたのだなと解る音であった。人を轢けば、こんな具合の音が鳴るのだろうなと。

 人であれば良かった。そうすれば、私達が檻の内に入れば済むことであるのだから。


 あの怪談屋の手駒になったことを心底後悔した。

 ぎぎぎ、と古臭い油の注されていない壊れかけの絡繰人形のように、その女は首だけを回して振り向こうとしている。

 ぐん、と車が左折する。

 遠心力で私は虎さんにより一層身を預けた。


 怪談屋は、二つの怪異の形質を継承した怪異だと言った。しかし、その二つにも、私の怪談にも確固たる記述はないのだ。



 この女の顔面については。



 再度ぐん、と勢いよく車が曲がった。今度は右折だったが、虎さんが左の手で私の腰周りをがっしりと力強く掴んでくれていたお陰で彼と離れずに済んだ。

 彼の顔を見遣ると、恐怖の色が滲んでいた。

 どうやら彼にも、この女の姿が(ようや)く見えたようである。

 敵愾心(てきがいしん)に怪異が反応したのか、それとも神隠しを行う段階だから見えるようになったのかは定かではない。

 しかし、確かに、眼前に広がっている光景を彼と共有しているようだった。


 ぎ、ぎぎ

 女の耳の裏が見えなくなる


 ぎぎ、ぎ

 頬の輪郭がはっきりとしだす。


 ぎぎぎぎぎ

 もう限界だ。


 咄嗟に目を瞑った刹那、更に車が加速する。法定速度など、存在しないかのような勢いで走っている。

 真っ暗な視界に、鳴り続ける異質な、首の捻れる音。身体は人が到底出せないような速度を感じ続けている。


 私はその場で嘔吐した。

 本当に、何もかもが、限界だったのだ。


 ぐいっと何者かに掴まれる。

 あぁ、とうとう取って食い殺されるのだなと、そう思った。

 何も見えない中、自分が何かに包まれながら回転している。

 辛うじて頬を打つ雨粒が、これが現実のことであると知らせる。


 ガシャン!と何か硬いものが勢いよく硬いものにぶつかる音がした。


 恐る恐る、目を開ける。

 どうやら、私達は河川敷に来ていたようだった。

 私が想定していた、あの女の人影が着いてくる距離を倍近くは超えている筈だ。

 ふと、筋肉質な腕が私を護るように抱きしめていることに気づく。私を掴んで外に出たのは、怪異ではなく虎さんだった。彼の胸の内は少し、私の吐瀉物で汚れていたが、そんなことは気にもかけていない模様だ。

 それよりも、何かを一心に見つめている。

 その方に目をやると、先程まで乗っていた車が高架下の柱に激突し、ありえないくらいにひしゃげて、燃え盛っている。愉英雨(ゆえいう)と言えぬほどに強まった雨足ですら、鎮火が困難な程に、黒煙をもうもうと立てながら燃えている。


 柱と車の間に動く影がある。

 最早人とは呼べぬ形相だった。伸びた手足はまるで節足動物のそれであり、また、髪はゆらゆらと何かを探るように揺れている。風に靡いているのか、蟲の触覚の様に獲物の探索に使っているのかは判然としない。

 そして、この世のどんな声帯ですら再現できないと思えるような金切り声を上げている。

 私は虎さんに抱きしめられているお陰で、耳が塞がれ気味なのだが、それでも鼓膜が破れるのでは無いかと思うほどのものであった。

 耳を塞げず、そちらの方から目も背けずに見つめ続ける虎さんの胆力にはほとほと感心した。


 ふと、彼が私に耳打ちをする。

「もし、もしあれでもあの化け物が死ななかったら、俺らはきっと神隠しにあうっすね。まぁ、その時は死んでも牡丹さんだけは護りますんで安心してくださいっす。そうしたらきっと……必ず、先生が助けに来てくれますから」

 この時、出発前の彼の震えは完全に無くなっていた。覚悟を決めたのかは分からないが、それが嘘なんかではないことは歴然だった。


 気付けば、あの金切り声は雨音に混じるほどに小さくなっていた。

 ぼろぼろと、写真のネガが焼き切れるように女の人影は姿を崩していった。

 軈て、完全にその身は灰燼(かいじん)と化した。



 深く安堵のため息をついて、虎さんが私から腕を解く。

「すみません。苦しくなかったっすか?」

 私にゲロを引っ掛けられて怒りもせずに、私の心配をしてくれるだなんてこの男……否、漢はなんていい人なんだ。そう思うと同時に、彼をパシリ扱いしている怪談屋に少し腹が立った。

 私は吐瀉したことを謝罪したが、彼は笑って、「あの状況なら誰でもしょうがないっすよ」と許してくれた。


「でも、安心はできないっすよ」

 彼は真面目なトーンで言う。

「あれがあの怪異の完全な死なのか、それともリスポーンするのかが分かってないっすからね。ほら、自動追尾型スタンドみたいなやつだと、あの路に入った瞬間即神隠しっすからね」

 つまり私はもう一度あの路に行く……と。

 やりたくない。やりたくないが、確かめねばなるまい。


「あ」

 短く虎さんは呟いて雨の止み始めた夜空を見上げた。どうやら驟雨(しゅうう)だったらしい。

 私も彼と同じ方を見る。瞬間、あまりの光景に目を見開いた。


 そこには、確りと幹が太く、それでいて高層ビル程高く成長し、微かに発光する鮮やかな薄紅色の夜桜が、荘厳に咲いていた。

 (しばら)く、それを二人で眺めていた。



 それから大きく迂回して、再びあの路の入口に立った。

 虎さんは私の手をギュッと握ってくれている。

 深く息を吸って吐いた。

 気付けばしんしんと夜は深まって、既に街明かりは一つ、一つと消え始めていた。

 意を決して、ぐっと足に力を込める。

 気休め程度だが、確りと地に足をつけていたかったのだ。


 角を曲がったその先には。



 もう女の姿はどこにも無かった。


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