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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第一話 王太子妃になる令嬢は、今日も王太子の仕事を押しつけられる



「アリーゼ。今日中に、この書類をすべて確認しておいてくれ」


 王太子宮の執務室。

 目の前に積み上げられた書類の山を見て、私は思わず息を呑んだ。


「……こちら、すべてですか?」

「ああ」


 平然と答えたのは、ベルガリア王国の王太子――ランスロット殿下。

 十八歳。

 金色の髪に、澄んだ青い瞳。

 誰もが一目で心を奪われるほど美しい王太子だ。


 そして私は、その婚約者。

 アントワープ公爵家の令嬢、アリーゼ。

 私も十八歳。

 銀色の髪と緑色の瞳を持ち、幼い頃から王太子妃になるための教育を受けてきた。

 朝は礼儀作法。

 王国史、外国語、外交、経済、法律。

 夕方には王宮での立ち振る舞い。

 夜には王妃陛下とのお茶会。


 そして――その合間を縫って、執務。

 王太子妃になるのだから、それくらい当然だと思っていた。

 国を支える立場になるのなら、学ばなければならない。


 そう思って、私は毎日必死に努力してきた。

 眠る時間を削って。


 学院に通う時間さえ、奪われていた。

 それでも、私は頑張った。


 幼い頃から、私はずっと信じていた。

 いつかランスロット殿下の隣に立って、王国を支えるのだと。


 だから、辛くても頑張れた。

「ありがとう、アリーゼ」

 いつか殿下にそう言ってもらえる日が来ると、信じていたから。


 私は書類の束を一枚めくった。


「殿下、こちらは、王太子殿下ご自身の決裁が必要な書類ではありませんか?」

「だから君に確認を頼んでいる」


「ですが、最終的な決裁は殿下が――」

「アリーゼ」


 ランスロット殿下が、面倒そうに私の言葉を遮った。


「私の婚約者なのだから、私の仕事を手伝うのは当たり前だろう」

「……はい」

「それに未来の王太子妃なら、この程度の仕事、こなせなくてどうする!」


 殿下は冷たい目で私を見た。


「もっと要領よく仕事をこなせ」

「……申し訳ありません」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 私は要領が悪い。

 そうなのだろうか。


 昨日だって百二十七枚の書類を確認した。

 間違いを四つ見つけた。


 それでも――私は「遅い」と言われる。

 だったら、どうしたらいいの?


 私は唇を噛んだ。

 もっと頑張らなければ。

 殿下の隣に立つことはできない。


「承知しました。本日中に確認いたします」

「当然だ」


 ランスロット殿下は満足そうに頷いた。

 そして、何事もなかったかのように立ち上がる。


「私は学院へ行く」

「……学院へ?」


 殿下は少し嬉しそうに笑った。


「シャルミナ嬢と昼食を共にする約束があるからな」

「…………そうですか」


 胸が、きゅっと締めつけられた。

 シャルミナ。

 最近、殿下が口にする名前だ。


 学院に通う男爵令嬢。

 桃色の髪に、愛らしい顔立ち。


 誰にでも優しく、困っている人がいればすぐに手を差し伸べる。

 殿下は、そんな彼女をいたく気に入っているらしい。


「シャルミナは、私が疲れていることにもすぐ気づいてくれる」

「……そうですか」

「君も少しは彼女を見習ったらどうだ?」


 私は何も言えなかった。

 私が学院に行けないのは、殿下から渡された仕事と、王太子妃教育に追われているからだ。

 それなのに――。


「君は要領が悪いのだ。効率的に行え。あとは任せた」


 ランスロット殿下が部屋を出ていく。

 その背中を見送り、私は小さく息を吐いた。


 それから私は、机の上に積まれた書類を見つめた。

 どうして、こんなに頑張っているのに。

 まだ足りないの?


 だったら――どうしたらいいの?

 もっと頑張るしかないの……。

 ある書類を片手に視線が止まる。


「この契約……」


 アリーゼは眉を寄せた。


「輸送費が高すぎるわ」


 王国から隣国へ運ぶ場合、現在の経路では山道を越える必要がある。

 けれど――。


「河川を使えばいい」


 アリーゼは地図を広げた。


「この港から運べば、距離は三割近く短くなる」


 そして、計算を始める。


「……年間で、数百万ギーベル……費用が浮く」


 その時。


「アリーゼ様」


 部屋に青い髪の青年が入ってきた。

 ランスロット殿下の側近兼侍従。

 侯爵家嫡男、レオポルドだった。


「恐れながら、アリーゼ様。もう少しだけ、お急ぎいただけませんか」

「それなら……殿下ご自身のお仕事を、私がするのは、おかしいのではありませんか?」


 彼は困ったような笑みを浮かべていた。


「殿下はお忙しいのですよ」

「……でも」


「殿下のお仕事を手伝うのも、王太子妃の役目でしょう」

「…………」


 私は黙った。

 何かがおかしい。


 けれど、王太子殿下の側近が言うのだ。

 もしかしたら、私が間違っているのかもしれない。


「申し訳ありません」


 そう答えると、レオポルドは満足そうに微笑んだ。


「では、引き続き、残りの執務をお願いします」


 その笑顔を見たとき。

 なぜか、背筋に冷たいものが走った。


 ◇


 その日の夜。

 私は王太子宮にある妃用の執務室を出た。

 時刻は、すでに夜十一時を回っている。


「……本日は、これで終わり」


 ふらつく足で立ち上がった、そのときだった。


「アリーゼ様!」


 侍女が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「明日の妃教育の予定が届いております」

「明日の……」


 私は受け取った予定表を開いた。

 朝六時から王太子妃教育。

 八時から外国語。

 十時から外交官との面談。

 昼食後は王国法。

 夕方から王宮舞踏会の予行。

 そして夜は――。


「……王妃陛下との夕食会」


 思わず、笑ってしまった。


「明日も、休めないのね」

「アリーゼ様……」


 侍女が心配そうに私を見る。


「大丈夫よ」


 私は笑った。

 笑えているつもりだった。


「王太子妃になるために必要なことだもの」


 ランスロット殿下の隣に立つために必要なこと。

 けれど。

 自分でも驚くほど、その声は弱かった。

 王太子妃教育のため、王城に住み込み、家族や友人に気軽に会うこともできない。


 ただ毎日、勉強して。

 働いて。

 また勉強して。

 働く。


 十八歳の令嬢なら、本当はもっと自由に過ごしてもいいはずなのに。

 それでも肝心のランスロット殿下が労ってくれるのなら、救いがある。


 しかし、殿下は別の女性に心を囚われていて、冷たかった。

 でも、私はまだ殿下に嫌われたくなかった。


 幼い頃から、ずっと一緒だった。

 いつか殿下の隣に立つのだと、信じていた。


 だから――。

「頑張れ」と言ってもらえる日を、どこかで待っていた。


 けれど。

 殿下が私に向ける言葉は、いつからか「仕事が遅い」ばかりになっていた。


「……私、何のために頑張っているのかしら」


 呟いた言葉は、夜の廊下に消えていった。


 ◇


 一方、その頃。

 王太子宮にあるランスロットの執務室では。

 レオポルドは、ランスロットと向かい合っていた。


「今日も、アリーゼ嬢に仕事を任せておきました」

「そうか」


 ランスロットは満足そうに頷いた。


「アリーゼは仕事が遅いからな。私の仕事にまで影響が出て困る」

「ええ、その通りかと」


 レオポルドは丁寧に頭を下げる。


「ですが、殿下の負担を減らすためにも、今後もアリーゼ様にお任せしましょう」

「そうだな。仕事を任せているうちに少しは早くなればいいのだが……」


 ランスロットは薄い笑みを浮かべた。

 だが――。

 アリーゼに渡している書類の大半は、ランスロット自身が処理するべきものだった。


 それを、レオポルドは知っている。

 それでも彼は、今日も何も言わなかった。


「これで殿下も、楽になりますね」


 レオポルドは微笑んだ。

 その笑顔の奥に何を隠しているのか。

 ランスロットは、まだ知らなかった。


「ところで殿下」


 レオポルドが口元を緩める。


「シャルミナとは、順調ですか?」

「ああ、お前の従妹だから、気にかかるか?」


 ランスロットの表情が、途端に柔らかくなった。


「シャルミナは本当にいい娘だ」

「それは何よりです」

「私が疲れていると、すぐに気づいてくれる」


 ランスロットは嬉しそうに笑った。


「アリーゼとは違う」

「……左様ですか」

「アリーゼは、いつも仕事の話ばかりだ」


 しかし、本人は気づいていない。

 アリーゼから奪っているのが、時間だけではないことに。


 学院生活も。

 友人との時間も。

 家族と過ごす時間も。


 そして――。

 自分を信じる心さえも。


 ◇


 翌朝。


「アリーゼ様、本日は学院へ行かれるご予定でしたよね?」


 侍女に尋ねられ、私は予定表を見つめ、小さくため息を吐いた。


「……無理そうね」

「ですが、もう三週間ほど学院をお休みになっています」

「分かっているわ」


 窓の外を見る。

 朝の王都は、眩しいほど晴れていた。

 今頃は、学院へ向かう生徒たちが、楽しそうに笑っているだろう。

 私は、その情景をしばらく思い浮かべていた。


「仕事が終わりません。お休みします」

「本当によろしいのですか?」

「ええ、仕方ないわ」


 私は苦笑いを浮かべた。


「王太子妃になるために必要なことですから」


 そう言ったはずなのに。

 なぜか胸の奥が、ひどく空しかった。


 ◇


 同じ頃。

 王立学院では。


「アリーゼ様、今日もお休みなの?」


 令嬢の一人が呟いた。


「王太子妃教育が大変なのでしょうね」

「でも……」


 別の令嬢が小声で続ける。


「王太子殿下は毎日いらしているわよ」

「それに……」


 少女たちの視線の先。

 そこには、桃色の髪を揺らすシャルミナがいた。


「殿下、お疲れではありませんか?」

「ああ。少しな」

「まあ……」


 シャルミナは心配そうに眉を下げた。


「お仕事が大変なのですね」

「そうなんだ。アリーゼには仕事を任せているのだが、なかなか終わらなくてな」

「まあ……」


 シャルミナは少し悲しそうな顔をした。


「殿下はお優しいですね」


 そして、柔らかく微笑む。


「私でよければ、いつでも殿下のお力になりますよ」

「シャルミナ……」

「アリーゼ様も、殿下がお疲れになるほど、頑張らなくてもいいと思います」


 ランスロットの青い瞳が、嬉しそうに細められた。


「君は本当に優しいな」

「そんな……当然のことです」


 その光景を見た令嬢たちは、口々に囁いた。


「シャルミナ様って、本当にお優しいわ」

「それに比べてアリーゼ様は……」


「最近、学院にも来ないものね」

「王太子殿下がシャルミナ様に惹かれるのも、分かる気がするわ」


 誰も知らない。

 アリーゼが学院に来られない本当の理由を。


 ◇


 一方。

 王太子宮の執務室。

 アリーゼは、今日も一人で書類の山に向かっていた。


「……あと、これだけ」


 震える手でペンを握る。

 

「私も……学院に行きたかったな」


 けれど、アリーゼは一枚の書類を見つめた。


「……あら?」


 そこには、王国と隣国との交易契約が記されていた。


「この輸送経路……」


 アリーゼの緑色の瞳が鋭くなる。


「これなら、もっと安くできるはずなのに」


 アリーゼは夢中になって計算を続けた。

 さっきまで重かったはずの身体が、少しも気にならない。


「……面白い」


 その瞬間。

 彼女の瞳に、初めて別の光が宿った。


「この輸送経路なら……」


 ペンを走らせる。


「年間で三百二十万ギーベルの削減……」


 アリーゼは小さく息を呑んだ。


「これなら……殿下のお役に立てる」


 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。

 今日も叱られた。

 仕事が遅いと言われた。


 それでも――。

 私にも、殿下のお役に立てることがある。

 そう思うだけで、少しだけ嬉しかった。


 けれど――。 

 その報告書を、アリーゼがランスロットに届けることはなかった。

 レオポルドが、誰にも見つからないように別の書類の山へ紛れ込ませたからだ。

 

 私はまだ知らなかった。

 この小さな提案が、やがて王国の交易を大きく変えることを。


 そして――。

 私の才能を最初に見つけてくれるのが、ランスロット殿下ではないことを。

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