第6話 霧沈域で妖が呼ぶ【弐】
【前回までの『五国捜神記』!】
霧沈域へ踏み込んだ虎嵐たち! 水底から響く怪音! 舟を取り囲む無数の黒い影ッ!!現れたのは――巨大オタマジャクシの水妖軍団だァァッ!!
逃げ場はない! 舟は沈む! 戦え虎嵐! 水の藻屑となるのは、どっちだァァッ!!
「呑鯨! 細熊!」
虎嵐が叫ぶ。
水妖の群れが舟に飛びついた。
オタマジャクシの手が、船縁をつかむ。
船体がぐっ、と沈む。
「沈む! 沈むッ!!」
細熊の悲鳴が、霧に吸い込まれた。
後ろの舟でも船縁をつかみ、ざばっ、と水しぶきをあげ、水妖が縁に這い上がった。
「上がって来たぁッ!」
遊侠の一人が刀を抜き斬りつけるが、ぬるりとした体に刃が立たず、
水妖は粘りつくように船縁から離れない。
刀で二度、三度と突き刺し、足で蹴ると、ようやく、黒い血を吹き出しながら水妖は水中に沈んだ。
――ざばっ!
――びたびた!
水妖が飛び跳ね、虎嵐の船に躍り込んだ。
呑鯨が、鎗を振り上げる。
──次の瞬間。
水妖の黒い頭の表面が、ゆらり、と人間の顔に変わった。
「ひ……っ!?」
呑鯨が息を飲む。
水妖の頭には、若い男の顔が浮かんでいた。
「……た、助けて……」
苦しげに歪んだその表情は、水死した者の断末魔のようで、何か叫んでいる。
「……おいで、こっちへ……」
船縁にとりついた別の水妖の頭には、老いた女の面影が浮かび、泣きそうな声で何かを呼ぶ。
ぱくぱくと動く、その口が、人のものではない。
魚のそれだ。
「やめろ……兄貴の顔だ!! なんでだよ!!」
背中におぞ気が走り、呑鯨は叫んだ。
呑鯨は、狂ったように鎗を振るい、ぐしゃぐしゃに叩き潰した水妖を船から蹴落とした。
虎嵐も棍棒を振るい続け、細熊は、泣きながら斬っている。
船頭は、火のついた松明を水妖に叩きつける。
その度に、生臭い臭いが立った。
数十の水妖が、周囲を取り囲んで水面に並び、次々と死者の顔を浮かべていく。
――若者、子供、老人、
溺れた者、行方不明の者、沈んだ船の乗り手たち。
彼らの面影が、黒い皮膜の下から透けるように浮かんでは消える。
――呼ぶ声、泣き声、恨む声。
すべてが霧の中で重なり、亡者の合唱のように震えた。
「……これは」
虎嵐は顔をしかめた。
「黒藻に取り込まれた死気だ」
死気は人の心を蝕む、陰の気。
虎嵐は、呼吸を整え、丹田から気を上昇させた。
死気に抗いつつ、船を沈めようとする水妖を、棍棒で叩き潰し――ふと、仲間に目をやった。
呑鯨が呻いている。
「……あ、あぁ……兄貴……やめろ……」
目は虚空を見つめ、額から汗が滲んでいた。
「お母さん……水の底から……」
細熊も同じだった。
唇が震え、怯えきった子どもの顔になって、完全に、死気に蝕まれている。
「……しょうがねぇな。こっち使うか」
虎嵐は短く息を吐いた。
右腕に巻いている黒い布をほどく。
露わになった前腕には、〝巳〟文字のような痣が躍っており、そこから、淡い緑光が脈動している。
「――〈翠牙〉! 力を貸してくれ!」
虎嵐は、巳文字――龍紋に向かって言い、右掌を呑鯨の背に押し当てた。
「樹龍木気──吼ッ!!」
緑光が爆ぜ、気の奔流が呑鯨の体を貫く。
「――ぐはっ!」
呑鯨は息を吐き、しばし嘔吐いた。
「……虎嵐……さん……? 兄貴の声が……消えました……」
細熊にも同じく施す。
「あったけぇ……なんだこれ……」
二人が正気に戻ったのと、ほぼ同時に、水面がざわざわと揺れた。
水妖たちがいっせいに震えだし、黒い球体の頭が、小さな悲鳴をあげ、次々と爆発する。
「おいおい……まさか……」
虎嵐は、自分の右腕を見た。
木気がまだ揺らめいている。
生者に寄り添う光――死念には、毒。
「ああ、そうかよ……なるほどな」
虎嵐は右拳を握った。
木気が拳に集まり、緑の稲光のような線が散る。
「てめぇら――木気にゃ、勝てねぇぞ!」
虎嵐は船縁から跳んだ。
〈虎跳兎狩〉
――吼ああッツ!!
上空からの落下で、加速された拳を水面へ叩きつける。
どっと水柱が上がり、緑に輝く木気の波が、放射状に駆け抜けた。
触れた水妖が、一体残らずかん高い悲鳴を上げる。
黒い頭が、沸騰した湯の中で煮え溶けるがごとく、次々と水底へ沈んでいった。
霧が晴れて行く。
水面は静まり返っていた。
「……虎嵐さん……すげぇ……」
呑鯨が震える声でつぶやく。
虎嵐は、船頭が差し出した櫂につかまり、船に上がった。
ずぶ濡れの水を振り払い、膝に手をつき、大きく息をつく。
「……あー、やべぇ……調子こいて撃ちすぎた……」
体に力が入らず、視界がぐらりと揺れる。
――その時だった。
「……むおおおん、むおん、うぉん、グォン……ォォン……ォォン……」
水底から、低い読経のような音が響いてきた。
細熊が怯えた目で川面を見る。
「虎嵐さん……今の……水妖じゃ、ありません……」
「ああ、わかってる。本命のお出ましだ」
虎嵐は、ぐっと拳を握り直す。
再び霧が湧いて来た。
視界が悪くなる中、ざざざっと、小山のように水面が持ち上がる。
――巨大な影。
蠢く皮膜。
黄色く光る二つの球体が、霧越しに光った。
まだ、本体の半分しか姿を見せていないというのに、
舟一つなど、容易く沈められるほどの巨体だった。
「――ガワン!! ガワァン!!」
妖怪は大声で鳴いた。
「あー、うるせー、集中できん!」
仲間同士の会話も聞こえずらい。
もう一艘の船から、遊侠が弓を放った。
妖怪の頭部に矢が一本、二本と突き立ったが、気にする様子もない。
「……おおおん! うおん!」
読経のような声が水面を震わせ、妖怪の周りに波が立った。
「来るぞ!」
呑鯨が叫ぶ。
虎嵐は右掌を呑鯨の背中に付け、最後の力を込めた。
〈樹龍――息〉
木気が呑鯨の体を駆け抜けた。
細熊と船頭にも同様に施す。
「……なんだ、これ……体が軽ィ!」
細熊の瞳が輝き、呑鯨の腕に力が宿った。
「あっちの船へ寄せてくれ!」
虎嵐が船頭に叫んだ。
素早く隣の船に飛び移る。
ここでも、二人の遊侠と船頭に木気を注入した。
――ざざざ……
妖怪が波を蹴立てて、突進してくる。
もう一艘の舟の弓遊侠が思わず息を呑む。
「撃て!」
弓矢が三本、風を裂いた。
妖怪の右目の下に突き刺さり、巨体が一瞬のけぞる。
同時に、別艇の遊侠の刀が伸び、ズブッ! と妖怪の顔の側面を突いた。
虎嵐が元の船に飛び帰った時、妖怪が船に体当たりをした。
巨体が船に乗り上げ、船に水が流れ込んだ。
舳先を上げて船が傾く。
「――帆柱を切り倒すぞ!!」
倒れながら帆柱につかまり、虎嵐が叫んだ。
虎嵐の隣で、船頭が斧を片手で、ガツ、ガツ、と振るった。
――船の帆柱が、ビキビキと音を立て倒れた。
斧が当たった部分は、尖っている。
虎嵐と呑鯨、細熊が、それを穂先にして抱え上げた。
「――いくぞ!」
「おう!」
三人は船べりを蹴った。
「おおおおッッ!!」
跳躍と同時に、木の長槍が一直線に加速する。
妖怪の右目へ――
ぐずっ、
と鈍い音を立てて、帆柱が突き刺さった。
「グギャアアアッ!!」
水柱が上がり、霧が吹き飛ぶ。
妖怪は暴れ狂いながら、痛みに耐えきれず後退し、やがて黒い水底へ沈んでいった。
呑鯨、細熊が無事な舟へ泳ぎ、助け上げられる。
「虎嵐さん! 大丈夫っすか!」
「……ああ……平気……じゃねぇけど……みんな、よくやったよな……」
虎嵐も遊侠達に引き上げられると、糸が切れたように崩れ落ちた。
霧が静まり、水面には静寂だけが残った。




