第5話 霧沈域で妖が呼ぶ【壱】
【前回までの『五国捜神記』!】
辿り着いた水都・滄波は、黒藻! 水妖! 沈没船! 怪異の坩堝と化していたッ!!
消えた六隻の船! 行方知れずの兵二十人! そして生存者が聞いた、謎の読経ッ!!
虎嵐よ、霧の水路へ漕ぎ出せ! 生きて帰れる保証は――どこにもないィィッ!!
空になった朝食の皿をどかし、藍蘭は地図を広げた。
「……行く先は、蒼流水路の奥。
「沈んだ船の多くは、霧沈域で消えたわ」
地図には、赤い丸があり、霧沈域を示している。
そのほぼ中心に、深潭と書かれた小さな水上集落があった。
「これ以上、犠牲を出すのは避けたい。だから、今回は調査が目的。戦いは避けられるなら避けて」
藍蘭の声は静かだが、どこか張り詰めていた。
茶を啜りながら、虎嵐は頷いた。
◆
朝の水都は、蒼い霧に沈んでいた。
霧が水面に薄く漂い、街の家々が、湖の上に浮かぶ白い影のようにぼやけて見える。
藍霄楼前の桟橋で、虎嵐は二艘の小舟の前に立っていた。
一艘には、船頭役の遊侠が一人と、他に遊侠二人が乗り込み、
もう一艘は、船頭役、虎嵐に、二人の遊侠――呑鯨と細熊の構成だった。
二人は、どちらも腕に覚えのある者と見えるが、霧沈域と聞いて浮かない顔をしていた。
「虎嵐さん、本当に行くんすか……?」
呑鯨が眉をひそめる。
「恐いのかよ? んな、デカい図体して」
「――ああ、正直恐い。正体が分かってるならまだしも、
「俺ァ、読経する幽霊かなんだかは苦手だ」
「俺も恐い! 幽霊も恐い! だが、行くよ」
虎嵐は、きっぱりと言った。
「え? 恐いのに? なんで?」
「腹が減ってる! さっさと片づけて、戻って飯を食う!」
「理由それすか!? もっとこう……」
「いぃや! 一仕事終えたあとの飯と酒ほど美味いものは、この世にないんだかんな!」
虎嵐は飄々と笑いながら、舟に乗り込んだ。
藍蘭は、そんな虎嵐を見て、ふっと短く息を漏らした。
「……気をつけてな」
心配半分、信頼半分。どちらの色も瞳にあった。
「うん、行ってくる」
二艘の舟が連なって、静かな水音を立てながら、蒼流水路へと滑り出した。
◆
風が出れば帆を張り、漕ぎ手を交代しながら進む。
半日の行程で、蒼流沿いの小村へ泊まった。
――夜。
川面で
――ぽちゃん、
と、何かが跳ねる音が何度か聞こえた。
魚にしては、どこか重たい音だった。
◆
翌朝――明け六つ。
寝床から出てきた呑鯨と細熊の顔色は優れない。
「大丈夫かい? 二人とも?」
虎嵐が声をかけると、呑鯨は喉を鳴らし、細熊は腕を抱えた。
「……悪夢を見たんっす」
「俺もだ。不吉です」
「黒いものが……水の中から浮かび上がって来た。
「でかい泥の泡みたいなのが、ボコッと……」
呑鯨は震えた声で言う。
「そいつは……顔でした。死んだ兄貴の顔だったんです。
「兄貴は、この間、船の沈没で亡くなった遊侠で……」
嗚咽で喉を詰まらせながら、
「この先の霧沈で沈んだんです。遺体は見つからなかった……」
目を潤ませた。
「俺も……水の底から呼ばれる夢を。こっちへって……何度も……」
細熊も顔色を悪くしながら頷く。
虎嵐は二人の顔をしばらく見つめ、ゆっくりと息を吸った。
「霧沈域が近い。心を乱すなよ。黒いものを見ても声が聞こえても、気をしっかり持て」
その声は淡々として、静かだった。
◆
蒼流水路をさらに北へ。
川幅は徐々に広くなり、対岸は霧の向こうにぼんやりと霞んでいく。
巳の刻を過ぎ、日が差していたはずが、しだいに日が陰り、風が止んだ。
霧が濃くなり、舟の周りの空気が重くなった。
〝白い闇〟が行く手に広がっている。
後方の舟が、じわりと間隔を詰めてきた。
霧で視界が悪く、互いを見失わないようにするためだ。
こちらの船頭が声で合図を送ると、後方の船頭が返事をする。
後ろの船では、弓持ちの遊侠が弓に矢をあてがった。
「……ここから先が霧沈域ですぜ」
呑鯨が喉を鳴らした。
水面が――妙に黒い。
ここまでの水路では、濁ってはいたものの、これほどではなかった。
「黒い藻……? こんなに……」
細熊が舟端から覗き込み、眉をひそめた。
虎嵐が船縁から、水面に指先をつける。
――ひやり。
並の冷たさではない。
まるで何かが這い上がってくるような、嫌な冷気だった。
「黒い気だ。ここらは、かなり強くなってら……この気にあたると、悪酔いするぜ」
虎嵐は指先の水を振り払いながら言った。
「悪酔いって……なんすかそれ!」
「悪い酒は、人を変にするだろ? 嫌な夢を見る原因も、たぶんこれだよ」
その時だった。
――コン。
舟の底が、小さく叩かれた。
「い、今の何だ……?」
呑鯨が硬い声を漏らす。
――コン、コン。
今度は二度。
はっきりとした衝撃が船底を揺らした。
「魚じゃねえ……重さが全然違う」
細熊が蒼白になる。
後ろの舟からも悲鳴が上がった。
「おい! こっちの底も叩かれてるぞ!」
船頭が舵を抑えながら叫び、別の遊侠が踵で船底をトントンと叩き返す。
虎嵐は舟底を拳でトンと叩いた。
刹那――コンッ。
水の下から、まるで返事するように叩き返された。
「や、やめてくださいよ! 虎嵐さん!!」
呑鯨の背筋が凍る。
「群れだな」
虎嵐の声は、異様なほど落ち着いている。
「魚とは違う動きがある。数は……十や二十じゃきかない」
水面が、
ぼこっ……ぼこぼこっ……
と濁った泡をあげ始めた。
「嫌な音だ……」
細熊が呟いた瞬間。
――ぬるり。
水面が持ち上がった。
黒い影が浮かび上がる。
「ひぃッ!?」
細熊が喉を詰まらせる。
水面は静まらず、
――ぬる……ぬるぬる……ぬるっ。
次々に、黒い影が浮かび上がってくる。
――ざばっ!
――ざばっ!
一つ、二つ……いや、もっと。
黒い球体が、水面へ顔を出した。
直径は人の頭よりも大きい。
粘液に覆われ、てらてらと光る。
その左右の端に、白濁した玉がぽちりと生え――それが、虎嵐達の方へぎろ、と向いた。
「水妖だ!」
虎嵐が言った。
「こ、こいつが水妖……?」
呑鯨が舟端にしがみつく。
「オタマジャクシの妖か?」
虎嵐が呟いたそのとき、巨大団扇のような尾がうねり、
ばしゃん、
と水面を弾いた。
「で、でかすぎだ!」
細熊が悲鳴をあげる。
「群れると厄介だぜ」
「う、動いてる……こっちに!」
遊侠たちが叫ぶ。
水妖たちは一斉に尾を振り、舟へ向かって突進してきた。
水しぶきが霧の中で弾ける。
「来るぞ!」
虎嵐は、船にあった棍棒を手にした。
怯えながらも、呑鯨が鎗を構え、細熊は大刀を抜く。
隣の舟でも、遊侠たちが弓を構えた。
「近づけるな! 沈められるぞ!」
と船頭が叫び、弓持ちの男二人が水妖へ矢を放つ。
矢は刺さった。が、まるで痛みを感じていないかのように、
その頭は、ゆらり、と揺れただけだった。




