第16話 境界を越える者【参】
【前回までの『五国捜神記』!】
扉が求めるもの――それは〝聖なる血〟!
犠牲となった村人の血を啜り、古の石扉がついに開いたァァッ!!
だが、その先に舞う美しき蝶は、死への誘い!
一歩違えば串刺し地獄ッ!!
進め幽声! 踏み越えた境界の先に、さらなる罠が待ち受けるゥゥッ!!
幽声が水盤から手を引き上げ、部下が続く。
だがまた、一人。
苛立ったように列から離れ、水盤を無視して進む。
――ギィン。
金属音。
次の瞬間、足元から剣が突き上がった。
胴を貫き、男の動きが止まる。
血が通路の縁へと流れた。
――コキ。
小さな音だった。
幽声の後ろ。
壁際に並ぶ小鬼のミイラ。
その一体の指が、わずかに動いていた。
ミイラの乾いた皮膚が、パリパリと音を立て膨らむ。
空洞だった眼窩の奥に、赤い光が灯った。
小鬼は、ゆっくりと立ち上がる。
小鬼の首が、ぎこりと回る。
赤い目が一人ずつ見ていく。
刻印を持つ幽声には目を止めず、数を数えているようだった。
他のミイラも次々と復活する。
その視線が、列の最後尾――まだ刻印を持たぬ部下の目と合った。
「――ひえぇつ!」
叫んだ部下は、止める間もなく列から飛び出し、走った。
瞬く間に、十匹ほどの小鬼が部下に追い付き、鎗やナイフを振るった。
周囲に絶叫が響く。
「……」
「従え。意味の分からぬものであっても、だ」
幽声が言った。
◆
――程なく、像の前に至った。
ビザルが跪き深く頭を垂れる。
通訳が言う。
「……〝跪け〟と」
幽声は、わずかに目を細めた。
そして――
静かに、膝をついた。
部下たちも、それに倣う。
だが、
最後の一人だけが、立ったままだった。
「これが神だと? くだらん……」
吐き捨てるような声。
一瞬、
像の影が揺れた。
次の瞬間、上から剣が降った。
男の身体が、音もなく崩れる。
「まだ、先があるのか?」
幽声の声に動揺の色はない。
ビザルは答えない。像の前で跪いたまま、その台座へ手を触れ、
懐から黒い革張りの書物を出し、開いた。
古びている。だが、頁だけは異様なほど白かった。
表紙そのものに、生き物のような紋様が脈打っている。
ビザルは、低い声で詠み始めた。
「カドシュ……ペサハ……ラハツ……」
言葉が響き、像の瞳が蒼く発光する。
その時だった。
通路の左右に並ぶ小鬼のミイラ達が、一斉に顔を上げた。
瞳に赤い光が灯る。
だが――
襲っては来ない。
ただ、ビザルの声へ耳を傾けるように、静止していた。
――ゴウン。
低い音。
続いて、ズズズと地鳴りのような音がし、ゆっくりと〝女神像〟が地面へ沈んで行く。
脚が見えなくなり、胸が隠れ、頭部だけが残った。
ズン、と石像が地面に着いた音がして、その背後の壁面に、巨大な円形の扉が現れた。
――ビザルは書を閉じ、立ち上がる。
そして初めて、流暢な央華大陸語で言った。
「……行こう。これが最後の扉じゃ」
通訳が目を見開く。
部下達がざわめいた。
幽声だけが表情を変えない。
「……喋れたのか」
ビザルは肩を竦めた。
「知らぬ振りをしていた方が、人は本音を漏らす」
「……そうか」
とだけ、幽声は言った。
「お前たちの〝計画〟も、興味深く聞かせてもらった」
ビザルは軽く頷いた。
「ならば、この先どうされるお積もりか?」
「もとより、教会はそなた達を支援する。だが――只で使われる訳にはゆかぬぞ」
「分かっている。今回の調査で得られた〈レリクタム〉は教会に優先的に渡そう。
「我らは残ったもので構わん……いかがか?」
幽声は静かに言った。
一瞬の沈黙。
「……トーヴ」
ビザルは、ゆっくりと頷き、
「ここは〝境界神殿〟だ」
と低く言った。
「境界……?」
「生者と死者。人と神。こちら側と向こう側を分ける場所だ」
「なるほど。だから蛙王が反応したか」
幽声は静かに笑った。
「土地神は、境界を嗅ぎ分ける」
ビザルは頷いた。
そして再び懐から、黒い書物を取り出した。
「それは?」
幽声が問う。
「写本だ。〈黒き乙女リリマのシグル〉という魔道書じゃ」
ビザルは答えた。
その指が書物の紋をなぞり詠唱する。
同時に壁面の扉が蒼く光り、反応した。
まるで、互いを認識するように。
――次の瞬間。
ズズズと、扉が回転した。
巨大な円石が右へずれる。丸い穴が空き、新たな通路が現れる。
「この先が保管庫だ」
ビザルは静かに言った。
「だが――私がいなければ、〝箱〟は決して開かぬ」
保管庫の中央には、一つの箱が置かれていた。
黒い石でできた〝櫃〟である。
蓋の四隅には、人と大鷲を合成したような、黄金づくりの獣が翼を広げている。
表面には、所々に牙を持った人間の姿が、やはり黄金で象嵌されていた。
「――これは、〈聖櫃〉のようだ……」
幽声は低く呟く。
「聖櫃をご存じとは、流石だ――しかし、これは聖櫃ではない」
ビザルは、わずかに笑った。
「これは、〈リリマのシグル〉を納める〝遺物〟だ」
「……名はあるのか?」
「ある」
ビザルは一呼吸置いて、
「――〈ネロク(黒櫃)〉」と言った。
「……聞かぬ名だ」
「当然だ。密かに口伝によって受け継がれてきた」
ビザルが、ネロクへ手を触れた。
――次の瞬間。
保管庫の空気が、わずかに震えた。
――女の声。
いや、
歌のようでもあった。
誰かが遠くで笑っている。
その瞬間、箱の刻印が一斉に蒼く光る。
「カドシュ……リリマ……」
ビザルの詠唱が低く響いた。
――ゴウン。
重い音。
ネロクの蓋が、ゆっくりと持ち上がっていく。
その隙間から、眩い光が溢れる。
――箱が開いた。
その瞬間、中から風でもないものが流れ出た。
懐かしいような、泣きたくなるような匂いだった。
保管庫の外では、小鬼達が集まり一斉に頭を垂れていた。
中を覗き込んだビザルの口元が、わずかに歪む。
「――トーヴ」
低く、満足げな声。
幽声もまた視線を落とす。
中は、光で満ちていた。
黄金の短剣。
宝石を散りばめた首飾り。
腕輪、冠、細工の細やかな装飾品――どれもが、眩いほどに輝いている。
幽声は、それらを一瞥する。
「……では、ビザル師」
淡々とした声。
「好きなだけ取られよ。部下に運ばせようぞ。だが、私には――食指が動かぬ」
「――では、儂はこれをいただこう」
ビザルは笑みを浮かべ、ゆっくりと手を伸ばした。
掴んだのは――
黄金ではなかった。
握り拳ほどの、黒い石。
漆黒ではない。
見る角度によって、白く細い縞が浮かぶ。
「それだけか? 欲のないことよの」
幽声は軽く言い捨て、背を向ける。
「――まぁ、私とて金銀宝石など要らぬわ。お前たち、これまでの褒美じゃ。好きに取ってよいぞ」
部下達が、顔を見合わせる。
「……よ、よろしいのですか?」
幽声は頷いた。
一歩、下がる。
その瞬間――
部下達は堰を切ったように群がった。
宝を掴む。
腕輪。
黄金。
首飾り。
誰もが我先に懐へ、袋へと詰め込んだ。
その時だった。
――カチリ。
誰かの手の中で、音がした。
「……?」
宝飾品が、開いた。
宝石が割れ展開した。
金の装飾がほどけ、脚のように分かれる。
翅が震える。
目が光る。
「な……っ」
次の瞬間、それは跳ねた。
肉に食い込む。
「ぐあああああッ!?」
叫びが、遅れて爆ぜる。
一つではない。
二つでもない。
無数。
宝は、すべて――
虫だった。
金属の外殻を持つ、小さな獣。
それが一斉に群がり、食い込み、穿ち、喰い破る。
悲鳴が神殿を満たした。
幽声は振り返らない。
「く……くく……」
喉の奥で笑う。
「……やはりな」
「分かっていたのか?」
ビザルは黒い石を掌で転がしながら言った。
「わずかな金銀が目的ならば、わざわざ地下まで来ぬわ。商人から奪う方が容易いとは思わぬか?」
幽声は肩越しに答える。
一心拍の間があり、血の匂いの中でビザルが、わずかに笑った。
「……流石だ」
悲鳴が収まり、神殿に静寂が戻った。
「しかし、気の毒だが、お主は苦労して何も得られなかったな」
ビザルが言った。
幽声は、わずかに笑う。
「……いや」
そして、静かに言った。
「当初からの計画どおりだ」
ビザルの眉が、わずかに動く。
その時だった。
後方に控えていた精鋭が動く。
無言でネロクへ近づき――手にした二本の木の棒を、箱の左右に平行に通した。
それは、丁度〝神輿〟の形を成し、四人の男が担ぎ上げた。
「……なるほど」
ビザルは目を細めた。
「〝器〟にも、価値があるのだよ」
幽声は振り返らず呟いた。
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