第15話 境界を越える者【弐】
【前回までの『五国捜神記』!】
静かな桃花村を蝕む、花娘院の黒き影ッ!
そして烏鳴山の地下では、蛙王が憑かれたように大地を掘り進むッ!!
ついに姿を現した謎の壁!
異国の魔導師ビザルが告げる――ここが〝入口〟だァァッ!!
壁の向こうに眠るものは何だ!?
禁断の境界が、いま開かれようとしているゥゥッ!!
幽声の視線が、壁へ向く。
松明に照らされた壁面には、レリーフが浮かび上がっている。
その中央には両手を広げた女の姿が十字形に刻まれており、その周囲に無数の刻印があった。
人の形にも、獣にも見える図像が、規則性を持って並んでいる。
「……象形文字か」
幽声が呟く。
「読めるのか?」
問われた通訳は壁に顔を近づけたものの、首を横に振った。
代わりにビザルが前に出る。
その目は明らかに――歓喜していた。
「……ダム」
異国の男は低く、かすれた声で呟いた。
通訳がわずかに言い淀む。
「……〝血が、必要で、ある〟――と」
「カドシュ……ダム……」
通訳が息を呑む。
「……〝聖なる血〟――と」
幽声は目を細めた。
ビザル――魔導師は続ける。
「ペサハ……」
指先が空間をなぞる。
まるで、そこに見えない境界でもあるかのように。
通訳が慎重に言葉を選ぶ。
「……〝越える〟……あるいは〝通る〟――そういう意味かと」
「開くのだな?」と幽声は言った。
ビザルは、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」幽声が視線を横へ流す。
そこに――縄で繋がれた村人たちが、膝をつかされている。
「ならば、用意は出来ている」
幽声が軽く手を振り、部下達が頷いた。
村人の一人が前へ引き出される。
口を布で塞がれ、言葉にならぬ声を漏らす。
「飲ませろ」
短い命令だった。
口の布を解かれた男が喚き始めたが、殴られ黙らされた。
部下が銀の盃を差し出す。
縁は歪み、どこか不自然な光沢を帯びている盃であった。
中の液体は白く濁っている。
村人の顎を掴み無理やり口を開かせる。
「……ん、ぐ……っ」
こぼれた液が喉を伝う。
やがて――
その目が、ゆっくりとほどけた。
抵抗は消え、力が抜ける。
唇が、かすかに笑う。
「……よろしい」
幽声が頷く。
「進めろ」
祭具が運ばれる。
細長いナイフ。
磨き抜かれたそれは、冷たい光を放っていた。
部下は、ためらわない。
胸へ――
静かに沈める。
衣が裂ける音は、ほとんどしなかった。
次の瞬間、血があふれた。
革袋に溜め込まれていた液体が、一気に外へと噴き出すかのように、止まる気配はない。
村人の血が床に掘られた溝を伝い、細い筋となって扉の方へ吸い込まれていった。
――そのとき。
壁の刻印が脈打った。
ズズ……と、
壁の上に隙間がわずかに開く。
次の瞬間、ごう、と低い唸りが走る。
ズズズ……。
大きな岩を引きずる震動音とともに、隙間が大きくなっていく。
それと同時に、壁の方へ向かって――幽声達の周囲の大気が、ドッと吸い寄せられた。
衣がはためき、手にした松明の火が揺れる。
――ほどなく、〝吸気〟が止んだと思ったとき、隙間からブオッと風が吹き出してきた。
生暖かい。
何かの〝呼気〟のようであった。
「……」
誰も声を出さない。
ビョウ、と鋭い風音が一度だけ鳴った。
数秒。
――ゴトン。
鈍い音が足元から響いた。
壁面が、わずかに傾く。
そのまま、ゆっくりと自らの重さに耐えきれず――
壁面――石の扉が、地の裂け目へ沈み込んで行くとともに、幽声達の目前で暗闇が大きくなる。
――ズウゥン……。
石の扉が地底へ叩き付けられる音がし、入り口が現れた。
奥は暗かった。
だが――
暗闇は死んではいない。
淡い光が、ゆらゆらと浮かんでいる。
――無数の蝶だった。
羽は透け、淡い光を宿している。触れれば消えてしまいそうなほどに儚い。
それらが静かに舞っている。
音はない。
ただ、美しすぎる。
「……」
「まて」
一歩、踏み出そうとした部下の肩を幽声の声が止めた。
「無闇に入るな――村人を先に行かせよ」
躊躇はなかった。
村人の一人が、一行の先頭へ押し出される。
足取りは緩い。
後ろから剣が突きつけられ、戻れば刺される。
しかたなく、村の男は蝶の方へ歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
――その瞬間。
床が、消えた。
「――ぁ」
そのまま、男の身体は闇へと飲み込まれ――
次の瞬間。
さくっ、
と音がして止まった。
下から伸びた無数の剣が肉を貫き、支えている。
血が滴り、剣を伝い流れた。
そして――
それが引き金になった。
どこかで硬い音が弾ける。
壁の奥。
油壺が傾く。
とろりとした液体が細い溝を伝い、部屋の奥へと走る。
「……仕掛けか」
幽声が呟いた、その直後。
――炎が走った。
壁に掛かった松明に染みた油が、瞬時に火を得る。
溝に沿って、火は一気に広がり――暗闇を裂いた。
蝶の光が、かき消される。
炎が周囲を走り切ったあと、部屋の内側が、はっきりと姿を現した。
中央には細く長い石畳の通路。
左右に、低い縁石のような境がある。
その先――
奥に像があった。
人の背丈を遥かに超える石像。
だが、その顔は摩耗し、何を象っているのかは分からない。
体型からして女性であることは分かる。
入り口の壁面に刻まれた女と同じ様だが、ポーズは違う。
幽声は再び周囲に目を配った。
通路の両脇――〝それら〟が並んでいた。
一見、石像と見まがうが、そうではない。
干からびた肉――ミイラが壁に沿って整列している。
人よりは小さいが猿ではない――小鬼のミイラ。
腕を折り、頭を垂れ、
まるで祈るような姿勢のまま――
動かない。
「……見たことのない生き物のミイラだ」
幽声が、低く言う。
「ペサ……アル・エムツァ……」
ビザルが言った。
「〝中央は、歩くな〟――と」
通訳が、即座に拾う。
幽声は一度だけ頷いた。
「端を行け」
その一言で、列が動く。
だが――
一人が、中央へ足を踏み出した。
「……?」
次の瞬間。
――ザク。
男の頭に矢が水平に突き刺さっていた。
男がゆっくりと倒れ、他の者たちが、矢が飛んできたと思われる方向を見ると、壁に穴が見つかった。
「……守れ」
幽声は低く言った。
注意しながら進むと、今度は通路の脇に水盤が見えた。
黒い石で造られた台座。
水盤はその中央にあり、澄んだ水が静かに満たされている。
その背後には、異形の石像が立っていた。
――翼を持つ獣。
口を大きく開き、牙を剥き出したまま、こちらを見下ろしている。
まるで、侵入者を監視する門番のようだった。
「ラハツ」
短い声。
ビザルだった。
通訳が告げる。
「……〝清めよ〟とのことです」
ビザルはさらに何かを言い、自ら手の甲を上に向けて見せた。
幽声はビザルが示した通りに、黙って右手を差し出す。
石像の前へ。
その瞬間――
ギィ……
石像の口が、わずかに開いた。
バチン!
鋭い音とともに、何かが幽声の手の甲を打った。
「……」
焼けるような痛み。
幽声が手を引く。
手の甲には、黒い紋様が刻まれていた。
焼印のようでもあり、刃で刻んだ傷のようでもある。
じわり、と血が滲む。
だが――
刻まれた紋様そのものが、脈打つように淡く光っていた。
ビザルが、水盤を示す。
幽声は何も言わず、刻印の入った手を水へ浸した。
冷たい。
骨まで凍るような冷たさだった。
――次の瞬間。
痺れるような熱が、刻印から腕へ這い上がる。
水面が、わずかに波打った。
手の甲の紋様だけが、水の中でぼんやりと光っている。
ビザルが満足げに笑った。
「……〝よろしい〟と」
通訳が小さく呟いた。
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