#36 「忘却」
「───────ゃん」
何処か遠くで、誰かに呼ばれた様な気がした。
「──────お──ちゃん!」
次第にそれは大きくなっていく。
「──お兄ちゃん!」
瞼の裏に眩い光を感じ、更には体を揺さぶられて、隼人はゆっくりと瞳を開けた。
鮮明になっていく視界。その先にいたのは、何処か焦った様子で隼人の体を揺らす妹•上坂由希の姿。
由希…。
「由希…!?」
目を大きく開き、隼人が起き上がる。
突然の兄の動きに驚き、目をまんまるにした由希は、そのまま隼人に抱きしめられた。
「ちょっ!お兄ちゃん!?」
「由希だぁ…」
「よくわからないけど、怖い夢見たの?」
兄に突然抱きしめられ、困惑した表情を浮かべたまま、由希はとりあえず兄の頭を触る。
当の隼人も、冷静に自分の行動を振り返ってから「やべ」と思いだし、由希から離れて枕元に置いてあったスマホを見た。
十一月二十一日の朝。それが示す意味は、隼人が別世界に迷い込んでいたこの二日間の間にも、こっちの世界でも日付が進んでいると言う事。
夢ではないはずだ。現に、あちらの世界での二日間の記憶があっても、元々いたこの世界の二日間の記憶はない。
この世界は、上坂隼人という存在を失ったまま、二日という日にちを過ごしている事になる。もしくは、あちらの世界に元々存在していた隼人がこちらへと来ていたか。
もしそうだとすれば、もう一人の自分はさぞ困惑しただろう。春奈•悠未は死に、存在しないはずの妹が居て、梨花ではなく結衣と付き合っている。
あの世界が優しい甘い夢ならば、こちらは甘くもないただの毒。救いはなく、見えない物が見えるという呪いに縛られている。
それでも、隼人はそんな救いようがない世界へと自らの意思で戻ってきた。
姉が生きていても、悠未が生きていて結衣が苦しんでいなくても、この救いようがない世界こそが今の自分が居るべき世界なのだと思ったから。それに、そう思わせた存在が、こうして目の前にいる。
「おはよう、由希」
「何があったのか分からないけど、おはようお兄ちゃん!」
笑顔でそう返す由希を見て、脳裏に春奈の姿が過ぎった。
今でも、思い返せば少し苦しくなる。
生きていて欲しかった。
もう少しだけでもあの甘い夢に溺れて、姉弟をしたかった。
けれど、春奈はそんな自分の背中を押してくれた。
甘い夢に留まらせる事だって出来た存在が、前を向かせてくれた。
ならば、今の自分に出来ることはこの現実を受け入れる事。
それを胸に、隼人はまた日常へと戻っていく。
◇◆◇
支度を済ませて家を出る。
駅へと向かって歩く中で、街はいつもと変わった様子などない。
それぞれがそれぞれの人生を生きている。
隣を元気に駆けて行く小学生も、スーツ姿のサラリーマンも、犬を連れて散歩するお爺さんも。
またその誰もが、昨日までの世界と変わったなんて気が付いていない。
凡そ、それを知っているのは隼人だけ。
梨花も結衣も、冬葵も夏希も瑠香も知らない。
「この世界を否定しろ、お前がこの世界に迷い込んだように」
もう一人の自分に投げかけられた世界から脱出する方法。
そのまま鵜呑みにするなら、あの世界を作り出したのは隼人自身…という事になるのだろうか。
隼人にも原因なんて、それ以外に考えられなかった。
「おはよ隼人」
頭を悩ませる隼人の背後から声がした。
振り返れば冬葵が居て、二人はそのまま電車に乗り込む。
「そういえばさ」
「なんだ」
「昨日、梨花が上野に会ったって」
「どっちの上野」
「お前の初恋の方」
上野優衣。上坂隼人の初恋の相手…らしい。
隼人本人にもその自覚はなく、また名前を言われても顔が浮かばない。
なんでも、もう梨花以外とは話さないと言わせるほどの失恋をしたらしい。隼人自身はそれも覚えてはいない。
「で、隼人に会いたがってたってさ」
「僕は別に会いたくないが」
「名前すら覚えなかったもんな」
「顔も」
「だと思って、家にある写真漁ってきた。ほら」
冬葵がスマホを取り出し、画面を見せる。
写真に写っていた少女を見て、頭が真っ白になった。
後ろで纏められた長い黒髪。活発そうな笑顔。
その姿は…
脳内で結論を出す前に、電車が止まる。
気が付けば電車は高校の最寄り駅に止まり、降りようとする生徒たちで騒がしい。
隼人と冬葵も電車を降り、高校まで続く歩道を歩く。
二人が歩く先には、見慣れた後ろ姿があった。
小宮梨花。隼人と冬葵の幼馴染。
二人は少し小走りになって梨花へと追いつき、声を掛ける。
「おはよう梨花」
「おはよう〜冬葵!珍しいね、知らない男の子と一緒に登校してるなんて」
梨花の言葉に、冬葵と隼人の顔が凍り付く。
いま、梨花は確かに隼人の方を見て知らない男の子と呼んだ。
そんな筈はない。梨花は冬葵と隼人の二人が一緒に登校しているのを知っている。ましてや、十何年以上も一緒に過ごしてきた隼人を忘れる筈が。
「梨花お前何言ってんだよ…隼人だよ、幼馴染の」
「隼人…?私の幼馴染って冬葵だけじゃないっけ?」
「な訳ないだろ!ほら昨日も隼人の話しただろ!」
冬葵はスマホを取り出して、梨花との会話欄を見せる。
画面には確かに、隼人の事について話した様子が写っている。
「本当だ…けど、ごめん覚えてないの…」
「なんでだよ!」
「もういいよ冬葵、悪い先行く」
身体中に嫌な感覚が走る。
夢から醒めたかと思えば、次の一難。それに、何となくこれで終わる気がしなかった。
校舎に入った隼人は、確かめたい事を確かめる為に急いで階段を登る。
最初の階段を登り切った踊り場で、隼人は少女とぶつかった。
「ごめん!前見てなくて…」
隼人が謝りながら手を差し伸べた先に瑠香が居た。
二ヶ月前、隼人と共に最悪の未来を変えた少女であり、夢を通して未来が見える。
「す、すみません!私も前見てなかったです!それじゃあ!」
瑠香も隼人に頭を下げ、その先にいた友達へと追いつく。
隼人が振り返った先で、瑠香は友人との会話に戻る。
「知ってる人?」
「ううん、知らない先輩」
隼人の心に、またヒビが入るような感覚がした。
瑠香もまた、上坂隼人を忘れている。
共に五日間同じ屋根の下で過ごしたあの記憶も、未来を変えるために立ち向かった事も、泡沫の様に消えた。
「…結衣!」
それでも、立ち止まる訳には行かなかった。
隼人は壊れそうになる心のまま、その足で別棟へと向かう。
上野結衣は朝のこの時間から図書室に居るはず。
勢いのまま、隼人が図書室の扉を開けようとした時、施錠されたままの扉がそれを阻んだ。
扉越しに中を見ると、明かりはついておらず結衣の姿もない。
梨花、瑠香、そして結衣という存在を失った隼人はただ一人、その場に立ち尽くした。
◇◆◇
結局、夕方になっても上野結衣を見ることは無かった。
昼休みも図書室の扉は閉まったままで、教室にも姿はない。
メッセージを送っても既読にもらなず、隼人は不安なまま帰路につく。
いつもなら隣にいた友であり恋人を想って駅のホームに並び、電車を待つ。
「はぁ……」
溜め息をつく。
吐いた息は白くなり、まるで蒸気の様になって空へと消えていく。
遠くから微かに聞こえる車輪の音で、電車がまもなくやって来るのを悟った。
案の定、到着を知らせるメロディが鳴り、駅へと電車がやって来る。
鉄が擦れるような不快な音を立てて止まった電車へと乗り込む寸前……
「大切な人に忘れられる気持ちってどんな感じ?」
聞き覚えのある声がした。
何処かで聞いた様な声。それが過去になのか、それとも夢でなのか、もしくはその両方か。
振り返った先にいた声の主の姿を見て、隼人は目を見開いた。
後ろで括られた長い黒髪の活発そうな女の子。
その姿はまさに、偶に夢に出てきた少女と同じだから。
幾ら名前を思い出そうとしても、脳がそれを拒んでいたが、生憎名前も容姿も、今朝思い出した。
だからこそ隼人は、夢乃原市向けの電車の扉が完全に締まり切る前に、少女の名前を口にした。
「上野優衣……!」
と。




