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眠れる森の竜  作者: 中井美和
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第三章 湖水の囚われ人

 お待たせしました、やっと三章です。この章では、サファイアの両親が主役になります。この作品の書き直しを決めた時、サファイアばかりでなく両親のこともきちんと書かなくてはと、実は一章とほぼ同時にこの章も書き始めていました。一、二章が書けなくなるとこちらへ移る、という有様だったので、だから二章が余計に遅くなってしまったのです、ごめんなさい。m(_ _)m

 しかしもう、後はない。四章はサファイアに戻るわけですが、どうしよう。あれから先のこと何も考えてない。考えても浮かばない。執筆がまた遅れるの? :;(∩´﹏`∩);: でも頑張ります! (●^o^●)


          1


 吸い込まれる。

 果てしないほど深く澄み渡った、煌めくようなこの青い色の世界へ吸い込まれてしまう。

 そう思った瞬間と同時に、湖へ落ちた。けれども続けてその後を、マントを放り投げ湖へ飛び込んだ、漆黒の髪の男の姿があった。

「皇帝陛下!」

 カインも急ぎ湖の岸辺へ駆け寄ったが、主の後を追いはしなかった。そして揺らめく水のさざ波を見詰めるうちに、やがて湖が光り輝いたと思うと、落ちた女人を腕に抱いた皇帝がその中から現れた。

「陛下、御無事で」

 声をかけてもアルレスは返事もせず、ただその女人の顔を一心に見詰めているだけだった。カインもまた、アルレスからその腕の中の女人へ視線を移した時、思わず息を呑み込んだ。

「……その御方の首飾りは、代々のエルヴァレート王に受け継がれている物ですね」

「では、こちらの女人は」

 尚もその顔から眼を離さず、アルレスが呟くように訊ねた。

「『エルヴァレートの美の女神』とも呼ばれる、女王アレキサンドラ=エレオノーレ=シエステ陛下であらせられましょう」


          2


 あまりにも深く、あまりにも美しく、それはまるで、恐怖を感じてしまうほどの底知れぬ青さだった。離れなければ吸い込まれてしまう、そう思ったのと同時に湖へ落ちた。湖に囚われてしまったのだ。いや、囚われたのは湖の底に眠るという、伝説の竜にであろうか。

「お気が付かれたか」

 目覚めた時もしばらくは湖に、竜に囚われたままなのだと思い込んでいた。そう思わざるを得ないほど、アレキサンドラを見詰めている男の瞳も青かった。

「お姉様!」

 ようやく助けられたのだと自覚出来たのは、そばにいた妹マルグリットの涙声だった。

「お目覚めになられたのね、お姉様。ああ良かった、御無事で……!」

 妹に優しく微笑みかけてから、アレキサンドラは自分を見詰めている男の方を振り返った。

「リステーニイの皇帝、アルレス=ファヴィエ=サンドリアンⅡ世陛下よ。陛下がお姉様を助けて下さったのよ」

 マルグリットから教わらずとも、男の額で輝いている青い玉石を見れば、その男が誰であるかは一目瞭然だった。アレキサンドラはすっと起き上がると、寝台の上でアルレスに頭を下げた。

「御無礼致しました、皇帝陛下。御助け下さって感謝申し上げます」

「御無理をされるな、まだ横になっていた方がいい」

「そうですわ、お姉様。先日もお倒れになられたこと、もうお忘れになって?」

 そう言ってアルレスとマルグリットは、アレキサンドラを再び床の中へ戻した。

「でも本当に、改めて御礼を申し上げますわ、皇帝陛下。まさかお姉様が御一人で湖へ行っていらしたなんて、夢にも思いませんでしたもの。不意に姿が見えなくなってしまって、巫女達に捜させていたのですが」

 マルグリットが話している間もアルレスはアレキサンドラから眼を離さず、その手もずっと握りしめたままだ。そうすることで己の気を与えてくれているのだとはわかったが、初めて逢ったばかりでいささか大胆過ぎる態度に、アレキサンドラは頬を染めた。

「御身体があまり丈夫ではないとお聴きしている。先程のこともお疲れが出たためでしょう」

「ええ、でもそればかりではありませんわ。すべての原因は何もかも、あの女好きの老いぼれ宰相が原因なのですわ!」

 姉の代わりに高位の貴人らしからぬ言葉を発して、マルグリットは興奮した面持ちで叫んだ。

「本当に赦せないわ、あの男……! あんな男がいるから、お姉様はいつも苦しんでいらっしゃるのです!」

「マルグリット」

「だってそうじゃないの、お姉様! これ以上、お姉様が我慢なさる必要があるの!?」

 姉に諫められるとマルグリットはますます息巻き、アルレスの前に跪いた。

「我が王家の恥を晒すようではありますが、御無礼を承知で申し上げさせて頂きます、皇帝陛下。わたくし達姉妹は幼い頃に両親を亡くし、姉は十にもならぬ頃に父の王位を継ぎました。けれど姉は生まれた時から身体が弱く、そのため宰相が摂政を兼ねることとなったのですが、この宰相が実に強欲な男で、王家をないがしろにし、己の思うまま権力を振るうようになったのです」

「エルヴァレート宰相のあまり芳しくない行状は、かねてから耳にしている。美貌名高き王家姉妹の、頭痛の種になっていることも」

 アレキサンドラの手を握るその手に力を込めて、アルレスは答えた。

「政府の要人は宰相の側近で固め、賄賂や讒言が横行しているような有様でした。それでも姉は共にエルヴァレートの未来を案じる、数は少なくとも心ある者達の力を借りて、懸命に女王としての務めを果たして参りました。ええ、いつだって姉は我がエルヴァレートのため、妹であるわたくしのため、病弱な身体に鞭打って昼夜問わず働いておりましたわ!」

 マルグリットの眼から涙がこぼれる。

「でも宰相は、私腹を肥やすだけで満足していた訳ではなかったのです。あの男の本当の目的は、姉自身だったのです。仮にもエルヴァレートの女王である姉を、己の妻にしようと目論んでいたのですわ! 女王の夫ともなれば、自らが王と名乗ることもあながち不可能ではないのですもの。ましてや姉は、『エルヴァレートの美の女神』とも称されるほどの美貌の持ち主。女遊びに現を抜かしているあの男が、姉のことを狙わないはずがないではありませんか……!」

「お願い、マルグリット。もうやめて」

 アレキサンドラが悲痛な声で止めようとしても、マルグリットはなかなか納まる様子を見せない。

「どうして黙らなければいけないの、お姉様。あなたも、本当のことを仰ればいいではありませんか。わたくし、あの男が嫌らしい眼でお姉様のことをじろじろ見ながら、舌なめずりしているのを何度も見たわ!」

「少し落ち着きなさい、マルグリット姫。姉上の御容態が悪くなりでもしたらどうする」

 アルレスが口を開き、静かな声でマルグリットを諫めた。

「申し訳ありません、皇帝陛下。姉を助けて下さった御方だと思うと、つい甘えてしまって」

 ようやく我に返ったマルグリットは、急いで涙を拭いた。

「宰相の妻は、わたくし達にも良くして下さった心優しい御方でしたが、夫の不実な行動に心を痛め、先年お亡くなりになりました。その妻の喪もまだ開けてはいないというのに、あの男が好機到来と、姉を手に入れるため画策しているとの情報が入り、急いで姉を連れてここまで逃げて参りましたの。大神殿の最長老様は、亡くなった母とも親しかった御方ですから、わたくし達のことも快く受け入れて下さいました。そしてわたくし、陛下がこちらへよく御参拝なさっておられることを最長老様からお聴き致しまして、こうして御相談に乗って頂こうと御待ち申し上げておりましたの」

 アルレスが振り返ると、アレキサンドラは哀しそうな眼をして俯き、黙って妹の話を聴いていた。安心なさい、決してあなたを不幸な目に遭わせたりはしないから。手を通して聴こえたアルレスの声に、アレキサンドラは思わず顔を上げた。

「噂以上に姉思いの、本当に心優しい妹姫でおられる。あなたの御気持ちはよくわかった、わたしがあなた方の力となって差し上げよう」

「有難うございます、皇帝陛下!」

「しかしながらこのことは、エルヴァレートへの内政干渉となる。少々荒立ったことにもなりかねないが、それでもよろしいか」

「もちろんですわ、陛下! こんなことは唯一、皇帝陛下であられるあなた様にしかお出来になれません!」

 狂喜したマルグリットは、女王である姉を差し置いて叫ぶように答えた。アルレスは再びアレキサンドラを振り返り、優しく声をかけた。

「あなたもそれでよろしいか」

「でも、あの」

「ごめんなさい、お姉様。差し出がましい真似をして」

 躊躇するアレキサンドラに、マルグリットは慌てて駆け寄った。

「でもお姉様、わたくしはやはりここは、陛下に御縋りする他ないと思うの。皇帝陛下の御耳に届いたと知ればあの男だって、もうお姉様に手出しは出来なくなるわ」

 エルヴァレートのみならず宇宙(そら)に散らばる惑星国家の君主の始祖は、その多くがリステーニイ皇帝の部下であった。前述したように、他の惑星に住む人々はもともとリステーニイからの移住者であり、皇帝の指示を受けた部下が人々の指導者となるため宇宙を渡った。やがて時の流れと共に王と呼ばれるようになり、皇帝とほぼ同等の地位を得たとはいうものの、王はあくまで王であり皇帝と名乗ることは許されない。皇帝と名乗れるのは唯一リステーニイの統治者のみであり、部下ではなくなったにしても各惑星国家への内政干渉が許されているのは、皇帝ただ一人であった。

「カイン」

 アルレスは、壁際に控えていた男を呼んだ。アレキサンドラは思わずはっとして、その男を見詰めた。カインもアルレスと同じような漆黒の髪と、吸い込まれるような青い瞳をしていたからだ。その耳にアルレスが何事か囁いても、カインはひと言も言葉を発することなく、頭を下げてそのまま部屋を出て行った。

「あの人がリステーニイの宰相、カイン=イスハル=キアスですの。噂通り、本当にお若くていらっしゃいますのね」

「噂以上の有能な男です」

 マルグリットが感心したように言うと、アルレスが微笑んで答えた。

「お姉様、そんなに御心配なさる必要はなくてよ。わたくし、お姉様はもうこれ以上、御自分を犠牲になさらなくてもいいと思うの。お姉様にだって、御自分の御幸福のために生きる権利はあるのですもの」

 尚も俯いたままでいるアレキサンドラを、マルグリットが励ました。

「お父様とお母様がお亡くなりになってから、お姉様はずっとわたくしを護っていて下さったわね。誰よりも美しくてお優しくて、お姉様はいつだってわたくしの誇りだったわ。でももうお姉様は、わたくしより御自分のことを大切になさった方がいいのよ」

「マルグリット」

「ねえお姉様、わたくしももう子供じゃないわ。いつまでも、あなたの小さな可愛い妹じゃないのよ。もう、お姉様が護って下さる必要はないの。わたくしにだって、いくらでもお姉様のお手伝いが出来るわ。わたくし、お姉様のお役に立ちたいの。お姉様に御幸福になって頂きたいのよ」

「美しい御姉妹だ。御姿はもちろんだが、お互いを思い遣る心遣いも実に美しい」

 アルレスが立ち上がった。

「時間は少々かかるでしょうが、あなた方の頭痛の種もいずれ消えることでしょう。ところで、まだしばらくは大神殿におられるのでしょう」

「はい。最長老様にも姉の具合が良くなるまでは、ゆっくり御滞在下さるようにと仰って頂きまして」

「では、わたしもまた来ます」

 もう帰ってしまわれるの? 思わずそう言いそうになって、己の心の変化にアレキサンドラは戸惑った。

「明日にも、必ず」

 先程よりも力強くアレキサンドラの手を握りしめてから、微笑みを残してアルレスは立ち去った。

「本当に素敵な御方ね、お姉様。あの御方ならわたくし、お姉様を取り上げられてもちっとも悔しいと思わないわ」

「マルグリット」

「だってずっと、お姉様のことを見詰めておいでだったじゃないの。お姉様だってあの御方に手を握られていても、振りほどくことも御出来にならなかったくせに」

 マルグリットは呑気にはしゃいでいるが、内実はそんなに簡単なことではない。相手は仮にも皇帝だ、そしてアレキサンドラは女王である。共に君主の立場にある者が恋愛などとは、国家存続の大義名分に関わる一大事であり、決して許されることではない。

 いや、そうではない。わかっている、アルレスの吸い込まれそうなあの青い瞳が、アレキサンドラをひどく戸惑わせるのだ。湖に落ちたあの時のように、またもあの澄み切った青い色に囚われることにでもなったら、一体どうすればいい。湖からは救い出されたものの、食い入るように自分を見詰めているあの青い眼差しからは、到底逃れることなど出来ないように思えた。


          3


 用意された部屋は神殿の一角にあり、窓から続くテラスからは『聖なる森』の壮大な眺めが見渡せた。テラスの端には、森からやって来る小鳥のために小さな餌場が設けられていて、巫女達がテラスに椅子を出し、アレキサンドラが暖かい陽射しを浴びながら、小鳥達を眺めることが出来るようにしてくれた。

 小鳥の方も人に馴れているらしく、アレキサンドラの手の届く処までやって来る。時には肩へも止まる大胆なものもいて、その愛くるしい姿にアレキサンドラも心が和むのを覚えた。

 そこへ不意に、非常な勢いでテラスへ飛び込んできた小鳥がいた。驚いたアレキサンドラが急いでその小鳥を拾い上げると、身体に傷を負っている。

「獣にでもやられたのでしょう、可哀想に」

 驚いて振り向くといつの間にか、アルレスが後ろから小鳥を覗き込んでいる。

「お貸しなさい」

 答えることも出来ないアレキサンドラから小鳥を受け取ると、アルレスは傷付いた小鳥の小さな身体を両手で包み、そっと撫でてやった次の瞬間、小鳥は元気に二人の上をくるくる飛び廻った。

「……有難うございます」

「驚かないのですか」

「陛下が優れた能力者だというお話を、知らない者はおりませんわ」

 でもこんなにもそばで見詰められていては、その瞳を見上げることも出来ない。

「御出ましになっておられたとは気付きませんでした」

「あなたの御姿をずっと見ていたかったので」

 お願いだからそんなことを言わないで、どうすればいいのかますますわからなくなる。

「もう起きていて大丈夫なのですか」

「はい。色々とお気遣い頂きまして有難うございます」

「いい知らせがある。エルヴァレートの宰相は罷免されるそうですよ」

 アレキサンドラも、これには流石に驚いて顔を上げた。

「まさか、昨日の今日でそんな」

「これであなたも、心安らかになれますね」

「一体何をなさいましたの」

「別に何も。ただあの宰相が、一度叩けば幾らでも埃が出る男だったということです」

 そう言ってアルレスは顔を覗き込んだが、アレキサンドラは少しも嬉しそうな様子を見せず、再び俯いてしまった。

「喜んではくれないのですか」

「いいえ。ただ、自分が情けないだけです」

 小鳥達が餌をついばむ姿を見詰めながら、アレキサンドラは答えた。

「あなたの御力をお借りしなければ、宰相を戒めることも出来ないのですもの。エルヴァレートを護れないわたくしが、どうして女王などと呼ばれているのでしょう」

「何を仰る。エルヴァレートの一地域で起きた紛争を収めるため、その地へ赴いたあなたの姿にすべての者が圧倒され、『美の女神』が統治されるこの地を穢すことはならぬと、自ら武器を地に放り出したと聴いています」

「妹はわたくしと違って健康で明るくて、あなたのような御方を前にしても物怖じしたりしません。ただ、わたくしのことになると周囲が見えなくなる処があって、わたくしを時々困らせるのです」

 アレキサンドラが再び顔を上げた。

「宰相のこともそうですわ。妹はああ言いましたが、宰相も昔はあんな人ではなかったのです。父の右腕としてエルヴァレートのために懸命に働き、父と母が突然事故で亡くなった時も、わたくし達姉妹を助けてくれました」

「権力を持つと人間は変わる」

「宰相一人の責任ではありません。今回のことは、宰相の横暴を止められなかったわたくしにも責任があります。それにわたくしは、わたくしを慕ってくれる者達も捨てて、エルヴァレートを逃げ出して来た卑怯者に過ぎないのですもの」

 その時だ。アレキサンドラは突然アルレスに引き寄せられ、そのまま腕の中に抱きしめられてしまった。

「逃げないで」

 アルレスが耳元に囁き、アレキサンドラの金色に輝く髪を撫でる。身体は小刻みに震え逃げようと思うのに、その手があまりにも温かくてどうすることも出来ない。

「あなたを護りたい、ただそれだけだ」

 勇気を出してそっと顔を上げると、あの青い瞳がアレキサンドラをまっすぐ見詰めている。囚われる。今すぐ逃げなければあの鮮やかな青い世界に、湖底の竜に再び囚われてしまう。

「陛下、お時間です」

 カインが姿を現したのと、アレキサンドラがアルレスの腕から離れることが出来たのは、ほぼ同時だった。

「また明日」

 そう言い残して、アルレスは去った。


          4


 その言葉通り、アルレスは翌日も姿を現した。次の日もそのまた次の日も、アレキサンドラが何処で何をしていようと、アルレスには手に取るようにわかるらしく、いつも何の前触れもなくアレキサンドラの前に現れた。

「何を熱心に祈っていた?」

 祈りを捧げていたアレキサンドラがようやく聖堂から出て来た時も、まるで当然のようにアルレスはそこにいた。

「人々のために祈っておりました。エルヴァレートとリステーニイ、そして他の惑星に住む人々にも、多くの幸をお与え下さいますようにと」

「それから?」

「……リステーニイの皇帝陛下に、女神様の祝福がありますように」

 周囲に巫女達がいるというのに、臆することもなくアルレスはアレキサンドラを抱きしめる。やはりそれも、当然のことだとでも言うように。王者の恋は大胆だ。

 だが一方の王者であるアレキサンドラは、罪の意識から抜け出せないでいる。こんなことを続けていてはいけない。一刻も早くこの大神殿を出て、リステーニイからも離れなくては。そう思うのに、どうしてもそうすることが出来ない。

「お姉様、わたくしはエルヴァレートへ戻ります。事後処理は、どうぞわたくしにお任せ下さいませ」

 アレキサンドラが自分も帰りたいと訴えると、マルグリットはころころと笑って答えた。

「何を仰るの、お姉様はここにいなくては駄目よ。お姉様を連れて帰ったりなんかしたら、わたくしが皇帝陛下に叱られてしまうわ」

 仮にもエルヴァレートの王女であり、アレキサンドラに万一のことがあれば、その跡を継ぐはずのマルグリットさえこんな調子なのだから、アレキサンドラに味方してくれる者などいないも同然だ。

「巫女達も皆、口を揃えて言っているわ。お姉様以上に、リステーニイの皇妃にふさわしい御方はいないと」

「ふざけないで、マルグリット。わたくしはエルヴァレートの女王よ」

「お姉様、わたくし結婚しても子供は望めないと、医師から言われておりますの」

 マルグリットの顔が、不意に真顔になった。

「ですからお姉様にはぜひとも、お姉様にふさわしい優れた御方と結婚し、立派な後継ぎを産んで頂かなくてはならないのです。本当にエルヴァレートのことを思っていらっしゃるのでしたら、たとえ一時はエルヴァレートを離れることになっても、お姉様がリステーニイの皇妃となることこそ、最上の方法だとはお思いになりませんか」

「マルグリット……」

「ごめんなさい、お姉様。でもわたくしは本当に心から、お姉様に幸福な結婚をして頂きたいと思っているのよ。どうか素直になって、お姉様。素直になって、皇帝陛下の想いに応えて差し上げて。御二人の結婚は、我がエルヴァレートとリステーニイの輝かしい未来を約束しているはずよ。何よりお姉様に、『エルヴァレートの美の女神』にふさわしい御方は、リステーニイの皇帝陛下を置いていないではありませんか。それにお姉様だって今更、皇帝陛下のおそばから離れることなど出来るの?」

 アレキサンドラの言葉が詰まった。離れられない、離れたくない。今ではもう、アルレスがアレキサンドラの前へ姿を現さない日はないというのに、その温かい腕に包まれる瞬間を、いつの間にか心待ちにしている自分がいる。あの青い瞳に囚われてしまうとわかっていても、今更離れることなど出来はしない。

 どうすればいい。一体どうすれば、この恋を諦めることが出来る。許されない恋だとわかっているのに、もう逢ってはいけないとわかっているはずなのに。

「あなたを愛している」

 今日もアルレスはアレキサンドラを抱きしめて、愛の言葉を囁く。アレキサンドラは、エルヴァレート女王の証である首飾りを握りしめ、辛うじてその言葉に押し流されそうになる自分をこらえる。

「女王様は苦しんでおられます」

 アレキサンドラの部屋から出てきたアルレスに、声をかけてきたのはイルマ=アストリッド最長老だ。

「生真面目な御方でいらっしゃいますもの。幼い頃から女王としての勤めに忠実で、常にエルヴァレートのことを第一に考えてこられた御方でございますから、そう容易には陛下に、御自分を任せることが出来ないのでございましょう」

「ですから、わたしも待っているのです」

 アルレスが微笑んで口を開く。

「湖がわたしのために咲かせてくれた可憐な花を、不用意に手折るような真似はしません」

「エルヴァレートの政府から、女王様を即刻帰還させるよう催促されております」

「そうでしょうね。水晶宮の者も、苦い顔でわたしを見ていますから」

「陛下の恋は、先代の皇帝陛下よりも苦難の道を歩むこととなるのかも知れません」

「構いません。そんなものを怖れていては皇帝など勤まらない」

 閉じられた扉を振り返りながら、アルレスは言葉を続けた。

「何があってもわたしは、アレキサンドラをわたしの妃にする。出逢ってしまった以上、今更手離すことは出来ない」

 最長老は、アルレスの顔をじっと見詰めて言った。

「恋とは不思議なものですね。先日までの陛下と今の陛下では、御顔の色が全く異なります」

「アレキサンドラさえいれば、わたしはもう何も怖れなくて済む」

「王者の孤独は、同じ王者でなければわからぬもの」

 そばで控えているカインをちらりと見てから、最長老は頭を下げて言った。

「『エルヴァレートの美の女神』がこのリステーニイへ降臨することに、一体何の支障があると言うのでございましょう。必ずや女神リスタニア様も、皇帝陛下の恋に御力をお貸し下さることでしょう」


          5


「一人でも大丈夫よ」

 よく晴れたある日のこと、アレキサンドラは森の散策に出ることにした。

「無理はしないようにするから。少し、一人で考えたいの」

 供を申し出た巫女達を、アレキサンドラはそう言って断った。巫女達は大神殿からあまり離れないようにと、繰り返し注意しながら送り出してくれた。何も言わなくても、巫女達もわかっているのだ。もうすぐアルレスがやって来る。アレキサンドラが本当に一人になるようなことは、決してない。

 アレキサンドラはゆっくりとした歩調で、緑に包まれた小道を歩いて行った。もちろんアレキサンドラも、やがてアルレスが姿を現すことはわかっていたが、少しの間だけでいいから、一人で考える時間を持ちたかった。これから自分はどうするのか、このまま、流されるままアルレスに身を任せるつもりなのか。確かに、心の何処かでそうしたい自分がいることは否定出来ない。妹も巫女達も、アルレスとアレキサンドラの上に無邪気な夢を描いてはしゃいでいるが、国家における大義名分というのは、若い娘達が思うほど決して甘いものではない。エルヴァレートとリステーニイはもちろん、他の惑星にも二人の結婚に反対する者は少なくないはずだ。このことを利用して、悪事を働く輩もいるかも知れない。何よりアレキサンドラ自身、エルヴァレートのすべてを捨てて、本当にアルレスのものとなる覚悟があるのか。そんな勇気が果たして自分にあるのか、アレキサンドラはずっと自問自答を繰り返していた。

 ふと、アレキサンドラは足を止めた。大神殿の奥でいつまでもくよくよ悩んでいても、ますます八方塞がりになるばかりで道が開けるわけでもない。いっそのこと思い切って、もう一度湖まで行ってみてはどうか。

 あれからマルグリットに幾度か問われたが、一体どんな方法で湖まで辿り着いたのか、アレキサンドラ自身にもよくわからない。気が付いた時には、湖の岸辺に一人佇んでいた。けれども流石に、溺れかけた処へ二度と行きたいとは思わなかったが、アルレスの瞳と同じ色の湖に思い切って臨めば、少しはこんな自分でも勇気を奮い起こすことが出来るかも知れない。

 アレキサンドラは、アルレスが羨ましかった。皇位にあることへの自信と誇り、威厳に満ち溢れた姿。そのどれもが、今のアレキサンドラには欠けている。そもそもリステーニイは惑星国家群の頂点にある星で、前述の通り、その統治者のみが皇帝と名乗ることを許され、しかもその身は強力な能力者でもあるのだから、アルレスの揺るがぬ自信は当然のことだ。幼い頃に父の跡を継ぎ、病みがちな身体を持て余しているアレキサンドラには、アルレスは眩く見えた。

 湖へ行けば、何か答えが見付かるかも知れない。創世の女神リスタニアの出現伝承だけではなく、遥か古の時代の皇帝が、竜神の娘と恋に落ちたという伝説を持つ湖。思えばあの時、すでにアレキサンドラはあの湖に魅せられていたのだ。恐怖を感じてしまうほどに。

 しかし森は深く果てしなく、湖までの道など皆目わからない。それでももう一度、あの湖へ行きたいとの衝動に一旦かられると、何が何でも行かなければ気が済まなくなった。大丈夫、無理をせずゆっくり行けば、必ず辿り着くことが出来るはず。何故ならリステーニイへ来るずっと前から、あの湖はアレキサンドラを呼んでいたのに違いないのだから。

 けれど、意を決したアレキサンドラが幾らも進まぬうちに、突然その眼の前に、思いがけない者が現れた。

「さ、宰相……!?」

 アレキサンドラは、自分の眼を疑った。一体どうしてこの男が、よりにもよってこんな処にいるのだろう。

「御身を案じておりました、女王陛下。マルグリット王女はすでに、エルヴァレートへ御帰還されているというのに、女王であるあなた様が、いつまでもこんな処におられるとは」

 頭を下げながらも宰相は、欲と野心に満ちた眼でアレキサンドラを睨み付けている。

「……一体誰のおかげで、王位に就けたと思っている」

 すでにアレキサンドラの身体は、凍り付いたように動かない。

「このわしの後ろ盾があればこそ、お前はエルヴァレートの女王になれたのではないか。恩義あるこのわしを罷免、追放とはよくもぬけぬけと戯言を……! しかも療養などと見え透いた嘘を吐いて、リステーニイの皇帝を色仕掛けでたらし込むとは、薄汚い女め……!」

 宰相はじりじりとアレキサンドラに近付きながら、尚も悪態を吐く。

「エルヴァレートの王位を捨ててリステーニイの皇妃になるだと、そのようなことをわしが許すとでも思うのか。お前は、このわしの妻になると決まっているのだ。お前を妻にして、わしがエルヴァレートの王となる。追放など認めるものか……!」

 服は破れ、顔には傷があり、王家に仕える政府の要人たる風貌など、今の宰相には微塵もない。アルレスは一体、この男に何をしたのだろう。そこにいるのはすべてを奪われ追い払われた、ただの愚かな老人だ。

「来ないで、お願い……!」

「わしが国家を潰そうとした重罪人だと、ふざけるな! そもそも先にエルヴァレートを裏切ったのは、国家への反逆罪を企てたのはわしではなく、女王であるお前ではないか! 女王たるお前がエルヴァレートを捨てて、リステーニイの皇妃になるとは言語道断! 許さぬぞ、そのようなこと、宰相たるこのわしが許さぬ!」

「いやあああ!」

 宰相がアレキサンドラの腕を掴んだ、そう思った次の瞬間、流れるような漆黒の髪とマントが、アレキサンドラと宰相の間を遮った。

「穢れた手で、わたしのものにふれるな」

 怒りに満ちた男の気が、宰相の身体をふれもせずに大木へ叩き付けた。だが宰相は尚も、口から血を流しながら叫んだ。

「何をする、この若造めが!」

「哀れなものだ、このわたしがわからぬとは」

「その女をこちらへ寄越せ、その女はわしの妻になる女だ!」

「半ば気が狂いかけていると見える。ふざけたことを申しているのはお前の方だ。生命だけは助けてやれと言ったが、どうやらその必要はなさそうだ」

 そう言ったアルレスの瞳が光った途端、宰相の身体は木っ端微塵に吹き飛んだ。

「きゃあああ!」

「見るな!」

 宰相の首が足元まで転がり、悲鳴を上げたアレキサンドラをアルレスが慌てて抱きしめた。

「いやあ、離して!」

 いつもならばそのまま、アルレスの腕の中でおとなしく抱かれているのに、今日のアレキサンドラは激しく拒んだ。

「穢れてしまいました……! 穢れてしまいました、わたくし……! あの男が、あの男がわたくしにふれたのです、お願いですからさわらないで……!」

「落ち着くんだ、お前は穢れてなどいない」

 アルレスが力強く抱きしめて何とか宥めようとするものの、アレキサンドラの興奮はなかなか収まる様子がない。

「あなたが穢れてしまわれる、離して……!」

「黙って!」

 そう叫んだのと同時に、アルレスはアレキサンドラを抱いたまま森の奥へと跳んだ。アレキサンドラの身体のことを思えば、決してそんなことをしたくはなかったが、今は身体よりも心の安静の方が先だった。しかしアレキサンドラは瞬間移動(テレポーテーション)の衝撃をまともに受け、アルレスの腕の中へ崩れ込んだ。

 大木の根元へそっと降ろすと、アレキサンドラの顔は蒼白で唇にも血の気がなかった。アルレスは素早く、その唇に己の唇を重ねた。

 それは深く、長い口付けだった。唇を通してアルレスの強い生気が、アレキサンドラの身体の奥へと注ぎ込まれた。やがてその頬が薔薇色に染まり、動かなかった両手がアルレスの胸をわずかに押してきても、アルレスはやめようとしなかった。

「だ……め……」

 アレキサンドラが涙を流して拒んでも、尚もアルレスは離さない。

「嫌だ、もう待てない」

 唇から頬へ、頬から首筋へと、アルレスの唇がアレキサンドラの白い肌を辿って行く。アレキサンドラは叫ぶように言った。

「いけません、陛下。許されることではありません」

「何故、お前もわたしを愛しているのに」

「あなたは皇帝です。そしてわたくしは女王、共に国家の頂点にある者がこのようなことをしては」

「今更離れられるのか、わたしから」

「離れなくてはいけないのです……!」

 アルレスがその肌から顔を上げると、アレキサンドラは激しく泣き出した。

「お願いです、わたくしのことなどお忘れになって下さい。わたくしは、ここへ来るべきではなかったのです。どうかわたくしを、エルヴァレートへ帰らせて下さい……!」

「帰さない」

 背中を大木に遮られ、前にはアルレスが両腕を拡げていて、アレキサンドラは逃げ出すすべがない。

「わたしは皇帝だ。皇帝のわたしが、お前に帰るなと命じている。これからはわたしのいる場所が、お前の故郷となるのだ」

「国家への反逆罪になります……! あなたは女王のわたくしに、エルヴァレートを裏切れと仰いますの」

「お前やわたしを謗る者など、わたしが潰してやる」

「わたくしは、すでに恥を晒しております。あなたも御存知の通りエルヴァレート王家の始祖も、かつてはあなたの御父祖に仕えておりました。エルヴァレートの人々を導き護ること、これが始祖とわたくし達子孫に下された、当時の皇帝陛下の至上命令です。それなのにわたくしは、あろうことかエルヴァレートを逃げ出して、あなたの御力をお借りしなければならなかった。本来であれば皇帝陛下の内政干渉など、王位にある者として恥ずべきこと、王者失格の烙印を押されたも同然です」

「女王の身はすでにこのわたしの腕の中にあると、リステーニイとエルヴァレート内外に公布している。皇妃の故郷を護るのは、夫として当然の務めではないか」

 思いがけないその言葉にアレキサンドラは声を失い、やがてその顔に、投げ槍ともとれる自嘲的な笑みが浮かんだ。

「時折、あなたがお羨ましくなりますわ。いつも自信に溢れていて、決して揺るがなくて。あなたのような自信も誇りも威厳も、わたくしには望むべくもない……」

「自信?」

 不意に、アルレスの顔色が変わった。

「誇り? 威厳? このわたしが?」

 氷のように冷たく響く声。アレキサンドラは、はっとして顔を上げた。

「そんなものがわたしにあると、このわたしが怖れも知らない人間だと、本当にお前はそう思っているのか」

「陛下……?」

「リステーニイの皇帝、強大な力を持った能力者。そのようなものはすべて仮の姿に過ぎないと、ここにいるのはただのまがい物だと知れば、お前は間違いなくわたしを軽蔑するだろう」

「陛下、どうなさったのです」

「自信などあるものか。わたしほど己の存在が不確かな者に、自信も誇りもあるものか……! わたしには父も母もない、己を信じられる何ものもない」

「落ち着き下さいませ、陛下。どうか」

 アレキサンドラは困惑した。アルレスの身体は小刻みに震え、額には汗が滲み、顔は血の気を失っている。いつもの自信に満ちたアルレスの姿は、何処にもなかった。

「忌まわしい、恐るべき過去だ。己自身に起きたことであっても、わたしにはどうすることも出来なかった。すべてはこのリステーニイのため、皇位存続のために行われた禍々しい行為だった」

 そしてアレキサンドラは、アルレスの出生にまつわる禍々しい秘密を、アルレス自身の口から聴かされたのである。


          6


「母上」

 漆黒の波打つ髪を後ろで緩やかにまとめ、青い眼差しに真剣な表情を浮かべた青年は、はっきりとそう呼んだ。

「母上、そう御呼びしてよろしいでしょうか」

 声もなく、イルマ=アストリッドはそこにいる青年の顔を見詰めた。その額には光り輝く青い玉石が、青年の高貴な身分を示していた。

「初めて御眼にかかります。アルレス=ファヴィエ=サンドリアンです」

「アルレス……」

 一度としてこの腕に抱いたこともない、初めて逢った我が子の名を、イルマは噛みしめるような声で呟いた。


          7


「母子と名乗ることは許されない。あなた様も、それはよくわかっておられるでしょうに」

「ええ。でも」

 それでも逢いたかった。自分をこの世に産んでくれたその人に、一度でいいから逢ってみたかったのだと、アルレスは答えた。

「皇太后様に……血の繋がりのないあなた様を育てて下さった御方に、失礼だとはお思いになりませんか」

「そもそもあなたと逢うようわたしに勧めたのは、義母なのです」

「皇太后様が? まさか、そのような」

 あの御方がそんなことを仰るはずがない。二十数年前、生まれたばかりのアルレスを託した時、母と名乗ることはおろか生涯逢うことも禁じたのは、皇太后その人だったではないか。

「皇太后は亡くなりました」

 静かな声でアルレスは打ち明けた。

「自分は罪を犯した。その罪を償わぬまま、安らかに死ぬことは出来ない。皇太后はそう仰って、わたしにあなたと逢うよう強くお勧めになったのです」

 イルマは答えなかった。

「信じられませんか。あの誇り高き皇太后が」

「……ええ」

「あなたから見れば、恋人も息子も奪っておいて今更という処でしょう」

「皇太后様からすればわたくしこそ、愛する御方を奪った憎んでも憎み切れない恋仇です」

 顔を上げ、イルマは言った。

「確かにわたくしも、かつては亡き皇帝陛下の御妃候補の一人でした。でも最終的に陛下がお選びになったのは、わたくしではなく皇太后様なのです」

「父は愛情よりも、己の矜持を守ることを選んだのです。恋人であるあなたをいとも簡単に捨てて、重臣の娘だった皇太后を妃に選んだ。だが残念なことに皇太后は、子を産めない身体でした」

 生母の顔を見詰めたまま、アルレスは感情のない声で続けた。

「妃の不妊を知った父はあろうことか、すでに大神殿へ入っていたあなたを離宮へ呼び出し、秘かにわたしを産ませました。そして恥知らずにも、生まれたばかりのわたしを皇太后に託したのです」

「陛下がお悪いのではありません。ましてや、皇太后様の責任でもないことです。確かにわたくしは、かつて陛下と愛し合っておりました。陛下の御妃の第一候補でした。けれどもわたくしは、自分に他人の心が読めるという能力があることがわかった時、『北』の水晶宮ではなく『南』の大神殿へ入ることを選んだのです。どうか、御自分の御父上を蔑むことはお慎み下さいませ」

「ではあなたは、どうしてわたしを産んだのです」

「皇位を護るため、皇妃の不妊を快く思わぬ輩から御妃様の御身をお護りするためにも、陛下には、御自分の御子を産んでくれる女性が必要でした。けれど、陛下とて人間です。御子を産ませるためだけに愛してもいない女性を抱くなど、お優しいあの方がお出来になれるはずもありません。ですから陛下は、かつて恋人であったわたくしを離宮へ御呼びになったのです」

 深い溜息を洩らし、イルマは言葉を続けた。

「わたくしも女です。陛下が他の女人ではなく、わたくしにあなたを産ませて下さったこと、皇太后様を御妃に迎え入れた後も、わたくしへの愛情を忘れずにいて下さったこと、どんなにか嬉しかったことでございましょう。けれどもあの時のわたくしは、皇太后様の御心のうちまで考えることはなかった。皇太后様に対し、女として最大の屈辱を与えておきながら、離宮へ通われる皇帝陛下を見送る皇太后様が、どれほど苦しみどれほどお嘆きになられたのか、わたくしは想像すらしなかった。他人の心が読めるはずなのに、巫女として人々を諭す立場にあるはずなのに、わたくしは自分の幸福ばかりに浸って、皇太后様の御気持ちを思い遣ることもなかったのです。こんなわたくしに、あなたの前で実の母と名乗ることなど、誇り高き皇太后様がお許し下さるはずもございますまい」

 母は子を見詰め、子は母を見詰め続けた。しばらくそうした後、アルレスもまた長い溜息を洩らした。

「御礼を申し上げます、母上。あなたの御言葉を聴いて、ようやく胸のつかえが取れました」

「わたくしも、久し振りに清々しい思いが致します。亡き皇太后様に感謝申し上げなくては」

「また、こちらへお伺いしてもよろしいでしょうか」

「もちろんですわ、でも」

 イルマは優しく微笑みながら言った。

「どうかここでは、わたくしをイルマと御呼び下さい。わたくしがあなたの母だということは、ここではもう先日亡くなられた最長老様の他、誰も知らないのですから」


          8


 突然現れたその人に驚いたシャルロットは、急いでそこから離れようとした。

「逃げないで」

 アルレスは慌てて止めた。

「すまなかった、そんなに驚かせるつもりはなかったのだが」

 回廊の片隅に隠れて泣いていたら、不意に眼の前に皇帝本人が現れたのだ。驚くなと言う方が無理だろう。

「君がシャルロットだね」

「どうして、わたしの名前を」

 思わず声を上げて、シャルロットは顔を赤らめた。

「イルマ様ですね。イルマ様からわたしのこと」

 アルレスが頷いた。

「シャルロット=ジョゼファ、哀れな子です。あの子の能力は火を操ることですが、自分で力を制御(コントロール)することが出来ず、そのため幼い頃から周囲で出火が相次ぎ、それを怖れた両親はまるで捨てるように、あの子を大神殿へ放り込んだのです」

 巫女の力は人それぞれで、その出現時期にも個人差がある。

「わたくしも、自分の能力に悩まされた過去がありますから、とても他人のようには思えなくて。参拝と称して、儀式前の娘に逢いに来る家族も多い中、あの子には、そんなことをしてくれる者もいないのも不憫で。よろしければ陛下も、時々はあの子に声をかけてやっては下さいませんか」

 巫女となるには必ず、何がしかの力を女神から授けられていることを第一条件とするが、純粋に女神への信仰のためという者が多い中で、イルマやシャルロットのような、己の力に悩み追われるように大神殿へ入る娘も、いない訳ではなかったのである。

「わたしのような者に御心遣い頂いて感謝申し上げます、皇帝陛下。でも、わたしには近付かないでいる方が御身のためですわ」

「どうして」

「いつ、何処から火が出てもおかしくないからです。イルマ様以外、他の巫女もわたしには近付こうとしません」

 そう言って俯いたシャルロットを、アルレスも黙って見詰めた。金色の長い髪、悲哀の籠った紫色の瞳。美しい娘だ。その特異な能力さえなければ家族にも友人にも恵まれ、平凡でも幸福な人生を歩めたはずであろうに。

「皇帝というのも孤独なものだよ」

 アルレスが言った。

「少なくともあなたには、イルマがあなたの励ましとなってくれる。でもわたしには」

 シャルロットが顔を上げた。

「どんなに苦しい時でも哀しい時でも、わたしは誰の助けも求めることは出来ない。わたしの一生は孤独との闘い、それが皇帝の宿命だから」

 本当は、心密かに思っていた。イルマこそが唯一の、救いの手となってくれるのではと。だがイルマは、母と名乗ることを頑なに拒んだ。

「わたくしは、確かにあなたを産みました。でもあなたの母上はあくまで、皇太后様なのでございます」

 わかっている、これはただの我儘だと。単なる己の甘えに過ぎないと。けれどほんのわずかな間だけでもいい、皇帝である自分を忘れることが出来る何かが欲しかった。

「陛下は、亡き父帝がかつて愛された御方に御逢いするため、イルマ様の処へいらしているのだそうですね」

 皇帝の寂し気な表情を見詰めていたシャルロットが、やがて口を開いた。

「イルマ様も、その御力のために先帝陛下との恋を捨てて、大神殿へお入りになった御方だと聴いています。世が世なら、皇妃として華やかな一生を過ごしておられたはずなのに、きっととても辛く哀しい思いをなさってこられたはずなのに、今は穏やかに微笑んでおられます」

 アルレスが、シャルロットの顔を見上げた。

「わたしもいつか、イルマ様のようになりたい。そしてその時には、こんなわたしでも受け入れてくれる人が現れる。わたしは、そう信じて生きたいのです」

「大丈夫、君ならきっと」

「有難うございます。陛下にも、そのような御方が現れることを心より願っております」

 初めて、二人の顔に穏やかな微笑みが浮かんだ。

「また、声をかけても構わないだろうか」

 シャルロットは眼を瞠らせたが、すぐに頬を赤らめ頷いた。


          9


「今、何と仰いました、陛下。シャルロットを、あの子を何と」

「シャルロットをわたしの妃に迎えたい、そう言ったのです」

 アルレスに初めて母と呼ばれた時も、イルマは動揺した。だが、今ほど強い衝撃を受けたことはなかった。

「本気で仰っているのですか、陛下。あの子は」

「確かにシャルロットは巫女です。本来であれば生涯女神に仕え、誰とも結婚など許されない身です。だがわたしは、本気でシャルロットを愛しているのです」

 イルマは言葉を失い、アルレスの顔を見詰めた。その眼差しに、偽りの色は微塵もなかった。

「お考えをお改め下さいませ、皇帝陛下。あの子は、シャルロットは以前にも申し上げましたように、己の力を制御することも出来ず、仲間の巫女にも怖れられているほどなのですよ。あの子のそばにいればいつ何時、火災に巻き込まれるのかも知れないのですから、そうなるのも仕方がないことでしょう。そんなあの子をよりによって皇妃にとは、水晶宮の重臣方のみならず、多くの者達が反対するのは眼に見えております」

「あなたから、そんな言葉を聴くとは思わなかった」

 アルレスの声が強張った。

「あなたとて父の皇妃になることを拒みながら、このわたしを産んだ。実の母とは名乗れなくても、子の幸福を祈る気持ちは微塵もないのですか」

「何という情けないことを。子の幸福を祈らぬ母親が何処におりましょうか」

 自分でも思いがけず、イルマの声が大きくなった。

「だからこそ陛下には、誰よりも幸福になって頂きたいと日夜、女神様にもお祈り申し上げておりますのに。陛下にふさわしい御方と、幸福な結婚をして頂きたいと望んでおりますのに」

「わたしに誰がふさわしいかは、わたし自身が決めることです。わたしはシャルロットを選んだ。わたしの皇妃は、シャルロット以外に考えられない」

「御自分の御立場をおわきまえ下さいませ」

「わたしを、父と一緒にしないでくれ」

 いつも穏やかなアルレスの顔が豹変した。

「己の矜持を守るために、皇太后やあなたを利用した父のような男には、わたしは絶対にならない。わたしは生涯、シャルロット一人を愛すと決めた。シャルロットを皇妃に出来ぬというのなら、わたしはいつでも皇帝の座から降りる」

「陛下……!」

 アルレスは本気だ。本気でシャルロットを愛している。アルレスならシャルロット一人のために、皇位もリステーニイも躊躇うことなく捨ててしまうことだろう。

「三十年前、わたくしが何のために大神殿へ入ったのか」

 足早に立ち去って行くアルレスを見送りながら、イルマは呟いた。

「二十数年前、生まれたばかりのあなたを泣く泣く皇太后様に預けたのは、一体何のためだったのか。アルレス、どうか眼を覚まして。あなたが、この世でただ一人の皇帝が、恋愛事のために皇位を捨てるなど前代未聞です。仮にも女神様に代わりリステーニイを統治する立場にある者が、私情で皇位を辱めるような真似をするなど、決してあってはならない……!」


          10


「嘘です……! そんなこと、何かの間違いです……!」

「シャルロット」

 動揺している娘を前に、イルマもどう言葉をかけていいのかわからなかった。

「ごめんなさい、シャルロット。わたくしが陛下にあなたを逢わせたりしなければ」

「イルマ様お願いです、何かの間違いだと仰って下さい。だって陛下は、陛下とわたしは」

「本当なのよ、シャルロット」

 イルマはシャルロットの肩を掴んだ。

「皇帝陛下は宰相閣下の姫君を御妃に迎えると、水晶宮から公布が出されたのです」

「嘘です……!」

 シャルロットの身体がその場に崩れた。

「ごめんなさい、シャルロット」

 イルマは謝罪の言葉を繰り返すしかない。

「でも、本当はあなたもわかっているのでしょう。巫女は女神様に生涯御仕えし、リステーニイと皇帝陛下の御代の繁栄をお祈りするための存在。巫女であるあなたの居場所はこの大神殿であって、水晶宮ではないのよ」

「わたしの居場所など、初めから何処にもないではありませんか……!」

 顔を覆う両手の間から、叫ぶようにシャルロットは言った。

「わたしは今まで、誰にも愛されたことはありませんでした。実の父や母ですらわたしを忌み嫌い、半ば捨てるようにここへ放り込んだのです。けれどここにも、わたしを受け入れてくれる人は一人もいなかった。わたしはずっと、独りぼっちで耐えて来たのです」

「ええ、わかっているわ。あなたの気持ちは、わたしがよくわかっているわ」

「イルマ様が、わたしの何をわかっていらっしゃるのです」

 シャルロットが、イルマの手を振り払った。

「皇帝陛下であられるあの方だけが、雲の上の御方であるはずのアルレス様だけが、わたしの孤独な心を初めてわかって下さったのです。アルレス様とわたしは同じなのです。アルレス様も誰にも理解してもらえない、本当に御自分だけの哀しい思いを抱えて生きてきた、だからこそわたし達は、お互いを受け入れることが出来たのです」

「あの方は皇帝です。皇帝と巫女とでは、立場が違い過ぎるわ」

「イルマ様、どうして。どうしてあなたが、わたし達の結婚を反対なさるのです。アルレス様の実のお母様であられるあなたが……!」

「シャルロット」

「あなたも、アルレス様のお父様と愛し合っておられたのでしょう。わたしのように、望んで巫女になった訳ではなかったのでしょう。そんなあなたなら、わたしの気持ちもわかって下さるはずではありませんか」

「眼を覚まして、シャルロット。リステーニイの皇妃になる女性は、巫女以上に厳しい条件が課せられるのが慣例よ。本人は当然のこと、一族の末端に連なる者まで徹底的に調べられるわ。でもあなたには、後見となってくれる者さえいない状況ではないの」

「だから、ですか」

 以前は唯一の心許せる相手として、親愛の情を寄せてくれていた娘が、今は氷のように冷たい視線をイルマに向けている。

「皇妃になれる身分ではない上に、自分の力を制御することも出来ないわたしは、あなたの息子にふさわしい娘ではない。だからあなたは、御自分の縁戚に繋がる姫君を陛下に押し付けたのです」

「シャルロット……!」

「あなたは、御自分の御子を本当に愛してなんかいない」

 シャルロットの紫色の瞳が、憎悪と共に血のような紅い色に染まっていく。それは正しくシャルロットが、火を操る時の合図だった。

「あなたが少しでも、母としてアルレス様を受け入れて下さっていれば、アルレス様はあんなにも追い詰められたりはしなかった。アルレス様の御心をわかっているのは唯一、このわたしだけです。わたしだけが、アルレス様をわかって差し上げられるのです。そしてわたしの心をわかって下さるのも、アルレス様だけなのです!」

「……あなたに何がわかるの、シャルロット。あの時のわたくしが、一体どんな思いで」

 かすれるような声で、イルマは呟く。

「あの時、生まれたばかりの我が子を他人に奪われた時の、わたくしの気持ちがあなたにわかると言うの。アルレスを手離すくらいなら、この身を引き裂かれる方がどれほどましだったか」

「その御気持ちが今もあるのなら、どうしてそれをアルレス様にお伝えしないのです」

 シャルロットの言葉に、イルマが顔を上げた。

「皇位を護る、ただそれだけのために、御自分の素直な御気持ちをお伝えしないなんて、そんなの間違っています。アルレス様はあんなにも、あなたを母としてお慕いしておられるのに」

「シャルロット、わたくしは」

「そんなにも、大義名分などというものが大切なのですか! あの孤独な御方を、おそばにいて御慰めしたいとは思わないのですか!」

 身体中を震わせながらシャルロットは叫ぶ。

「わたしは違う。わたしはあの方に、一生おそばにいると誓いました。あの御方を心から愛し護ることが出来るのは、このわたしだけなのです!」

「シャルロット! お願い待って、シャルロット!」

 イルマがどんなに叫んでも、シャルロットは振り向かなかった。シャルロットの姿は、そのまま大神殿からも消えた。


          11


「……それで、お父様とお母様はどうなりましたの」

 そう訊ねたアレキサンドラの声は、かすかに震えていた。

「お父様……?」

「あ、あの」

 蒼ざめた顔をゆっくりと上げて、アルレスが呟いた。その声があまりにも不審な様子だったので、アレキサンドラは戸惑った。

「あなたは先帝陛下の御子ですもの。それならシャルロット様は、あなたのお母様ということになるのでしょう?」

 皇帝の母親が大神殿の巫女だという噂は、アレキサンドラも耳にしている。するとアルレスの顔に、自嘲的な笑みが浮かんだ。

「わたしは先帝の子ではない」

「え……」

「確かに、先帝とシャルロットは愛し合っていた。だがわたしは、二人の子供ではない」

 アレキサンドラは訳がわからず、ますます混乱するばかりである。

「絶望に追い込まれたシャルロットは、自らの身体に火を放った。恋人を追い駆けてきた先帝も、躊躇うことなくその火中へ飛び込んだ」

 こんなにも感情のない、絶望に満ちたアルレスの声を、今まで聴いたことがあっただろうか。

「皇帝が巫女と心中したなどと、こんなことは前代未聞の不祥事だ。もちろん、このことは極秘にされた。最長老もまた、その地位と引き換えに口を封じられた。だがわざわざそんな真似をしなくても、我が子にさえ名乗ることを禁じた最長老に、眼の前で起こったそれを口外することなど出来るものか。そして皇帝の心中は、大神殿と水晶宮の断絶を決定付けた」

「陛下が双方を和解させるため御苦労を重ねておられることは、わたくしも耳にしております」

 アレキサンドラがそう言葉をかけても、アルレスはやはり感情のない眼差しを向けただけだった。

「皇帝は女神からリステーニイの統治を託された、言わば『女神の代理人』だ。その皇帝を、女神に仕える巫女に殺されたも同然の水晶宮が、もともと水と油のような仲の大神殿を、己の仇のように憎むのも無理はない。だがその水晶宮が、よりによって神々の領域に踏み込むような真似をするとは、一体誰が想像しただろう」

「神々の領域に踏み込む……?」

「先帝は、子に恵まれなかった先々代の皇帝が、かつての恋人に産ませた待望の皇位継承者。その先帝が殺されたとあれば、皇位に就く者はもはや一人もいなくなる。だが、このリステーニイの皇位を空にさせておくような事態は、断じて避けなければならない。そこで水晶宮は燃え残った先帝の遺体をかき集め、極秘で先帝の再生を図った」

「どういうことですの、陛下は何を仰っておられますの」

 何が何だかわからない。一体、アルレスは何を話しているのか。

「わたしは、先帝の複製(コピー)なのだよ」

 顔も上げずにかすれるような声で、アルレスはゆっくりと告げた。

「わかるか。先帝は、わたしの実の父ではない。シャルロットも、わたしを産んだ本当の母ではない。わたしには、父もなければ母もない。わたしは先帝の遺体から造られた、複製人間(クローン)だということだ」

 アレキサンドラは、もはや返す言葉も見付からなかった。

「そしてわたしを造った者は、秘密保持のため全員殺された。だが唯一、その殺害を逃れていた男が復讐の念からわたしに近付き、そのことを告げた。わたしはその場で、男を殺した」

 身動きひとつせず、アレキサンドラは皇帝の流す涙を見詰めていた。つい先程まで自信に溢れていた、誇り高き皇帝の姿は何処にもなかった。

「……どうして」

 しばらくしてアレキサンドラが口を開いた時、その唇はかすかに震えていた。

「どうしてそんなにも、皇位や王位というものが大切なのでしょう。あなたもわたくしも、そんなものを望んで生まれたわけでは決してないのに」

 アルレスがようやく顔を上げた時、アレキサンドラの頬は涙に濡れていた。

「国家のため、皇位存続のため、ただそれだけのために今までどれほど多くの方が、人知れず涙を流してきたことでしょう。そのために先帝陛下は愛する方と共に死を選び、あなたは御両親の温もりも愛情も得られぬ、異常な出生を強いられた。どうしてそんな、どうしてそこまでして、大義名分などという愚かしいもののために、あなたがそこまでお苦しみにならなくてはいけないのか」

 不意にアレキサンドラは、アルレスをその胸に抱きしめた。

「許せません、わたくし。あなたを、わたくしが初めて愛した御方をこんなにも哀しませ、苦しませてきたものを。しかもそれはわたくしを長い間縛め、苦しめてきたものと同じものなのです」

 アレキサンドラはアルレスの漆黒の髪を優しく撫で、囁くように言った。

「どうぞ陛下、今だけはわたくしを陛下の母君と思って下さいませ」

「……わたしの?」

「幼い頃、亡くなった母はわたくしが病に苦しむ度に、こうしてわたくしを抱きしめていてくれました。母に抱かれている時だけはわたくしも、王位継承権を持った王女ではなく、母にこよなく愛されている一人の娘でいることが出来ました」

 今だけは。今だけはあなたも、本当の御自分にお戻りになって下さい。リステーニイの皇帝ではなくアルレスという一人の人間に戻って、辛いことも哀しいこともすべてお忘れ下さい。

「あなたもこの世界で、ただ一人の人間なのですから」

「……お前が、わたしの母になると言うのか」

 アレキサンドラの腕の中で、アルレスが呟くように訊ねた。

「はい」

 誰よりも大切なあなたに、これ以上苦しんで欲しくはないから。

「お前の胸は、温かい」

「わたくしも」

 あなたを抱きしめているのはわたくしなのに、抱いているわたくしの方が、あなたに抱かれている気持ちになる。

「……大神殿は長きにわたり、わたしの即位を認めなかった。最長老からすれば何処の馬の骨ともわからぬ男に、我が子の皇位を奪われたも同然だからな」

 アレキサンドラに抱かれたまま、アルレスは言葉を継いだ。

「初めて大神殿を訪れた時、流石の最長老も茫然と立ち尽くしていたが、出生の秘密を打ち明けた時には、あの冷静沈着な人間が我を忘れて怒り狂った」

「陛下が大神殿へ御参拝されるようになったのも、最長老様のお勧めなのでしょう?」

「大神殿であればわずかな間でも一人になり、皇帝である己を忘れることが出来る。何より、森の中には竜がいる」

 不意にアルレスは身体を起こし、素早くアレキサンドラをその腕に抱きしめた。

「どんなに異常な出生であろうとも、このわたしも同じ血族なのだと竜に認めて欲しい、だから森に通い始めた」

「きっと認めて下さっています。あなたにも、竜の血は確かに流れているのですもの」

 わたくしと同じように、あなたも湖の竜に呼ばれているのだから。そしてその竜と同じ青い瞳を、アレキサンドラは食い入るように見詰めた。

「そうだ。その証に、竜はわたしに一輪の美しい花を与えてくれた」

「陛下」

「先程お前は、わたしの母になると申したな。だがわたしが本当に望むのは、母としてのお前ではない」

 アルレスはそう言って、アレキサンドラの顔を両手で包み込んだ。

「お前は、わたしを愛していると言った。その言葉に偽りはないか」

「……ここへ来るずっと前からあの湖は、わたくしを呼んでおりました」

 アレキサンドラは夢見るような眼差しで、囁くように答えた。

「竜神に感謝申し上げますわ。もう、あなたから離れることは出来ません。どうかわたくしを、あなただけのものにして下さいませ」

 再び唇を奪われ、アレキサンドラの身体はアルレスの腕の中で崩れ落ちた。

「愛している」

 口付けを繰り返し愛の言葉を囁きながら、アルレスは恋人の身体を抱き上げた。

「竜と女神に誓って、誰よりもお前を愛している。お前はわたしのものだ」

 森の中から出ると、二人の眼の前にあの湖が現れた。青葉の間からこぼれる陽の光を受けて、湖はより一層煌めいていた。

 おもむろにマントを外して岸辺に拡げると、アルレスはそこへアレキサンドラを下した。

「陛下」

 アルレスに手早く身に付けているものを剥がされ、アレキサンドラの身体が震え始める。

「陛下ではない」

 『美の女神』の呼び名にふさわしく、神々しいまでに輝く肌を見詰めて、アルレスは言った。

「今のわたしは皇帝ではなく、お前も女王ではない」

 代々のエルヴァレート王に受け継がれる首飾りさえ、アルレスの手で外されてしまう。

「……アルレス様」

「そうだ。わたしの名を呼べ、アレキサンドラ」

「アルレス様……アルレス様……」

 愛する者の手で生まれたままの姿にされ、首飾りも外されてアレキサンドラは今、女王でも女神でもなく、ただアルレスに愛されるがための唯一の女性となった。

「あ……!」

「甘い」

 アルレスがまろやかな胸のふくらみを口に含ませ、アレキサンドラは思わず声を上げた。

「生まれてきた子は皆このように、甘やかなものを与えられて育つという。でもわたしにはただの一度も、与えられる機会はなかった」

「……アルレス様」

「お前はわたしの母であり恋人であり、この世でただ一人のわたしが愛する女性」

 繰り返し耳元に囁かれる愛の言葉。病弱なアレキサンドラをいたわるように、この上なく優しい愛撫。そのすべてに、アレキサンドラは身も心も溶けそうになっていく。

「眼を開けて」

 涙がこぼれる眼を開ければ、あの愛情の籠った青い眼差しがアレキサンドラを見詰めている。

「愛しています、アルレス様……わたくしはあなたを、誰よりも深くお慕いしています」

「お前との出逢いがわたしの運命を変えた……お前のすべてはわたしのものだ」

 森は静寂に満ち、湖は光に溢れて、恋人達の邪魔をする何ものもない。ただ夢のような優しい時間が、愛を交わす二人の身体を包んでいた。


          12


 深い眠りから目覚めた時、アレキサンドラは未だアルレスの腕の中にいた。

 幾度も肌を重ねた時のままに、今も互いの肌を寄せ合いながら二人同じマントにくるまれている姿に、アレキサンドラは思わず頬を染めて俯いた。

「顔を上げてごらん」

 その耳元へアルレスがそっと囁いた。

 この時眼にした光景は、その後アレキサンドラが幾度思い返してみても、夢の中の出来事としか思えなかった。けれど本当に夢であったのであれば、思い返すごとに心の底から流れるように溢れ出す感情を、一体何と呼べばいいのだろう。

 愛された後の甘い疲労に身を置く恋人を腕に抱き、湖の岸辺でくつろぐアルレスの前で、その幸福な姿を見守るように、美しい白銀の竜が二人を見詰めていた。初めこそ驚きのあまり、アルレスの胸に顔を埋めたアレキサンドラだが、恐る恐るもう一度竜の顔を見上げた。

 あの青い瞳が、アレキサンドラを見守っていた。アルレスと同じ、深く優しい愛情の籠った眼差しだった。ああ、この瞳だ。ずっと前からわたくしはこの瞳に呼ばれ、こうして見守られてきたのだ。


   心傷付く者に愛の癒しを。結ばれし恋人に祝福を。


「今」

「ああ」

 間違いない。今、確かにこの耳に竜の声を聴いた。

「わたし達を祝福してくれたのだ」

 アレキサンドラが頷く。涙が溢れてくるのを抑え切れない。これまでの辛いことも哀しいことも、今この時のために課せられた試練だったのだと、この湖へ来たことは愛する方にめぐり逢い、結ばれるために与えられた運命だったのだと、改めて認識することが出来た。

 それまで身動きひとつしなかった竜が、不意にゆっくりと左の方向へ首をめぐらせ、湖の上を音もなく泳ぎ出した。そのまま大きく湖を迂回して、やがて姿が見えなくなった。

「夢を見ているようです」

「夢ではない。今も、そしてこれからも」

 アルレスがアレキサンドラの身体を横たえ、再び肌を重ねてくる。夢ではない。今このひと時、王者である己を忘れて愛し合うことは、共に心に傷を負う二人への竜からの贈り物だから。


          13


「アルレス様」

 誰かが呼んでいる。

「ああ、アルレス様」

 金色に輝く髪、紫色の瞳。愛しい恋人を迎え入れるため、アルレスは大きく腕を拡げた。

「御逢いしたかった。ずっと、ずっとあなたを御捜ししておりました」

「お前は、誰だ?」

 腕の中に飛び込んできたのはアレキサンドラではない。胸にすがって泣くその肩を掴んで、アルレスの声が強張った。

「あんまりです、わたしのことをお忘れになってしまったの?」

 涙に濡れた顔を上げて、娘は叫ぶように言った。

「わたしです、シャルロットです。やっと、あなたのおそばに帰ってきたのです」


          14


「アルレス様」

 また、誰かがアルレスを呼んでいる。

「アルレス様、どうなさいましたの」

 手の中に埋めていた顔をようやく持ち上げ、アルレスは先程から自分を覗き込んでいる、アレキサンドラの顔を見詰めた。

「アレキサンドラ……アレキサンドラか」

「はい、わたくしはここにおります」

 恋人の顔をその手に包んで確かめ、そのまま腕の中に抱きしめる。深い安堵の吐息を洩らすアルレスを、アレキサンドラは尚も不安そうに見上げた。

「本当に御顔の色が優れませんわ、お義兄様。何処かお悪い処でもあるのではございませんか」

「少しお待ち下さいませ。ただいま、御薬湯の御用意を致します」

「いや、大丈夫だ。最近、夢見が悪いだけでね」

 傍らでやはり心配そうに見守るマルグリットや最長老にも、アルレスは微笑みかけた。

「エルヴァレートの様子はどうだ、マルグリット。少しは騒ぎも収まったか」

「はい、とお答えしたい処ですけれど、残念ながらまだしばらく落ち着きそうにありませんわ。でも、御心配には及びません」

 楽天家のマルグリットの答えは、いつもはきはきとしていて何処か勇ましい。

「お義兄様とお姉様の御結婚に反対する者が多いことは、初めからわかっていたこと。でも反対に、御二人を祝福し歓迎する者も同じくらいいるのです。大丈夫、こんなことは一時的なものに過ぎないのですから」

「マルグリット」

「本当に御心配なさらなくて大丈夫よ、お姉様。お姉様はただこうして、お義兄様の腕の中にいらっしゃればいいの。それに」

 そう言って、マルグリットはその胸に輝く首飾りに手をふれた。

「わたくしにはお義兄様から授けて頂いた、この首飾りがありますもの。我がエルヴァレート王家の始祖以来、皇帝陛下直々にこの首飾りを授与された王は、このわたくしが初めてなのよ」

「わたくしよりもあなたの方がずっと、その首飾りにふさわしいわ」

「まあなんてことを仰るの、お姉様。エルヴァレートの者にとっては今でも、お姉様こそが真の女王よ。わたくしはただこれを、お姉様から一時お預かりしているだけ。いつかこの騒ぎも落ち着いて、お姉様がお義兄様と御一緒に御里帰りされた時には、重臣達も揃った処でお姉様へお返し致しますわ」

 アレキサンドラはアルレスを振り返ったが、それ以上は何も言わず俯いた。もう二度と、故郷へ帰るつもりはない。この身は生涯リステーニイに、アルレスのそばにいると決めたのだ。アルレスにもそんなアレキサンドラの心の声が届いたのか、優しい笑顔を見せてくれた。

「だがマルグリット、お前はしばらくエルヴァレートでおとなしくしていた方がいい。姉のためだと称しつまらない画策をして、アレキサンドラを困らせるようなことは決してするな」

「はい、お義兄様。よく心得ておりますわ」

「されど水晶宮においても、皇妃様のことを快く思わぬ者がいることは事実。ここは慎重に事を運ぶとして、今しばらく御二人には、この大神殿でお過ごし頂くことが最適かと存じます」

「あなたには感謝している、最長老。あなたがわたし達を支援してくれるおかげで、わたしもこうしてアレキサンドラのそばにいることが出来る」

「そのような。かつては御即位に異議を申し立てたこともございますのに、陛下はわたくしどもの無礼に少しも御怒りになることなく、水晶宮との和解の窓口となって下さったのでございますから」

「しかし今は、あの時より最悪の状態だ」

「どうぞ御心配あそばしますな。女王様の仰る通り、こんな騒ぎは一時のことでございます」

 アルレスは、そばに控えている男を振り返った。

「お前にも苦労かける、カイン」

「有難き御言葉。今後もエルヴァレートとの交渉と、皇妃様を水晶宮へ御迎えする準備を進めて参ります」

 三人が部屋を辞すと、アレキサンドラは再びアルレスの胸に顔を埋めた。

「お許し下さいませ、あなたの御負担になるようなことは望んでおりませんでしたのに」

「お前こそがわたしの慰めであり、力の源なのだ。リステーニイとて史上最高の皇妃を迎えることとなるのだから、お前が案ずる必要はない」

「わたくしは、アルレス様のことが心配なのです」

 あまり良いとも言えないその顔色を見詰めるアレキサンドラを、アルレスは力強く抱きしめた。

「案ずるな。わたしの望みはお前だけだ、お前はこうしてわたしのそばにいればいい。愛している、シャルロット」


          15


 一体、何が起きたのかわからない。

 ある日、大神殿からアレキサンドラが忽然と姿を消した。そして皇帝も突然のように水晶宮へ戻り、その後を宰相が追った。だが誰も、その理由を最長老に語ることはなかった。

「どうして……何故こんなことに……」

 書きかけて破り捨てたアレキサンドラの手紙を握りしめ、最長老の心は沈んだ。

「これが運命というものなのか……陛下といい、我が子といい、リステーニイの皇帝は呪われてでもいるのであろうか……」

 アレキサンドラが小鳥と戯れていたテラスから、遥か彼方まで拡がる『聖なる森』の光景を眺めやり、最長老は一人静かに涙を流していた。


          16


「お姉様」

 力なく横たわっている姉に、マルグリットはそっと声をかけた。

「お姉様、御気分はいかがでございましょう」

 妹の声にアレキサンドラはゆっくりと眼を開けたが、その顔は透き通るように青白い。

「……どうして」

 涙を溢れさせ、アレキサンドラはようやく聴き取れる声で訊ねた。

「どうしてあのまま、わたくしを死なせてはくれなかったの。わたくしは死んでしまいたかった、死んでしまいたかったのに」

「お姉様」

「わたくしは罪人よ。アルレス様と竜神を裏切ったのよ。その上、こんな恥知らずの身体になって……わたくしにはもう、生きる資格なんてない」

 マルグリットは慌てて、枕にうつ伏して泣くアレキサンドラの背中をさすった。その細い手首には、白い包帯が巻かれていた。

「さわらないで、マルグリット。わたくしは穢れているのよ」

「落ち着いて下さい、お姉様」

「お願いよ、死なせて。わたくしを死なせて。こんな穢れた身体のままで、生きてなんかいたくない」

「お姉様、お願い。そんな哀しいことを仰らないで」

「あなたも知っているでしょう、マルグリット。わたくしのお腹には、汚らわしい子供がいるの」

「お姉様!」

「汚らわしい、汚らわしいわ、こんな子。母親のわたくしが、誰の子なのかもわからないのよ。なのにどうして、どうして生まれて来ようとするの。誰も望んでなんかいないのに、どうして」

 アレキサンドラの嘆きは、ますます激しくなるばかりだ。マルグリットは、溜息を洩らす他なかった。

「もう少し、お寝みになって頂いた方がいいと思いますわ。後はわたくしどもが御世話致しますので、どうぞ女王様はあちらへ御移り下さいませ」

 言われるまま女官達に姉を任せ、マルグリットは寝室を後にした。

「アレキサンドラ殿の様子はいかがです」

 別室ではアドルーニア王が待っていた。

「有難うございます、陛下。陛下がいらっしゃらなかったら、姉はどうなっていたかわかりませんわ」

「本当に危うい処でしたな。気付くのがあと少し遅ければ生命はなかったと、医師も申しておりました」

「一見儚げに見えても姉は、自分の生命など簡単に捨ててしまう強さを持っています」

「だからこそ今も、あの御方を女神と崇め敬う者は数多い。これ以上、その御身を傷付ける真似は絶対におさせしてはならない」

 アドルーニア王が頷きながら答え、マルグリットも再び溜息を吐いた。

 大神殿のみならず、リステーニイからも姿を消したアレキサンドラに、唯一救いの手を差し伸べたのはアドルーニアの王だった。誠実で心優しい王には、以前からアルレスも友として心を許していた。そのアルレスが愛したアレキサンドラのことも、王はかねてから身を案じており、今度の事件でもいち早く救助に動いた。マルグリットをアドルーニアヘ呼び寄せたのも、王自身だった。

「リステーニイからも、問い合わせの連絡が来ています」

「どうぞ姉のことは、皇帝陛下には御内密に」

 蒼ざめたマルグリットが慌ててそう言うと、王は再び頷いた。

「御心配なさらずともよい、ともかく無事に御出産されるまでは、わたしが責任を持ってアレキサンドラ殿をお預かり致します」

「御言葉、感謝申し上げますわ」

 答えながらも、マルグリットは途方に暮れていた。今回のことは、マルグリットにとっても衝撃的な出来事だった。あんなにも皇帝を愛していた姉が不実を働いたとは、未だに信じられない思いがする。しかし罪が明かされたのと時を同じくして、姉のお腹に宿った子は、姉が思うよりその存在は果てしなく大きい。

「我がエルヴァレートの大切な王位継承者ですもの。姉が宿している子は、わたくしの子でもあるのです。姉と姉の子は、わたくしが護ります」

「エルヴァレート、のみではありますまい」

 王の指摘にマルグリットは思わず唇をかんだが、すぐに首を振った。

「皇帝陛下は御心の広い御方です。けれどいくら陛下でも、姉の過ちを決して御赦しにはならないでしょう」

「そうですかな」

 含みがあるような王の言葉にも、マルグリットは答えなかった。まだ正式ではないとはいえ、妃と定めた女と信頼していた男との間に起った不義を、誇り高きあの皇帝が赦すとはとても思えない。深く愛し合い信じ合っていた三人であればこそ、一度壊れてしまえばその関係は修復不可能だろう。愛が深ければ深いほど憎しみは増すというもの、いつか姉は皇帝に殺されてしまうかも知れない。

「そんなことはさせない」

 マルグリットは両手を握りしめて呟いた。

「お姉様はわたくしが護るわ。誰にも殺させたりなんてさせるものですか」


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「皇妃様は現在、アドルーニアにおられます」

 水晶宮の奥宮殿、皇帝の私室。

「秘かに問い合わせたものの、アドルーニアからは未だ何の回答もありません。しかしそれは、この情報の確かさを証明していると言えるでしょう」

 広大な都を一望出来る窓辺に佇んだまま、一向にこちらへ振り向こうともしない主に、カインは必死の思いで食い下がった。

「このままという訳には参りません。一刻も早くアドルーニアと交渉し、皇妃様を御迎えしなくては……」

「迎えて、それでどうしようと言うのだ」

 初めて、アルレスが振り向きながら答えた。だがその声は、カインが聴いたこともないほど冷たかった。

「水晶宮は未だ、アレキサンドラをわたしの皇妃と認めたわけではない。迎えに行きたければ、お前が一人で行ってくるがいい」

「陛下……!」

「隠さなくてもいい。お前がアレキサンドラに恋い焦がれていたことは、初めから知っている。遠慮せず、いつでもわたしからアレキサンドラを奪うがいい。本当はお前もそうしたいはずだ」

「陛下、わたしは……!」

「……すまない」

 アルレスの顔に、苦渋と悲哀の色が浮かんだ。

「お前を責める資格などわたしにはない。お前とアレキサンドラを追い詰めた責任はむしろ、わたしの方にある」

「あなたに何の責任があると仰るのです」

「思い知らされたんだ。わたしには、アレキサンドラを愛する資格はない」

 主の身体がかすかに震えているのを、カインは信じられない思いで見詰めた。

「わたしのようなまがい物が、死体から創られた人間(ひと)とも呼べぬ化け物が、女神にも例えられた女性を愛するとは、あまりにもおこがましい行為だと思わないか。しかもわたしには、死んだ人間の記憶がまとわり付いている。わたしは確かに、あの亡霊の女に惹かれたのだ」

「竜神が皇妃様を御呼び寄せになったのは、あなたのためではありませんか」

「だが二人とも、竜神を裏切った。もう二度と、あの湖に呼ばれることはないだろう」

 アレキサンドラに出生の秘密を打ち明けた時よりも、アルレスの動揺は大きかった。

「自分でも信じられない。けれどわたしは確かに、この腕にあの亡霊を抱きしめた。愛しているとも言った。アレキサンドラと同じ金色の髪をなびかせ、同じ紫色の瞳でわたしを見詰め、わたしを愛していると囁いてきたあの亡霊を……!」

「お気を確かに陛下! 亡霊などに惑わされてはなりません!」

「教えてくれ、カイン。わたしは本当に、アルレス=ファヴィエ=サンドリアン二世なのか。死んだ『アルレス』が本物ならば、このわたしは一体何者だ。アレキサンドラを愛していると言ったわたしがまがい物なら、死んだはずのシャルロットを愛しているわたしこそ、本物だという証になる……!」

「おやめ下さい!」

 カインの声が室内に響き渡った。

「お気を確かにお持ち下さい、陛下! あなた御自身が竜神の御恵みを信じなくては、皇妃様の御立場は一体どうなります!」

 我に返ったアルレスもカインと同様、激しく息を吐いている。

「あなたが責任を感じる必要は何処にもありません。すべての責任はこのわたしにあります」

「カイン……」

「皇妃様を竜神からの贈り物と、竜神が湖に咲かせた一輪の花と例えたのはあなたです。そしてその花が永遠に咲き続けることが出来るのは、あなたの腕の中だけなのです。誰よりもよくそれがわかっておいでなのは、あなた御自身ではありませんか!」

「カイン、わたしは」

「陛下、皇妃様を手離してはなりません。皇妃様はあなたのものです。たとえもう一度、わたしがあなたから皇妃様を奪ったとしても、皇妃様は決してわたしのものにはならない」

 カインが少しずつ、身体を後退りさせていく。

「皇妃様によって救われたあなたを、再び孤独と絶望の淵へ追い込んだのは、紛れもなくこのわたしです。わたしがすべての責任を負う、だから」

「カイン!」

 その時、思いもかけないことが起こった。カインは突然、自らの両眼を鷲掴みに抉り出したのだ。

「馬鹿な真似を! 気でも狂ったか!」

 だが急いで駆け付けたアルレスの手を、カインははねのけた。

「……この眼が……」

 血に染まる両手の中から、カインの唸るような声が聴こえる。

「……この眼が憎い……あの御方の美貌に眩んだ、この眼が……」 

「カイン……」

 激痛と闘いながら、尚もカインは主を促す。

「……早く……行って下さい……は……早く……」

「カイン、お前……」

「……皇妃様の……処へ……早く……」

 意識が遠のいていくカインの身体を支える一方、アルレスはアレキサンドラの姿を思い出していた。最後に逢った、赦しを乞うて泣いているアレキサンドラではなく、初めて肌を重ねた時の、アルレスを抱きしめて共に背負う苦しみを分かち合った時の、この世の誰よりも尊く美しかった、正しく女神そのものだったアレキサンドラの姿を。

「カイン! しっかりしろ、カイン!」

 アルレスはカインの血塗れの手を振り払い、自分の手をその両眼に押し付けた。


          18


 マルグリットは忙しい公務の合間を縫って、アドルーニアの姉のもとへ通い続けた。もちろん側近達の誰一人として、女王が何処へ行くのかは知らなかった。当然、行方知れずとなったアレキサンドラのみならず、マルグリットへの批判も次第に高まったが、いちいちそんなことを気にするようなマルグリットではない。しかし一方、アレキサンドラは病み付いたまま一度も起き上がることなく、そうこうするうちに出産の時を迎えた。

 もともと病弱な上に精神的にも弱っていたため、子はなかなか産まれなかった。一時間や二時間はあっという間に過ぎ、半日、一日経っても赤子の泣き声は聴こえず、マルグリットは苛立ちと不安の中で、待機している室内をせかせかと歩き廻った。

 まさか本当にこのまま、姉の望み通りになってしまうのではと思い始めたその時、突然耳に待望の声が響き、マルグリットは部屋を飛び出した。

「お姉様!」

 ……長く深い眠りから目覚めても、アレキサンドラの心は晴れなかった。出産は、これまで経験したことがないほど長く激しい苦しみとなったが、これでようやく死ぬことが出来る、そう思っていただけにアレキサンドラの落胆は大きかった。神々は何故、この生命を摘み取っては下さらないのだろう。生きていても仕方のない、恥ずべき生命のはずなのに。声もなく、アレキサンドラは涙を流し続けた。

 しかしふと、温かいものの気配を感じて振り返ると、その横に、生まれたばかりの赤子が寝かされていた。赤子にしては多いその髪の色に、アレキサンドラは大きく眼を瞠らせた。

「あか……ちゃん……」

 まだそんな体力もないはずなのに、不意にアレキサンドラは己の身体に鞭打つように起き上がり、急いで赤子の顔を覗き込んだ。

「わたくしの……わたくしの赤ちゃん……」

 夢を見ているような心地で、そっと赤子にふれてみた。窓から差し込む陽射しを受けて、光り輝く柔らかな髪、透き通るような白い肌と小さな薔薇色の頬。手は更に小さくて、本当にこの子が自分の産んだ子だとは、にわかには信じられなかった。けれどもかすかに感じる息遣いと甘やかな温もりは、確かにこの子が生きているという証を示していた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 どうして、あんなにもこの子を憎んだのだろう。どうして、生まれて来ないでと呪ったりしたのだろう。こんなにも愛おしい、かけがえのない小さな生命を拒むなんて、つい先程までの自分が心底憎らしかった。本当に、本当にごめんなさい。そして、有難う。こんな愚かな母親でも、あなたはこうして生まれて来てくれた。

「お姉様のしたことは、確かに罪ですわ」

 いつの間にか、妹のマルグリットがそばに来ていた。

「でもだからと言ってその罪が、この子にまで及ぶということはないはずでしょう。生まれて来る子はすべて、神々の御加護を受けています。その証にこの子は、『神々の申し子』と呼ぶしかない姿で生まれて来たではありませんか」

 その言葉に、アレキサンドラは泣きながら何度も頷いた。不思議だ、抱いているのはアレキサンドラ自身なのに、まるでこの子の方がアレキサンドラを抱きしめているような心地がする。そう、アルレスを抱きしめたあの時のように。

「名前を考えてあげなくてはいけませんね」

 マルグリットはすっかりはしゃいでいる。

「どんな名前がいいでしょう。我がエルヴァレートの大切な王位継承者ですもの、ふさわしい名前を付けてあげなくては」

 王位継承者。そう、この子には生まれながらに課せられた使命がある。けれども今はそんなこと、どうでも良かった。この世に生まれて来てくれた、ただそれだけでこの子はこんなにも、かけがえのない幸福を母親に与えてくれたのだから。


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「今すぐアレキサンドラに逢わせてくれ!」

 テーブルを叩き付け、アルレスが叫んだ。

「少しは落ち着かれよ、皇帝陛下。あなたらしくもない」

「君がアレキサンドラを匿っていることも、妹のマルグリットが頻繁にここを訪れていることも、すべて知っている。何も二人を殺そうという訳ではない、頼むから話だけでもさせてくれ」

「一年近くもアレキサンドラ殿に逢おうとしなかったあなたが、今更どういう心境の変化です」

 アドルーニア王の言葉は手厳しい。

「水晶宮も大神殿も未だ沈黙し、エルヴァレートでさえ、アレキサンドラ殿のことは放り出したままだ。孤立無援の状態に置かれて、あのか弱い御方がどれほど苦しまれたか、それも御承知でのことか」

「確かにわたしはアレキサンドラに逢わなかった。いや、逢えなかった。アレキサンドラをあそこまで追い詰めたのはわたしだ。己の弱さを理由に、今更逢う資格はないと思っていた」

「あなたともあろう御方が、死んだ女の呪縛から逃れる自信がなかったと仰るのですか」

 王もまた、アルレス出生の秘密を知る数少ない人間の一人である。

「と言うより、死んだ『アルレス』の記憶に囚われていた。だが、わたしという人間はわたし一人しかいない」

 アルレスの青い瞳が切なく光る。

「失って、初めて思い知らされた。わたし自身がどれほどアレキサンドラを愛し、アレキサンドラがいなくては、もはや一日も生きてはいけないことを。わたしの皇妃はこの世でただ一人、アレキサンドラだけだ。たとえ竜がそれを赦してくれなくても、女神が我々に天罰を下そうとも、わたしは二度とアレキサンドラを手離すことは出来ない」

「キアス宰相は? あなた方三人が共に水晶宮で暮らせるとでも?」

「わたしからアレキサンドラを本当に奪える者は、カインではない。護るべき時に護ってやれなかった、このわたし自身だ。だがたとえ友人でも、アレキサンドラに逢うことをこれ以上拒むのなら、わたしはこの場で君を殺す」

 王はしばらく黙って、友人の異様に光る青い瞳を見詰めていた。

「真実の恋をした者は、盲目になるというのは本当らしい。だからこそあなたも、血の流れる人間であるという証になるのだろう」

 不意に王が笑顔を見せて、アルレスは戸惑った。

「逢わせて差し上げたいのはやまやまだが、残念ながらわたしにはもうそれが出来ない。おわかりにならないか、アレキサンドラ殿はもはや、アドルーニアにはいらっしゃらないのですよ」

「何故だ、何かあったのか」

「ともかく座って落ち着かれよ。そういきり立ってばかりおられたら、話をすることも出来ない」

「焦らさないでくれ、アレキサンドラがどうかしたのか」

「アレキサンドラ殿は現在、御一人の御身ではないのです」

 この言葉に、アルレスは忽ち激昂した。

「一体誰だ、それは! わたし以外の者が、アレキサンドラのそばにいると言うのか! わたしからアレキサンドラを奪おうとする者は、誰であろうとこの手で殺してやる!」

「それがあなたの御子であっても?」

 突然、アルレスが言葉を失った。茫然として、友人の顔を見詰めた。

「保護した時、アレキサンドラ殿はすでに身籠っておいでだった。しかし御自分の犯した過ちに苦しみ、危うく生命を絶とうとした。わたしは秘かにマルグリット殿を呼び寄せ、二人でアレキサンドラ殿の御身をお護りし、御出産に臨んだ。生命を危ぶむほどのひどい難産ではあったが、アレキサンドラ殿は無事、姫君を御産みになった」

「……姫……」

 呟くようにそう言い、アルレスは震える唇を手で覆い隠した。

「流石は『美の女神』の御子だけあって、実にお美しい、『神々の申し子』の名にふさわしい姫君であられる。立ち会った医師団は皆、未だにその感動の渦から抜け出せないほどだ。あなたは先程、竜神と女神が御赦しにならなくともと仰ったが、もし本当に神々があなた方を祝福していないのであれば、あのような貴き姫君が御生まれになるはずがない」

「『神々の申し子』……?」

「確かめられよ、あなた御自身で」

 王が優しく微笑む。

「アレキサンドラ殿と姫君は現在、リステーニイの大神殿におられる」

 再びアルレスが驚いた。まさかそんな近くにいたとは。

「わたしとしては、いつまでもここにいらして頂きたかったのだが、あいにくアドルーニアは雪と氷に閉ざされた星、アレキサンドラ殿の御身体にも、生まれたばかりの姫君にも、長い御滞在は好ましいものではない。そこで最長老殿へ秘かに連絡を取り、御二人の庇護をお願いしたのですよ。『神々の申し子』であられる貴き姫君とその御生母の御療養先として、大神殿こそ最もふさわしいと」

 その言葉を、アルレスは最後まで聴いていなかった。まるで風のような勢いで、アドルーニアの王城を後にした。


          20


「お姉様、お食事よ」

 マルグリットが自らお盆を運んで来たので、アレキサンドラは驚いて顔を上げた。

「まあ、マルグリット。あなたが作ったの?」

「ええ、巫女達に教わりながらね。どう、なかなかおいしそうに出来たでしょう」

「いくら人が少ないからと言って、何もあなたがそこまでしなくても」

「だってわたくしもお姉様とこの子のために、何かしてあげたくて仕方ないのですもの。ああ、今でもまだ信じられないわ。お姉様は本当に女神でいらしたのね」

 するとアレキサンドラははにかむように微笑んで、こう答えた。

「いい加減買いかぶるのはやめて、わたくしはただの人間よ」

「ただの人間が、貴き『神々の申し子』の母になれるはずがないでしょう。ああ、ごめんなさい。眠っている赤ちゃんのそばで騒いではいけないわね」

「大丈夫よ、よく眠っているわ」

 アレキサンドラは、揺り籠の中を覗き込みながら答えた。出産のためにやつれはしても、我が子の寝顔を見詰めるアレキサンドラの横顔は、以前より更に輝いていた。

「冷めないうちに早く召し上がってね、お姉様。お姉様の御身体のために、巫女達が薬草を集めてきてくれたのよ」

「有難う、喜んで頂くわ」

「この薬草のスープは、産後の回復にとてもいいのですって。それからこちらの薬草は、お乳を沢山出す効果があるのだとか。どの巫女も料理上手な上に、そんな知識まであるから助かるわ」

「祈りや力の修練ばかりでなく、そういったことも巫女としての大切な役目なのだそうよ」

「それにしても驚いたわね。まさか大神殿本殿の最奥に、こんな素敵な隠れ家があっただなんて」

「ええ」

 妹の言葉に頷きながら、アレキサンドラは木立の間から覗く青空を見上げた。巫女達が館の広いテラスに揺り籠を出して、アレキサンドラと赤子が午後の陽射しを浴びられるよう、設えてくれたのである。

「確かにここは静かでお姉様の御療養にもなるし、赤ちゃんを育てるのにもいい環境だわ。最長老様に先を越された時は悔しかったけれど」

「でもマルグリット、あなたはそろそろエルヴァレートへ戻った方が」

「まあお姉様、わたくしがお姉様とこの子を残して帰れるとでも? お姉様の御身体がもう少し良くなられるまでは、わたくしは決しておそばを離れませんわ」

 そう言っていつも、エルヴァレートへの帰還を延ばし続けている。アレキサンドラは苦笑する他ない。

 アドルーニア王からの連絡を受け、最長老が極秘でアレキサンドラを迎えに来たのは、ちょうど十日前のことである。謝罪の言葉を述べようとしたアレキサンドラに、最長老はただ首を振り、その腕に抱かれた赤子の姿に涙を流した。しかし、エルヴァレートへの帰還を提案したマルグリットに対して、最長老はいつになく強硬な態度に出た。

「どうぞここは、わたくしどもにお任せ頂きとうございます。女神様の生まれ変わりである姫君様と御生母様をお護り致しますのは、我が大神殿の当然の役目と心得ます」

「でも最長老様、この子は我がエルヴァレートの大切な王位継承者です。それにお姉様がリステーニイへお戻りになることを、皇帝陛下が御許し下さるはずがないでしょう」

「御安心を。御二人が心安らかにお過ごし頂くのに、最も適した場所がございます故」

 力強くそう言って躊躇うアレキサンドラを説き伏せ、尚も渋るマルグリットをも伴い、最長老は自らこの館へ案内したのである。

「ここを知るのはわたくしを含め、大神殿でもごく一部の者に限られています。お館は『聖なる森』の御力で護られ、たとえ皇帝陛下でも近付くことはおろか、お館の存在そのものに気付かれることは決してございません」

 その言葉通り館は森の清浄な空気に包まれ、アレキサンドラの心にもひと時の安らぎを与えてくれた。確かにここならばいかにアルレスとて、森の力に阻まれ母娘を捜し出すことは容易ではなかろう。

「でもやっぱり、我がエルヴァレートの大切な王位継承者を、いつまでもここへ置いておくなんて出来ないわ」

 マルグリットは尚も言い張った。

「ねえお姉様、わたくし達が幼い頃お母様によく連れて行って頂いた、ユアンの離宮を覚えていて? 実は今、あそこの手入れをさせているの。あの離宮も静かでここと似ているし、わたくしの許しがない限り誰も近付くことは出来ないわ。近いうち、お姉様とこの子をあの離宮へお連れするつもりよ」

 ちょうどそこへ、巫女が最長老の来訪を告げに来た。

「大丈夫よ、最長老様はわたくしが必ず説得してみせるわ。お姉様、冷めないうちに早く召し上がってね」

 そう言いながら、いそいそと館の中へ戻るマルグリットを見送ると、アレキサンドラは眠っている赤子をそっと抱き上げ、テラスから満開の花が咲き誇る庭へ降りた。

「我がエルヴァレートの王位継承者」

 殆ど口癖のようにもなった、マルグリットの言葉。確かに、アレキサンドラはエルヴァレートの女王だったのだし、子を産めないマルグリットにとって、この子は待望の王位継承者だ。でも本当に、これでいいのだろうか。

 マルグリットはもちろん最長老も、ここでは誰一人、アレキサンドラを責めるような言葉を口にする者はいない。それどころか常にその身を案じ、こまめに世話を焼いてくれる。この子を『女神の生まれ変わり』あるいは『神々の申し子』と信じ、女王でも皇妃でもなくなったアレキサンドラを、鄭重に御生母様と呼ぶ。それはやはり、アレキサンドラがこの子を産んだから。アレキサンドラがこの子の母だから。

 わかっている、皆の望みはこの子だ。この子はすべての人々の希望、正しく『神々からの贈り物』なのだ。生まれた時はその感動の渦にあって考えることもなかったが、この子には生まれながらに大きな運命が課せられている。どんなにアレキサンドラが母親として、我が子の平凡な幸福を望んでいても、運命は容易にそれを赦してはくれまい。

「アルレス様」

 不安に襲われる度、どうしてもその名を口にしてしまう。

「アルレス様」

 もう二度と逢うことは出来ないとわかっているのに、逢いたいと思う恋しさばかりが募る。

 罪を犯したのに。最も残酷な方法で孤独と絶望の底にいるアルレスを、これ以上ないほど傷付けてしまったのに。それなのに心はどうしてこんなにも、アルレスに逢いたいと願ってしまうのだろう。

 赤子の頬に涙を落とし、アレキサンドラははっと我に返った。

「ごめんなさい、母さまは泣き虫ね」

 安らいで眠っている我が子の顔を見詰め、囁くように言った。

「大丈夫よ、わたくしにはあなたがいるもの。あなたのために母さまは強くなるわ。強くなって、あなたを護らなくては」

「美しい」

 しかし突然、眼の前に現れたその人の姿に、アレキサンドラの顔は忽ち真っ青になった。

「子を得て、ますますお前は輝かしくなる。流石は『美の女神』だ」

 確かに逢いたいと思っていた。出来ることならもう一度、その温かい腕の中に帰りたいと。だが。

「逃げて、お姉様!」

 アレキサンドラが花畑の中を走り出し、それを追うようにマルグリットの、悲鳴にも似た声が飛んだ。

「アレキサンドラ!」

「お待ち下さい、皇帝陛下!」

 マルグリットも飛ぶような勢いで、アルレスの行く手を遮った。

「どうして、陛下がここへ。まさか最長老様、あなたが陛下をお連れしたのですか」

 振り返ると、最長老が蒼ざめた顔のままテラスに佇んでいる。言葉も出ないという様子で、震えながら首を振った。

「今し方、アドルーニアから戻ってきた処だ。それに忘れたか、リステーニイ内であればアレキサンドラが何処にいようと、わたしにわからぬことはない」

「お願い致します、どうかお姉様のことはお忘れ下さい!」

 しがみ付くように、マルグリットは必死で叫んだ。

「罪はお姉様ではなく、わたくしにあります。わたくしはお姉様に立派な王位継承者を産んで頂くため、皇帝陛下に近付きました。『美の女神』と呼ばれるお姉様の御相手に、陛下ほどふさわしい御方は考えられなかったのですもの。お姉様の犯した罪はわたくしの罪です。殺すのならどうぞお姉様ではなく、わたくしを殺して下さい」

「いいからどけ、お前に用はない」

「いいえ、どきませんわ。お姉様とサファイアは、わたくしがエルヴァレートへ連れて帰ります」

「サファイア?」

「お姉様の御子の名前です。わたくしが名付けましたの」

 マルグリットが微笑んだ。

「お姉様は本物の女神ですわ、『神々の申し子』を御産みになったのです。『美の女神』が産んだ子にふさわしい名前をと、その昔、エルヴァレートから大神殿に入った王女の名前から名付けましたの。サファイア=ローズ、お姉様も美しい名前だと喜んで下さって」

「わたしの承諾もなしに、勝手にそんなことをしては困る」

「お願いです、二人を殺さないで」

「これ以上わたしの邪魔をするのなら、本気でお前を殺してやる!」

「きゃあ!」

 アルレスがマルグリットの身体を突き飛ばし、地面に叩き付けられると思った瞬間、危うい処でその身体を抱き止めた者がいた。

「御無事ですか」

「カイン……!?」

 マルグリットは、カインの眼に思わず息を呑んだ。

「御安心下さい、これで本当に御二人は幸福になれるのです」

 カインの無残な顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 アレキサンドラは息せき切って走ったが、か弱き女の身で、能力者であるアルレスから逃れるはずもない。どちらへ向かってもすぐに、眼の前にアルレスが現れる。

「その子を見せてくれ」

 興奮のためか、アルレスの息も切れている。

「子供の顔が見たい。頼む、その子をわたしに見せてくれ」

「この子は、わたくしが育てます」

 赤子を抱きしめたアレキサンドラの身体は、小刻みに震えていた。

「あなたに御迷惑はおかけ致しません。この子はわたくしの子です、どなたにも渡しはしません」

「アレキサンドラ」

「わたくしの子です、わたくしの」

 アルレスが抱きかかえても、アレキサンドラは涙を溢れさせて激しく拒んだ。恋人から逃げるというよりも、我が子を何者からも護り抜こうという、母親の本能に囚われていた。けれども、そのために赤子を抱く腕に力を入れ過ぎたのだろう、不意に赤子が声を上げて泣き出した。

「嫌、返して」

 その隙を突き、無理矢理アルレスがアレキサンドラから赤子を奪った。それを取り戻そうとする恋人を左腕に、右腕に赤子を抱きしめ、急いでその子の顔を覗き込んだアルレスに、大きな衝撃が走った。

 赤子の髪は、あの湖と同じ色をしていた。竜神の前でアレキサンドラと永遠の愛を誓った、煌めくように美しい湖の色だ。更にはぐずるのをやめてぱっと開いたその瞳も、竜神と同じ色をしていた。

 初めて眼にするアルレスの顔に臆することもなく、サファイアは無邪気に笑いかけてきた。赤子だけが持つ穢れなきその笑顔を、アルレスは言葉もなく見詰めていた。

「……アレキサンドラ」

 突然その頬に涙が落ちて、驚いたアレキサンドラは暴れるのをやめた。

「有難う、この子を産んでくれて」

 信じられない思いで、アルレスの涙を見詰めていたアレキサンドラの頬にも、再び涙が流れた。

「御赦し下さい」

 胸にしがみ付き、声を上げて泣き出したアレキサンドラを、アルレスもまた力強く抱きしめる。

「御赦し下さい。御赦し下さい、アルレス様」

 花畑の中、アルレスの腕の中で泣き続ける姉とその子の姿を、カインと共に見詰めるマルグリットもまた、嬉し涙を流した。そばでは最長老が静かな表情を浮かべ、やはり花畑の中の親子の姿を見守っていた。



          21


「御赦し下さい」

 その夜、アルレスと久し振りに肌を重ねたアレキサンドラは、尚も赦しを乞うて泣いていた。

「御赦し下さい、赦して」

 アルレスの瞳は異様な光を帯び、アレキサンドラの肌を激しく貪っていた。そこには以前のような、病弱なアレキサンドラをいたわる優しさは微塵もなかった。それどころか、アレキサンドラの両腕は頭の上に、まるで両手首を何かで縛り付けられたかの如く、先程からの嬲るような愛撫に必死で耐えていた。

 だがいくら声を上げて泣いても、アルレスは容赦してくれない。何度も悲痛な声で赦しを乞うても、ますます激しさが増していく。当然だ、アレキサンドラは罪を犯したのだから。いくら乞うても、決して赦してはもらえない大きな罪を犯してしまったのだから、報いを受けるのは当然である。

「アルレス様」

「そうだ、呼べ」

 耳元まで貪りながら、アルレスが囁くように言った。

「そうしてわたしの名を呼び続けるがいい。お前はわたしのものだ」

 わたしのもの。そう、わたくしはこの方の囚われ人なのだ。皇帝に囚われるために運命付けられた者、決して逃げることは出来ない。こうして縛められ、嬲られ続けることがわたくしに課せられた罰。愛という名の檻。


          22


 目覚めた時、見えない縛めはすでに解かれていた。昨夜、剥ぎ取られたはずの夜着を身にまとい、身体の何処にも痛みは残っていない。むしろ軽ささえ感じて、それがアルレスに抱かれたためだと気付いたアレキサンドラは頬を染めた。そこへ不意に、赤子のはしゃぐ声が聴こえてきたので、急いで部屋着を羽織りテラスへ出た。

「嬉しいかい、サファイア。そら、もう一度」

 眼にしたその光景に、アレキサンドラの足が止まった。朝の陽射しが降り注ぐ花畑の中、アルレスが繰り返し赤子を頭上高く抱き上げ、その度にサファイアも大きな歓声を上げている。

「ああほら、お寝坊な母さまがようやくお目覚めだよ」

 そう言いながらアルレスが近付くと、アレキサンドラの頬には涙が光っていた。

「どうした、気分でも悪いのか」

「いいえ」

 嬉しくて。わたくしが産んだこの子を、あなたがこんなにも愛しんで下さるのが嬉しくて。

「サファイアはわたしの娘だ、当然だろう」

「はい」

 こぼれ落ちる涙を拭き、アレキサンドラが頷いた。

「お前の母さまは泣き虫で困ったね。昨日からずっと泣きっぱなしだ」

 からかうようにアルレスが言うと、今度はサファイアがぐずり始めた。

「どうしたのだ、あんなに御機嫌だったのに」

「こちらへお貸し下さいませ、お腹が空いたのですわ」

 アルレスのいささか慌てた様子に微笑みながら、アレキサンドラは手を差し伸べた。しかし赤子を受け取って夜着の胸元を緩めた時、そこに昨夜のアルレスに弄ばれた痕跡に気付いて、急いでそれを隠そうとした。

「マルグリットも心配していたが」

 けれどもその声に、豹変したアルレスの面影はない。

「大丈夫なのか。乳母も雇わず自分で乳を与えるとは、身体に差し障るのではないか」

「い、いえ」

 はやる胸の鼓動の音が、アルレスに聴こえはしないかと危ぶみながら、辛うじて答えた。

「わたくしが産んだ子ですもの。他人に任せるなんて考えられませんわ」

「そこは風が当たる、こちらへ」

 アルレスはテラスの手すりに腰を下ろすと、躊躇するアレキサンドラに構わず、サファイアごとその身を自分の膝に引き寄せた。更にはアレキサンドラの肩越しに、顔を覗き込みさえした。

「あ、あの」

「動くな。サファイアの顔を見ていたいだけだ」

 声は変わらず穏やかだったが、胸元へ食い入るような視線を感じて、アレキサンドラの動揺はますます大きくなる。

「こうしているとわたしも、サファイアに乳をあげているように思えてくる」

 そこで初めて、アレキサンドラは夫の顔を見上げた。声と同様その表情はあくまで穏やかで、父親としての愛情に溢れていた。

「サファイアの様子はどうだ、乳はよく飲むか」

「は……い」

 思わず涙が溢れそうになるのを、ようやく抑えながら答える。

「手のかからない子ですわ。よく飲むしよく眠ってくれますし、夜泣きも殆ど致しませんの」

「サファイアは本当にいい子だね。母さまの御身体が弱いこと、ちゃんとわかっているんだね」

 アルレスは微笑み、無心に乳を飲み続けているサファイアの青く輝く髪を撫でた。

「生命を危ぶまれるほどの、ひどい難産だったと聴いている。お前が一番苦しい時に、そばにいてやれなくてすまなかった」

「そんな」

 だがねぎらいの言葉をかけるその一方で、こんな言葉も平然と言ってのけた。

「内緒だよ、サファイア。母さまのお乳を味わうことが出来るのは、お前とわたしだけなんだからね。誰にも言ってはいけないよ」

 アレキサンドラは、もう顔を上げることも出来ない。

「皇帝陛下、御呼びでしょうか」

 その声に、アルレスがようやく顔を上げて振り向いた。

「最長老から皇妃と皇女の静養のため、この館を離宮として提供したいとの申し出があった」

「はい、わたしも先程そのお話を伺いました」

 どうして。どうしてこの人がここにいるの。

「二人を水晶宮へ渡す気は、毛頭ないということだな。だがわたしも、二人を世間の眼に晒すような真似はしたくない」

 サファイアの髪を撫でていたアルレスの長い指が、アレキサンドラの震える肌へと移って行く。

「アレキサンドラは初めての出産から日も浅く、長期の療養が必要な身体だ。何よりサファイアは」

 昨夜も、この人はここにいたのだろうか。まさか、アルレスとの房事の声を聴かれたのでは。

「わたしの皇妃が『神々の申し子』を産んだと知った時、その衝撃はリステーニイのみならず宇宙へも拡がる。単純に喜ぶ者もいれば、この子を狙って悪事を企む者も少なからずいるだろう」

 アルレス様は未だ、わたくしのことを本当に御赦しになった訳ではない。この人を隣室で待機させ、見せしめにするようなこともやりかねない。

「幸いここは神々や森の力に護られ、申し子が育つのにふさわしい処だ。この子が己の立場を認識出来るようになるまでは、ここで静かに暮らすのが妥当だろう」

「わたしもそれが最適と心得ます」

「だがここは、大神殿でも限られた者しか入れないだけあって、何かと人手不足だ。離宮と決めた以上、二人を巫女達に任せてもおけない。水晶宮から信用の置ける女官を何人か寄越してくれ、人選はお前に任せる」

「承知致しました」

 カインが頭を下げ、ようやく踵を返し立ち去って行った。

「案じるな、お前とサファイアのことはわたしが護る。誰にもふれさせはしない」

 アレキサンドラの首筋に顔を埋めて、アルレスが囁く。それでも、アレキサンドラの身体の震えはなかなか治まらなかった。サファイアの方はいつの間にか乳も飲み終え、両親の腕の中で安らかに眠っていた。


          23


「お帰りなさいませ、アルレス様」

「今日は顔色がいいな、アレキサンドラ。さあサファイア、父さまの処へおいで」

 母と共に花畑で父を迎えたサファイアは、その腕に抱かれると歓声を上げた。

「子供の成長は本当に早いな。少し離れているだけで、もうこんなに大きくなっている」

「少しと言いましても、三日だけですわ」

 アレキサンドラが思わず笑うと、アルレスは少し苛立つように答えた。

「その三日の間、わたしはこの子の成長を見守ることはおろか、そばにいることさえ出来なかったのだ。それとももう言葉を発したのか、歩くことは出来たのか」

「やっと、はいはいが出来るようになったばかりではありませんの」

 それでもまだ心配は拭い切れぬとでも言うように、アルレスはアレキサンドラも抱き寄せた。

「やはり、皇帝の座というのは忌々しいものだ。お前達のそばにいたくても、思うように出来ないのだから」

 だがそんなアルレスに向けて、非難がましい言葉を浴びせる者がいる。

「お義兄様はひどい御方だわ。結局お姉様もサファイアも、御自分だけのものにしてしまうのですもの」

「何だ、マルグリット。まだいたのか」

 アルレスが顔を上げると、マルグリットが不服そうな顔で親子を見詰めている。

「女王のお前が、いつまでもエルヴァレートを留守にしていては、示しがつかないと言ったはずだ」

「それならお義兄様も、いくら皇帝陛下の大神殿参拝が慣例となっているとはいえ、こうも頻回に御出ましになっていては、水晶宮の者達が怪しむようになるのも当然ではありませんの。お姉様が水晶宮で『幻の皇妃』と呼ばれていることは、わたくしの耳にも届いておりましてよ」

「わたしよりもお前がここにいることが、周囲の疑惑を招く」

「あんまりですわ。お姉様とサファイアをここまで護ってきたのは、お義兄様ではなくこのわたくしですのよ。それなのに最長老様には横取りされ、お義兄様には独り占めされて」

「何を言う。アレキサンドラをわたしの皇妃に望んだのは自分だと、告白したことを忘れたか」

「ですけれどこれでは、わたくしだけが疎外されたままではありませんの」

 マルグリットの興奮はなかなか治まらない。

「悔しいわ、本当に悔しいわ。でも、これだけはお忘れにならないで下さいませね。サファイアはリステーニイのみならず、我がエルヴァレートの大切な王位継承者でもあります。ともかくわたくしはサファイアの王位継承を実現させるまで、絶対に諦めは致しませんわ」

「仕方のない奴だ」

 苦笑を浮かべてアルレスが振り返ると、そばにいたカインが館へ戻るマルグリットの後を追った。

「心配するな。今のお前は身体の養生に努めることと、サファイアのことだけを考えていればいい」

 アレキサンドラはアルレスの腕の中で、かすかに身体を震わせながら二人の会話を聴いていた。アルレス、最長老、そして妹のマルグリット。アレキサンドラとサファイアの二人をめぐって、人々の思惑が交錯する。

「叔母さまの御機嫌はすぐに直るからね。サファイアは何も心配することはないんだよ」

 大人達の様子を不思議そうに見詰めていたサファイアも、父にあやされると再び歓声を上げた。

「風が出て参りました。お茶の用意を整えてございます、どうぞ御居間の方へ御移り下さいませ」

 館の方から女官が声をかける。

 カインの手配は早かった。最長老の許可も得てすぐ、選ばれた女官達はそれぞれ参拝を装い、秘かに大神殿へ集合した。その最奥で初めて皇帝の秘宝とも呼ぶべき母娘に接した、女官達の驚きと衝撃はもちろん大変なものだったが、同時に与えられた自信と誇りもまた大きかった。離宮としての体裁もすぐに整えられ、中には子供を育てた経験のある者や医術に詳しい者もいて、アレキサンドラの良い手助けとなってくれた。

「御二人がくつろいでおられる間に、皇女様の御召替えをさせて頂いてもよろしいでしょうか」

 居間へ入って間もなくサファイアが顔をしかめ、二人の女官がそう申し出ると、アルレスが不服そうな表情を浮かべた。

「わたしがすると言えばまた反対するのだろう」

「当然でございます。仮にもリステーニイの皇帝であられる御方に、そのようなことをおさせする訳には参りません」

 女官がくすくす笑う。御召替えとはおむつ替えのことである。

「本当に、皇帝陛下がこんなにも子煩悩な御方でいらしたなんて、水晶宮の者達が知れば何と申すことでございましょう」

 先日も、女官と皇帝の間で小さな諍いが起きたばかりだ。サファイアの入浴を皇帝自らやると言い出し、女官達が悲鳴を上げたのである。

「どうかそれだけは御許し下さいませ、皇帝陛下。いくら父君様とはいえ、このようなことまで陛下におさせ申し上げては、わたくしどもの立場がございません。陛下が皇女様をどんなに愛しんでおられるかは、わたくしどもも重々承知致しております。されど皇女様の御世話をすべて取り上げられては、わたくしどもがここに御仕えする意味がなくなってしまいます」

「このまま時が止まってしまえばいい。ここへ来る度、そう願わないではいられなくなる」

 サファイアを渡しながら、呟くようにアルレスが言った。アルレスは館に滞在中、一時も二人をそばから離したがらない。もちろんアレキサンドラにとっても、三人で過ごす時間は何よりも大切なものだ。ここでは、アルレスはサファイアの優しい父親であり、アレキサンドラの愛する夫、そしてサファイアはかけがえのない二人の娘であって、それ以外のことは何も関係なかった。

「それは、何という歌ですの」

 満ち足りた表情でアルレスが何かを口ずさみ始めたので、アレキサンドラがそっと訊ねた。

「この頃は、よくその歌をうたっておいでです」

「大神殿に伝わる古歌のひとつだ。わたしが一番好きな歌なのだよ」

「綺麗なメロディ。泣きたくなるほど切なくて、でもとても優しくて」

「この歌をうたっていると、自然に心が安らぐ」

「わかります。サファイアも、アルレス様の歌を聴くのが大好きですわ」

 けれど、夜を迎えサファイアを寝かし付ければ、アレキサンドラの贖罪の時間が始まる。アルレスの囚われ人として縛められ、嬲られる夜が。

「アルレス様、御赦し下さい」

 サファイアをあやしている時は、慈愛に満ちた優しい父親の顔をしていたアルレスが、アレキサンドラと二人きりになると豹変してしまう。犯した罪はそれだけ重いのだと、夜ごと思い知らされる。

「アルレス様」

 今宵もカインは、この声を聴いているのだろうか。


          24


「カインが毎年、サファイアの誕生日に、お姉様達の肖像画を届けると約束してくれましたの」

 昨日とはうって変わった御機嫌な様子で、マルグリットが報告してきた。

「お姉様とサファイアを残して、たった一人でエルヴァレートへ帰るなんて本当に辛いわ。でもカインの言う通り、子供はお父様とお母様のおそばで育つのが一番ですものね」

 それからマルグリットは、少し躊躇った様子を見せた後で、俯いている姉にこう囁いた。

「ねえお姉様、カインと話してみてはどうかしら。カインは本当に誠実な人よ。一度でいいから二人で話し合った方が、お互いいつまでもわだかまりを持たなくてすむと思うの」

 驚いたアレキサンドラは妹の顔を見上げたが、それに答えることはなかった。

 アルレスがこの館を訪れる時、必ずそのそばにはカインの姿がある。それは、アレキサンドラがリステーニイへ来る以前からのことであり、どんな時でも皇帝には忠実な若き宰相が付き従う。しかしアレキサンドラは未だに、カインの顔を見ることが出来ない。

 一方、サファイアは両親の大きな愛情を一身に受け、すくすくと育っていった。ここではアルレスとアレキサンドラ、そしてカインとの間に起きたことを、口にするような者は一人もいない。ましてやサファイアの本当の父親が誰かなど、疑う者は皆無と言っていいだろう。何しろ水晶宮では厳格で知られる皇帝が、この館へ来ると穏やかで優しい父親に変貌し、女官との間に微笑ましい諍いを起こすほどの溺愛振りを示す。

「ととしゃま」

 初めて、サファイアの小さな口からその言葉がこぼれた時、アルレスの顔に浮かんだそれは、人々に感動以上のものを与えた。サファイアが水晶宮へ戻る父親を引き留めようと、初めて立ち上がった時も、おぼつかない足取りで父親を追い駆けようとした時も、アルレスの眼にはいつも光るものがあった。そんな姿をいつも見せられていては、この親子の心の奥に秘められた影を窺うことなど、不可能と言っていいだろう。

 まだ幼い王子を連れ、お忍びで見舞いに来たアドルーニア王も、溜息混りにこう言った。

「やれやれ、先が思いやられる。あのように姫君を、眼に入れても痛くないほど溺愛しておられては、いずれ姫君が御年頃を迎え、母君のような美貌の持ち主となればどうなることか。姫君へ求婚しようという勇気ある者は、本気で皇帝陛下に殺される覚悟をしておくことだ」

「危ない、サファイア」

 花畑の中をとことこ走るサファイアを、離れた処にいるアルレスが引き寄せ、それをアレキサンドラが咎める。

「いけません、アルレス様。あまり甘やかしては、サファイアのためによくありませんわ」

「そんなことを言って、サファイアが怪我でもしたらどうする」

「でも、転んだら痛いということも覚えさせなくては」

 本当にここでは、いつも笑い声が絶えることがない。幼いサファイアを中心に、穏やかで優しい時間が過ぎて行く。あまりにも幸福過ぎて夢を見ているようで、アレキサンドラは時折、その夢が消えてしまう恐怖に襲われる。

「今日は折り入って、皇帝陛下と皇妃様にお願いの儀があって参りました」

 ある日の昼下がり、万が一にも皇室の存在を気取られぬことのないよう、それと同様一家団欒の邪魔にもならぬようにと、館への訪問を控えていた最長老が久し振りに姿を見せた。

「畏れながら第一皇女サファイア=ローズ=サンドリアン様の、大神殿斎宮就任を御認め下さいますよう、皇女様の御両親であられる御二方にお願い申し上げる次第でございます」

 母の膝に抱かれたサファイアはきょとんとしていたが、母であるアレキサンドラの方は娘を抱く腕に思わず力が入り、細い肩を震わせた。しかし、その肩を抱いているアルレスは少しも動ずる気配なく、ただ黙って鄭重に頭を下げる最長老の姿を見詰めていた。

「あなたのことだから、もっと早く申し出てくるのではと思っていた」

 アルレスがようやく口を開き、最長老も顔を上げた。

「今更言うまでもないが、この子はリステーニイの皇位継承者であり、同時にエルヴァレートの王位継承者でもある。今はあなたの御厚意で母親ともどもこの館で暮らしているが、いずれは水晶宮へ入り、皇女の務めを果たさなければならない。特にこの子の叔母のマルグリットは、一刻も早い譲位を望んでいる」

「そのことはわたくしどもも、重々承知致しております。幼い皇女様に、大きな負担を背負わせてしまうことも」

 最長老の声は穏やかだ。

「けれども畏れながら、リステーニイの皇帝であられる陛下と、エルヴァレートの女王でいらした皇妃様との間に、皇女様のような御子が御生まれになったことは、正しく神々の思し召しとしか考えられません。女神リスタニア様の化身と申すべき御方が、大神殿の最高位に就くことは当然と存じます」

「アレキサンドラは、もう子を望むことは出来ない」

 その言葉に、アレキサンドラの身体の震えが大きくなった。

「この子を産む時も、危うく生命を落としかけた。たとえあなたの望みが叶えられたとしても、この子の代わりに皇位を継ぐ者はいない」

「されど皇女様のことはすでに、巫女や参拝者の間で公然の秘密となっております」

 最長老は尚も食い下がる。

「皇女様が御生まれになった頃、巫女見習いの娘がわたくしに直訴したことがございました。病んでいる祖母のため、どうしても斎宮様に御逢いさせて欲しいと申して」

「確かにそれは、わたしの責任だ。だが二人から離れる度、この身を引き裂かれるような思いをしていることは理解して欲しい」

「無理もございません。しかしながら誤解のないよう申し上げますが、わたくしどもは陛下に御同情申し上げこそすれ、それを咎めようなどと大それた気持ちは一切ございません」

「あなたはお忘れか。大神殿の斎宮に選ばれる巫女は、生まれながらに強大な神通力を持つという。だがサファイアには、巫女としての能力は微塵もない」

 そのことも、アレキサンドラが秘かに苦しむ一因となっていた。サファイアは女神と同じ色の髪を持っていても、アルレスのような強大な神通力に恵まれている訳ではない。

「御二方にとって、生命より大切な皇女様を御両親から奪い取ろうなどという、不敬極まる考えを持つ者がもし大神殿の中にいるのなら、陛下より先にわたくしがその者を罰することでございましょう」

 最長老は、その声に力を込めながら続けた。

「わたくしどもは、生まれながらに女神様の恩恵を受けておられる御方を、御両親であられる御二方と同様、愛しんで差し上げたいだけでございます。どうぞそれだけは御理解頂きたく、重ねてお願い申し上げます」


          25


 子供部屋へ入った時、サファイアをあやしていた男の姿に驚いたアレキサンドラは、無意識のうちにそこから離れようとした。

「逃げないで下さい」

 カインが止めた。

「申し訳ありません。陛下は水晶宮の使節団謁見のため、先程大神殿へ向かわれましたので」

 水晶宮はアルレスの計らいにより、年に一度大神殿へ使節団を送っている。参拝に来ているはずの皇帝の姿が大神殿になくては、使節団に余計な疑念を与えてしまう。

「皇妃様はお寝みになっておられましたので、わたしが代わりに姫の御相手をするよう、陛下に申し付けられたのです」

 言い訳はいい、早くサファイアから離れて。けれども母親の心とは裏腹に、サファイアはカインの腕の中ではしゃいでいる。

「不思議な御子ですね、姫は」

 サファイアの影響だろうか、カインの声にも穏やかな安らぎが感じられる。

「わたしの顔が怖ろしくはないのでしょうか」

 恐る恐るアレキサンドラは顔を上げて、カインを見詰めた。その右眼は無残にも潰れ、カインの顔に更なる翳りを与えている。

「その眼は、どうしたの」

 あの時以来、カインの顔を見たのが初めてなら、声をかけたのも今日が初めてだった。

「……自分で」

 言葉少なに答えたそれに、アレキサンドラは息を呑んだ。

「わたくしのため……? わたくしのために、あなたは……」

「いいえ」

 サファイアの笑顔から視線を離さず、カインは答えた。

「この眼さえなければ皇妃様の美貌に魅入られることも、あのような行為に走ることもなかったのですから」

 あの時、アルレスがその力でカインを制した。だがカインはそれすら拒み、アルレスを更に激怒させた。

「恥を知れ。お前の行為はむしろ、このわたしの顔に泥を塗るようなものだ」

「ならば、片眼だけでも」

 血に塗れながら、尚もカインは望んだ。

「生涯、己の罪を忘れぬため。陛下、どうかわたしに罪を贖う機会をお与え下さい」

 そして、その願いは聴き届けられた。

「赦して……!」

 アレキサンドラが叫んだ。

「わたくしはどうかしていたの。アルレス様が、アルレス様がわたくしではない方の名を呼んで、その方に愛を告げるなんて、そんなことはどうしても許せなかったの。わたくしの中に生まれた醜い嫉妬心が、事もあろうにあのような行為を……!」

「謝るのはわたしの方です。陛下に絶対の忠誠を誓いながら、己の中の、陛下から皇妃様を奪い取りたいという欲望に、わたしは打ち勝つことが出来なかったのですから」

「誰よりもアルレス様を愛していると言いながら、その一方で、わたくしはあなたに惹かれていたのだわ。そうでなければ、どうしてあんな……!」

「どうかそれ以上、御自分をお責めにならないで下さい。すべての責任は、このわたしにあるのです」

 カインの声は、あくまでも穏やかで優しい。

「あなたが愛しておられるのは、皇帝陛下ただ御一人です。わたしではない」

「カイン……」

「わたしの腕の中でも、あなたは陛下の御名前を呼び続けていた。あなたの心に、わたしが入り込む隙はないのです」

 その言葉に涙が止まり、アレキサンドラはカインの顔を見詰めた。

「たとえこの世が終わりを告げようと、あなたがわたしのものになることは決してない。それでいいのです」

「赦して……赦して、カイン。わたくしは……」

「わたしに赦しを乞う必要はありません。あなたは竜神が陛下のために選んだ、我がリステーニイの正式な皇妃です。どうぞこれからも、孤独なあの御方を愛し続けて下さい。あなたが御産みになった、この愛らしい姫のためにも」

 アレキサンドラは己を呪った。サファイアが生まれてから今日まで、もしこの子の本当の父親が、アルレスではなくカインの方だったらと、そんな疑念を心の底で抱き続けてきた己の愚かさを。それはアルレスばかりではなく、生命賭けて産んだ我が子をも穢していることに、今になって気付いたことも。

「生命尽きるその瞬間まで、わたしは皇妃様と姫をお護り致します。それがわたしに下された陛下からの至上命令であり、ただひとつの贖罪なのです」

「かかしゃま?」

 小さな頭を傾げて、サファイアは母親の顔を見詰めた。

「かかしゃま、どっかいたいの?」

「……サファイア……」

「どっかいたい、どっか苦しいの? ねえ、かかしゃま」

「ごめんね……ごめんね、サファイア……」

 赦して。赦して、サファイア。あなたの母親という誇りを、わたくしは自らの手で穢していたのだわ。そしてカイン、あなたを愛することが出来ないわたくしを、どうか赦して。

「泣かないで、かかしゃま。ね、泣かないで」

 音もなく立ち去った男が残した言葉を噛みしめながら、愛らしい仕草で母親を慰める娘を抱きしめて、アレキサンドラはいつまでも涙を流していた。


          26


「どうした」

 アルレスが囁くような声で訊ねる。

「カインと話したか」

 この方には、何ひとつ隠すことは出来ない。

「……お聴きしたいことが……ございます……」

 嬲られるような愛し方に耐えているアレキサンドラの声は、消え入りそうなほどか細い。

「何を?」

「……あの子を……サファイアを……アルレス様は……どう思っておいでなのか……」

「どういう意味だ?」

 愛撫する手を止めて、アルレスが顔を上げた。

「……わたくしのことはどうでもいい……ここで、こうして……あなたからの罰を受けることが……わたくしに出来る、たったひとつの贖罪ですもの……」

 ゆっくりと開いたアレキサンドラの瞳は、涙に濡れて輝いている。

「……わたくしはあなたの囚われ人……今までも、そしてこれからも……でもあの子は……サファイアは……」

 悲痛な声でそれでも、必死になって訴える。

「あの子だけは……サファイアだけは赦してあげて欲しいのです……あの子は何も悪くない……けれどこのままでは、サファイアは、自分の本当の人生を歩むことが出来なくなってしまいます……」

「何を言っている」

「わたくしはあの子の母親として、愛しい娘が不幸になることだけは、絶対にしたくない……!」

 その時不意に、アレキサンドラの見えない縛めが外れた。

「赦すも赦さないも、サファイアはわたしのたった一人の大切な娘だ。サファイアを誰よりも幸福にしたいと願うのは、わたしも同じだ」

「アルレス様……」

「お前にはわたしが、我が子を不幸にしてしまう愚かな父親に見えるのか」

「違います、わたくしはただ」

 アルレスの青い瞳を見上げて、アレキサンドラは言葉を続けた。

「わたくしはあの子に、わたくしのような思いをさせたくないだけです。幼い身で負う玉座の重責は、わたくしが一番身に染みて知っております。それなのにあの子には、リステーニイとエルヴァレートの玉座のみならず、大神殿の斎宮位まで与えられようとしているのですもの」

 ようやく自由になれたものの、身体に力が入らない。

「わたくしは不安で仕方ないのです。マルグリットも最長老様も、誰もがサファイアを欲しがっています。でもあの子は、女神様と同じ色の髪をしているというだけで、あなたのような力は持っておりません。あの子は本当に、ごく普通の女の子なのです」

 アルレスもまた、アレキサンドラの涙に濡れた瞳を見詰め続けている。

「我儘でしょうか……母親として、ごく普通の女の子としての幸福をあの子に望むのは……わたくしがあなたに出逢えたように、サファイアにもいつか、誰よりもあの子を愛し護ってくれる方が現れることを願うのは……かつて女王と呼ばれ、今は皇妃と名乗るわたくしの、これは我儘なのでしょうか……」

 与えられた答えは深く長い、心を込めた口付けだった。

「いっそのこと、お前もサファイアも湖の底に封印して、わたし以外の者にふれさせぬように出来ればと、一体何度思ったか知れない」

 力なく横たわる、アレキサンドラに語りかけるその声にも、以前の優しさを取り戻していた。

「サファイアはお前が己の生命を賭け、わたしのために産んでくれたたった一人の娘だ。ならばわたしも、己のすべてを賭けてお前達を護らねばなるまい」

「アルレス様」

「お前とサファイアを害し、わたしから奪おうとする者は誰であろうと赦さない……たとえそれが義妹であろうと」

「アルレス様……!」

 震えの残る腕を精一杯伸ばして、アレキサンドラはアルレスにしがみ付いた。

「愛しています、アルレス様。わたくしは誰よりも、あなたのことを心の底から愛しています」

「赦したはずだった。お前のこともカインのことも、わたしは確かに赦したと思った。けれど、わたしだけのものと信じていたこの肌にふれる度、あのカインもふれたのかと思うと、どうしようもない怒りが込み上げてきて、お前を嬲る自分を止められなかった」

「あなたのものです……湖と竜神に誓って、わたくしはあなただけのものでございます」

 アルレスは、剥ぎ取った夜着をアレキサンドラの身体にかけた。

「おいで」


          27


 二人がそっと寝室の中へ入った時、サファイアは窓から差し込む月の光の中、あどけない微笑みを浮かべて眠っていた。

「お前と、この子の安らかな眠りのために」

 背後からアレキサンドラを抱きしめて、アルレスが囁く。

「わたしはすべてを賭けて、お前とサファイアを護り抜くことを誓おう。この世の何よりも大切なお前達のために」

 アレキサンドラは涙が溢れてくるのを抑え切れず、頷くことしか出来なかった。ただ夫の腕の中で、愛する我が子の寝顔を見詰めていた。

「かかしゃま、いたいの?」

 よく眠っていると思っていたのに、不意にサファイアはぱっちりと眼を開けて母に問いかけた。

「どっかいたい、どっか苦しいの? ねえ、かかしゃま」

「サファイア……」

「泣かないで、かかしゃま。ね、泣かないで」

「違うの。違うのよ、サファイア。母さまは、苦しくて泣いているのではないのよ」

 涙に濡れながら、アレキサンドラは優しく微笑んだ。

「母さまは幸福なの。父さまがいて、あなたがいて、幸福で心がいっぱいなの。幸福で嬉しくて、だから涙が溢れてくるのよ」

「うれしいのに泣くの?」

 サファイアが首を傾げる。

「幸福過ぎると泣きたくなるの。母さまにも止められないの」

「母さまは泣き虫だからね、仕方ないのだよ」

 アルレスも微笑みながら娘に訊ねた。

「サファイアが一番幸福なのはどんな時?」

「ととしゃまとかかしゃまといっしょの時!」

 嬉しそうな声でサファイアが答えた。

「じゃあ今が、サファイアにとって一番幸福な時なんだね」

「ととしゃま大しゅき、かかしゃまもしゅき、だあいしゅき」

「父さまと母さまも、娘のお前を愛しているよ。お前の幸福を誰よりも願っている。お前はわたし達の、たったひとつの愛の証なのだから」

 アレキサンドラは、ますます涙が溢れて止まらなくなる。

「さ、まだ夜は長い。お前が眠るまでこうしているから、ゆっくりお寝み」

「はい、ととしゃま」

 サファイアは素直に瞼を閉じ、アルレスはいつもの歌をうたい始めた。娘の安らかな寝顔を見詰め、夫の優しい歌声に耳を傾けながら、アレキサンドラはこの上ない幸福を噛みしめ、いつまでも涙を流し続けていた。


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 わたしは死んだの? 死んでいるの? 深い深い森の奥であの方の姿を求めて彷徨ううちに、とても長い時間が流れたようでもあり、反対にほんの一瞬だったようでもあって、自分でもよくわからない。けれどただひとつ確かなことは、この森の向こうに愛するアルレスがいるということだ。そしてそのそばには、憎むべきあの女も。

 何故、どうしてあの女は、まるで当然のようにアルレスのそばにいるの。わたしと同じ金色の髪、同じ紫色の瞳をして。違う、違うわ、アルレス。あなたが愛しているのはあの女じゃない。お願い、眼を覚まして。あなたが本当に愛しているのは。

「待て!」

 そのアルレスの恫喝する声が、突然森の中に響き渡った。

「それ以上行くな! アレキサンドラに危害を加えようとする者は、誰であろうとこのわたしが赦さない!」

「アルレス……!」

 憎悪の籠った眼差しを、シャルロットは信じられない思いで見詰めた。

「どうしてなの。どうして、そんな眼でわたしを見るの。以前はあんなにも優しく、わたしだけを見詰めてくれていたのに」

「お前が愛しているのはわたしではない!」

 アルレスが叫んだ。

「いい加減に眼を覚ませ、お前の恋人はとっくの昔に死んだんだ。お前はわたしに、死んだ男の面影を見ているに過ぎない。わたしは死んだ『アルレス』ではない!」

「あなたはあなたよ!」

 シャルロットも叫び返す。

「あなたは確かにアルレスだわ! わたしが愛したアルレスだわ! その髪もその瞳も、まぎれもなくあなただわ!」

「やめろ、それ以上何も言うな! お前を見ているだけで気が狂いそうだ、さっさと消えてしまえ!」

「ひどい……!」

 わからない。どうしてそんなにも憎まれなくてはいけない。かつてはあんなにも愛し合っていた恋人を。

「わたしはただ、あなたのそばにいたいと望んだだけなのに。そしてあなたも」

「やめろ……!」

「あなたもわたしを愛していると言ったのに!」

「やめろと言っているのがわからないのか!」

 惑わされてなるものか。竜の血を受け継ぐ『女神の代理人』たる者が、亡霊などにこれ以上惑わされてたまるものか。

「わたしはわたしだ、死んだ『アルレス』ではない! そしてわたしが愛してるのはアレキサンドラただ一人だ、お前ではない!」

「では、わたしはどうなるの。あなたへの想いを抱えたまま、たった独りで生きていけと言うの。幼い頃から誰にも愛されなかったわたしが、たったひとつ手に入れることの出来たあなたとの愛を、捨てて生きろとあなたは言うの……?」

「お前の恋人は死んだんだ。そしてお前も、すでにこの世の者ではない」

 アルレスの声が少しやわらかくなった。哀れな巫女。生きていた時はもちろん死んでいる今ですら、どうして女神はこの巫女に、安らかな生と死を与えては下さらないのか。亡き先帝との恋は、それほどに重い罪なのか。

「お前が不幸な星の下に生まれ、不幸なままに生を終えたことはよくわかっている。けれどだからと言って、他者を不幸に陥れる権利などお前にはない。愚かな真似はもうやめて、このままおとなしく死者の世界へ旅立て」

「嫌……! 嫌、嫌!」

 シャルロットが激しく首を振る。

「あなたと離れて何処へも行きたくはない! 離れるくらいならいっそ、あなたをこの手で……!」

「来るな!」

 だが、襲い掛かって来るように見えたシャルロットは、アルレスの胸に飛び込んできた。

「愛している……! 愛しているわ、お願いだからアルレス、わたしを見て! もう一度、わたしだけを愛していると言って!」

 危ない、惑わされるな。そう思うのに金色の髪と紫色の瞳が、アルレスを狂わせる。あの時と同じように、愛する者とは別人の女を抱きしめてしまいそうになる。

「やめて!」

 直前でアルレスを引き留めたのは、その愛する者の悲痛な声だ。

「アルレス様を離して! もうこれ以上、アルレス様を惑わすのはやめて!」

「……アレキサンドラ」

 辛うじて正気を留めた代わりに、激しい頭痛と吐気がアルレスを襲う。

「しっかりなさって下さい、アルレス様! わたくしはここです、あなたの妃はここにおります!」

「アレキサンドラ……!」

 先程まで切ない表情を浮かべていたシャルロットの顔が、アレキサンドラの姿を認めた途端に豹変した。

「お前が、お前のような女がアルレスの前に現れなければ、アルレスは永遠にわたしのものであったのに!」

 アレキサンドラの悲鳴が上がる。けれどシャルロットが放った炎は、アレキサンドラにではなくその後ろの大木に当たった。

「大丈夫か」

「アルレス様、アルレス様……!」

「アルレス、どうして……!」

 一瞬のうちに自分ではない女を助け、力強く抱きしめているアルレスの姿に、シャルロットは蒼ざめた。

「……アレキサンドラは、竜神がわたしに下された一輪の花だ」

 二度と惑わされぬよう腕に力を込め、振り向きざまにアルレスは言った。

「孤独と絶望の中で唯一許された、わたしだけの愛だ。もう一度言う、アレキサンドラに危害を及ぼす者は、誰であろうとわたしがこの手で叩き潰してやる。本気でアレキサンドラを殺したいのなら、まずわたしを殺してからにするがいい」

「アルレス様……!」

 アレキサンドラは涙を溢れさせた。

「愛しています、アルレス様。あなたはわたくしのもの、そしてわたくしはあなただけのものでございます……!」

 引き離せない。唇を重ね愛を誓い合う二人の姿に、絶望がシャルロットの心を包んだ。けれど、それでも。

「殺してやる……!」

 突然周囲に大きな炎が燃え上がり、アレキサンドラは再び悲鳴を上げた。

「赦さない、アレキサンドラ。わたしから何もかも奪ったお前だけは……!」

「やめろ!」

 しかし、悲鳴を上げたのはアレキサンドラだけではなかった。炎の中から、幼い女の子の泣き声も聴こえてきたのである。

「アレキサンドラ! どうしてこんな処にサファイアを連れて来た!?」

「ち、違います、わたくしは一人で……!」

 いつの間にか姿の見えなくなった両親を求めて、サファイアは一人で森を彷徨っていたのだろう。

「サファイア! サファイア、何処にいるの!? 母さまはここよ、サファイア!」

「待ちなさい、アレキサンドラ!」

 アレキサンドラは狂ったように娘の名を呼んだ。そのアレキサンドラを抱きかかえ、アルレスは激しい炎の中へ一気に跳んだ。

「サファイア、サファイア!」

「かかしゃま! ととしゃま!」

 炎の中で小さくうずくまるようにして泣いていたサファイアを、アレキサンドラが急いで抱き上げ、アルレスは二人を腕に再度跳んだ。

「かかしゃま、かかしゃまあ……!」

「ごめんね、サファイア。あなたを一人にした母さまが悪かったわ。怖い思いをさせてしまって、本当にごめんね……」

 アルレスが二人をやわらかな草場に下ろすと、アレキサンドラは娘を抱きしめたまま泣き崩れた。

「大丈夫か、苦しくはないか」

 弱々しくアレキサンドラは頷いたが、二度続けての瞬間移動は、激しい苦痛と疲労をその身体に与えているはずだ。

「時間はない。すぐにあの女が来る」

 三人がいるのは、森の中の小高い丘の上だ。振り向いた先に、炎が激しく燃え上がるのが見える。アレキサンドラの負担を少しでも軽くするためには、短い距離での移動しか出来なかったのだ。

「サファイアを隠せ。あの女がサファイアを眼にしたら、何をするかわからない」

 二人の間に子がいると知れば、ましてやその子の青い髪を見たりすれば、逆上したシャルロットがサファイアを襲うかも知れない。アレキサンドラは急いで我が子を、羽織っているショールの中に隠した。

「耐えられそうか」

「わたくしは大丈夫です。わたくしよりも、この子を」

「館へ戻れば、すぐにわたしの気を与える。それまでは何とか耐えてくれ」

「待って、アルレス!」

 母娘をマントの中に包んだアルレスの前に、シャルロットが再び現れた。

「行かないで! わたしを置いて行かないで! わたしを一人にしないで!」

 泣き叫ぶシャルロットを、アルレスは黙って見詰めた。

 仮にも聖なる女神の森を、大神殿の巫女が焼き尽くそうとしている、前代未聞の事態である。けれど何故かこの時初めて、アルレスはシャルロットを美しいと思った。紅蓮の炎を背に、アレキサンドラと同じ金色の髪をなびかせて、すがりつくような眼差しで愛を求めるシャルロットの姿に、わずかながらも心を惹かれた。

 この女は、わたしと同じなのかも知れない。生まれた時から異質な存在として孤独と絶望だけを友に、わずかな救いを求めて必死に生きて来た、自分と同じ境遇に置かれた女。ただひとつ違うのは、唯一得た愛をアルレスは我がものとすることが出来たのに、シャルロットは一瞬で失ってしまったことだ。そして今、死んだ恋人と生き写しの男を前に、自らも死んでいるとは知らず狂乱する女に、少しばかりの同情を覚えることは罪に値するだろうか。

「やめて……!」

 自分を抱きしめるアルレスの腕の力が緩んだことに、アレキサンドラが気付いた。

「もうやめて! あなたが本当に愛しているのはこの方ではないのよ、それにわたくしは、あなたなんかに決してアルレス様は渡さないわ!」

「アレキサンドラ」

 そうだ、惑わされてはならない。真実の愛を、再び失うような真似は二度としない。

「……認めて下さいましたわ」

 アレキサンドラもまた、すがりつくような眼差しでアルレスを見上げる。

「この子を、わたくしが産んだこの子を、御自分の御子と認めて下さったのはあなたですわ! そうです、サファイアは確かにアルレス様の御子です、カインなんかじゃない!」

 そう叫んだアレキサンドラの眼に、立ち尽くすカインの姿が映った。カインはサファイアと同様、いつの間にか姿を消した親子を捜して、森の中をずっと彷徨っていたのだろう。そして今、突然耳に飛び込んできたアレキサンドラの声を、どう受け止めているのだろうか。いつもと同じ無表情のカインの顔からは、何もわからない。けれど二人が犯したただ一度の過ち、それはアレキサンドラがアルレスへの愛とは別に、この男に惹かれたからこそ起きた出来事だった。アレキサンドラの身体が震えた。

「赦さない! 赦すものか、アレキサンドラ! お前だけは決して!」

 シャルロットが再び豹変し、アレキサンドラが悲鳴を上げた。

「カイン! ここへ来い!」

 アルレスに呼ばれ、カインが我に返った。

「二人を護れ、決してあの女に二人を殺させてはならない!」

「アルレス様!」

「皇妃様、危ない!」

 しかしアレキサンドラは、引き留めたカインを振り向きざま罵った。

「カイン! どうしてあなたは二度も、わたくしとアルレス様を引き裂くの……!?」

「何をしている、カイン! 早く二人を連れて逃げろ!」

 アルレスが叫ぶ。

「アルレス様、嫌! 行かないで!」

「皇妃様!」

 その時、母娘を護るため立ちはだかったアルレスの身体を、シャルロットが放った激しい炎が包んだ。カインの腕の中で、アレキサンドラの悲痛な泣き声が響き渡った。






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