第二章 北の水晶宮、南の大神殿(後)
本当に、何度も何度も遅くなって申し訳ありません。もう年末だというのに、書き始めて一年経ってしまうというのに、まだ未完だなんて深く反省しています。でも代わりに次章は、必ず今回よりも早く投稿します。何故なら、半分以上出来ているからです……??? ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい。m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
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「お疲れが出ただけでございます。ゆっくりお寝みになれば、御心配には及びません」
医師が優しく言葉をかけても、サファイアは深い眠りについている母のそばを離れようとはせず、ただ涙をこぼし続けていた。
「姫、あなたも少しお休み下さい」
カインが近付いてきた。
「あなたもお疲れなのですから」
「カイン、母さまは」
「エルヴァレート王家より母上様と姫に、マルグリット様とミュラー執政閣下の婚儀への正式な御招待が届いております」
不意にカインは話題を変えた。
「マルグリット様は、御二人に御出席して頂くためあえてエルヴァレートの王宮ではなく、大神殿での挙行をお望みになられたそうです。ちょうどいい機会です、しばらく御二人で大神殿を参拝し御静養されてはいかがですか」
サファイアはカインを見詰めてからゆっくりと頷き、母の寝台をそっと離れた。
「サファイア様」
リーナが声をかけてきたが、サファイアは顔も上げずこう言った。
「ごめんね、リーナ。しばらく一人にさせて」
窓を開けて外へ出ても、サファイアはいつものように池の魚にも美しい花にも視線を向けることなく、沈んだ様子で庭を歩いて行った。
「母さまの役に立ちたいのに」
再び涙がこぼれてくる。
「わたし、何も出来ない。父さまの代わりに母さまを護るって約束したのに」
ミフォンが涙をなめてくれても、サファイアは両手で顔を覆うだけだった。自分が情けなくて仕方なかった。父も母も、サファイアの齢の頃にはすでに統治者としての役目を果たしていたというのに、サファイアはまだ政を学び始めたばかり。もっと沢山のことを学ばなければ、父や母の役に立つことは出来ない。
「もしこのまま、母さまが」
ふと浮かんだ怖ろしい想像に、サファイアの顔が凍り付いた。父のみならず母までが、サファイアの前から消えてしまうようなことがあったら。
「父さま、どうすればいいの。何をすれば、母さまのことを本当に護れるようになるの」
声を出して訊ねても、答えてくれる人はいない。今誰よりもここに、サファイアのそばにいて欲しいのに。
「父さま、父さま」
サファイアに出来るのはただ、涙を流してその名を呼び続けることだけ。
「逢いたいの、父さま。お願いだから、今すぐここへ帰って来て」
けれど悲痛な幼い声は、美しい庭の中に哀しく響き渡るばかりだった。
その頃、女官達も下がり誰もいなくなったはずの寝室で、眠っているアレキサンドラのそばへ近付く者があった。
「すまない」
アレキサンドラが眼を開くと、苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「お前にもサファイアにも、本当にすまないと思っている」
「抱いて、下さい」
かすかな声でアレキサンドラが懇願する。望み通りその胸の温もりに包まれた時、冷たく透き通るような肌が薔薇色に染まった。
「わたくしは大丈夫です。あなたがこうして下されば」
熱い唇が冷たい唇に重なり、アレキサンドラの身体へ生気を注ぎ込んでいく。
「あなたが、わたくしとサファイアのために御自分のすべてを賭けたように、わたくしもあなたのためにすべてを捧げるのです」
「愛している」
「わたくしは、あなただけのものです」
すがりつくように、アレキサンドラはその広い背中に腕を廻した。
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「出来ることをしなきゃ」
庭の片隅でひとしきり泣いた後、サファイアは涙を拭きながら立ち上がった。
「わたしに出来ることを一生懸命しなきゃ。それしかないのだもの」
ミフォンが再び肩の上へ跳び乗る。
「母さまのために、出来ることをすればいいの。ハーシェル兄さまもそう言っていたものね」
サファイアが笑顔を取り戻すと、頷くようにミフォンが再び頬をなめた。それからふと顔を上げた時、眼の前に懐かしい生き物が現れた。
「マネット! マネットだわ!」
館の庭へコトルと共に来ていた動物だ。あの時の親子と違い一頭きりだったが、サファイアは顔を輝かせた。館と同じように水晶宮の庭へも、森の生き物が時折こうして来ることがあるのだろうか。
「あ、待って!」
マネットがくるりと廻って駆け出し、サファイアは慌てて追い駆けた。
「ねえ待って、行かないで!」
サファイアが声を上げてもマネットはそのまま軽やかに跳ねて行き、森の中へ飛び込んだ。サファイアは足を止めた。何故なら森は、館にいた頃から入ることを禁じられている。
少しでもマネットの姿が見えないかとサファイアが森の中を覗き込むと、不意にその耳に誰かの泣き声が聴こえた。それは、以前にも森のそばを通った時と同じ声だ。母やリーナは聴こえないと言ったけれど、確かに今、森の奥で誰かが泣いている。
「ごめんなさい、母さま。すぐに戻って来るから」
しばらく躊躇ってから後ろを振り返ってそう呟き、サファイアは森の中へと入って行った。
森へ入るのは大神殿の訪問以来だ。あの時と変わらず森は美しかった。巨大な大木が何処までも果てしなく続き、色鮮やかな青葉を茂らせた梢の間からは、暖かい陽射しが差し込んでいる。その陽射しと共に注がれる小鳥の声に耳を澄ませていると、つい先程まで涙を流していたことも忘れてしまいそうになる。
「わたし、森が好き。森にいるととても心地がいいわ」
サファイアは大きく息を吸い込みながら言った。でも忘れてはいけない。禁じられた場所にいることを誰にも知られないうちに、泣き声の主を捜さなくては。
いつもであれば、母の言い付けに背くようなサファイアではない。けれどこの水晶宮へ来てからというもの、ずっと緊張状態を強いられていた上に母が倒れたことも重なり、サファイアの心も張り裂けそうになっていた。自分と同じように哀しんでいる者がいるのに、見捨てる気にはなれなかった。
ほんの少しだけでいい、奥の方まで行かないようにすれば。誰なのか確かめて、声をかけてくるだけだから。そう自分に言い聴かせながらもサファイアは、泣き声に誘われるまま森の奥へ奥へと入り込み、気付けば辺りは昼間だというのに薄暗く、小鳥の声も届かないような処まで来てしまっていた。
「どうしよう」
不安に襲われ流石に引き返そうと振り返ったその時、不意に眼の前に顔を覆って泣いている、巫女の衣装を身に付けた娘が現れた。
突然のことだったのでサファイアもひどく驚いたが、泣いていたその娘の驚きも大きかった。泣きはらした眼を大きく瞠らせ、サファイアの青い髪を茫然として見詰めた。
「……女神様」
呟くようなその声が、サファイアの耳に届いた。
「女神様……! 女神様、ああ、女神様……!」
「違う! 違うわ!」
サファイアが叫んだ。
「わたしは女神じゃない! 誤解しないで、わたしは女神なんかじゃないの!」
悲痛な声に駆け寄ろうとした娘の足が止まり、一瞬輝いたその顔にも失望の色が浮かんだ。
「女神ではないって……でも、その御髪は」
「わたしはサファイアよ」
娘の問いに答えるサファイアの声には、かすかに震えが残っていた。
「髪の色は女神様と同じでも、わたしは女神様じゃないの。巫女の力も何もない、ただの女の子なの」
ただの女の子。そう、ここにいるのは強大な力を操る皇帝の娘でありながら、何ひとつそれを受け継いではいない、ただの普通の女の子だ。娘の身体がその場に崩れ落ちる。
「ごめんなさい」
思わずサファイアが謝ると、娘は首を振った。
「いいえ、あなたが悪いのではありません。ただ、何処までも救われない己の愚かしさが心底憎いだけです」
サファイアは娘を見詰めた。それにしても一体どうしてこんな処に、大神殿の巫女がいるのだろう。『聖なる森』は水晶宮と大神殿に挟まれるように位置しているが、決して侵してはならない聖地であり、どちらの管轄にあるという訳ではない。時には何らかの用事で巫女や水晶宮の者が森へ出入りすることもあるだろうけれど、この巫女がいる場所は水晶宮のすぐ近くで、大神殿からはかなりの距離がある。
「名前を訊いてもいい?」
「……シャルロットと申します」
美しい娘だ。母アレキサンドラと同じ金色の長い髪は腰まであり、涙に濡れた瞳も同じ紫だ。まだ少し怖さは残っていたけれど、娘への興味の方がそれより勝った。
「あなたは巫女でしょう。どうしてこんな処にいるの、何が哀しくて泣いているの」
「わたしはもう巫女ではありません」
俯いて娘は言った。
「わたしは罪を犯し、巫女の資格を剥奪された者です。永遠に救われないのが当然なのです」
「何をしたの」
サファイアの胸の鼓動が高鳴る。
「わたしは、この世で誰よりも愛しているはずの皇帝陛下を殺したのです」
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サファイアは自分の耳を疑った。皇帝を、サファイアの父を、この娘が殺した?
「わたしは火を操る」
罪を打ち明けるシャルロットの声は重い。
「わたしは、皇帝陛下の御身に猛火を浴びせて殺しました。誰にも渡したくなかったのです。わたしがこの世でただ一人愛した御方が、わたし以外の方のものになるなんて絶対に許せなかったのです」
頭の中で何かがぐるぐると廻る。父は、父アルレスは、本当にこの娘に殺されたと言うのだろうか。
サファイアが物心ついた頃、父はすでにこの世の人ではなかった。父の死を嘆く母を、サファイアはいつも懸命に慰めてきた。娘の健気な励ましで母は少しずつ立ち直り、サファイアが自分の本当の身分を知ると、今度は父の死そのものを否定するようになった。父は死んでなどいない、生きていると。いつの日か必ず、母とサファイアの処へ帰って来ると。
母の言葉を信じないという訳ではない。父が生きていると言われた時、どんなに嬉しかったことか。父が帰って来るという母の言葉が、慣れない水晶宮での生活の支えになってきたのだから。
その一方で、サファイアは父の死因について、これまで何も訊こうとしなかったことに驚いていた。いや、そのことに全く関心がなかった訳ではない。けれど湖の話でさえ涙をこぼす母に、父の死因など訊けるはずもなかった。そしてこれほどに父と母を思うサファイアの前で、シャルロットというこの娘は己の罪を淡々と打ち明けている。サファイアの父を殺したという罪を……。
「……返して」
ようやく口を開いたサファイアの声は、やはり震えていた。
「返して! 返してよ! わたしの父さまを返して!」
「父さま……?」
「わたしはアルレス=ファヴィエ二世の娘よ! あなたが殺した皇帝の娘よ!」
「陛下の……!」
この人が、わたしと母さまから父さまを奪った。この人が、わたしの父さまを殺した……! サファイアは混乱し、叫ぶしかなかった。けれどそれと同時に、シャルロットの顔もみるみるうちに豹変したのである。
「似ている……あの女に、わたしから陛下を奪ったあの女……」
その様子に、サファイアもはっと我に返った。
「アレキサンドラ、お前が、何もかもお前が……!」
怒りに満ちた形相で突然シャルロットが襲い掛かり、サファイアは悲鳴を上げた。慌てて逃げ出したが、すでに戻る道はわからない。つい先程まで明るい木漏れ陽に満ちていた森も、今は薄闇に閉ざされ恐怖を煽っている。その上着ているドレスの長い裾に足元を取られ、サファイアはさほど走らぬうちに転倒した。
「忘れたなんて言わせない」
サファイアを見下ろす娘の眼が、哀しみに染まった紫から憎しみに満ちた炎の色へと変わる。
「お前がわたしから陛下を奪ったのよ、アレキサンドラ。わたしから陛下も、陛下の愛も何もかも奪ったのよ。お前さえ陛下の前に現れなかったら、わたしはこんな、こんな……!」
狂っているとしか思えない。いくら生き写しとはいえ、母親と幼い娘との見分けもつかないなんて。
「助けて! 母さま助けて!」
母の言い付けに背いたことを今更悔いても遅い。気付けばシャルロットの背後には炎の影さえあり、サファイアは必死に助けを求めた。
「カイン、カイン助けて! 父さま、父さま!」
三匹のミフォンが同時に飛びかかり、娘が怯んだすきをついてサファイアは再び逃げ出した。
「父さま、助けて!」
「サファイア!」
その時、聴き慣れない男の声、けれどいつか何処かで聴いた覚えのある声が、サファイアの耳に届いた。けれど周囲を見廻しても、眼に入るのは巨木ばかりである。
「危ない、サファイア!」
もう一度、その声が森の中に響き渡った。しかし不意に眼の前に現れた崖に気付く間もなく、サファイアは足を滑らせてその下へ落ちてしまった。
「姫!」
「サファイア様!」
しかしサファイアの身体は、折よく捜しに来たリーナと共に現れた、カインの腕の中に受け止められた。
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歌が聴こえる。
サファイアが眠りに落ちる時、いつも耳にする歌がある。母の声でなければカインでもない、知らない男の声だ。その声が口ずさむ、歌の名もわからなかった。朝目覚めて母に訊ねようとしても、その時にはもうメロディすら思い出せない。けれどもそれは、いつもサファイアに安らかな眠りを約束してくれた。
今も歌声は、サファイアを優しく包んでいる。そうだ、あの瞬間に耳にした声は間違いなくこの歌声と同じものだ。ああ、遠くかすかに忘れていた記憶が甦る。これはとても、とても遠い昔の歌。本当に遥か昔の、今では知る者も少ない古い歌。だが確かに、サファイアはこの歌を知っている。今よりもずっと幼かった頃から、サファイアはこの歌をよく知っていたのだ。
「わたしが一番好きな歌だよ」
そう言って、いつもサファイアに歌ってくれる人がいた。でも、それ以上は思い出せない。確かにこの歌声はあの人のものなのに。深く澄み渡るような優しい声、今もサファイアを包み込み護ってくれるこの声の持ち主は、一体誰だろう。
「お気が付かれましたか」
サファイアの髪を撫でてくれるその手がそうなのかと、サファイアは急いでそれを掴んだが、眼を開けてみると顔を覗き込んでいたのは、先程落下したサファイアを受け留めてくれたカインだった。
「母さまは……?」
「まだよくお寝みになっておられます。御安心を、姫が森へ入ったことは決して母上様に申し上げませんから」
サファイアの眼から涙が溢れてくる。母の言い付けに背いてしまった、そんなことをするつもりはなかったのに。けれどそのこと以上に、胸を締め付けるものがあった。それが何かはわからないけれど、ただ無性に哀しかった。
泣きじゃくるサファイアの髪を撫でながら、カインはその瞳に心からの慈愛を込めて、サファイアを優しく見守っていた。禁じられていた森へ入ったことも、そのために危ない目に遭ったことも問い質しはしなかった。今更そんなことをしなくてもサファイアが誰よりも自分を責めていることは、カインにはよくわかっていた。
しばらくして泣き止んだサファイアは、カインの瞳を見詰め返した。
「数年前に事故に遭って……この右眼は二度と開きません」
幼い頃、サファイアが隻眼のことを訊ねた時、カインはそう答えた。その言葉に、サファイアは思わず泣き出した。今もそれは漆黒の髪に隠されて、翳りのある雰囲気をカインに与えている。
「……カイン、カインは母さまが好き?」
突然の質問に、カインの顔色が一瞬曇った。
「何故、そのようなことをお訊ねになるのです」
「好きなの? ねえ、カインは母さまが好き?」
「もちろん、わたしが御仕えした方が愛された御方なのですから」
「でも母さまはあなたが嫌いよ。カインだって知ってるでしょ」
カインがいつも母娘のそばにいることに、母が決して喜んではいないということを、サファイアはすでに気が付いていた。サファイアがカインを慕うのを嫌がっていることも、いつも哀しい眼でカインを見ていることも、サファイアはすべて知っていた。
「わたし、母さまにカインのこと嫌いでいて欲しくない。だって父さまや母さまと同じくらい、わたしはカインが大好きなんだもの。みんながみんなを好きでいて欲しいの。これって悪い? わたしが森に入っちゃいけないくらい、悪い……?」
再びサファイアは泣き崩れた。カインの瞳も潤みながら、サファイアの髪を撫で続けている。その瞳を見詰めているうちに、やがてカインの姿が父の面影と重なった。
「……皇帝陛下の代わりでいいのです。わたしは陛下から、あなたと母上様を託されているのですから」
再び眠りに落ちていくサファイアに、カインは囁くように言った。
「罪深きわたしを救い、支えてくれたあなただから……わたしはこうして生きていけるのです」
「お前が、わたし達の救いなんだよ。お前がいてくれたから、わたし達はすべてを受け入れることが出来たのだよ……」
あの声。サファイアを包み込む、あの不思議な歌声。けれど、今だけは不思議がるのをやめよう。だって、これはわたしの子守歌なのだから。わたしだけの、わたしのためだけの子守歌。安らかな眠りを約束してくれる、暖かな歌声。
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「ようこそ大神殿へ御出まし下さいました、巫女姫様。皇妃様も御機嫌麗しく、更に此度の皇妃様の妹姫様の御慶事、重ねてお喜び申し上げます」
最長老を先頭に、巫女達が深く頭を下げる。けれど挨拶を受けたサファイアの方は、戸惑いの表情を浮かべた。
「お願い、最長老様。そんな風に呼ばないで」
「巫女姫様?」
「わたし、まだ斎宮になった訳じゃないもの。だから、巫女姫なんて呼ばないで欲しいの」
「いいえ、巫女姫様。見習いの少女達も申上げておりましたでしょう。わたくしどもにとっては、巫女姫様はすでに御立派な斎宮でいらっしゃいます」
最長老は微笑みを浮かべて呼び名を繰り返した。
「巫女姫様が政ばかりでなく、斎宮の務めについても懸命に学んで下さっていることは、リーナから報告を受けております。どうぞ自信をお持ちになって、わたくしどもの敬意を御受け下さいますように」
「でも、あの。ここは」
尚もサファイアが躊躇うと、
「はい、巫女姫様の御殿でございます」
サファイアがそうとは知らず滞在し、少女達に初めて出逢った、少しばかり苦い思い出のある斎宮御殿だ。そこへ、女官の一人が進み出てこう言った。
「僭越ながら申し上げます。皇女様と皇妃様は、離宮で御静養されることになっておりますので」
「されどあちらではあの時と違って、御二方の御立場もございますし、何より今の御付きの皆様の人数では、離宮では手狭でございましょう」
最長老の後ろに控えている、長老の巫女達からも意見が出る。確かに二人の後ろには離宮の頃よりももっと沢山の女官が付き従っているが、そう簡単に引き下がる者達ではない。
「離宮は皇女様がお育ちになられた、御二方にとって最も大切な場所でございます。何より斎宮就任については未だ御二方とも御承知されておらず、ここでお暮らしになる理由はございません」
アレキサンドラは小さく溜息を吐いた。確かに自分達母娘は皇女と皇妃であると同時に、斎宮候補とその生母でもある。水晶宮と大神殿の諍いは今に始まったことではないが、二人の存在は更に拍車をかけ、和解を願うアルレスの思いとは裏腹にますます激しくなるのかと思うと、気が重くなった。
「巫女姫様! こんにちは、巫女姫様!」
そこへ不意に呼びかけてきた複数の声に、振り向いたサファイアの顔がぱっと明るく輝いた。
「まあま、騒がしいこと。巫女姫様と皇妃様の御前で、はしたないとは思わないのですか」
長老の一人が眉をひそめるが、少女達は次々とサファイアとアレキサンドラの前に駆け寄り、並んで腰をかがめた。
「ようこそいらっしゃいました、巫女姫様! 皇妃様も、この度は本当におめでとうございます」
「有難う、みんな待っていてくれたの?」
サファイアが嬉しそうに訊ねると、あの一番年かさの少女がはきはきと答えた。
「はい、巫女姫様。エルヴァレート王家の婚礼の儀に、巫女姫様と皇妃様が御出席されるとお聴きしてから、みんなで御二人を御待ちしていました」
「わたし、しばらくは大神殿にいられるの。時々でいいから、わたしもみんなの中へ入れてくれる?」
「喜んで。一緒にお花を摘んで遊びましょう」
「ミフォンも一緒にね」
「はい!」
最後は全員そろって答え、手を振りながら少女達は立ち去って行った。事情を知らない長老達は、眼を丸くしてその様子を見ていた。
「お友達が沢山出来てよろしゅうございましたね、皇女様」
同じく様子を見守っていた最長老が、サファイアに話しかけてきた。
「有難う、最長老様。最長老様のおかげで、あの子達と仲良くすることが出来たの」
「わたくしはあの子達に、皇女様の御要望を伝えたまででございますよ」
「母さま、わたしやっぱりここにいるわ」
母の方を振り向きながら、サファイアは嬉しそうに言った。
「ここにいないと、あの子達がわたしの処へ来られないもの。ねえ母さま、いいでしょう」
これで決まった。巫女達はほくそ笑み、女官達は不服そうな表情を浮かべたが、たとえ最長老であっても決してこの御殿に巫女達を入れるまいと、内心決意を固めた。
そんな女達の様子をリーナは少し離れた処で見守りながら、先日のことを思い出していた。決してそんなことをするつもりはなかったが、あの時、扉の隙間からかすかに漏れ出たサファイアとカインの会話を、偶然耳にしてしまったのである。
「母さまはあなたが嫌いよ。カインだって知ってるでしょ」
まさか、幼いサファイアが母とカインの関係に気付いていたなんて、リーナも夢にも思っていなかった。けれどよく考えてみれば、生まれた時から誰よりも一番そばにいるサファイアだからこそ、愛する二人の間に漂う微妙な感情に、いち早く気付くことが出来たのかも知れない。
「ここにもコトルが来るの?」
サファイアが再び嬉しそうな声を上げた。
「リーナ、リーナ聴いた? コトルにまた木の実をあげられるのよ」
カインは政務の都合により、婚儀のすんだ後で来ることになっている。
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「叔母さま、綺麗。とっても綺麗」
「有難う、サファイア」
感嘆の声を上げた姪の頬に、マルグリットは腰をかがめて口付けた。
「本当に。今日のあなたはこの上なく美しいわ、マルグリット」
「有難う、お姉様。でも、お姉様にはやはり敵わなくてよ」
鮮やかな花々に彩られた、豪華な花嫁衣装に身を包んだマルグリットの前には、婚礼の儀へ出席するために正装した姉が座っている。
「自信をお持ちなさいな。わたくしと違ってあなたは、皆に祝福されて婚儀を挙げることが出来るのですもの」
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったのではないのよ、お姉様」
マルグリットは慌てた。
「わたくしはただ、ヴィルヘルム様が満足して下さればそれでいいの。何よりこうして、お姉様とサファイアが来てくれたのですもの、これ以上望むのは贅沢だわ」
「大丈夫よ、わかっているわ」
アレキサンドラが微笑んだ。
「わたくしも、あなたが幸福になってくれることが何より嬉しいの。あなたはわたくしの、たった一人の妹ですもの」
するとそこへ折よくヴィルヘルム本人が姿を現し、サファイアが駆け寄って声をかけた。
「おめでとうございます、叔父さま!」
「有難うございます、皇女様。皇妃様も本日はわたしどものために御出まし下さいまして、心より感謝申し上げます」
「おめでとうございます、ヴィルヘルム様。どうぞ、妹の方を御覧になって下さいませ」
振り向いたヴィルヘルムは、花嫁となる恋人の光り輝くような姿を声もなく見詰め、やがて溜息を洩らした。
「お美しい……! 流石は『美の女神』の妹姫、我がエルヴァレート王家の美貌名高き姉妹の御一人でいらっしゃる」
「あなたにそう仰って頂くのが何より嬉しいですわ、ヴィルヘルム様」
「わたしは未だに信じられないのです、マルグリット様。あなたがこうして、わたしのものになって下さるとは」
「どうぞヴィルヘルム様、もうわたくしに敬語はおやめになって。わたくしはあなたの妻になるのですもの」
「夢ならば覚めないで欲しい。今はただそれを祈るばかりです」
「母さま」
マルグリットを抱きしめて頬に口付けるヴィルヘルムを見詰めながら、サファイアが母に囁いた。
「父さまも母さまと結婚する時、こんな風だったの?」
「まあ、サファイア」
「あなたのお父様はもっとずっと激しかったのよ、サファイア。『竜の血を継ぐ者』の名にふさわしく、まるで風のようにお姉様を攫ってしまったのですもの」
頬を染める姉を振り返りながら、マルグリットが代わりに答えた。
「でもお姉様には、このように立派な婚礼の儀をさせて差し上げることが出来なかったの。それだけが心残りだわ」
「婚礼の儀はなくても、周囲にどれだけ反対されていても、父さまがそばにいて下さればわたくしはとても幸福だったわ」
アレキサンドラは娘を抱き寄せた。
「それに父さまは、何よりも大切なあなたをわたくしに与えて下さったのですもの」
「ヴィルヘルム様? どうかなさいましたの」
不意に、マルグリットが声を上げた。
「いや、少し眩暈がして」
「御顔の色が優れませんわ」
「大丈夫、いささか緊張しているだけでしょう。ところで皇女様と皇妃様に、わたしからもうひとつお願いがあるのですが」
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「皇女様の斎宮就任を御二人が拒まれていることは、わたしも承知しております」
ヴィルヘルムは厳かな様子で言った。
「それでも巫女達の言葉通り、女神リスタニア様を信仰する者にとって皇女様は女神の生まれ変わりであり、正当な斎宮様であらせられるのです。最近では皇女様御自身、斎宮の務めについて懸命に学んでおられるとお聴きしております。我々の婚儀にあたり、皇女様の祝福を御受けしたいとわたしが申し上げたら、御二人はそれも拒まれるでしょうか」
エルヴァレート王家の婚礼の儀は『清めの儀式』と同様、聖堂の前で行われることになっている。王室や皇室の婚儀は大神殿にとっても数十年振りのことで、巫女達も数日前から色めきたっていた。
「神殿はもちろん街路や郊外に至るまで、沢山の花で埋め尽くされているのですって」
「皇妃様の妹姫の婚儀ということで今回は特別に、左神殿と右神殿にリステーニイ皇室とエルヴァレート王室の紋章が掲げられているの」
「皇都でも皇妃様と皇女様の入城の御祝いに使われた山車が、特例としてもう一度練り歩くことになったのだとか」
「マルグリット姫様の御衣裳は、代々エルヴァレートの王妃様が婚儀と即位式のみ御召しになった、とても由緒あるものなのだそうよ」
以前にも述べたが、純潔を守らなければならない巫女ではあっても、その多くを占めるのは年頃の若い娘達である。高貴な王族の婚儀ともなれば、普段は厳粛な大神殿とて華々しく飾り立てられる。日頃の清浄に満ちた祈りの生活から一時的に解放されて、巫女達の心も華やかに彩られ自然と浮足立っていく。
「それよりも聴いていて? 今回の婚儀で急遽、巫女姫様が叔母上様のために祝福を授けることが決まったの。千年振りに御出現された斎宮様が、初めて儀式を執り行われるのよ!」
新斎宮の公務が初めて行われるとあっては、普段は厳めしい長老達も若い巫女達を諫める口を閉ざさざるを得ず、同じように浮き立つ心を抑え切れなかった。そしてそれは皇妃と皇女に付き従ってきた女官達にも、少なからず影響を与えたらしい。皇女の斎宮としての公務に反対するどころか、婚儀への参列を許された者の中に、何とか自分も加えて欲しいとの要望が相次いだ。
アレキサンドラは『清めの儀式』の時にサファイアも使った、皇室専用席に女官達を従えて座った。聖堂の周囲にはすでに最長老を初め主だった巫女、それにエルヴァレート王家や水晶宮の関係者も大勢並んでいる。やがてその中を、エルヴァレート王家に代々受け継がれてきたドレスの裾を引き、マルグリットが愛する人に手を引かれて現れた。
恋人達が進むその先には、姪のサファイアが少し緊張した面持ちで聖堂の泉の前に佇んでいる。サファイアは母のような長いヴェールを被っていたが、そのヴェールこそ巫女達の手によって編まれ清められた、新斎宮の証となるものであった。けれどリーナがそれを持ち込んできた時も、サファイアが皇女の正装をしていたこともあるからだろうか、あえて口を出すような無粋者は女官達の中にもいなかった。
「生きとし生けるすべての者に幸を与えし我が女神リスタ二ア」
やがて二人が静かにその前に跪くと、祝福の言葉を唱える幼い声が聖堂の中に響き渡った。
「今ここに互いの愛情をもって結ばれようとする二人が、大いなる恵みを乞うてあなたの前に跪いております。どうか二人の共に歩む生涯が幸多きものとなりますよう、愛し合う二人をお導き下さいますように」
「なんてお美しいのでしょう。今日の皇女様は、一段と光り輝いて見えますわ」
傍らに控える女官が、溜息と共にそう囁いた。純白のヴェールを通して、サファイアの青い髪が陽射しを浴びて輝いている。こんこんと溢れ出す泉の周りには彩るように沢山の花が咲き乱れて、その前に立つサファイアの姿に、母のアレキサンドラも女官の言葉に頷いた。
この子はやはり、女神の生まれ変わりなのだ。どんなに母親としてアレキサンドラが娘のささやかな幸福を祈っていても、サファイアは生まれながらに女神の化身として生きる運命にある。それから逃れるすべなどあろうはずもない。
サファイアは泉の前に腰をかがめ両手で水をすくうと、跪いている二人の頭にそっとかけた。女神ゆかりの聖水を浴びた二人は、それぞれ斎宮の小さな手を取って口付けをし、永遠の愛を誓うことで正式に結ばれたことになる。
「あなたの斎宮就任を、あなたの両親よりも強く反対していたわたくしだけれど」
マルグリットが囁いた。
「今日ばかりは、あなたが斎宮になることを反対することは出来ないわ。今のあなたの姿は本当に女神そのものよ、サファイア」
「本当に」
ヴィルヘルムも微笑んだ。
「わたしの我儘に応えて下さいまして感謝申し上げます、皇女様。どうかあなたにも女神が多くの幸をお与え下さいますよう、心よりお祈り致しております」
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「母さま、母さま見て、ここに可愛い花が咲いているの」
「あまり奥まで行かないようにしてね、サファイア」
翌日、サファイアは母に『聖なる森』の散策に誘われた。妹の婚儀が無事にすみ落ち着いたからだろうか、母が森へ誘うなどこれまでなかった上に、女官達やリーナの付き添いもなく母娘二人だけということになったから、サファイアの喜びは大きかった。
サファイアははしゃぎつつも、母の視線内から外れないよう気を付けて歩き、ミフォン達も二人の周囲を前に後ろにと、飛び跳ねながらついてくる。森はいつものように木漏れ陽と小鳥の声に溢れ、二人の上にも優しく注いでいた。
「もう少し先まで行っては駄目? コトルがいたら木の実をあげたいの」
「あちらに木の実が沢山落ちているわ。陽当たりもいいし、待っていれば向こうから来てくれるかも知れなくてよ」
そう言ってアレキサンドラは、少し開けた森の中の空地へ娘を連れて行った。そしてサファイアが木の実を拾ったりミフォンと遊んだりしている間、自らは苔むした岩に腰を下ろして休むことにした。
「こんな風に二人で過ごすのは、もしかして初めてではないかしら」
「母さまが森へ誘ってくれるなんて、今までなかったことだもの」
「誰もいない静かな場所で、あなたと二人だけでゆっくり話したかったの」
木漏れ陽の中で微笑む母の瞳の中の揺らめきに、サファイアはそっと首を傾げた。
「先日、あなたは一人で森の中へ入ったそうね」
「カインが話したの?」
サファイアは驚いて声を上げた。
「約束を破ってごめんなさい、母さま。でも」
「心配しないで、あなたが理由もなくそんなことをするような子でないことは、母さまもよくわかっているわ。それに、母さまにそのことを話したのはカインではないの」
「え……?」
確かに、カインは告げ口などする男ではない。けれどそれでは、一体誰が母に話したのだろう。しかしアレキサンドラは、静かな眼差しで戸惑う娘を見守るばかりだ。
「大丈夫よ。あなたが逢ったシャルロットという巫女は、ずっと昔に亡くなっているの」
「亡くなった……?」
「すでにこの世の者ではないことも知らず、ああして森の中を彷徨っているの。とても可哀想な人なのよ」
死んでいる人間……? まさか。サファイアは戸惑った。しかしそう話す母の声に揺るぎはなく、言われてみれば確かにあの巫女は、生きている者にしては何処となく不自然な気配があった。けれど亡霊と呼ぶには生々しくもあり、一体あのシャルロットという巫女は何者なのだろうか。
「あの人、母さまのこと憎んでた」
母の顔をしばらく見詰めてから、サファイアは思い切ったように言った。
「母さまがあの人から父さまを奪ったのだって、そう言ってたの。本当なの、母さま」
「違うわ、そうじゃない」
アレキサンドラが首を振った。
「いいえ、あの人から見ればそうだったのかも知れない。でも違うの、あの人が愛していたのは父さまではないのよ。それに父さまが愛しているのは母さま一人、そして母さまが愛しているのも父さまだけなの」
そんなことはわかっている。父と母がどんなに愛し合っているのかは、二人の娘であるサファイアが一番よく知っている。
「怖い思いをさせてしまってごめんなさいね。でも、もう本当に大丈夫よ。これ以上、あなたをそんな目に遭わせたりはしないわ」
「母さま、わたしがあの人に逢ったこと、誰が母さまに話したの」
けれど母はサファイアを引き寄せて、深く澄んだ眼差しでやはり娘を見詰めるだけだった。
「昨日はとても良かったわ、サファイア。最長老様も喜んでいらしてよ」
不意に母は話題を変えた。
「結局、どんなに母さまが普通の女の子としての幸福を願っていても、あなたは女神の生まれ変わりという運命から逃れることは出来ないのね」
「だから勉強するの。逃げないで一生懸命やっていれば、父さまがそれだけ早く帰って来てくれるかも知れないでしょう」
「サファイア……!」
アレキサンドラの瞳に涙が浮かんだ。
「あなたはいい子ね。本当に小さな頃から母さまや父さまのことを心配して、どんな時も母さまのそばにいてくれて。館を出た時も不安で仕方なかったでしょうに、我儘ひとつ口にしないで」
「わたし、母さまも父さまも大好きだもの。二人の役に立ちたいの」
「それなのに母さまは、大切なあなたを護ることも出来ない」
「そんなこと言わないで、母さま」
サファイアは母の首に腕を廻した。
「ほんとは少し嬉しいの。水晶宮にいる時の母さまは時々、わたしの母さまなのに母さまじゃないみたいに感じてしまうから。でも良かった、やっぱり母さまは母さまだわ」
「愛しているわ、サファイア。どんな時でも母さまは、あなたの母さまなの。それだけは忘れないで」
そしてアレキサンドラは娘の腕をそっと外して、小さな肩を抱いた。
「どんなに母さまがあなたの幸福を願っていても、もうこれ以上母さまはあなたを護ることは出来ない。でもサファイア、だからと言ってあなたが決して幸福になれないという訳ではないわ」
「母さま?」
「青い髪を持つ皇女として生まれ、女神の生まれ変わりと崇められることは、確かに生まれながらに授けられたあなたの運命なのでしょう。でも、運命というのは変えられるものなのよ」
母の澄んだ眼差しに、強い光が差し込んだ。
「母さまもエルヴァレート王家の第一王女として生まれ、幼いうちに王位を継いだ。そしてそれを、変えられない運命として受け入れるしかないと思っていたわ。でも、違うの。父さまに出逢ったことで母さまの運命は変わったのよ」
父を語る時の母は、いかなる時も美しい。
「女王たる者が王位を捨てるなんて、本来であれば決して赦されない国家への反逆行為よ。父さまに出逢う前の母さまなら、そんなことは怖ろしくて考えることも出来なかったでしょう。でも母さまは父さまに出逢ってしまった。そしてそれこそが、母さまに与えられた本当の運命だと知ったの」
恋とは、こんなにも人を変えられるものなのだろうか。こんなにも美しくそして激しい様子の母を、サファイアは今まで見たことがない。
「母さまは父さまと出逢って、生まれながらに与えられた自分の運命を変えたわ。そしてそれと同じことが、娘のあなたにも起こらないはずはない」
「母さま」
「覚えていて、サファイア。あなたにも必ず、あなただけの本当の運命が訪れる時が来るの。母さまの前に父さまが現れたように、あなたの前にもいつか誰かが現れる。その時は母さまの言葉を思い出して、自分の心の声に従いなさい。竜神は娘のあなたにも、あなただけの運命を用意してくれているはずだから」
サファイアはそれには答えず、ただじっと母の顔を見詰めていた。母と同じように、いつか誰かがサファイアをここから連れ出してくれるのだろうか。そんな日が、本当に来るのだろうか。
「それを言いたくて、母さまはここまでわたしを連れて来たの?」
「ええ。でも、それだけではないわ」
アレキサンドラの瞳は異様な輝きを増していく。
「サファイア、父さまが本当は生きていると言った母さまの言葉を、今でも信じていて?」
サファイアが頷く。
「母さま、わたし、父さまに逢いたい。父さまに逢って、父さまの声が聴きたいの。父さまに抱きしめて欲しいの。ねえ母さま、どうすれば父さまに逢えるの。何をすれば、父さまはわたしと母さまの処へ帰って来てくれるの」
「逢えるわ、あなたが信じてさえいれば」
娘の手を取ってアレキサンドラが立ち上がった。
「そうよ、サファイア。父さまに逢いに行きましょう、今すぐに」
「湖へ行くの?」
サファイアは驚いた。皇族であろうと竜神の許しがなければ、湖へ行くことは出来ない。
「大丈夫よ、竜神は必ずわたくし達を迎え入れて下さるわ」
ミフォン達が二人のただならぬ様子を見て、心配そうにその周りをうろついていたが、二人が歩き出すとおとなしくついてきた。自分の手を引いて森の奥へと突き進む母に、サファイアも不安を感じたが、父に逢いに行くというその思いにやがて胸がいっぱいになった。父さまに逢える。あんなにも逢いたがっていた父さまに、やっと逢うことが出来る。
「母さま」
しかし突然、ミフォン達が警戒の声を上げた。それと同時に森の中に薄闇が立ち込めて、あの時と同じ状況が現れたのである。
「シャルロット……!」
母も声を上げた。見ればシャルロットが瞳を赤い憎悪の色に染めて、二人を睨んでいた。
「アレキサンドラ……」
シャルロットは二人を、と言うよりもその眼差しはアレキサンドラ一人に向けられていた。
「赦さない、お前だけは……わたしから皇帝陛下を奪ったお前だけは……」
「近付かないで、シャルロット!」
娘を抱きしめ、アレキサンドラが叫ぶ。
「わたくしを憎みたいのならいくらでも憎めばいい……でもこの子には、サファイアには手を出さないで!」
「母さま」
サファイアは母にしがみ付きながら、リーナが現れないかと急いで周囲を見回した。けれどそんな気配はなく、ただあの時と同じように普段は愛らしいミフォン達が二人を囲み、シャルロットに小さな牙を向けて威嚇している。
「お願い、あなたはもうこの世の人ではないのよ。これ以上生きている者に執着するのはやめて、わたくし達に構わないで」
「あの時、お前さえ陛下の前に現れなければ、わたしはこんな惨めな姿になることはなかった。お前のせいで……すべてお前一人のせいで……!」
助けて、助けてリーナ、カイン。ああ、どうしてこんな時、わたしは何も出来ないの。どうして、大切な母さまを護ることが出来ないの。
「どうしてわからないの。あなたが愛しているのは、アルレス様ではないのよ」
アレキサンドラは叫び続けている。
「それにたとえ、あなたが本当にアルレス様を愛しているのだとしても、わたくしは決してあなたなんかにアルレス様は渡さない。アルレス様はわたくしのものよ、そしてわたくしもアルレス様だけのものなのよ!」
「よくも……!」
シャルロットの周囲に炎が上がった。
「殺してやる! この手でお前の身体を引き裂き、ひとかけらもなく燃やし尽くしてやる!」
「やめて!」
アレキサンドラが悲鳴を上げ、サファイアも叫んだ。
「助けて! お願い誰か、誰か助けて!」
「皇妃様!」
その時、シャルロットと二人の間に入って来たのはリーナではなく、意外にも皇妃の義弟となったヴィルヘルムだった。
「御無事ですか、御二方とも!」
「危ない、叔父さま!」
三人に向かって大きな炎が襲い掛かる。しかし危うい処でヴィルヘルムは、二人を抱えて茂みに飛び込んだ。
「皆様、こちらです!」
「リーナ!」
ようやくにして現れたリーナに、サファイアが飛び付いた。
「良かった、リーナ。やっぱり来てくれたのね」
「遅くなって申し訳ありません、サファイア様……」
リーナはサファイアを抱きしめたが、何故かその顔には後ろめたいような表情が浮かんでいた。
「急いで!」
半ば気を失いかけているアレキサンドラを抱き上げ、ヴィルヘルムが叫んだ。
「確か君は、瞬間移動が出来るのだろう。今すぐ我々をここから連れ出してくれ!」
「無理です!」
悲痛な声でリーナが首を振った。
「わたしの力は、アドルーニアの王太子様ほど強くはありません! 御一方だけならまだしも、御三方まではとても……!」
「逃すものか!」
そうこうしているうちに、シャルロットが四人に追い付いてきた。
「逃さない、アレキサンドラ。お前もお前の娘も、このわたしの手で……!」
「サファイアに手を出さないで!」
我に返ったアレキサンドラが叫び返す。
「わたくしを殺したいのならそうすればいい。でもサファイアだけはやめて。もしもこの子に手を出したら、わたくしだけではなくアルレス様も一生あなたを赦さないわ。御自分の娘に何かあればアルレス様は今度こそ、あなたを二度と戻れない闇の世界へ追い落とすことでしょう」
すると不意に、シャルロットは狂ったような笑い声を上げた。
「何を言い出すかと思えば」
ひとしきり笑った後、狂気に満ちた眼差しでシャルロットは蔑むように言った。
「わたしが何も知らないとでも思っているの、アレキサンドラ。その子が、お前の娘がアルレス様の御子だなどと、よくもそのようなことが言えたものよ。お前の汚らわしい娘はアルレス様ではなく、カイン=イスハルとの間に生まれた子であろう!」




