第二章 北の水晶宮、南の大神殿(中)
重ね重ね、執筆が遅れてしまって申し訳ありません。まだ第二章は途中なのですが、前篇の投稿からもう三か月も経ってしまい、ここでまた一旦、中篇として投稿することに致しました。つたない作品でも、次の投稿を待って下さる方々に、再度心よりお詫び申し上げます。m(_ _)m
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「わたくし、ヴィルヘルム様と婚約したの」
マルグリットがそう告げても、アレキサンドラは動じなかった。
「驚かないのね、お姉様」
「ええ、そうではないかと思っていたの。おめでとう、マルグリット」
「お姉様、有難う」
顔を輝かせて、マルグリットは姉に抱き付いた。
「本当にお姉様が許して下さるのか、ずっと心配していたの」
「どうして」
「だってヴィルヘルム様は、お姉様のことがお好きだったのですもの」
「でも今は、あなたのことを愛しているのでしょう」
「お姉様から譲位されて初めて、わたくしもお姉様の苦しみが理解出来るようになったの」
姉の肩に廻していた腕をゆるめて、マルグリットは姉の顔を覗き込んだ。
「お姉様がどんな思いでエルヴァレートの王位を護っていらしたのか、御身体の弱いお姉様にとってどれだけ大きな負担だったのか、自分が即位して初めてわかったのよ。ごめんなさいね、お姉様」
「謝るようなことではないと思うけれど、その気持ちは嬉しいわ」
「でも、今でもエルヴァレートの人々の心の中にいる女王は、わたくしではなくお姉様の方なのよ」
姉に比べて気の強い妹が、いつになく寂しそうに打ち明けた。
「仕方ないわ。お姉様は幼い頃から王位にあって、女神にもたとえられたような御方ですもの。お姉様の代役は想像以上に大変なもので、わたくしも何度逃げ出したいと思ったか知れない。そんなわたくしを影となり日向となって支えてくれたのが、ヴィルヘルム様だったのよ」
妹の頬が薔薇色に染まっていくのを、アレキサンドラは微笑ましく見詰めた。
「わたくし達の頭痛の種だったあの老いぼれ宰相が失脚してから、エルヴァレートでは五人の執政官を置くことになったのは、お姉様も御存知ね。ヴィルヘルム様は名門ミュラー家の御出身として、お若い時から政治家の実績も積んでいらしたし、第一執政に選ばれたことにも異議を申し出る者はいなかったわ。でもわたくしは、あの方の求婚を拒まれたお姉様の妹であるわたくしを、ヴィルヘルム様はきっと御不快に思われているだろうと思ったの。けれどヴィルヘルム様はそんな素振りは一切見せず、どんな時でもわたくしのそばにいて下さって……」
「嬉しいわ」
アレキサンドラは心からそう思った。
「あなたが、あなたにとってただ一人の方にめぐり逢えたことを……あなたが、あなただけの幸福を見付けたことを……」
「有難う、お姉様。他の誰よりも、お姉様にそう仰って頂けるのが嬉しいわ」
マルグリットは再び姉に抱き付いた。
「でもわたくし、お姉様も御存知のように子供を産めない身体でしょう」
「マルグリット……」
「どんなに望んでもわたくしは、ヴィルヘルム様の御子を産むことは出来ない。そんなわたくしがあの方のために唯一してあげられるのは、お姉様の御子であるサファイアの即位を実現させることなの」
姉を見詰めるマルグリットの顔は真剣だった。
「ごめんなさい、お姉様。幼いサファイアに王位の重責を負わせたくないと願う、お姉様の御気持ちはよくわかっているつもりよ。でもわたくし、これだけは決して譲れない。皇帝であるお義兄様と女王であるお姉様との間に、しかも女神の姿そのままに生まれたサファイアの即位は、わたくしの唯一の希望なの。いずれあの子が立派に御二人の後を継いでくれると思っていたからこそ、わたくしも今まで頑張って来られたのよ。そしてそれは、ヴィルヘルム様の夢でもあるの」
「ヴィルヘルム様の……?」
「先程の御披露目、ヴィルヘルム様もとても感動していらしたわ。噂以上にサファイアがお姉様に生き写しなので、本当に驚いてしまった。皇女様が御成長された御姿と即位を、自分もぜひこの眼で見たいと」
「そう」
「サファイアは、ヴィルヘルム様がかつて愛していたお姉様が御産みになった、たった一人の娘ですもの。きっとヴィルヘルム様も、あの子を御自分の御子のように思って下さっているのよ」
マルグリットがそう話している処へ、女官が入って来た。
「サファイアの様子はどうなの、熱は下がって?」
母親よりも慌てた様子で、マルグリットが立ち上がりながら訊ねた。
「はい。先程御目覚めになられ、皇妃様を呼んでいらっしゃいます」
「すぐに参ります」
アレキサンドラが妹と共に娘の部屋へ行くと、サファイアはカインに付き添われ、大きな寝台の中で小さくうずくまるようにして横になっていた。
「母さま」
「良かったこと、早く熱が下がって……気分はどう、サファイア」
「もう大丈夫」
「人の少ない静かな館で暮らしていたあなたが、いきなりあんなに大勢の人間の注目を浴びたのですもの、緊張してしまったのは仕方ないわ。でもよく頑張ったわね、サファイア」
マルグリットが優しくねぎらいの言葉をかけたが、サファイアは寂しそうに目を伏せるだけだった。
「ごめんなさい、母さま」
「どうして謝るの、サファイア」
「ごめんなさい」
サファイアは、それしか言わなかった。
アレキサンドラとサファイアは、あの後カインや水晶宮の使節団に厳重に護られ、アルレスの皇宮である北の水晶宮へ入った。とは言え熱に浮かされていたサファイアは、皇室専用の乗り物に乗ったことも、窓から見えた森の風景や皇都に立ち並ぶ巨大な建造物群も、水晶宮の立派な門から表玄関にまで溢れていた、皇妃と皇女を出迎える多くの人々のことも覚えていなかった。目覚めた時もカインがそばに付いていたけれど、初めて見る大きな部屋と寝台に戸惑っているようだった。
「わかったわ、さっきの失礼な人達のことを気にしているのね」
マルグリットが頷くように言った。
「大丈夫よ、サファイア。お姉様やあなたを誹謗中傷していたのは、ルアレティスとナージェの使節団だわ。あの人達は昔、自分の王族の姫君をあなたのお父様の妃にしようと目論んでいたの。それが失敗に終わってしまったから、お姉様のことが妬ましいのよ。お姉様ほど皇妃にふさわしい御方は他にいないことは、先程の御披露目でよくわかったでしょうにね。いいえ、だからこそ余計に悔しくて仕方ないのかも知れないわ」
「皇女様はお疲れなのでございましょう、しばらくお寝みになられた方が」
女官の言葉に頷いて、アレキサンドラは指示を出した。
「サファイアをわたくしの部屋へ」
「御待ち下さい」
カインが口を開いた。
「御部屋へ御移りになる前に、ぜひとも御二人に御覧になって頂きたいものがあるのです」
そう言ってサファイアを抱き上げ、カインが案内したのは宮殿の奥の、サファイアとアレキサンドラの巨大な肖像画が飾られている一室だった。
サファイアはまだひとつかふたつ、母の膝に抱かれてあどけない笑顔を見せている。アレキサンドラもまた、サファイアが初めて見るようなこの上なく美しい微笑みを浮かべていて、この頃が母にとって最も幸福な時代であったことを物語っていた。
「カイン、あなたが初めてエルヴァレートまで届けてくれた肖像画と同じものね」
マルグリットが言った。
「いえ、こちらの方が少し大きいわ。わたくし、二人の肖像画はすべて王宮の画廊に保管しているのだけれど、実は今、エルヴァレート内外から見学の要望が殺到しているの。期間限定で特別公開してもいいかしら、お姉様」
「御二人の肖像画はすべて、画家としての腕はもちろん誠実な人柄を皇帝陛下に認められ、特別に離宮への出入りを許された者が描いたものです」
カインが説明する。
「マルグリット様への贈り物として用意されたものを、陛下も欲しいと望まれて、御自分の私室に飾らせたのです」
「父さまが?」
「ええ。離宮へ行くことが出来ない日は、いつもこの肖像画の前で過ごしておいででした。もちろんわたし以外に、この部屋のことを知る者はおりません」
サファイアが母の方を振り向くと、アレキサンドラはそっと涙を抑えていた。言葉はなくても微笑みを交わすだけで、母の気持ちは手に取るように伝わった。
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「しばらくは母さまの御部屋で一緒に寝みましょう、サファイア」
隣に横たわりながらアレキサンドラがそう言うと、サファイアの顔が輝いた。
「いいの、母さま」
「その方が、二人でゆっくり過ごすことが出来るでしょう」
三匹のミフォンも、二人の周囲に寝場所を決めてそれぞれ丸くなる。
「父さまも一緒ね」
「ええ」
二人が横たわる寝台の前には、離宮から運ばれてきた父の肖像画が飾られている。サファイアの顔にも、ようやく安堵の表情が浮かんだ。
「わたしの御部屋もそうだけど、母さまの御部屋も大きくて立派ね」
サファイアは、上掛けの中から眼だけを出してそっと見廻した。
「だけど、怖い。今は母さまがいてくれるから大丈夫だけど、さっきは少し怖かったの」
部屋の中はすべて天井も壁も、寝台を初めとする家具や調度も重厚な彫刻が施されていて、確かにサファイアのような繊細な少女には、威圧感とわずかばかりの恐怖の対象となるのかも知れない。
「慣れるまで、母さまの御部屋で一緒に過ごすといいわ」
「ほんと?」
「慣れないのは母さまも同じよ」
サファイアは嬉しそうに母に抱き付いたが、すぐにまた沈んだ顔に戻った。
「ごめんなさい、母さま」
「どうしてそんなに謝ってばかりいるの、サファイア」
「だってわたし、何も出来ないのだもの。母さまを心配させているだけで」
「御披露目のことをまだ気にしているの。あなたは何も心配しなくていいと、マルグリットも言っていたでしょう」
「でも、わたしにも父さまみたいな力があったら、母さまのお手伝いが出来るのに」
「そんなことを言っては駄目」
アレキサンドラは哀し気な表情を浮かべて、サファイアを抱き寄せた。
「力があるとかないとか、そんなことは少しも大切ではないのよ。大切なのは、その力を使う人の心なの。それに力があることが、必ずしも幸福をもたらすとは限らないわ」
「最長老様もそう言ってたのよ、母さま。巫女になりたくてなった訳ではないって」
「父さまも最長老様も、力がある故に不幸を背負ってしまったのですもの。母さまは、あなたにまでそんな目に遭って欲しくはないわ」
「でも」
「あなたは今のままでいい。お花が好きで、ミフォンが好きで、父さまと母さまのことが何よりも大好きなサファイアのままでいいの。それが一番大切なことだから」
「だけど、みんなはそうじゃないでしょう」
サファイアの声は沈んだままだった。
「みんなは、わたしにも父さまと同じ力があるのが当然だと思っているの。こんな髪を持っているくせに、どうして巫女の力がないのか不満なの」
「でも、それにふさわしい心を持たない人が力を操れば、皆が不幸になってしまうのよ」
娘の髪を撫でながら、アレキサンドラが言った。
「正直に言えば母さまも、女神様はどうしてあなたに巫女の力をお授けにならなかったのだろうと、考えていたこともあるわ。でも今は、あなたが普通の女の子で良かったと思っているの。リステーニイの皇女もエルヴァレートの王女も関係ない、母さまの大切なたった一人の女の子で」
「母さま」
「それに、あそこにいたのは誹謗中傷する人ばかりではないわ。アドルーニアのハーシェル様は、ずっとあなたを励ましてくれていたのでしょう」
「母さまが現れた時、泣いていた人が沢山いたわ」
「わたくし達を傷付けようとする人もいれば、護ってくれる人もいる。あなたは、あなたを愛している人のために出来ることをすればいいの」
「母さま、ひとつだけ訊いてもいい?」
「何を?」
「ヴィルヘルム執政官っていう人のこと、母さまは好きだったの?」
「……ハーシェル様に訊いたの?」
サファイアが頷く。
「確かにあの方は、母さまの求婚者だった方達の一人よ。でも今は、マルグリットの婚約者なの」
「母さまと結婚出来なかったから、叔母さまと結婚するの?」
「ヴィルヘルム様はとても優秀で優しい御方よ。今までずっとマルグリットを支えてくれて、それがいつか互いの愛情に変わったの」
「もし母さまが父さまに逢わなかったら、母さまはあの人と結婚してた?」
少し驚いたような表情を浮かべてから、アレキサンドラはゆっくりと首を振った。
「ヴィルヘルム様も他の方も、母さまに沢山の愛の言葉を贈ってくれたわ。でも、母さまの心を動かすことが出来たのは父さまだけなの」
「きっと竜が、その人達の邪魔をしたのね」
「そうね」
娘の言葉に思わず微笑む。
「サファイア、母さまは父さまの囚われ人なの」
「母さま?」
「母さまは、あの湖で父さまに囚われたの。だから母さまは、父さま以外の方を愛することは出来ないのよ」
サファイアは母が浮かべた、その穏やかな微笑みを見詰めた。それは誰よりも母が父のことを思う時だけ、父だけが与えることの出来る幸福に満ちた表情だった。
「母さま、もうわたし怖がるのはやめるわ」
「サファイア?」
「わたし、父さまと約束したの。父さまの代わりに母さまのこと護るって。だからいつまでも怖がっていないで、皇帝のことも斎宮のことも沢山勉強して、母さまにこれ以上心配させないようにするわ」
アレキサンドラは娘の瞳の奥に、以前見た輝きがあるのを認めた。
「父さまがいつか帰って来てくれるまで、わたしが母さまを護るの。父さまと母さまの役に立ちたいの」
「有難う、サファイア」
涙を浮かべ、娘の額に口付ける。
「もうお寝みなさい。明日からしばらく、歓迎や謁見の儀式が続くそうだから」
「はい、母さま」
少し前からサファイアの耳には、あの心地よいメロディが流れていた。すぐに安らかな寝息を立て始めた娘の寝顔を、アレキサンドラは愛情を込めて見守った。
「あなたがお帰り下さるまで」
いつの間にか、アレキサンドラが横たわる反対側に娘を挟んだかたちで腰を下ろし、共に娘を見守るその人に向かって声をかけた。
「わたくしがこの子を護ります。あなたのために」
「ヴィルヘルム公」
「え?」
「わたしと逢わなければ、お前はあの男と結婚していたのか」
アレキサンドラが急いで首を振る。
「わたくしが愛するのはあなただけです。今までも、そしてこれからも」
与えられた答えは、心の籠った深く長い口付けだった。
12
「ここにいたんだね」
「ハーシェル兄さま」
入口に現れたハーシェルの姿に、サファイアは笑顔になった。
「皇妃様は?」
「カインと午後の儀式の打ち合わせをしているの」
午前中は歓迎の儀、午後は高官達との謁見の儀。他にも沢山の行事や公務が、アレキサンドラとサファイアの前に山積みとなっている。
「しばらくは落ち着きそうにないね」
「でも兄さまの声がずっと聴こえていたから、今度は熱を出さなくてすんだの」
「ここには、君を誹謗中傷する輩はいないしね。その衣装、よく似合っているよ」
今日初めて、サファイアは皇女の衣装に袖を通した。頭にはリボンの代わりに白い髪飾りを付け、純白のドレスの裾と袖は、母ほどではないけれど長くあつらえてある。そしてその両方に、皇女らしく沢山の花の刺繍が施されていた。
「こんな髪だから、白い服しか似合わないの」
「そんなことないよ、とても綺麗だよ」
「有難う」
サファイアの頬が薔薇色に染まるのを、ハーシェルは笑顔で見守った。
「昨夜はよく眠れた?」
「うん。慣れるまでは、母さまの御部屋で一緒に眠ることにしたから」
「そうだね、その方がいい」
「それよりも兄さま、アドルーニアへ帰るって本当なの?」
「寂しいと思ってくれるの?」
「だって、せっかくわたしにも兄さまが出来たのに」
そう言って、サファイアは俯いてしまった。
「どうしてもアドルーニアへ帰らなくてはいけないの、兄さま。ここにずっといられないの?」
「強くなるんじゃなかったの、サファイア。だったらそんな顔しちゃ駄目だよ」
ハーシェルはサファイアの身長まで頭を下げると、その顔を覗き込んだ。
「皇妃様のためにここへ来たんじゃないか。それに君は、独りなんかじゃないだろう」
この言葉にはっとして、サファイアは急いで顔を上げた。
「ごめんなさい、兄さま。母さまを心配させたらいけないのだものね」
「そう、その調子だよ。それにしても、ミフォン達はすっかり君に懐いてしまったね」
三匹とも、サファイアの小さな肩を自分達の定位置に決めたらしく、ミフォンは何処へ行っても必ず付いてくる。
「ミフォンを連れて来てくれて本当に有難う、兄さま。この子達がいてくれたおかげで、巫女見習いの女の子達とも仲良くなれたのよ」
「喜んでもらえて良かった。少し悪戯好きなのが玉に瑕だけどね」
ハーシェルがそう言っている間も、サファイアの青い髪にじゃれたりしている。
「ずっと、この絵を見ていたの?」
二人が今いる部屋は、昨日初めて入った父の私室だった。
「父さま、ここには誰も入ることを許さなかったの」
今よりも小さかった頃の自分の笑顔を見詰めながら、サファイアは説明した。
「逢えない時でも父さまは、ここでずっとわたしや母さまのことを思っていたの」
「この絵を見ただけで、皇帝陛下がどれほど君達母娘を愛していらしたかがわかるよ。そして、君と皇妃様がどんなに幸福だったかということも」
「母さまと出逢うまで、父さまはこんなに大きなお城の中で、どんな風に過ごしていたのかしら」
呟くようなその言葉に思わず振り返ったハーシェルは、サファイアの顔を見詰めた。
「わたしと同じくらいの時、父さまはもう皇帝だったのでしょう。おじいさまもおばあさまも死んで、たった独りで」
「でも君は、独りなんかじゃない」
「だけど、怖い。怖くて怖くてたまらないの。母さまもカインもいなかったら、とっくにこんな処逃げ出してた。やっぱりわたし、父さまや母さまみたいになれない」
「焦っては駄目だ。皇妃様も仰っていたじゃないか、君と御両親の時とは状況が違うと」
「逃げられるのなら、今すぐここから逃げ出したい。本当にそう思うの」
ハーシェルがそっと抱き寄せると、そのままサファイアはハーシェルの腰にしがみ付いた。
「……アドルーニアへ来る?」
しばらくそうしてから、不意に囁くようにハーシェルが言った。
「僕と一緒に、アドルーニアへ来る? そうすれば、女帝にも斎宮にもならなくてすむよ」
「ハーシェル兄さま」
「僕はアドルーニアの王位継承者であると同時に、アドルーニア軍の総帥も務めている。君の即位を止められるだけの力はあるつもりだよ」
「有難う、兄さま」
サファイアの眼に涙が浮かんだ。今は、どんな言葉でも心にしみる。
「でも、駄目。だって母さまは、父さまがいるリステーニイを離れられないのだもの。だからわたしも、何処へも行くことは出来ないの」
「サファイア」
「それにわたし、父さまと約束しているの。父さまの代わりに、母さまを護るって」
父親譲りの瞳の色が深まっていくのを、ハーシェルは見詰めた。
「父さまが、ここでずっと独りぼっちで過ごしてきたことを思うと、やっぱり逃げるなんて出来ない。館へ行けない時もわたしと母さまのことを思ってくれていた、父さまの気持ちを大切にしたいの」
臆病な子だと思っていた。いずれ、この巨大な惑星国家群の頂点に立つ身としては、あまりにも頼りなく幼く、寂しがり屋の甘えっ子で臆病過ぎる嫌いがあった。今も怯えていることに変わりはないが、それでも『聖帝』と呼ばれた父の想いを胸に、サファイアは『女神の代理人』への階段を上がろうとしている。
「巫女見習いの女の子達は、わたしのことを『巫女姫様』って呼ぶの。わたしには、巫女の力なんて何もないのに。でもあの子達や大神殿の巫女達にとっては、わたしはやっぱり斎宮なの。女神様の生まれ変わりなの。何も出来ないとわかってて、それでもわたしをそう呼んでくれるあの子達の気持ちにも、少しでも応えたいって思うの」
「君の気持ちはよくわかったよ」
ハーシェルが微笑んだ。
「その調子だ、サファイア。誰かのためにと思うことが、何よりも大切なことだからね」
「兄さまもいつかは、アドルーニアの王位を継ぐのでしょう」
「そうだね」
「でも兄さまは、わたしのように怖がったりしないわね」
「怖いとか怖くないとか、そんなことを言っていたら身が持たないよ。これでも一応軍人だし」
「兄さまが、戦場へ行くことなんてあるの?」
サファイアは眼を瞠らせた。
「アドルーニアは惑星国家群の中で最も辺境にあって、以前にも言ったように一年の殆どを雪と氷に覆われている星だ。その代わり鉱山などの天然資源は豊富で、ミフォンのように貴重な動植物にも恵まれている。だから皇妃様の実家であるエルヴァレート王家と並び、我がアドルーニア王家の地位も諸王家の中では決して低くはない。その上、父は友人として皇帝陛下の御信頼を頂いている。けれども残念なことに住人達の中には、自分達の始祖は心ならずもリステーニイから引き離されて辺境に追われたと、逆恨みする輩がいるのも事実だ」
厳しい表情を浮かべたハーシェルの顔を、サファイアは驚きをもって見上げた。
「連中は反王家、反皇帝派を掲げてアドルーニアの自治権を狙い、各地でテロ行為を繰り返す過激派組織だ。情けないことに、秘かに連中を支援している貴族や資産家も多い。それらから得た潤沢な資金のおかげで、今ではアドルーニア軍に対抗出来る軍事力すら持っている」
「その人達のこと憎んでいるの、兄さま……」
「わからない。でも何度もテロの現場や紛争地へも行ったし、連中を沢山殺しもした」
「嘘……! だって兄さまは、とても優しい人なのに」
「ああいう処はね、誰でも容易く人殺しになれる処なんだよ」
感情のないその声に、サファイアは返す言葉も見付からなかった。
「館へ行ったあの日から間もなく、僕は軍の総帥に選出された。君の父上と同じように、神通力があるというだけで選ばれたんだ。当時は有能な軍人が次々と殺されて、王太子とはいえまだ十歳にもならない子供を引っ張り出さなければならないほど、事態が切迫してもいたからね。もちろん、初めは抵抗したよ。だけど混乱し動揺する僕に、父がこう言ったんだ。『心ならずも得た力ではあっても、それが与えられた意味は必ず何処かにある。お前の場合は、不幸にも戦場であるのかも知れない。けれどたとえ望んだことではなくても、王位継承者として生まれたからにはその意味を探すのがお前の務めだ』と」
不意にハーシェルは笑顔を浮かべ、サファイアを見下ろした。
「だから君の気持ちは、誰よりもよくわかっているつもりだよ。だけど君が父上と母上のために努力しようとするのと同じで、僕も父や他のアドルーニアを愛する人々のために、自分が出来ることは精一杯しようと思う。僕の母は、僕と父を置いてアドルーニアを去ってしまったし」
「え……?」
「父は君の母上と同じで、身体があまり丈夫な方ではなくてね。反対に母という人は気性が激しくて、政略的な意味合いが強かった二人の結婚は、初めから破綻していたんだろう。僕が生まれてすぐに、母は他に恋人が出来て出て行った」
どうしてこの人は、こんなにも穏やかで優しい眼差しでわたしを見るんだろう。同じような立場ではあってもサファイアは母やカイン達に愛され、何よりも大切に護られているというのに。
「ごめんなさい、兄さま……!」
サファイアはもう一度、ハーシェルにしがみ付いた。
「わたしも、兄さまみたいになりたい。兄さまみたいに強くなって、父さまや母さまや、カインやみんなのことを護れるようになりたいの」
「君ならきっと出来るよ」
「ほんとにそう思う?」
ハーシェルは、力強く頷いてくれた。
13
『聖なる森』を挟んで南に位置するのが一大宗教都市を誇る大神殿、その真北に位置するのは皇都の中心である水晶宮。そのどちらがより巨大であるかなど、数日滞在したくらいではわかるはずもない。与えられた部屋の窓から見えるのは、陽の光を受けて輝く水晶の城壁と立ち並ぶ無数の尖塔ばかりで、自分が一体宮殿の何処にいるのか見当もつかない。
「皇帝陛下が政務をおとりになるのが正宮殿、その後ろにある奥宮殿が、皇室の方々のお住まいになります」
ここへ来てから数日後に、ようやく簡単な説明を受けることが出来た。宮廷内だけでもすべてを把握するには数か月を要すと言うが、他にも皇帝に仕える高官や女官達が控えるいくつかの別宮殿、皇室を護る近衛兵団が詰めている左右の近衛庁舎などがあり、更には貴族や軍人の館が建ち並ぶ区域、水晶宮に仕える人々やその家族の居住区域を加えれば、その大きさは大神殿に十分匹敵する。
予想していたこととは言え、やはり水晶宮の人々のリーナへの風当たりは強かった。誰もが初めから、リーナの存在を全く無視していた。サファイアが御披露目で体調を崩したこともあり、女官達は容易く皇妃と皇女からリーナを引き離してしまったが、それでもリーナは、水晶宮の一団に囲まれた二人の後を必死に追い、人々からの冷たい視線にも怯まなかった。
与えられた部屋は別宮殿でも宮廷から最も離れた処で、リーナの身の回りの世話をするために女官見習いの少女が付けられたが、周囲の人間から言い含められているらしく、初めはリーナが何を訊ねても殆ど返事もしてくれなかった。
「わたしは何も知りません」
おどおどした様子でそれだけ答えて、逃げるように部屋を出てしまう。三度の食事は運んでくれるものの、後は一人部屋の中に放り出されたままで、流石に初めのうちはリーナも途方に暮れた。
「皇妃様と皇女様の歓迎の儀は、水晶宮始まって以来と言われるほどの華やかなものだったそうですよ」
それでも、初めは怯えたような眼差しでリーナを見詰めていた少女も、内心はリーナに興味津々だったらしく、やがて少しずつ言葉を交わすようになった。
「ほんの少しだけど、わたしも皇妃様と皇女様の御姿を拝見することが出来ました。御二人とも、夢のようにお綺麗で」
「あなたは、皇女様に御仕えしていないの?」
「わたしなんてようやく、奥宮殿への立ち入りを許されたばかりです。皇妃様や皇女様のおそばに、近寄ることも出来ません」
少女はとんでもないことと言うように、首を振った。
「でもリーナ様は、皇女様の教育係でしょう。皇女様ってどんな御方なのですか」
時間だけは十分あるので、リーナは眼を輝かせながら矢継ぎ早に質問する少女に、サファイアの話を心行くまで聴かせてやった。
けれど、いつまでもこのままの状態が続くはずもないことを、リーナは知っていた。焦ることはない。わたしは、わたしを必要としてくれる方々のためにここへ来たのだから。たとえ、少しでも宮殿内を把握しようと部屋を出て歩いていると、「あの娘はいつまでここにいる」などと罵る高官の声が聴こえても、思い切って声をかけても振り向きもしない女官がいても、そんなことを気にする必要は全くない。いずれは向こうから、リーナを必要としてくる。
「皇女様が御呼びだそうですよ」
アレキサンドラに新しく付いた女官の一人が、面白くもなさそうな顔をしてリーナを迎えに来たのは、ここへ来て十日以上も過ぎた頃だろうか。
「リーナ!」
あの青く輝く髪をなびかせながら、奥宮殿の最奥にある部屋から飛び出してきた皇女を、リーナは優しく抱き留めた。
「リーナ、リーナ、良かった。やっぱりここにいてくれたのね」
更には眼に涙さえ浮かべながら、サファイアはこう言った。
「誰かが言っていたのよ、リーナが大神殿へ帰ってしまったって。でもわたし、リーナはわたしの姉さまなのだから絶対ここにいるはずだって、そんな話信じなかったの。母さまも頷いて、リーナをここへ連れて来るよう言ってくれたの」
顔を上げれば、離宮の頃からの者も含めた大勢の女官達は皆、不服そうな表情でこちらを見ている。けれど玉座に座っているアレキサンドラや、そのそばに控えるカインは、以前と変わらない優しい微笑みを浮かべていた。
「ハーシェル兄さまはまたすぐ来るよって言ってくれたけど、もう帰ってしまったの。でも、リーナはずっとここにいてくれるわよね。黙って大神殿へ帰ったりしないわよね?」
「はい」
そんなことを決してするものか、あなたがわたしを必要としてくれる限りは。
「わたしはサファイア様のおそばにいます。今までも、そしてこれからも」
14
「こっちよ、リーナ。早く」
「御召し物にお気を付けて、サファイア様。そんなに急いでは転んでしまいますよ」
リーナが注意するが、サファイアは長い裾など気にも留めず、暖かい陽射しの差し込む庭を軽やかに駆けて行く。ミフォン達も嬉しそうに、その周りを飛び跳ねながら付いている。
幼い皇女に威圧感を与えてしまうほど、巨大で重圧的な造りをしている水晶宮だが、ただひとつサファイアを喜ばせたのは、大神殿と同様『聖なる森』に接するように建てられているおかげで、庭は何処も豊かな緑と美しい花々に彩られていた。ことにアレキサンドラ、皇妃の部屋の前には涼やかな水が流れ込む大きな池があり、鱗をきらめかせて泳ぐ魚の姿も見られた。更にそこから少し歩いた先には、サファイアの部屋へと続くいくつかの広い石段があって、そのひとつからは池より流れ落ちる小さな滝を望むことも出来た。
「ほら、あそこよ!」
庭の周囲は鬱蒼とした木立が囲み、特にサファイアが指差した先は、奥の方まで巨大な大木が立ち並んでいた。
「『聖なる森』への入口ですね」
リーナが頷きながら答える。
「そうよ!」
サファイアはますます眼を輝かせて言った。
「母さまと散歩していて気が付いたの。きっと父さまは、ここからわたしと母さまの処へ通っていたのよ」
水晶宮へ移り住む前から、庭の散策はアレキサンドラとサファイアの習慣だったが、離宮よりも遥かに広く美しい奥宮殿の庭は早くも、特殊な立場に置かれた母娘の心を慰めてくれる大切な場所となっていた。
「それに、湖へも行けるはずだわ」
居並ぶ大木の先は初めて大神殿を訪れた時と同じように、鮮やかな緑とやわらかな木漏れ陽、そして小鳥の声に溢れている。
「母さまと約束したのよ。いつか二人で、父さまの竜に逢いに行くって。だって父さまはきっと、湖でわたしと母さまを待っているのだもの」
「あの湖は、誰もが簡単に行ける場所ではありません」
リーナが説明する。
「不思議なことですが、湖が訪れるべき時に訪れるべき方を呼ぶと言われています。いつかきっとサファイア様も、必ず湖に呼ばれる時が参りますよ」
「有難う」
そこでふと、森の方を振り返りながらサファイアが訊ねた。
「何か、聴こえない?」
「え?」
「リーナは聴こえない? 何だか、誰かが泣いているような気がするの」
そう言われてリーナも同じように耳を澄ませてみたが、聴こえてくるのは小鳥のさえずりとかすかな葉擦れの音だけである。
「気のせいではないでしょうか、わたしには何も」
「そういえば母さまと近くまで来た時も、誰かの声が聴こえたの。母さまも、何も聴こえないって言っていたのだけど」
サファイアは森の前に立ち尽くし、そのまま動かなくなってしまった。ミフォンも落ち着かない様子だが、何度耳を澄ませてみてもリーナには何も聴こえない。
「御庭へ戻りましょう、サファイア様。森の中へ入ってはいけないと、日頃から皇妃様に言われていたことお忘れですか」
食い入るように森を見詰めるサファイアの姿に、不安を感じたリーナが明るい声で促すと、サファイアも再び笑顔になった。
「そのドレス、とても良くお似合いです」
庭へ戻り、二人で池の前に腰を下ろしながらリーナが言った。
「有難う、ハーシェル兄さまも褒めてくれたの」
「以前から思っていたことですが、サファイア様は純白の御召し物が一番お似合いになりますね。青い御髪が良く映えますもの。そうそう、皇都でも御二人の歓迎の儀と、サファイア様の生誕式を祝うお祭りが五日に渡って行われたそうですよ。沢山の花と水晶で作られた山車が賑やかに練り歩いて、都中の人達が御二人の幸福と健康をお祈りしたと聴いています」
「その人達もきっと、わたしを女神様の生まれ変わりだと思っているのね」
顔に一瞬影が差したが、サファイアはすぐにそれを打ち消した。
「ねえリーナ、わたし決めたの。父さまのことも斎宮のこともちゃんと勉強して、わたしのことを大切に思っていてくれる人達の気持ちに応えようって」
「サファイア様」
「そうすればきっと、父さまも喜んでくれるわ。一生懸命勉強して母さまのお手伝いが出来るようになれば、それだけ早く父さまが帰って来てくれるかも知れない。そうよね、リーナ。きっとそうよね」
顔を輝かせて話すサファイアの様子に、リーナも何かを感じた。しばらく離れていた間に、いやそれよりも前から、サファイアの中で何かが少しずつ変わってきている。
「強くなられましたね、サファイア様」
微笑みを浮かべてリーナが言った。
「離宮では怯えて泣いてばかりいらしたのに、今はとても強くなっていらっしゃる」
「今もほんとは、少し怖いわ」
サファイアが打ち明けた。
「でもわたし、ハーシェル兄さまとも約束したの。兄さまみたいに強くなって、母さまや大好きな人達を護れるようになりたいの。兄さまも、その気持ちがとても大切なんだよって言ってくれたわ」
「その通りです、サファイア様。愛する方のためにと思う気持ちがあってこそ、皇帝も斎宮も務められるのだと思います」
「だからリーナ、教えて。大神殿のこと、斎宮のこと、リーナが知っていることを全部教えて欲しいの」
「サファイア様、わたしはおそばへ上がる時、斎宮としての教養をあなたに施すよう、最長老様から命じられておりました」
二人のそばには、サファイア付きの女官が七人も控えている。だがどんなに冷たい視線で睨まれても、リーナは一向に構わなかった。
「わたしが大神殿へ入って間もなく、わたしの祖母は危篤状態になりました。けれどあなたが大神殿の何処かにいらっしゃるという、秘かな噂を耳にしていたわたしは、最長老様に直訴したのです。どうか斎宮様に御逢いさせて下さい、わたしの祖母を助けて下さいと言って」
思いがけないリーナの打ち明け話に、サファイアは眼を瞠らせた。
「以前にも申し上げましたが、斎宮は大神殿の巫女の中で最も強大な力を持ち、死にかけている人の生命をも救うと言われています。わたしはあの時、あなたに御逢いさえすれば祖母は助かると思い込んでいたのです」
「……リーナ」
「申し訳ありません。でもサファイア様を困らせるつもりで、こんなお話をお聴かせしている訳ではないのです。それにあの時、あなたはまだ生まれたばかり。赤子のあなたに、わたしの祖母を救うことなど出来るはずもありません」
「今だって出来ないわ」
「でもわたしは、女神リスタニア様と同じ色の御髪を持つ、女神様の生まれ変わりのような皇女様が本当にいらっしゃると、最長老様から打ち明けられたあの時から、いつの日かその御方に御逢い出来る日を夢に見てきました。力があるとかないとか、そんなことは何も関係ありません。大切なのはあなたが今ここに、あなた自身がこうして存在しているということです」
リーナは力強く言った。
「初めて御逢いしたあの時、サファイア様はその瞳を輝かせて、女神様と竜神のお話をしていらっしゃいました。巫女にとって、斎宮にとって何よりも大切なのは、力があることではなく純粋で真摯な信仰心を持っていることです。そしてあなたはわたしの祖母がすでに亡いことや、わたしが天涯孤独の身であることを、自分のことのように哀しんで下さいました。あなたはすでに、斎宮にふさわしい十分な資格をお持ちでいらっしゃいます」
「リーナ……!」
サファイアは、涙を浮かべてリーナに抱き付いた。
15
「母さま」
リーナと一緒に花を摘んでいたサファイアが、ふと顔を上げて母を呼んだ。
庭先のテーブルでペンを走らせていたアレキサンドラは、娘の声に振り向くと石段に佇む人の姿を認めた。その人は先程からずっとそこにいたらしく、母娘に気付かれると深く頭を下げた。
「ようこそおいで下さいました、ヴィルヘルム様」
「失礼致します、女王陛下。キアス宰相閣下より、陛下と皇女様に拝謁する許可を頂き参上致しました」
16
「こんにちは、ヴィルヘルム叔父さま」
サファイアの言葉に、ヴィルヘルムは戸惑いの表情を浮かべた。
「叔父さま?」
「だってあなたは、マルグリット叔母さまと結婚するのでしょう。そうなったらあなたは、わたしの叔父さまになるのだもの」
「皇女様にそう御呼び頂けるとは光栄です」
ヴィルヘルムは、本当に心から喜んでいる様子だった。サファイアの前に跪くと、優しい声で訊ねた。
「水晶宮でのお暮らしは、もう慣れてきましたか」
「少し。ここはとても広いから、まだ行ったことのない処が沢山あるの」
「水晶宮に初めて上がった女官が全体を把握するまでに、この奥宮殿だけでも数か月は要すと聴いております。でもこちらは御庭がとても美しいから、御二人がくつろがれるのには最適な場所ですね」
「叔父さまもお花が好き?」
「美しいものが嫌いな人間などおりませんでしょう」
するとサファイアは、持っていた花束をヴィルヘルムに差し出した。
「母さま、このお花、叔父さまにあげてもいいでしょう」
「ええ」
「そのような。それは皇女様が、母上様のために摘まれたものではないのですか」
「叔父さまと叔母さまの御祝いに、何をあげたらいいのか悩んでいたの」
驚くヴィルヘルムに、サファイアは笑顔で答えた。
「そうしたら母さまが、心が籠っていればどんなものでも二人は喜んでくれるって言ったの。だからわたし、叔父さまと叔母さまが幸福になりますようにって祈りながら、このお花を摘んだの」
「お優しい御子だ。素直で純粋で、本当にあなたに生き写しでおられる」
リーナと共に池の方へ駆けて行くサファイアを見送りながら、感動した様子でヴィルヘルムが言った。
「ですが、瞳の色は皇帝陛下譲りですね。深く澄み渡った、鮮やかな青い空を見上げているような」
「アルレス様に御逢いしたことがおありですの?」
アレキサンドラが驚いて訊ねた。
「はい。女王陛下が行方知れずになられました頃、我々執政官はこの水晶宮へ押しかけて、恥知らずにも皇帝陛下と宰相閣下を詰責したことがあるのです。今すぐにあなたを御返し下さるまでは、ここを一歩も動かないと申して」
「……少しも存じ上げませんでしたわ」
「そうでしょうね。ですが御二方とも全く動じる気配もなく、我々は適当にあしらわれ、結局何も出来ずに帰る他ありませんでした。宰相閣下からは先程、そのことについてのお詫びの御言葉を頂きましたが」
ヴィルヘルムは笑い声を上げた。
「いや、失礼致しました。そもそも我々のような者が、皇帝陛下に直訴することこそおこがましい行為です。ですがあの頃は我々も未熟で、特にわたしはあなたに恋い焦がれていたものですから」
「ヴィルヘルム様」
アレキサンドラが頬を染める。
「御許し下さい、求婚を断られたことを今更責めるつもりはないのです。ただわたしは、あなたが何処でどんな風にお暮らしなのか、幸福でいらっしゃるのかとずっと案じておりましたから、先日の御披露目であなたと姫君を見た時のわたしの喜びは、まこと天にも昇るような心地でした」
魚の姿に歓声を上げるサファイアを見詰めながら、ヴィルヘルムは言葉を継いだ。
「皇女様の御姿を拝見させて頂くだけで、陛下が離宮で幸福にお暮らしであったことが良くわかります。マルグリット様も仰っていた通り、確かにあなたにふさわしい御方は皇帝陛下を置いて他にない。わたしなどが適うはずがありませんよ」
「わたくし、なんて御答えすればいいか……」
「度重なる無礼、お詫び申し上げます。でも本当に、わたしは心から喜んでいるのですよ。ですからつい、あなたを困らせるようなことばかり申し上げてしまうのでしょうね」
「マルグリットのことは」
「正直に申し上げれば初めは、あなたの妹姫の御顔を拝見するのも辛かった。けれど、あなたの面影を追う者も多くいる中で健気に、そして真摯にあなたの代わりを務める姿に、わたしも支えて差し上げなくてはと思い、やがてそれが少しずつ愛情に変わっていきました。今は心から、あの方の生涯を支える存在になりたいと思っています」
「わたくしも嬉しく思います。あなたがマルグリットの、ただ一人の大切な御方になって下さることを。そしてあなたが、新しい愛を見付けられたことも」
「有難うございます」
ヴィルヘルムはテーブルに眼を止めた。
「御政務は、いつもこちらで?」
「ええ。わたくしがなるべくこちらで過ごせるようにと、カインが正宮殿の差配をしてくれておりますの」
「その方が、皇女様のおそばにずっといられますしね」
「ええ、サファイアも喜んでいます」
「また、お伺いさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「どうぞ、いつでも。ところで、婚礼の儀の方はお決まりですの?」
「そのことですが、実はマルグリット様たっての御要望により、大神殿で執り行うことが決まりました。つきましては皇妃様と皇女様御二方に、婚礼の儀への御出席をお願い申し上げたいのですが」
17
「わたくしとサファイアを歓迎したいという、皆の気持ちは喜ばしく思います。けれどわたくし達はこれまで、大神殿の巫女達に倣い離宮で慎ましく暮らして参りました。それはここへ移ってからも少しも変わってはおりませんし、多くのものを望むつもりもありません。そのように巨額な宮廷費の予算は、わたくし達には似つかわしくないと思います」
「ですが、皇妃様」
思わぬ皇妃の拒絶に、宮廷の財政を司る部署の高官は困惑の表情を浮かべた。
「畏れながら皇妃様は、我がリステーニイの皇妃であると同時にエルヴァレートの女王でもあられ、皇女様もエルヴァレートの王女を兼ねていらっしゃいます。高貴な御二方の御体面を保つためにも、これくらいの予算は当然であると」
「わたくしはそのようなことで、多額の費用が必要とは思いません。アルレス様も質素倹約を重んじた御方です。もう一度、予算を組み直して下さい」
毅然とした皇妃の姿に、高官は言い返すことも出来ず引き下がる。
「それでは次にランクルー鉱山の今年度の産出予定量について、資源担当課の者より御報告申し上げます」
第二摂政も兼ねる宰相カインが、淡々とした様子で山積みの報告書を拡げ、第一摂政である皇妃アレキサンドラが時に鷹揚に或いは厳しく、それらに裁可の判断を与えていく。
ここは、正宮殿中央にある皇帝専用の執務室だ。次々と各部署の高官が詰めかけ、皇妃にそれぞれの仕事内容を報告し指示を仰いでいる。カインの計らいにより奥宮殿で過ごすことが多いとはいえ、摂政たる者が宮殿の奥に籠ってばかりでは示しがつかない。数日に一度はこうして、水晶宮で日々職務に当たる者達へ顔を見せる必要がある。
「一見か弱く儚げな御方であるのに、玉座にあれば毅然とした態度で次から次へと激務をこなされる。流石は幼い頃より、エルヴァレートの王位におられた御方だけのことはある」
叱責された者も、そんな感想を述べながら己の部署へ戻って行く。
「皇女様もまだ七歳の御身ながら、母君様のおそばに付いて懸命に政を学んでおられる。御姿は母君様そのものなのに、あの眼差しで見られるとまるで皇帝陛下に見詰められているような気分になってくるのだから、やはり親子というのは不思議なものだ」
サファイアもまた、アレキサンドラが正宮殿へ来る時は必ず一緒に付いてきて、隣でミフォンを膝に抱き、母が高官達に対応する様子を見守った。初めこそ慣れない場所に戸惑いがあったものの、人々の交わす声に耳を傾けていくうち、やがてその中にカインやリーナが読んでくれた書物の言葉に気付くようになった。秘められた離宮で人知れず育てられたとは言っても、生まれた時から帝王学を施されていた事実に、やはり自分は皇女であり唯一の皇位継承者なのだと実感させられる。だが母のためだと自分に言い聴かせながらも、やはり幼い身にその覚悟は重過ぎた。
それに比べて母は見事だ。奥宮殿ではサファイアだけの優しい母なのに、ここへ来れば瞬く間に毅然とした皇妃に変わる。次から次へと山積みの書類に眼を通し、高官達に指示を出して的確に政をさばいていく。
「正しく、生まれながらの女王でいらっしゃるのだわ」
帳の中に隠れてやはりその様子を見守っていたリーナも、小さくそっと呟いた。大神殿の巫女が皇帝の執務室に入り込むなど、決して許される行為ではなかったが、万一の場合に備えサファイアのそばにいさせて欲しいと、あえてリーナはカインに許しを請うたのである。けれどもその視線は、サファイアよりもアレキサンドラの方に向かいがちだった。
生まれながらにして与えられた美貌と才能、そして王位。更には皇帝から宰相、アレキサンドラに関わった殆どすべての男の愛情を独占している。最近では、マルグリットの婚約者だというミュラー執政官という男が、奥宮殿へ頻繁に姿を見せるようになったが、あの男もかつてはアレキサンドラの熱心な求婚者だったという。本当に、どうしてこんな女性がいるのだろう。ああ、ほんのひとかけらでも皇妃と同じものがわたしにも与えられていたのなら。ひとつだけ、せめてたったひとつだけ、カインの愛情をわたしだけのものにすることが出来るなら、わたしは自分のすべてと引き換えにしても構わない。
浅ましい。大神殿の巫女たる者がなんて浅ましいことを。数多いる巫女の中でも優れた才能を誇る一人として、最長老様の厚い御信頼を頂き、斎宮候補でもある皇女の教育係にまでなったわたしが、このような愚かな欲望に身を置くなんて。巫女はその身を女神様に捧げ、清らかな生涯を送るべく定められた者なのに。
「母さま!」
突然、サファイアの悲鳴が上がった。アレキサンドラがその場に倒れたのである。
「カイン! カイン、カイン!」
「落ち着いて下さい、姫。リーナ、そこにいるか」
「はい、カイン様」
不意に現れた巫女の姿に高官達は一斉に眉をひそめたが、リーナはあえて無視した。
「御心配なさらないで、サファイア様。すぐに母君様を寝室までお連れ致しますから」
サファイアを右腕に抱きしめ、アレキサンドラを抱き上げたカインの腕に左手をのせて、リーナは奥宮殿へ一気に跳んだ。




