第二章 北の水晶宮、南の大神殿(前)
第一章の投稿から約半年、長らくお待たせさせてしまって申し訳ありません。もともと遅筆な上に加えて、産みの苦しみを味わっているような状態で、執筆が非常に遅れております。けれど、そんな中でも未完の作品にブックマークを付けて下さる方や、過去の作品に感想を送って下さる方がいて、大変申し訳なくも有難くも思い、何とか頑張っていることをお知らせしたく、この第二章を投稿することと致しました。
でも、それでもまだ実は半分くらいしか出来ておらず、そのため第二章を前半と後半に分けての投稿になります。本当に何度も申し訳ないのですが、後半も引き続き頑張って書いておりますので、御待ち頂ければ幸いです。本当にごめんなさい。m(_ _)m
1
「愛しています」
こぼれ落ちそうになる涙を抑え、一人窓辺に佇むアレキサンドラを、背後から大きな腕が抱きしめる。
「今までも、そしてこれからも、わたくしが愛しているのはあなただけです」
その言葉に応えるかのように、アレキサンドラの細い首筋を燃えるように熱い唇がふれる。冷たく透き通るような白い肌が、深い愛情と優しい温もりに包まれていく。
「何処へも行かないで」
このままずっと、そばにいて。
「あなたに囚われていたい」
あの日、あの時、あなたに囚われた時のままに。
「わたくしは、あなただけのものです」
これが運命。あなたに囚われるために、わたくしは竜神に導かれてきた。あなたの青い瞳に囚われるために。
2
倒れたサファイアを抱きしめ、リーナは動揺するだけだったが、騒ぎを聴き付け、急ぎ部屋へ現れた最長老の方は流石に冷静だった。
「皇女様の御世話はわたくしに任せて、リーナ、あなたは宰相閣下を御呼びしてらっしゃい」
少女達の手前、サファイアの名を口にすることも慎み、手早くリーナに指示を出す。
「あなた達は、夢を見たのです」
もちろん、少女達の口を封じることも忘れない。
「青く美しい夢を見たのです。けれどもたとえこの大神殿の中であろうと、その夢を他の者に話すことはあなた達の将来はおろか、故郷の家族にまで害が及ぶということをよく肝に銘じておきなさい」
最長老に厳しく言われなくても、皇帝の極秘事項にふれてしまったのだということは、少女達もよく理解していた。教育係の巫女はもちろん、サファイアより幼い者さえ誰一人口を開くことなく、そのまま自分達の別殿に戻り、何事もなかったかのように巫女の修行に従事した。
一方リーナは、激しい後悔に苛まれながら急いで館へ跳んだ。だがカインの前に現れても動揺は治まらず、何から言えばいいのかわからなかった。そんなリーナの様子にカインはすべてを悟り、黙ってリーナに腕を差し出した。
「御許し下さい」
初めてカインの腕にふれることが出来たというのに、リーナはやはりそれ以上何も言えず、ただ心の中で自分を責め続けるしかなかった。
二人が大神殿の斎宮御殿に着いた時、サファイアは高熱を出して寝室に寝かされていた。だがカインが顔を覗き込むと、その青い瞳を見開いてこう言った。
「リーナを怒らないで」
その言葉に、リーナは驚いてサファイアを見詰めた。
「わたしが悪いの。お忍びだから静かにして、誰にも気付かれないようにってリーナに言われていたのに、それを守らなかったの。だって、女の子達がとても楽しそうにしていたから、わたしも一緒に遊びたかったの。だから、怒るならリーナじゃなくてわたしを怒って、カイン」
「サファイア様……!」
たまらずリーナはその場に座り込み、激しく泣き出した。
「わたしに怒る資格はありません。こうなることを予測しながら、母上に姫の外出を勧めたのはわたしなのですから」
カインは、サファイアの青い髪をそっと撫でた。
「いずれ姫はあの館を出て、北の水晶宮へお入りになる。今日の外出は、あなたを初めてふれる外の世界に慣れさせるための、訓練の一環だったのです」
「北の水晶宮……?」
「『聖なる森』の南に位置する大神殿に対し、北に位置するのはリステーニイの皇都です。その皇都の中央にあなたの父上の皇宮、別名『北の水晶宮』があります」
サファイアの身体が小刻みに震え始める。
「カイン、父さまは……」
「あなたの父上の公式名はアルレス=ファヴィエ二世、このリステーニイを統治する最高権力者であり、『女神の代理人』または『竜の血を継ぐ者』とも呼ばれる皇帝陛下であらせられます」
怯えた眼差しで自分を見詰めるサファイアに、カインは更にこう告げた。
「父上だけではありません。あなたの母上も父上に嫁がれる以前は、故郷エルヴァレートの女王陛下でいらした御方なのです」
サファイアは眼を瞠った。とても信じられなかった。幼い娘の眼から見てもか弱く儚げなあの母が、エルヴァレートという巨大な惑星国家の頂点に立っていたなんて。
「母上は父上との婚姻のため、姫の叔母上であるマルグリット様へ王位を譲られました。しかしながらマルグリット様は御子を望める御身体ではなく、あなたを次の後継者にすることを切望しておいでです」
「……カイン……」
「姫、あなたは我がリステーニイの第一皇女であり、唯一の皇位継承者であられると同時に、エルヴァレートの第一王女、第一王位継承者でもあらせられるのです」
「そして」
寝台のそばでずっと控えていた最長老が、初めて口を開いた。
「恐れながら皇女様は、女神様が大神殿に千年振りにお遣わし下さった、斎宮様にあらせられます」
「嫌! 嫌、嫌、嫌!」
悲鳴にも似た声が上がった。
「わたしは巫女じゃない! リーナみたいな力なんてないもの、巫女になんかなれない!」
「落ち着いて下さい、姫」
「この髪のせい……? この髪のせいなの、カイン。わたしだけが、わたしだけがみんなと違うから、わたしだけがこんな青い髪だから……!」
「どうか落ち着いて下さい。あなたが真実を知れば激しく動揺するとわかってらしたから、母上は姫をあの館でお育てになったのです」
カインの言葉に、サファイアの涙が一瞬止まった。
「母上は幼い頃に御両親を亡くされ、父王の王位を継がれた御方です。幼い身で負わされた王位の重責をよく御存知の母上だからこそ、娘のあなたには同じ思いをさせたくなかったのです」
「……そうじゃないわ」
サファイアの眼から、再び涙がこぼれる。
「どうしてわたしだけなの。どうして、わたしだけがこんな髪をしているの。こんな髪だから、母さまはわたしを館に閉じ込めるしかなかったのよ。わたしがこんな髪で生まれたから、だから……」
「そのようなことを仰ってはなりません」
「どうしたらいい、どうしたらいいの、カイン。だって、何も知らなかったんだもの。何も知らなかったんだもの……! 父さまが皇帝? 母さまが女王? 信じられない、あの母さまが……!」
激しく泣き続けるサファイアを、カインは力強く抱きしめる。
「わたしが皇女なんて、斎宮だなんて嘘よ……だってわたし、何の力もないもの。巫女なんかじゃないもの……!」
「お眠り下さい、姫。今は、何も考えない方がいい」
「助けて……助けて、カイン……」
リーナは言葉もなく、サファイアを見詰めているしかなかった。サファイアがこんなにも苦しんでいるというのに、リーナは何も出来ない。何の力にもなれない。それどころか、館の人々がサファイアを護るためにあんなにも力を尽くしてきたことを、リーナは今日一日の出来事ですべて壊してしまった。
「御許し下さい……御許し下さい、サファイア様……」
カインの腕の中で、熱に浮かされながら苦しい眠りに落ちていくサファイアに、リーナは何度も呟くように言った。一方、そばで控えている最長老の表情はまるで湖面のように穏やかで、眠るサファイアの顔を静かに見守っていた。
3
リーナが部屋へ入って来た時、それまで笑いさざめきながら繕い物をしていた女官達が、一斉に口を閉ざした。
「わたしにもお手伝いさせて下さい」
「結構よ、もう終わるから」
答えた女官の声は冷たく、他の者もリーナから顔を背けている。
「……すみません」
「わたくし達に謝る必要はないわ。それよりも、早く荷物をまとめて出て行った方がいいのではなくて」
そう言ったのは、リーナを迎えに来てくれた時の女官だった。
「リーナ、言ったはずよ。ここでは行動を慎まなければならないと。わたくし達同様、あなたも皇室に御仕えする者として、亡き陛下がお守りになった秘密は、生命賭けでお守りしなくてはならないと」
「あれから三日になるというのに、皇女様は未だに御熱が下がらないのよ。そのために皇妃様は昼も夜も皇女様に付ききりで、わたくし達がどんなにお勧めしてもお寝みにもならないわ。最近は皇女様の健気な御励ましのおかげで、御体調も随分良くなっていたのに。皆、あなたのせいよ」
「だからわたくしは反対だったのよ。いくら皇女様をお慰めするためとはいえ、大神殿の巫女なんか呼び寄せるなんて。こうなることは、初めからわかっていたわ」
ここへ来た当初、女官達は皆リーナに優しかったのに、今は誰もが敵意をむき出しにしていた。
「最長老様にも、わたくしは不信感を持っているのよ。事もあろうに最長老様は、聖堂で皇女様に『清めの儀式』を受けさせたと聴いたわ」
「皇女様は巫女じゃないのよ!」
「わたくし達は何があろうと、大神殿に皇女様を渡すような真似はしないわ!」
女官達の激しい非難は当然だ。何を言われても、リーナに言い返す権利はない。
「確かに皇女様はわたくし達にとっても、女神様からの大切な贈り物だわ。でもそれは大神殿ではなく、水晶宮へお与えになったものなのよ」
「皇女様は御父上の御子であることに、強い誇りをお持ちの御方よ。わたくし達はそのお気持ちを大切にしながら、御立派に御父上の後を継がれるよう皇女様をお護りしてきたの」
「この館は大神殿の中にあるとはいえ離宮である以上、水晶宮の管轄になるの。皇女様の御養育は大神殿ではなく、水晶宮が担うのよ」
「大神殿で最も優秀な巫女の一人だか何だか知らないけれど、あなたのような人に皇女様をお任せしたりしなければ、こんなことにはならなかったはずだわ」
怒りに任せての攻撃は止みそうもなかったが、そこでふと、女官の一人がこんなことを言った。
「でもおかげで、皇女様と皇妃様が水晶宮へお入りになる日が早まったのですもの。それだけは、リーナに感謝すべきではないかしら」
この言葉に、リーナは思わず顔を上げた。
「十二日後、皇女様は七歳の生誕式をお迎えになるわ。大神殿の表神殿にある大広間で、御二人の御披露目が行われることが決まったの」
その日は大神殿や水晶宮の主だった者のみならず、各惑星の王家や政府の代表までもが集まり、秘密のヴェールに包まれていた皇室の存在が明かされるのだと言う。
「水晶宮や各王家の使節団の方々の前で、皇女様は我がリステーニイの正式な皇位継承者であることを、内外に宣言なさるのよ」
「そして御二人は、そのまま水晶宮へ御移りになるの。もうここへは帰って来ないわ」
「だからもう、あなたは必要なくなるの。悪いことは言わないから、今のうちに大神殿へ戻った方がいいと思うわよ」
言いたいことを言い尽くしてすっきりしたのか、女官達はリーナを一人残し部屋を出て行った。
「サファイア様が、水晶宮へお入りになる……」
半ば茫然として、リーナは呟いた。そうなれば確かに、リーナは無用の存在となる。
「サファイア様にとって、わたしはもう必要ない人間なんだわ」
当然だ。サファイアを傷付けたリーナに、これ以上この館にいる資格はあるまい。女官達の言う通り、すぐにでもここを出ていく他はないだろう。こぼれた涙を拭いながら顔を上げた時、思いがけなくそこにカインの姿を認めて、リーナは狼狽えた。
「すまない。水晶宮の人間にとって、皇室への忠誠は絶対でね」
頬を染めるリーナの顔を見詰めながら、カインが口を開いた。
「大神殿の巫女が、女神への揺るぎなき信仰を求められるように、水晶宮に仕える者は、皇帝への絶対的な忠誠を求められる。特にこの離宮にいる女官は亡き陛下から、御二人を任されたという大きな誇りと自尊心が強い」
「いいえ、皆様のお怒りは当然です。わたしがあんなことをしなければ、サファイア様は余計な苦しみを味わなくてすんだのですもの」
「だが大神殿と水晶宮の対立は、今に始まったことではない。君は、その矢面に立たされただけだ」
カインの言葉通り、『女神の代理人』を称する皇帝が率いる水晶宮と、その女神に仕える巫女達を擁す大神殿との対立は、リステーニイの長い歴史そのものだと言っていい。リステーニイの頂点に立ち、絶大な権力を誇る皇帝にとって、参拝者達の面前で女神から与えられた力を誇示し、熱心な信仰者を集めて宗教界を牛耳る大神殿は、政治に介入してくることも辞さない目障りな存在と言えた。
「亡き皇帝陛下が、水晶宮と大神殿の和解に尽力された御方だったというお話は、わたしも最長老様からお聴きしています」
「長い対立関係にあるとは言え、水晶宮の者にも女神への信仰心はある。陛下御自身、皇妃様との御成婚前から定期的な参拝を欠かさなかった。だが『女神の代理人』の呼称を許されるのは皇帝のみ、二人いてはならない」
不意にリーナは、カインに深く頭を下げた。
「御許し下さい。わたしはサファイア様に、斎宮としての教養を身に付けて頂くための教育を施すよう、最長老様から命じられておりました」
「知っている。女官達からも報告は受けていたからね」
リーナは思わず両手を握りしめたが、水晶宮に属する女官達が、大神殿から来たリーナを監視の対象としたのは当然のことで、それに気付かなかったリーナの方が迂闊だったと言わねばならない。
「女官達は、姫から君を遠ざけるべきだと警告していたが、わたし自身は、姫には君の教育が不可欠なものだと思っている。それに青い髪をした皇女の臣下に巫女がいても、別に不自然なことではない」
「カイン様はわたしが、このままサファイア様のおそばにいてもいいと……?」
「姫の教育は始まったばかりだろう」
思いもかけなかった言葉に、リーナは再び涙を溢れさせた。
「姫は生まれながらにして『女神の代理人』であり、その姿は正しく女神そのもの。いずれリステーニイの頂点に立つ御方が皇位継承者のみならず、斎宮としての教養を身に付けるのは当然のことだろう」
「でも、カイン様」
そう言いかけて、リーナは頬を染めた。
「申し訳ありません。宰相閣下と御呼びしなければならないのに」
「別に構わないが」
胸の高鳴りがカインに聴こえはしまいかと思いながら、リーナは質問を続けた。
「カイン様は賛成なのですか。サファイア様が斎宮におなりになることに」
「陛下は御生前、最長老様からの御申し出に明確な御返事はなさらなかった。皇妃様も、御自分が幼少時代に負った重責を姫には負わせたくないと、反対の立場を貫いておられる。何より姫御自身があの状態では、君達の希望が叶うことはあるまい」
しかし、とカインは言葉を継いだ。
「姫の御存在が明らかになれば、リステーニイの者のみならず惑星国家群の諸王家も民も、姫の早期の女帝即位と斎宮就任を望んでくるだろう。生まれながらにして『女神の代理人』である姫が、女帝と斎宮、共に『代理人』を意味する名を称することは、リスタニアを信仰する者にとって女神の出現と等しいことだと言っていい」
「わたしもずっと、サファイア様のことを夢に見ていました」
微笑みを浮かべ、リーナは言った。
「サファイア様が御生まれになったと、斎宮様が御出現なさったとの噂を耳にした幼い日から、サファイア様に御逢い出来る日をずっと夢に見てきました。それが実現して、今はこうしておそばにいられるのですから、わたしほど幸福な巫女はいないでしょう」
「ならば、これからも姫のおそばにいるがいい。皇帝陛下も喜ばれることだろう」
「有難うございます」
不意にそこで、カインは話題を変えた。
「君は水晶宮に伝わる、古の時代の皇帝と竜神の娘との恋物語の伝説を知っているか」
「はい、ですから皇帝陛下は『竜の血を継ぐ者』とも呼ばれているのでしょう」
「皇帝に見初められた竜神の娘が紆余曲折の末、その妃になったという伝説だが、実は歴史書にも娘を娶った皇帝の実録にも、それについての一切の記述はない。妃となった娘が己の記録を残すことを望まず、皇帝もそれに応じたためだと言われているが、詳しいことはわからない。反皇帝派の者達は、大神殿に対抗するために作られた偽作の神話だと罵っている」
「そんなことはありません。皇帝陛下と皇妃様があの湖で結ばれたからこそ、サファイア様のような姫君が御生まれになったのですもの」
「ああ。『エルヴァレートの美の女神』は正しく竜神のお導きで、皇帝陛下の御許へ御降臨されたのだ」
カインの顔に、何処か遠い処を見詰めるような表情が浮かんだ。
「皇帝陛下がわたしに与えられた使命は、陛下がお愛しになった皇妃様と姫の御身を、己の生命に代えてもお護りすること。竜神が皇帝陛下のために選ばれ、我がリステーニイへお遣わし下さった御方のためならば、わたしはいつでもこの生命を捨てる覚悟だ」
愛している。
この方はアレキサンドラ様を、あの女神にも譬えられる美貌の皇妃様を愛しておられる。
いつしか降り出した雨が窓を叩く音を聴きながら、リーナはそれを見ているカインの顔を見守っていた。
4
「父さま。助けて、父さま」
サファイアは高熱に浮かされ、先程からうわ言で父を呼び続けていた。
「行かないで。何処へも行かないで、父さま。わたしを一人にしないで」
「サファイア……!」
苦しい夢から逃れようとして伸ばした小さな手を、アレキサンドラは握りしめて何度も口付けた。
「泣くな」
涙を流すアレキサンドラの耳元に、囁く声がする。
「でも」
「わたしはここにいるだろう」
大きな右手がアレキサンドラの頬にふれ、素直に顔を傾けると、心を込めた優しい口付けが与えられる。
「サファイアはわたしに任せて、お前は少し眠るがいい」
言われるままにアレキサンドラは、その温かい胸の温もりに身体をゆだねた。一方サファイアは、やはり大きな腕で抱き起こされ、母の胸の中へ抱き留められた。
「サファイア」
アレキサンドラのみならず、サファイアをも腕の中に抱きしめ、深く優しい声が囁きかけた。
「そばにいるよ、サファイア。わたしはこうしてお前達のそばにいる。だから何も心配せずに、ゆっくりお寝み」
やがてサファイアの耳にあのメロディが、サファイアを慰め、励まし、優しく語りかけるような歌声が聴こえてきて、囚われていた悪夢は霧のように消えた。
「母さま。父さま」
温かな母の胸と二人を抱く大きな腕とに包まれ、いつしかサファイアは安らかな微笑みを浮かべて眠っていた。
5
五日目に、ようやくサファイアは寝台から離れることが出来たが、以前の無邪気さは何処かに消え、遊ぶこともせずにテラスの手摺にもたれ、寂しそうな顔をして花園を眺めていた。
「花を摘んで、首飾りを作りませんか。お母様に差し上げれば、きっとお喜びになりますよ」
リーナが声をかけても、振り向きもせずに首を振る。
もしかしたらリーナは、サファイアに嫌われてしまったのではないだろうか。カインはリーナがここへ残ることを許してくれたが、肝腎のサファイアはもう、リーナとは口を利きたくないのかも知れない。無理もない、リーナはそうされても仕方のないことをしてしまったのだから。御許し下さい。御許し下さい、サファイア様。唇をかみしめ、リーナは風に揺れる青い髪に向かって心の中で侘び続けた。
「サファイア! サファイア!」
突然、サファイアを呼ぶ聴き慣れない女性の声に、二人は驚いた。振り返れば、金褐色の巻き毛と緑の瞳をした美しい女人が頬を薔薇色に染め、こちらへ急いで駆けてくる。
「叔母さま? マルグリット叔母さま」
「ああ、サファイア!」
マルグリットは興奮した様子で、サファイアをその胸に抱きしめた。
「顔をよく見せてちょうだい、サファイア。カインが言っていた通り、本当にお姉様に生き写しなのね。別れた時はまだ、はいはいを始めたくらいの頃だったのに、こんなに大きく美しくなって。ああ、お姉様やあなたを護るためだったとはいえ、お義兄様にこの館への出入りを禁じられた時の悔しさ、今でも忘れられないわ」
「有難う、叔母さま。わたしも叔母さまに逢いたいと思っていたの」
「愛しい子。わたくしの愛するお姉様の御産みになった御子は、わたくしにとっても大切な、たった一人の娘よ」
そう言ってマルグリットは、サファイアの顔に何度も口付けた。
この御方が皇妃様の妹姫、マルグリット=ユリアーナ一世。現在のエルヴァレートの女王陛下。
二人の後ろで控えていたリーナは、マルグリットがこちらを振り返ると、慌てて腰を屈めた。
「あなたが、サファイアの教育係の」
「はい、アルメリーナ=オルフェと申します」
「話は聴いています」
大神殿での騒ぎはすでに耳にしているのだろう、短くそう答えてから、マルグリットはサファイアの方へ顔を戻し、優しく促した。
「さあサファイア、お母様の処へ行きましょう。あなたのために、とても素敵な方をお連れして来たのよ」
「素敵な方?」
そのままサファイアは叔母に手を引かれていき、リーナは慌てて二人を追いかけた。
「御立派に御成長されましたこと。殿下の御活躍の噂は、わたくしのもとにも届いております」
アレキサンドラの弾んだ声が聴こえてくる。リーナが二人の後から居間へ入ると十四、五歳ほどの少年が、長椅子に腰かけているアレキサンドラの前に跪いて、最敬礼の挨拶をしている姿があった。
「こちらへいらっしゃい、サファイア。この御方はアドルーニアの王太子殿下、ハーシェル=ラドクリフ=ブルー様。ハーシェル様のお父様は、あなたの父さまの御親友だった御方なのですよ」
サファイアもまた、ハーシェルから眼が離せなかった。母の髪も美しい金色だが、ハーシェルは更に光り輝くような黄金の髪で、振り返ったその瞳も不思議な金色に輝いていた。
「は、初めまして。サファイア=ローズ=サンドリアンです」
ハーシェルの顔を見入っていたことに気付いて、頬を染めながらサファイアが挨拶すると、驚いたことにハーシェルは、母と同じようにサファイアの前にも跪き、その手を取って口付けた。
母アレキサンドラが、後ろに控えるカインからそのような正式の挨拶を受けている姿を、サファイアも小さな頃から何度も見ている。でもそれは母が大人だからであって、まだ子供の自分がそんなことをされるとは、夢にも思わなかった。
ハーシェルに手を取られ、恥ずかしそうに何度も母を振り返るサファイアを、アレキサンドラもカインも微笑みながら見守っていた。早く手を離して欲しかったが、ハーシェルは立ち上がりはしても、サファイアの手を握りしめたままだった。
「あ、あの」
「そっちの手も貸して、サファイア」
両手を握られますます戸惑ったが、不意にハーシェルの手から不思議な温かい力が注がれてきて、再び驚いたサファイアは思わず顔を上げた。
「これで、少しは元気になれると思うよ」
少しどころか、先程まであんなに沈んでいた心がとても軽く、温かくもなっていた。すると今度は二人の両手の中から、丸い耳と純白の毛に包まれた(テンやイタチに似ている)小さな動物が三匹も現れて、サファイアの歓声が上がった。
「わあ、可愛い!」
「アドルーニアのミフォンだよ」
ミフォン達は次々にサファイアの腕を駆け上がると、頭や肩の周りを走ったり、薔薇色の頬をなめたりと忙しく動き廻った。動物の好きなサファイアはすっかり夢中になって、塞ぎ込んでいた顔にも笑顔が戻った。
「ミフォンは昔からその白い毛皮を狙われて、いくら取り締まっても乱獲が絶えない動物でね。この子達も母親を密猟者に殺されて死にかけていた処を、僕が助けたんだよ」
「ひどいわ、可哀想。こんなに可愛いのに」
「だから普通は警戒心が強くて懐かないのだけど、この子達は赤ん坊の時から城の中で育って、人には慣れている。でも僕は忙しくて、なかなかこの子達の相手が出来ないから、君が世話をしてくれるといいんだけど」
「わたしが!? もらってもいいの!?」
「そのために連れて来たんだから」
「有難う! 母さま! 母さま、見て!」
サファイアは大喜びで、ミフォンを抱えて母の胸に飛び込んだ。
「御礼を申し上げますわ、殿下。あなたもお忙しい御身でいらっしゃいますのに」
「父も僕も、皇妃様と姫君のことはいつも心にかけておりますから」
「有難う。この子が生まれた時も、アルレス様が亡くなられた後も、あなたのお父様にはどれほど御世話になったことでしょう」
そしてアレキサンドラは、ミフォンと戯れているサファイアにこう言った。
「サファイア、あなたは殿下のお父様の、アドルーニア王の王城で生まれたのよ」
「え?」
「母さまはあなたを身籠っていた時、アドルーニアで御世話になっていたの」
「わたし、ここで生まれたのじゃないの?」
驚くことばかりでサファイアはもう一度、微笑みながらこちらを見ている少年の顔を見詰めた。
「父さまと母さまは湖で出逢って、それからわたしが生まれたのでしょう。だからわたし、母さまはずっとここにいるのだって思ってたの」
「ええ、ここへはあなたが生まれてから来たのよ」
「どうして母さまは、アドルーニアへ行ったの」
「リステーニイの皇帝陛下とエルヴァレートの女王陛下の御成婚は、必ずしも歓迎する者ばかりではなかったからですよ」
答えることに躊躇したアレキサンドラに代わって、カインが初めて口を開いた。
「あなたを身籠った母上をお護りするため、皇帝陛下は御親友であるアドルーニア王に、母上をお預けになったのです」
まだ幼いサファイアには理解しにくい話だが、何処の惑星国家でも、国家や支配者に反する勢力は付きものである。
「気にすることないわ、サファイア。エルヴァレートでお姉様の結婚に猛反対していた者達も、今ではあなたやお姉様に御逢いしたくて、今度の使節団に何とか入れてもらえないかと、わたくしの処に毎日訴えてくるくらいですもの」
後ろからサファイアを抱きしめるようにして、マルグリットが言った。
「お姉様がまだ、エルヴァレートにいらした時もそうだわ。もう長いこと紛争の絶えない一地域があって、ある時またも一触即発という時に、わたくしが反対するのも構わずお姉様はそこへ出掛けて、見事に紛争を治めてしまわれたの。お姉様が御姿を御見せになった途端、将兵達が武器を捨てて『美の女神の治める地を不浄な血で汚してはならぬ』と、一人残らずその場に跪いたのよ。今思い出しても本当に素晴らしい、夢のような光景だったわ」
「あなたは昔からわたくしのことを買い被り過ぎるのよ、マルグリット」
「御謙遜ね、お姉様。わたくしあの時ほど、お姉様の妹であることに誇りを持ったことはないわ」
マルグリットはころころと笑ったが、アレキサンドラの顔に一瞬哀しそうな表情が浮かんだのを、サファイアは見逃さなかった。
「姫、殿下を庭へ御案内申し上げてはいかがですか」
カインの言葉に、アレキサンドラはほっとした様子を見せて言った。
「そうね、サファイア。あなたは覚えていないでしょうけれど、殿下がお父様と御一緒にお忍びでいらした時、殿下はあなたの遊び相手をして下さったの。あなたは本当のお兄様のように慕って、殿下からずっと離れなかったのよ」
「ほんと?」
ミフォンをもらったことで警戒心を解いたのだろう、今度は躊躇いもせずに、サファイアはハーシェルの処へ戻った。
「あのね、ここには森からコトルが来るの。わたしと母さまと二人で、木の実をあげて懐かせたのよ。この頃はコトルだけじゃなくて、他の動物も来るようになったの」
「それは素敵だね。案内してくれる?」
「うん!」
輝くような笑顔を見せて、サファイアはハーシェルに手を差し伸べた。
サファイアの様子を見ていたリーナは、落ち込んだ。そうだ、リーナがいなくてもサファイアにはこうして、よりふさわしい人がいる。サファイアはもう、リーナなど必要ではない。女官達の言葉通り、リーナはすぐにでもここを出ていくしかないだろう。
「どうしたの、リーナ。一緒に行かないの?」
不意に、サファイアが振り向いた。
「あのね、リーナはわたしの姉さまなの。母さまが最長老様にお願いして、大神殿から呼んでくれたのよ」
「知っているよ、アルメリーナ=オルフェ。君はアドルーニアの出身だったね」
ハーシェルも、リーナに微笑んだ。
「通常、他の惑星出身の巫女は修行が終わると故郷の神殿に入るのだけれど、リーナのように優秀な巫女の場合、最長老様の補佐役として大神殿に残ることがあると聴いているよ」
「リーナもアドルーニアで生まれたの? 知らなかった、どうして教えてくれなかったの、リーナ」
いつもの無邪気なサファイアの声。リーナは思わずアレキサンドラとカインの方を振り向いたが、アレキサンドラもリーナに優しく微笑みかけ、カインも軽く頷いてみせた。わかっている。思わぬ結果になったとはいえ、サファイアもアレキサンドラも、リーナがサファイアのために力を尽くそうとしたのだということは、ちゃんとわかってくれている。
「リーナ、早く。コトルが森へ帰っちゃうわ」
「は、はい」
リーナがそっと涙を抑えながら二人のもとへ行くと、サファイアはもう片方の手をリーナに差し出した。
「母さま! 母さま、見て! わたしに兄さまと姉さまが出来たの!」
二人に囲まれて、サファイアは大はしゃぎだ。
「わたしも兄さまも姉さまも、みんなアドルーニアで生まれたの、ほんとの兄妹みたい!」
「楽しんでらっしゃい、サファイア。でも熱が下がったばかりなのだから、無理をしないようにね」
三人がいなくなると、マルグリットがアレキサンドラに話しかけてきた。
「あれでよろしいんですの、お姉様」
「何のこと?」
「アルメリーナとかいうあの巫女ですわ。女官達から聴いておりましてよ、あの娘のせいでサファイアが大変な目に遭ったそうですわね」
「リーナはよくやっているわ。サファイアも懐いていることは、見ていてわかるでしょう」
「甘いのね、お姉様。サファイアは、お義兄様とわたくしの大切な後継ぎですのよ。あんな娘をサファイアに近付けて、もしあの子が大神殿に奪われでもしたら一体どうなさいますの。それにあの子の教育も、いずれはリステーニイの皇位とエルヴァレートの王位を受け継ぐ者として、それにふさわしい教養を身に付けられるよう、わたくしが選りすぐりの教授群を差し遣わすつもりでおりましたのに」
アレキサンドラは苦笑を浮かべた。
「正直に仰いなさい、マルグリット。あなたが昔からサファイアを欲しがっていることは、よくわかっているわ」
「ねえ、お姉様。いい加減、エルヴァレートへ戻ってきて下さらない。サファイアには哀しい思いをさせてしまったけれど、今回のことはむしろいい機会だわ。お姉様がお父様の王位を継いだのも、ちょうどサファイアくらいの頃だったでしょう」
「あなたはどうしても、サファイアへの譲位を諦めるつもりはないのね」
「もちろんですわ、お姉様。今はわたくしが女王の座にあるとはいえ、それはお姉様からの借り物に過ぎませんもの。エルヴァレートの者にとっては今でも、真の女王と呼べるのはわたくしではなくお姉様なのよ。『美の女神』であるお姉様の後を、『神々の申し子』であるサファイアが継ぐのは当然ではありませんか」
そう言ってマルグリットは再び笑った。
「わたくしは、エルヴァレートを捨てた人間よ」
アレキサンドラは、組み合わせた細い手を見詰めながら答えた。
「それに、アルレス様のいらっしゃるこの星を離れることなど、わたくしには決して出来ない。わたくしは、アルレス様の妃なのですもの」
「……お姉様がお義兄様のことを、忘れられないのはよくわかっているわ。でも」
「御姿は見えなくても、アルレス様はいつもわたくしとサファイアのそばにいて、わたくし達を護って下さっているわ」
顔を上げ、妹の顔を見詰めながらアレキサンドラは言った。
「あなたには信じられないことでしょう。でも、だからわたくしは生きていけるの。わたくしにとってこのリステーニイを離れることは、わたくし自身を殺すに等しいことなのよ」
「お姉様……」
マルグリットは姉の清らかな笑顔と、薔薇色の頬を流れるひとすじの涙を見詰め、口を閉ざした。そのそばに控えるカインもまた、アレキサンドラから眼を離すことが出来なかった。
6
「こっちこっち、兄さま! ほら見て、コトルがいっぱいいるの!」
「本当だ、すごいね」
前もって木陰の下に撒いておいた木の実を求めて、すでに数匹のコトルが集まっていた。サファイアはもう、興奮が抑え切れない様子である。
「サファイア様、あそこにいるのはマネット(鹿に似ている)ではありませんか」
「ほんと? すごいわ、一緒にいるのは子供よ!」
「コトル達と一緒に来たんだね。そっとしておけばいい、そのうち慣れて木の実を食べに来るよ」
サファイアの肩にしがみ付いていたミフォン達も、次々飛び降りて木の実のもとへ走った。
「この子達も木の実を食べるの?」
「リステーニイは初めてだけど、雑食だから何でも食べるよ。ただアドルーニアは、一年の殆どを雪と氷に覆われた星だから、暑さだけが苦手なんだ。でも水晶宮の周りも森に囲まれているから、暑い季節には時々森の中へ放してあげて。そうすれば、自分で涼しい処を探すから」
不意に、サファイアの顔が曇った。
「コトルも、マネットまで来てくれるようになったのに、もうすぐここを離れなくちゃいけないの」
小さな動物達の愛くるしい姿を見詰めながら、呟くようにサファイアが言った。
「わたしずっと、ここにいるのだと思ってた。母さまとカインと、他のみんなも今までと同じように、これから先もずっと、ずっとここで」
ハーシェルがそっと、サファイアの肩に腕を廻す。
「特別だなんて思わなかったの。わたしの髪だけが青いことが、そんなにも特別なことだなんて知らなかったの。だってみんなが違ってみんなが同じことが、当たり前だと思ってたから。父さまがいなくて、泣いている母さまを慰めることと同じくらい、わたしには当たり前のことだったから」
「御許し下さい、サファイア様。わたしが余計なことさえしなかったら」
「リーナは悪くないわ。それに、大神殿へ行きたいと言ったのはわたしだもの」
リーナが唇をかみしめると、サファイアは首を振った。
「大神殿へ行けば、女神様に逢えるかも知れないと思ったの。母さまのために、どうしても女神様に逢いたかったの」
「母さまがこれ以上泣かなくてすむように、父さまを生き返らせて下さい。女神リスタニアに、そうお願いするつもりだったんだね」
驚いて自分を見上げたサファイアを、ハーシェルはその澄んだ眼差しで見詰めた。
「ごめんね、少しだけ君の心の声が聴こえてきた。でも心配しないで、皇妃様に話したりはしないから」
「……告げ口なんかするような人だったら、わたしに元気になる力をくれたりしないわ」
そう答えながらも、サファイアは眼を瞠らせた。
「でも、どうして。どうしてそんな力があるの、ハーシェル兄さまって巫女なの」
「あいにく僕は男だから、大神殿へ入ることは出来ないけどね」
くすくす笑いながらハーシェルは答えた。
「だけど男でも、生まれながらに神通力を持つ者がまれにいるよ。君の父上もそうだったし」
「殿下は優秀な能力者として、以前から名を馳せておられる御方です。最長老様のように、言葉はなくてもその方の心の声を聴くことも出来れば、わたしよりもここから更に遠く、アドルーニアまで跳ぶことが出来るともお聴きしています」
「……父さまも、そうだったの?」
「ああ、君の父上は僕など比べものにもならないよ。あの御方より優れた能力者を、僕は知らない」
「そう」
「駄目だよ、自分にもそんな力があれば良かったなんて思っては」
サファイアが溜息を漏らすと、ハーシェルが遮った。
「君が今、護らなければいけないのは君自身だ。力があれば斎宮を名乗ってもおかしくないなんて、そんなことを考えてはいけないよ」
「わからないの。どうしてもわからないの。どうして女神様は、わたしをこんな髪にしたの」
「最長老様が仰っていたではありませんか。お父様とお母様の愛の証であるサファイア様を祝福するために、女神様はその御髪をお授け下さったのだと」
「でもそのために母さまは、わたしをここへ閉じ込めるしかなかったのよ。わたしが父さまのような黒髪か母さまのような金髪だったら、母さまだってすぐに水晶宮へ入れたはずだもの」
「君は何か誤解しているよ、サファイア。父上と母上の結婚が反対されていたのは、君のせいなんかじゃない。皇位存続の正統性や王家の体面などという、つまらない大義名分に縛られている古臭い人間達さ」
「殿下の仰る通りです。女王陛下も仰っていたでしょう、御二人の御成婚を反対していた人達も、今ではサファイア様やお母様に逢いたがっていると」
「違う、そうじゃない。そんなことを言いたいのじゃないの」
「落ち着いて、サファイア。君は混乱しているんだよ」
震え始めたサファイアの身体を、ハーシェルがそっと抱き寄せた。
「可哀想に、今まで何も知らされていなかったんだから、そうなるのも無理はないけど」
「怖いの。怖くて怖くて仕方ないの。どうすればいいの、兄さま。わたし、どうすれば」
「君は皇帝陛下と皇妃様が……父さまと母さまのことが好きかい?」
唐突なハーシェルの質問に、サファイアは少し戸惑った。
「好きよ。わたし、父さまと母さまのことが大好き」
「カインは?」
「カインも好き。父さまと母さまと同じくらい大好き」
「その気持ちを、これからもずっと大切にするんだよ。ずっと、ずっとね」
ハーシェルが微笑んだ。
「それを忘れないでいれば、君はきっと素晴らしい女帝になれる。斎宮の重責も、見事に果たすことが出来るだろう」
「でも」
「君の父上はね、本当に心から君と君の母上を愛しておられたよ」
この言葉に、サファイアは顔を上げた。
「僕が父に連れられて、この館へ初めて来たのは五年前、九歳の誕生日を迎えた頃だった。君はやっと、ふたつになったばかりだったかな。皇妃様が仰った通り、初めて逢った僕に君はとても懐いてくれてね、皇帝陛下に嫉妬されたくらいだったんだ。僕の父はそんな陛下にあきれるやら笑うやらで、『姫君が御年頃になられた時が思いやられる。姫の求婚者達は本気で、陛下に殺される覚悟をしていなくては』なんて言っていたよ」
不安で押し潰されそうなサファイアの心を包み込むように、ハーシェルは穏やかな声で語りかけた。
「皇帝陛下は英明で厳格、けれど民を慈しむ御心もあった優れた統治者として、リステーニイのみならず他の惑星でも尊崇されていた御方だ。でもその出生は、決して恵まれたものだとは言えない。皇帝陛下の父上、つまり君のおじいさまは大神殿の巫女と恋に落ち、周囲の猛反対を受けて心中を図った方だったから」
「心中……?」
「共に生命を絶つことです」
リーナが小さな声で説明し、サファイアは思わず息を呑んだ。
「君のおばあさまである巫女は、秘かに陛下を産み自分の故郷へ隠した。でも父上達の死で水晶宮側に捜し出され、幼くして陛下は皇位に就いたんだ」
「母さまと同じ」
ぽつりと呟いたサファイアの言葉に、ハーシェルは頷いた。
「そうだね。両親ともに親子二代、幼い身で皇位の重責を背負わされるなんて、皮肉としか言いようがないよね」
警戒心の強かったマネットの親子も、ようやく近付いて木の実を食べ始めた。コトルとミフォンは気が合ったのか、先程から互いに戯れたりしている。
「皇帝とはリステーニイに限らず、惑星国家すべての頂点に立つ存在だ。生まれついての王者としての素質はもちろん、皇位を継ぐ血統の正当性も問われる。強大な神通力があるとはいえ、水晶宮とは対立関係にある巫女を母としたことは、反皇帝を掲げる勢力のみならず、水晶宮内でも公然と陛下に逆らう者達との孤独な闘いを強いられた。十数年後に『聖帝』と呼ばれるようになるまでの陛下の努力と忍耐は、僕達の想像を絶するものだったと思う」
そこでハーシェルは口を閉ざし、サファイアの顔を見詰めた。
「ごめんね、君には少し難しい話かな」
「ううん、大丈夫。続けて」
「だからこそ皇妃様との出逢いは、竜神が陛下を正しくその子孫と認めた証であり、そしてサファイア、君の誕生は陛下にとっても、女神リスタニアからの大切な贈り物なんだ。陛下の望みは君達母娘の幸福を護り、君達を利用し汚そうとする悪しき者達を近付かせないこと、だからここで君を育てたんだよ」
「わたしに何が出来るの?」
サファイアはハーシェルの顔を見上げた。
「何も知らなかったわたしに、父さまの代わりが出来るなんて思えない。斎宮だって巫女の力なんか何もないのに、そんな簡単になっていいものじゃないでしょう」
「皇妃様がいるじゃないか」
ハーシェルの声は変わらず優しかった。
「君のそばには、君の大好きな母さまがいる。そしてカインも、リーナも、女官達も。それに」
「それに?」
「いつだって君のそばには陛下が、君の大好きな父さまがいてくれる」
この言葉で、サファイアの眼に涙が浮かんだ。
「僕が小さい頃、育ててくれた乳母がよく言っていた。人は死んでも、その想いは何かのかたちとなってこの世に残る。それは優しい風であったり暖かい陽の光であったり、時には涼やかに流れる水ともなって、愛する者を護るため姿を変えて生き残る。だから嘆く必要は少しもない、姿が見えないというだけでいつもそこにいるのだから、と」
「父さまも?」
サファイアは涙を拭いながら訊ねた。
「父さまも、風や光や水になってるの?」
「それは、サファイア様が一番よく御存知でしょう」
リーナが優しく言った。
「いつもその日にあったことを御報告なさったり、お母様のことを御相談なさっているのは、どなたのためなのですか」
一匹のミフォンが泣いているサファイアに近付き、その肩に飛び乗ると頬をなめた。他の動物達も木の実を食べるのをやめ、じっと見詰めている。
「わたし」
しばらく泣いた後、サファイアは顔を上げて微笑んだ。
「母さまと話してくる」
7
「これで良かったかな」
サファイアがリーナと共に館へ戻るのを見送って、ハーシェルは振り向いた。
「感謝致します、殿下。姫を説得して頂いて」
カインが頭を下げた。
「気休め程度のことしか言えなかったけど」
「いいえ。姫と同じ立場であられる殿下でなくては、口に出来ない御言葉だと思います」
「僕に出来ることなら何でもするよ。幸い、アドルーニアは落ち着いているしね」
「殿下も重責を負う御身であることは、わたしも重々承知しておりますが、どうぞこれからも姫の御力になって差し上げて下さい」
サファイアが館の中へ入ると、母の姿は居間になかった。けれど女官に訊かなくても、母が何処にいるのかは容易に想像出来る。サファイアはミフォンをリーナに預け、一人で肖像の間へ向かった。
「母さま」
やはり母は、父の肖像画の前に一人佇んでいた。
「少しは落ち着いて、サファイア」
振り向きながら母が訊ねる。頷きながらもサファイアは、父と母が二人で自分を見詰めているように思えた。
「赦されないことと、わかってはいたの」
娘の顔から眼を離さずに、アレキサンドラは静かな声で語り始めた。
「それでも母さまはあなたに、皇女でも王女でもましてや斎宮でもない、一人の小さな女の子としての時間を与えてあげたかったの。水晶宮へ入ればあなたは皇女として、個人の自由など一切望めなくなるわ。いいえ、一人の人間としてさえも認められなくなってしまうのよ。でもここで過ごした幸福な時間は、これからのあなたを支えてくれる大きな力になってくれるわ。たとえ自由は奪われても心の中の美しい想い出は、誰にも奪うことは出来ないから」
「母さまも、そうだったの?」
「母さまの両親が突然の事故で亡くなった時、母さまは六歳、妹のマルグリットはようやく四つになったばかりだったわ。お母様を求めて泣く小さな妹を抱きしめて、母さまはたった一人で、大きな試練に立ち向かわなければならなかったの。もちろんまだ幼い女王を支えてくれる人達はいたけれど、身体の弱い母さまにとってのそれは、己の血を流し続ける闘いの日々だったのよ。でも、母さまがどれほど苦しみどれほど涙を流したかは、一番そばにいたマルグリットにさえわからない」
サファイアは黙ったまま頷いた。サファイア自身、未だにこの母が女王であったということが信じられないでいる。こんなにもか弱く儚げな母と、エルヴァレートという巨大な惑星国家の女王という立場が、どうしても結び付けられなかった。
「でも、そんな時に母さまは父さまと出逢ったの。そしてそれまでの哀しみと苦しみは、父さまにめぐり逢うための試練だったと知ったのよ」
父の肖像画を見上げながらそう言った母の頬には、ひとすじの涙が流れていた。
「父さまだけが母さまの哀しみを癒すことが出来たように、父さまの苦しみも母さまだけが救うことが出来たの。だからたとえリステーニイやエルヴァレート、宇宙のすべてを敵に回しても、母さまはもう父さまから離れることは出来なかった」
「わかってる。父さまと母さまの恋は、竜と女神様の御導きだもの」
「そうね。だからこうして、あなたが生まれてきたのですものね」
アレキサンドラはサファイアの前に跪き、小さな肩を抱いた。
「あなたが生まれた時ほど、母さまの生涯で一番幸福な時はなかったわ。そして父さまにとっても、あなたは竜神と女神様からのかけがえのない贈り物なのよ。これだけは信じてね、サファイア。父さまと母さまは、何よりもあなた自身の幸福を望んでいるの。わたくし達にとってあなたは皇位よりも王位よりも、そして斎宮位よりも大切な、たったひとつの愛の証なのだから」
「最長老様もそう言ってたわ」
サファイアは俯き加減に答えた。
「でも他の人達にとっては、それだけじゃないの。最長老様もマルグリット叔母さまも、本当のわたしじゃないわたしが欲しいの」
「赦してね……赦してね、サファイア。あなたに女神の役割まで負わせるなんて、そんなことは望んでいなかったのに」
「謝らないで、母さま。母さまが悪いのじゃないわ。でも、でもね」
少しずつ、サファイアの小さな身体が震え始める。
「どうしても思ってしまうの。父さまがリステーニイの皇帝じゃなかったら、母さまがエルヴァレートの女王じゃなかったらって……せめて……せめてわたしの髪が……わたしの髪が父さまのような黒髪か、母さまのような金髪だったらどんなに良かったかって、思わずにいられないの……!」
「サファイア……!」
アレキサンドラは涙を溢れさせて娘を抱きしめ、サファイアも母の腕の中で声を上げて泣いた。
「出来ることならあなたと二人、誰も知らない小さな星で暮らせたら、何度もそう考えたわ」
「駄目。母さまには出来ない」
けれど母が涙ながらに口にした言葉を、サファイアはあっさり否定した。
「父さまのいるリステーニイを離れるなんて、母さまには絶対出来ないもの」
「……そうね。その通りだわ」
初めて、アレキサンドラが微笑んだ。
「サファイア、父さまは死んでなんかいないわ」
「母さま?」
「父さまは生きてらっしゃるの。信じていいのよ」
「ハーシェル兄さまもそう言ってくれたのよ、母さま」
サファイアも笑顔になった。
「姿は見えなくても風や光や水になって、父さまは生きているのだって」
「そうよ、父さまは竜になったの。竜になって母さまやあなたのそばにいて、わたくし達を護って下さっているの」
「だから母さま、わたしは大丈夫よ」
「サファイア?」
「わたしには、父さまと母さまがそばにいてくれるから。それにわたしは、父さまと母さまの娘なんだもの」
娘の瞳の奥で今までとは違う何かが光ったことに、アレキサンドラは気付いた。
「母さまも、いつも言っていたでしょう。父さまの娘であることを誇りにしていなさいって。わたしにも父さまと同じ竜の血が流れているのなら、怖がってばかりいては駄目だと思うの」
アレキサンドラの頬を、再び涙が流れる。
「泣かないで、母さま。わたし、独りなんかじゃないもの。父さまも母さまも、それにカインだってそばにいてくれる」
娘の言葉にアレキサンドラが驚いて振り返ると、いつの間にかそこにカインが佇んでいた。
「皇帝陛下がわたしに御命じになられたのは、皇妃様と姫の御身を我が生命に代えてもお護りすること。姫がどのような御選択をなさろうと、わたしに異論はありません」
所詮、逃れることは出来ないのだから。竜の血を引く女神の化身に、一人の人間として生きる資格はないのだから。
「泣かないで、母さま。わたしは大丈夫よ、大丈夫だから」
娘を抱きしめ、声を上げて泣く母を懸命に慰めるサファイアの頬も、再び涙に濡れていた。そんな母娘をカインはただ黙って、いつまでも見守っていた。
8
長く薄暗い通路を通り抜け、明るい陽射しが差し込む大きな窓のある部屋へ辿り着いた時、思わずサファイアは小さな溜息を洩らした。
「お疲れになりましたか、姫」
サファイアを腕に抱いて通路を先導してきたカインが、そっと声をかける。
「大丈夫。母さまは?」
「ええ、大丈夫よ」
カインの背中越しに、サファイアは後ろにいる母の姿を見詰めた。今日の母は水晶宮から送られてきた皇妃の正装に身を包み、いつにも増して光り輝くような美しさだ。皇妃の象徴という頭上の冠からは長いヴェールが下がり、見事な刺繍を施したドレスの裾と一緒に、二人の女官が恭しく捧げ持っている。細い首元にはやはり皇妃にしか許されない首飾りが輝き、結い上げた髪からこぼれ落ちた後れ毛にまで溢れる気品は、幼いサファイアにも、王家に生まれ育った者にしか持ち得ないものだということが理解出来た。
「父さまも、ここにいたら良かったのにね」
小さくそっと呟いたサファイアの声に、カインは頭を撫でて応えてくれた。本当に今、ここに父がいてくれたなら。それはサファイアやカインだけではなく、三人を護るように取り囲んでいる女官達の誰もがそう思っているはずだ。本来であれば皇妃である母の横には、皇帝である父の姿があって当然なのだ。
いや、そうじゃない。姿が見えないというだけで、父は今も母のそばにいる。だから女官達もサファイアのように、『聖帝』と呼ばれる主君の妃にふさわしいその姿を前にして、この女性に仕えていることへの誇りと自尊心をかきたてられているのだから。
やっぱり、母さまは女王なんだ。今更のように、サファイアはそう思った。生まれながらの女王、女王になるために生まれてきた人。そして父さまの妃になるよう運命付けられた、ただ一人の女性。
サファイアにも皇女の衣装が届けられていたが、サファイアは着ることを拒んだ。水晶宮へ入れば嫌でも着なければならないけれど、まだとてもそんな気分にはなれなかった。
「ここは、奥神殿の一角です」
最後に部屋へ入って来たリーナが、扉を注意深く開けながら言った。
「いつもなら奥神殿には、当直の巫女が詰めているのですが、今日はその者達も一般の参拝者も、誰も聖域内に近付かないよう、最長老様が取り計らっておられるそうです。でも万一の場合も考えて、表神殿へは少し遠回りをして行った方がいいだろうとのお話でした」
カインが頷き、リーナの案内に従う。
「父さまのお部屋に、奥神殿に繋がる通路があるなんて知らなかった」
サファイアがそう言うと、
「あの館は昔、冤罪を被せられた皇族の方のために建てられたものですから、万一のための逃走経路がいくつか用意されているのです」
「カインも使っていたの?」
「ええ」
すると母が、足を止めてこう言った。
「お祈りをしてから行きましょう、サファイア」
ちょうどそこから、聖堂へ続く長い回廊が始まっていた。
母と共に畏まった聖堂は、以前と変わらず清浄な雰囲気に満ち、未知なる場所へ向かう母娘の心をわずかながらも癒してくれるようだった。聖堂はもちろん奥神殿も初めての女官達も、流石に厳粛な面持ちで母娘と共に祈りを捧げた。
「ごめんなさい、母さま」
サファイアが囁くように言った。
「この前ここへ来たのは、女神様に父さまのことお願いするためだったの。でも出来なかった、ごめんなさい」
母は何も答えなかったけれど、代わりに心の籠った口付けを与えてくれた。
奥神殿を出て、あの斎宮御殿の前を通りかかった時だ。突然、何処からともなく数人の少女達がばらばらと現れて、一行を驚かせた。
「ま、まあ、あなた達」
リーナが声を上げた。
「こんな処で何をしているの。今日は表神殿で大切な儀式があるから、あなた達は別殿を出ないよう言われているでしょう」
「ごめんなさい、リーナ様。でもわたし達、どうしても巫女姫様に御礼を申し上げたくて、ここで皆様をお待ちしていたんです」
答えたのは、あの一番年かさの少女だ。
「御礼?」
「最長老様からお聴きしたんです。巫女姫様があの御殿の御庭を、わたし達に下さるよう最長老様にお願いして下さったと」
この言葉に、少女達から顔を背けるようにしてカインにしがみ付いていたサファイアが、驚いて顔を上げた。
あの時、サファイアは館へ戻る時に最長老にこう訊ねた。
「最長老様、ここの御庭はわたしのものだって本当?」
「はい。ここは昔、斎宮様がお住まいになるために建てられたものでございます。ですからこの御殿も御庭も、サファイア様のものということになります」
「それなら、ここはあの子達にあげて」
「サファイア様?」
「わたしはいらないから。だってわたし、巫女じゃないもの。斎宮なんてなれないもの」
「そのようなことを仰せになってはいけません」
「それにわたし、いつもここにいるわけじゃないわ。だったらここをあんなにも大切にしてるあの子達にあげた方が、この御庭も喜んでくれると思うの」
そう言っている間に熱が上がり、カインの腕の中でぐったりしてしまったサファイアに、最長老は微笑みながら答えた。
「承知致しました、サファイア様。早速あの子達に、サファイア様の御気持ちを申し伝えましょう。皆も、さぞ喜ぶことでございましょう」
その後すぐに館へ戻り、そのまま寝付いてしまったので、サファイアは自分がそんなことを言ったこともすっかり忘れていた。それに何より、少女達が自分に逢いに来てくれるなんて思ってもみなかったことだ。急いでカインの腕からすべり降りたが、少女達はそれを合図に一人残らず跪いたため、サファイアの身体はすぐに凍り付いてしまった。
「そのように畏まる必要はありません。皆、お立ちなさい」
その時、母が励ますようにサファイアの肩を抱き、代わりに少女達を促してくれた。
「この子に逢いに来てくれたのでしょう、そのままではお話が出来ないわ。さ、早く」
皇妃に促され少女達はおずおずと立ち上がったが、それでもしばらく互いに見詰め合ったままだった。
「あの、巫女姫様」
勇気を振り絞って最初に口を開いたのは、サファイアではなく先程の少女だ。
「御庭を下さって、有難うございます。わたし達、あの御庭が大好きなんです。巫女姫様の御殿は入ってはいけない処なのですけど、御庭の手入れはわたし達の役目になっているんです。だから御庭の何処にどんなお花が咲いているのか、わたし達が一番よく知っているんです」
「あの時もターチェの花が満開で、先生に内緒で見に行っていたんです」
他の少女も進み出て言った。
「最長老様が、巫女姫様もお花がとてもお好きな御方だと教えて下さって、わたし達と同じと知って嬉しかったです」
「わたしも」
少しずつ、サファイアと少女達の間にあった緊張感が解きほぐされていく。
「巫女姫様は、わたし達からとても遠い存在だと思っていたのに、本当はわたし達と同じ女の子だとわかって、失礼な言い方かも知れないですけど、巫女姫様がとても身近に感じました」
「あの時はわたし達を庇って下さって、本当に有難うございました」
一斉に頭を下げた少女達を見詰めながら、サファイアは溢れそうになる涙をこらえるのに精一杯だった。
「有難う」
励ますように背中を撫でてくれる母の手を感じながら、サファイアは答えた。
「だけど、お願いだから『巫女姫様』はやめて。わたし、斎宮じゃないもの」
「え。でもあの、巫女姫様は『清めの儀式』を受けたと聴きました」
顔を上げた少女が戸惑いながら言った。
「あの時はわたしがここへ来たのが初めてだったから、最長老様が御祝いしてくれただけ。でもわたしは、みんなみたいに巫女の力なんて持っていないの。だから、斎宮にはなれないのよ」
「いいえ、巫女姫様は巫女姫様です」
最初の少女がきっぱりと言い切る。
「あの時、巫女姫様がわたし達の前に現れた時のこと、わたし一生忘れません。だって巫女姫様、とってもとっても綺麗だったんですもの。巫女姫様が現れた時ちょうど陽射しが差し込んで、巫女姫様の長くて青い髪がきらきら輝いて、本当にわたし、本物の女神様が現れたと思ったんです。だからやっぱり、巫女姫様は巫女姫様なんです」
「わたしも同じです。巫女姫様は絶対、女神様の生まれ変わりです。そうじゃなかったら巫女姫様の髪がどうして青いのか、理由にならないじゃありませんか」
「でもわたし、本当に何も出来ないのよ」
尚もサファイアは言った。
「ただ髪が青いだけなの。それなのに、どうしてわたしが斎宮になれるの」
「わたし達だってまだ未熟です。力の種類も強さもそれぞれ違うし、何でも出来る訳ではありません。きっと巫女姫様には、未知の力がおありなんです」
「わたしもそう思います。巫女姫様、自信を持って下さい。だって巫女姫様のお母様は『美の女神』と呼ばれている御方、巫女姫様は本物の女神様の娘なんですから」
負けた、とリーナは思った。大神殿で最も優秀な巫女の一人であり、最長老からの信任も厚いと自負し、更には皇女の教育係でもあるわたしが、巫女見習いのこの子達に負けてしまった。わたしはこんなにも純粋で健気な励ましの言葉ひとつ、サファイア様にかけてあげることも出来なかったのに。
見れば、あれからリーナを全く無視している女官達でさえ、少女達のサファイアに対するあどけない崇拝心に警戒を解き、温かい眼差しを注いでいる。カインも笑顔と共に少女達を見守り、アレキサンドラもそっと涙を抑えていた。
「有難う。本当に有難う」
涙が止まらなくなったサファイアに代わって、アレキサンドラが礼を述べた。
「わたくしの方から、あなた達にひとつお願いがあるの。サファイアはリーナが来てくれるまで、お友達もいなくてずっと独りぼっちだった子なの。わたくし達は今日、水晶宮へ入ることが決まっているけれど、時折は聖堂へお祈りに来ることもあるでしょう。その時にはあなた達がこの子の相手をしてもらえると、わたくしも嬉しいのだけれど」
「喜んで、皇妃様」
皇妃からの思いがけない申し出に、少女達は顔を輝かせて答えた。
「あ、それと」
不意に少女の一人が、思い出したようにこう言った。
「巫女姫様、あの時の先生のこと、怖い人だなんて思わないで下さい。リーナ様はお友達だから御存知だと思いますけど、先生はただ真面目なだけで怖いわけではないのです」
「そうなんです。わたし達があの時みたいに規則を守らなかったり、悪戯をしたりすると物凄く怒るんですけど、普段は優しい先生なんです」
「悪戯?」
「は、はい、えっと……あの、いつもやっているわけではないのです。例えば誰かが宿題を忘れてしまった時に、先生の本に落書きをしたり、先生の御部屋に先生が嫌いな虫を入れたりして……」
少女が頬を染めながらぺろっと舌を出してみせて、皆が一斉に笑い出した。サファイアも泣き笑いの混ざった顔になり、同じように頬を染めた。
するとそれまでサファイアの肩に乗って、少女達の様子を伺い見るようにしていたミフォンが、三匹とも少女達へ向かって飛び出した。
「きゃあ、可愛い!」
「わたしの肩に乗ったわ!」
「ずるい、わたしも……あっ、来た!」
ミフォンは次々と少女達の肩から肩へ飛び移り、愛らしい仕草を見せて少女達をすっかり夢中にさせた。
「ほんとに可愛い! 巫女姫様、これ何ですか!」
「わたし知ってます! アドルーニアのミフォンでしょう、蔵書室の図録で見ました!」
「そうよ、ハーシェル兄さまにもらったの」
やがて一行はその場を離れたが、少女達もこの時は跪くことなく、サファイアと互いに手を振って別れたのだった。
9
表神殿の大広間に早くから詰め掛け、今か今かとその登場を待ち侘びていた人々は、女官にかしずかれながら入って来た皇妃の姿に、思わず息を呑み込んだ。
「なんとお美しい……!」
「まるで夢を見ているようだ、本当にこんな御方がおられるとは」
「絶世の美女、大輪の花の化身、天上から舞い降りた女神……どのような言葉も、皇妃様のお美しさを言い尽くすことは出来ぬ」
「皇帝陛下が離宮へ御隠しになられていたのは、あの御方の御静養のためと言うよりも、皇妃様を御自分一人のものにするためではあるまいか」
「思えば皇室の存在が噂されるようになったのも、陛下が頻繫に大神殿へ通っておられたことが一因であった」
「流石はエルヴァレートの『美の女神』と呼ばれた御方よ、あの厳格で知られる皇帝陛下を、ひと目で虜にされるとは」
「以前より更にお美しさが増したようだ。それにしても、今までよくぞ御無事で」
そう言って涙を浮かべたのは、マルグリットを筆頭にしたエルヴァレートの使節団の一員である。
「おそばにいるあの女官達、あれは皆、辞職を申し出て水晶宮を去った者ばかりではないか」
水晶宮の一団からは、そんな声も聴こえた。けれど上段中央に設けられた玉座に、アレキサンドラが女官の手助けを得て座ると、人々のどよめきはぴたりと静まった。
「わたくしは何よりもまず皆様に、お詫びを申し上げなくてはなりません」
やがて澄み渡るような美しい声が、人々の耳に届いた。
「あの時、エルヴァレートの女王という立場にありながら、わたくしは多くの方の信頼と友情を裏切り、恥知らずにも地位や名誉のすべてを捨てて、しまいには身を隠してしまいました。わたくしが皆様に与えた苦しみと哀しみに、ことに我が故郷エルヴァレートの方々に対して、心よりお詫びを申し上げます」
「そのような。アレキサンドラ=エレオノーレ陛下、あなた様のような御方が我ら如きに、お詫びの言葉など申されるものではございません」
先程の涙ぐんでいた男が、進み出て言った。
「確かにあの出来事は我らに、激しい動揺と大きな混乱を与えました。何より陛下が姿を隠しておられたこの年月、我らはあなた様が一体何処でどうしておられるのかと御心配申し上げ、嘆き哀しむ日々を過ごしておりました。されど今、こうして陛下のお健やかな、より一層お美しくなられた御姿を拝見させて頂いて、我ら一同感涙にむせておる次第にございます」
「我々水晶宮の者も、エルヴァレートの方々と同様にございます」
水晶宮の者が続く。
「あの時、皇帝陛下と皇妃様を激しく謗った当時の我が身を、なんと浅はかであったかとこの上なく恥じております。あなた様は正しく陛下の御言葉通り、竜神と女神様の御導きにより我がリステーニイへ降臨された、最上の皇妃様でございます。怖れながら皇妃様が御姿を御隠しになられていた間、我々の間ではあなた様のことを『幻の皇妃』と御呼びしておりました」
「有難う。そのように呼ばれていることは、わたくしも耳にしております」
そう言って初めてほっとしたような、はにかむような笑顔を浮かべてみせ、人々はますますアレキサンドラに魅了されてしまう。
サファイアはカインに抱かれたまま、人々からは見えない処で母の様子を見ていた。
「わたしの母さまなのに、今はそうじゃないみたい」
寂しそうに呟いたその言葉に、傍らにいたリーナははっとして顔を上げた。リーナもまた、アレキサンドラの優美で高貴な姿に魅了されてはいたが、一方ではこんなことを考えていた。どうして、こんな女性がこの世にいるのだろう。幼くして父の王位を継ぎ、長じてはその美貌を女神に例えられ、ついには皇帝に見初められてその妃となり、女神の生まれ変わりと呼ばれる皇女の母となった。他人には見せられぬ涙も沢山流してきたとは言え、リーナにすればアレキサンドラが羨ましくて仕方がない。何と言ってもアレキサンドラは、皇帝のみならずその部下である宰相の心をも独占しているのだから。
「お姉様、わたくしが申し上げていた通りだったでしょう。御心配なざらなくても、あなたはもうお義兄様の立派な御妃ですわ」
エルヴァレートの一団から離れ、誇らし気な様子でマルグリットが上段に上がって来た。
「お姉様は生まれながらに、エルヴァレートとリステーニイの頂点に立つべき御方。わたくしがこれをお預かりしていたのも、お義兄様である皇帝陛下の御命令だったからですもの」
「マルグリット」
「やっと、お姉様に御返しすることが出来ますのね」
そう言いながらマルグリットは、身に付けていた首飾りを外した。
「各王家からおいで下さった使節団の皆様方、これが我がエルヴァレート王家に伝わる、代々のエルヴァレート王が受け継いできた首飾りでございます。わたくしは始祖と同様、皇帝陛下直々にこれを授かり、今日まで姉の代わりを務めて参りましたが、皆様の前で姉の復位を宣することと致します」
再び場内にどよめきが起こった。
「あなたはそれでいいの、マルグリット。後悔はしないの?」
「何を仰いますの、お姉様。今日というこの日をわたくしがどんなに待ち侘びていたか、よく御存知のくせに」
アレキサンドラの胸元に、皇妃の象徴とエルヴァレート王位の象徴であるふたつの首飾りが輝く。
「さあお姉様、これで準備は整いましたわ。わたくしの可愛いサファイアは何処にいるの」
「我々としてはマルグリット様をお諫めせねばならぬ立場でありましょうが、逸る気持ちは同じでございます。皇妃様、あなたが御産みになられた『青い髪の皇女』様はどちらにおられるのでございましょう」
「嫌……!」
その小さな叫び声を耳にしても、アレキサンドラに動じる気配はなかった。
「皆様がわたくしなどより、あの子の方に興味をそそられるのは仕方のないこととわかっております。けれどわたくしには母親として、我が子を護らなければならない義務があることは、先に述べておきます」
アレキサンドラが皇室専用の入口に向かって、手を差し伸べる。
「サファイアをここへ」
「嫌、嫌、カイン、嫌……!」
「落ち着いて下さい、姫」
「嫌、怖い……!」
激しく首を振って拒否するが、カインはサファイアを離してくれなかった。そして二人が現れた時、アレキサンドラが姿を現した時よりも更に大きなどよめきが、巨大な大広間を包んだ。
眼、眼、眼。夥しい無数の眼が、サファイアの小さな身体を突き刺すように見詰めていた。大広間には一王家の使節団だけ数えても三十人はおり、特に水晶宮の一団は五十人を超えているから、大神殿の聖堂で見た『清めの儀式』の時とは比べものにならない。それは『聖帝』と呼ばれた亡き人の形見、唯一の皇位継承者への畏敬の念が込められてはいても、その奥には異質なものに対する並々ならぬ好奇心と、わずかばかりの恐怖が映っていた。そう、あの時の少女達のように。
「母さま……!」
「大丈夫よ、サファイア。母さまがそばにいるわ」
怯えてしがみつくサファイアを抱きしめ、アレキサンドラが囁く。
「怖がらなくていいの。母さまがあなたを護ってあげるから」
そう言われても、身体が震えて顔を上げることも出来ない。
『僕もいるよ。顔を上げて、サファイア』
不意に頭の中でハーシェルの優しい声が響き、サファイアは驚いて思わず顔を上げた。見れば居並ぶ人々の正面、水晶宮の使節団の隣でアドルーニアの使節団を率いる、王太子ハーシェルの姿があった。
「ハーシェル兄さま」
サファイアの怯えた顔に、初めて小さな微笑みが浮かんだ。
『落ち着いて、怖がっては駄目だ。ちゃんと座って、こちらをまっすぐ見るんだよ』
「サファイア、皆様が御覧になっていてよ。皇女様らしくしていなくては駄目でしょう」
くすくす笑いながらマルグリットも言う。そうだ、怖がっていてはいけない。サファイアは母から離れないようにしながらも、しがみ付くのをやめて玉座の上に座り直した。
「こちらの御方が皇帝陛下と皇妃様の姫君、本日七歳の生誕式を御迎えになった、サファイア=ローズ第一皇女殿下であられる」
そばに控えているカインが、厳かな声で人々にサファイアの名を告げる。
「皆も存じての通り皇妃様はもともと御病弱であられた上に、姫君御出産時には非常な難産を強いられたため、皇帝陛下は皇妃様の御静養先を大神殿の内に定められた。また姫君におかれても、悪しき者達の危害からお護りするため、同じく大神殿の庇護を受けておられたが、本日の姫君御生誕の祝いを機に、各王家からの使節団もおられるこの場で御二人の御披露目を行い、正式に水晶宮へ御迎えする運びとなった」
大広間の片隅には、最長老を筆頭に大神殿の一行もいる。中にはサファイアとカインの後から入って来たリーナの姿に、驚きを隠せないでいる者もいた。
『そう、君が動揺してはいないことをこの者達に見せる必要がある。何も言わなくていい、そういうことはカインや皇妃様がしてくれる。君はただ顔を上げて、こちらを見ていればいい』
ハーシェルは無表情を装い口を開くこともなかったが、金色の瞳はいたわるようにサファイアを見詰め、頭の中へしきりと励ましの声を送ってくれた。
「わたしはこれまで皇帝陛下の御命令により、宰相のみならず摂政の職を兼務してきたが、皇妃様の水晶宮御入城を機に摂政を辞し、代わりに皇妃様に摂政御就任をお願い申し上げようと考えている」
「御待ちなさい、カイン」
カインの言葉に、アレキサンドラが口を挟んだ。
「わたくしは先程、妹のマルグリットから女王の復位を受けたばかりです。それに病弱で名ばかりの皇妃であったわたくしに、摂政の重責が十分に勤められるとは思えない。あなたにはこれまで通り、サファイアとわたくしの手助けをして欲しいと思います」
「承知致しました。ならば皇妃様には第一摂政の役に就いて頂き、わたしは引き続き第二摂政として、御二人に御仕えすることと致しましょう。他の高官につきましては水晶宮御到着後、改めて御二人の御前に紹介させて頂きます」
『このことはすでに、皇妃様とカインの間で取り決めていたことだ。君の負担を軽減するための策だよ』
「御待ち下さい、お姉様」
マルグリットが声を上げた。
「その前に、まだするべきことがありますわ」
『やれやれ、やはりね。自慢の姪御姫の披露だけで、あのマルグリット様が満足するはずはないからね』
「ここにおられる各王家使節団の皆様の前で、サファイアへの譲位を行うことをお願い申し上げます。ええ、今すぐに」
「……マルグリット、あなたには申し訳ないけれど」
アレキサンドラは静かな眼差しで妹の顔を見守ってから、ゆっくりと口を開いた。
「アルレス様もわたくしも、これまで一度としてサファイアの譲位を認めたことはないわ」
「そんな、お姉様!」
マルグリットが叫んだ。
「それではお話が違いますわ! サファイアがリステーニイの皇位とエルヴァレートの王位を共に継ぐこと、それがわたくしの長年の夢であることは、お姉様もお義兄様もよく御存知のはずよ!」
「あなたにはすまないと思うわ、でも」
「落ち着いて下さい、マルグリット様。アレキサンドラ様、いいえ女王陛下の御言葉をお聴き致しましょう」
マルグリットを諫めようとエルヴァレートの一団から現れた男の姿に、アレキサンドラの顔が一瞬強張った。
「あなたは」
「お久し振りでございます、女王陛下」
「ヴィルヘルム=アーネスト=ミュラー様……あなたもおいでになっていらしたとは存じませんでした」
「お姉様、ヴィルヘルム様には今、第一執政を務めて頂いているの」
マルグリットが説明する後へ、ハーシェルも続く。
『ミュラー家は代々王家と婚姻関係を結び、政治面で優秀な人材を沢山出してもいる、エルヴァレートきっての名門貴族だ。そしてヴィルヘルム公は、かつて皇妃様の求婚者の御一人だったと聴いている』
驚いたサファイアは、母とその銀髪の男の顔を交互に見詰めた。
「サファイアは今日、やっと七歳の誕生日を迎えたばかり。今はまだ己に課せられた責務について、学ばなくてはならないことが沢山あります」
「詭弁ですわ、お姉様。お姉様もお義兄様も、サファイアの齢の頃には即位なさっておられたではありませんか」
「わたくし達とサファイアでは、状況が異なります。何よりこの子には、女神の役割まで与えられようとしている」
「斎宮のことね。そんなもの、お断りなさればよろしいではありませんか。サファイアだってあんなに泣いて嫌がって、お義兄様も、明確な御答えはなさらなかったと聴いておりますわ」
「マルグリット様の仰せの通りでございます」
水晶宮の一団からも声が上がる。
「我々水晶宮の者は、皇帝陛下唯一の形見である大切な皇女様を、おめおめ大神殿などに渡すつもりは毛頭ございません。我々からも、皇女様の一刻も早い御即位をお願い申し上げます」
「確かに皇女様は、女神リスタニア様の生まれ変わりとしか思えぬ御姿をしてらっしゃいます。さすれば『女神の代理人』である皇位に就かれることが、即ち斎宮の御出現ともなることだと思われますが」
「皇室の存在が明らかにされぬことが陛下の御希望であったとは言え、惑星国家群の頂点にある皇位が、このようにいつまでも空位の状態が続くような事態は、決してあってはならないことです」
各王家の使節団も続く。
「どんなに皆様が拒まれようとも、女神様の御姿そのままに御生まれになった皇女様は、女神様が御定めになった斎宮様でございます。このことは未来永劫、決して変わることはございません」
それまで口を開かずにいた最長老が、初めて強い調子で述べた。
「我がリステーニイの皇帝陛下とエルヴァレートの女王陛下の間に生まれた御方が、女神様の祝福を受けたとて何の不思議がございましょう。水晶宮の皆様も、各王家の使節団の方々も女神リスタニア様への厚い信仰をお持ちのはず。皇女様の斎宮就任に異を唱えることこそ、不忠に当たるのではございませんか」
「最長老様、お義兄様がお亡くなりになってから今日まで、あなたがお姉様とサファイアをお護りして下さったことには、わたくしも心から感謝申し上げております。けれどだからと言って、あなたにサファイアをわたくし達から奪う権利はありませんわ」
「お口が過ぎます、マルグリット様」
「でも、ヴィルヘルム様……!」
不意に、アレキサンドラが立ち上がった。
「サファイアの一刻も早い即位を望む各王家使節団の方々も、サファイアの斎宮就任を強く望む大神殿の方々も、アルレス様やこの子への忠誠故であることは、わたくしも十分承知しております。けれど先程も申し上げたように、わたくしには我が子を護る義務があるのです」
この人は、本当にわたしの母さまなのだろうか。サファイアは、毅然とした様子の母から眼を離すことが出来なかった。サファイアが知っている母は愛する人の死を嘆き、いつまでもその面影を追い続けているような、か弱い女性であったはずだ。
「皆様は先程から、アルレス様を故人としてお話ししているようですが、わたくしやこの子にとっては、アルレス様は今も生きていらっしゃる御方なのです。そしてそれは、皆様にとっても同じなのではありませんか。だからこそ皆様はわたくしのことを皇太后ではなく、皇妃と呼んでおいでになる」
不意をつかれたように、人々は一斉に押し黙った。
「アルレス様は、わたくしとサファイアを悪しき者から救うため、御自身の身を竜神に変えられたのです。『女神の代理人』『竜の血を継ぐ者』更には『聖帝』とまで呼ばれ、強大な神通力を誇るアルレス様がお亡くなりになったなんて、わたくしはそのようなことを決して信じません。それともこの中で、アルレス様の死を実際に目撃した方がおられるのですか」
「しかし」
水晶宮の者が言いかけて、口をつぐんだ。皇帝が竜神になったなど、何を奇抜なことをと言いたかったが、皇妃はあまりにも毅然としており、己の言葉に揺るぎもなく一同をまっすぐ見据えている。確かに、この中で皇帝の死を目撃した者は一人もいない。それにもし本当に、皇妃の言葉通り皇帝が死んでいないのだとしたら……。
「ですからわたくしは、サファイアの即位を急ぐつもりはありません。わたくしが今すべきことは、アルレス様がお帰りになるその日まで、この子を父の名に恥ずかしくない子に育てることなのです」
『皇妃様としては、ここにいる者に皇帝陛下の御生存を匂わせることで、少しでも君の即位と斎宮就任を引き延ばしたいお考えなのだろう。少々強引かも知れないけれど、竜神の子孫が竜神そのものになったとておかしくはないからね』
ハーシェルはそう言った。でも。
「母さま」
娘の囁くような声に、アレキサンドラは愛情の籠った優しい眼差しを向けた。
「母さま、父さまは生きてるの?」
「ええ、サファイア。父さまは生きていらっしゃるわ」
「本当に? 母さま、本当に?」
「竜になってわたくし達を護って下さっていると、前にもお話ししたでしょう」
「いつか帰って来てくれる? わたしや母さまの処へ、父さまは帰って来てくれるの?」
「ええ、きっと。あなたが女神様にそう願ってくれたから」
「母さま……!」
大神殿へ行ったことは、決して無駄ではなかった。御姿は見えなかったけれど、女神様は確かにサファイアの願いを聴いて下さっていた。
母娘の姿を、人々は戸惑いながらも見守っていた。二人があまりにも幸福そうな様子で、アルレスが生きていると確信し合う姿を見ていると、本当に今にも皇帝が姿を現すような気がしてくる。けれどこの大広間にいるのは、二人のそんな姿に好意を寄せる者ばかりではない。不満はすぐに敵意へと変わる。
「何を愚かなことを。優れた能力者とは言え死んだ人間が生き返るなど、本気でそのようなことがあり得ると思っているのか」
「こんな馬鹿げた芝居に付き合わせておいて、あの皇妃は一体何を考えている」
「そういえば聴いたか。皇女はあの通り確かに青い髪をしているが、巫女としての能力は全く皆無なのだそうだ。大神殿の望み通り斎宮となっても、神通力が使えない斎宮など前代未聞だ」
「母親に生き写しでも、父親の才能を受け継いではおらぬ皇位継承者など、害にはなっても利にはならぬのではないか」
悪意に満ちた囁きがやがて大きくなった時、大広間の後方に突然火の手が上がった。
「言葉に気を付けた方がいい。皇妃様の御言葉は、皇帝陛下の御言葉そのものだ」
それまで、サファイア以外の誰も声を聴かなかったアドルーニアの王太子が、初めて口を開いた。
「王太子殿下の仰る通りだ。我々が今なすべきことは、皇室をお護りすることである。我々エルヴァレートは女王陛下の御言葉を尊重し、皇女様の御成長を待って即位の時機を改めてお願いすることとしたい」
ヴィルヘルム執政官が続き、更にカインが言葉を継いだ。
「御二方に感謝申し上げる。水晶宮は皇帝陛下御寵愛の皇妃様と皇女様を御迎えし、皆が心沸き立つ思いである。更に皇帝陛下の御帰還が現実となれば、リステーニイのみならず各惑星に在住する者の喜びは計り知れない。陛下は生きておられるとの皇妃様の御言葉を、我々水晶宮も尊重する」
幻の炎の脅しの上に三人の重要人物の発言で悪意の囁きは一斉に静まり、一同は深く頭を下げた。
「サファイア? サファイア、どうしたの」
不意にアレキサンドラの声が上がり、人々の視線は再び上段に集まった。
「母さま」
ミフォン達がサファイアの周りに集まって、蒼ざめた頬をなめたり、小刻みに震えている小さな身体を温めようと、しきりに自分の身体を押し付けたりしている。
「母さま、寒いの」
「しっかりして、サファイア」
幼い皇女の心の中の細い糸は、すでに切れていた。サファイアは、そのまま母の腕の中で崩れ落ちた。




