第四章 巫女姫哀歌
これだけ執筆が遅れていることについて、言い訳をしようとすればいくらでもあります。父が亡くなってから、体力も記憶力も衰えてきている母に代わって、やらなくてはならない家のこと、いわゆる働き方改革でかえって残業が出来なくなり、上司に内緒で休日出勤していること(業者さんと「働き方改革じゃなくて働きづらい改革ですよね!」と、先日愚痴ってました)。でも一番の原因は何と言っても、わたし自身の遅筆にあります。
あらすじにも書いたようにこの作品は書き直しであるのに、これほど書きにくいことは本当に初めてです。何しろ主人公のサファイアが、殆どと言っていいほど動いてくれない。年齢設定誤ったからかなあ……だけど、ここまで来て今更書き直すことも出来ないし。
幼い子供のくせに随分と作者に苦労させてくれた主人公ですが、ようやくこの章でやっと動き出してくれました。次回はいよいよ最終章になります。気長に続きを待って下さっている皆様には、本当に申し訳なく思いますが、「ほんとにのろまでどうしようもない奴だ」と罵りつつ、どうか最後までお付き合い下さるようお願い申し上げます。m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
1
「やめて!」
アレキサンドラが叫んだ。
「サファイアの前で、そんなことを言うのはやめて! この子はアルレス様の御子よ!」
「どう言い繕っても、お前がアルレスを裏切って、他の男と通じた過去を消すことは出来ない」
憎悪と蔑みの籠った笑みを浮かべて、シャルロットが更に言い募る。
「産んだお前ですら誰の子とわからぬ娘を、恥知らずにもリステーニイの皇女と名乗るとは怖ろしい女よ。しかも不義を働いた相手の男が宰相とは、アルレスも相当馬鹿にされたもの」
「やめて! やめて!」
正気ではない亡霊の前で、アレキサンドラは殆ど半狂乱の状態になった。
「サファイア、聴いては駄目! こんな亡霊の言葉に耳を貸しては駄目! あなたは間違いなく父さまの、リステーニイ皇帝アルレス=ファヴィエ=サンドリアン二世の娘よ!」
「リステーニイの皇帝と宰相をその美貌で惑わせ、生まれた不義の子を皇位継承者に据えるなど、これだけの大罪を犯しながらよくも平気な顔をしていられるものよ。こんな汚らわしいお前のような女が、『女神』などと呼ばれていいものか」
「やめて……近付かないで!」
「どうせその男も、お前に惑わされた者の一人なのだろう。そうやって今まで、一体何人の男を手玉に取ってきた」
「いやあああ!」
「逃げなさい!」
崩れかけたアレキサンドラの身体を抱き留め、ヴィルヘルムが振り向きざまリーナに向かって叫んだ。
「皇妃様はわたしがお護りする! 君は早く皇女様をお連れして、安全な場所へ逃げなさい!」
「は、はい!」
我に返ったリーナは、やはり茫然としているサファイアを抱きしめた。
「母さま! 母さまは!?」
「サファイア様を大神殿までお連れしたらすぐ戻ります、それまでお待ち下さい!」
「嫌、リーナ! 母さまと一緒でなくちゃ嫌!」
サファイアは泣いて嫌がったが、リーナはヴィルヘルムに叫び返してそのまま跳んだ。
「逃げるがいい」
残ったヴィルヘルムに向かい、シャルロットは嘲笑うように言った。
「アレキサンドラは今、お前の腕の中だ。邪魔をする者はいない。さあ、最愛の女を腕に何処へでも行くがいい」
「ふざけるな!」
ヴィルヘルムが叫んだ。
「この御方を傷付ける者はわたしが赦さぬ! わたしをお前などと一緒にするな!」
だがシャルロットは狂ったような笑い声を上げ、炎と共にかき消えてしまった。
「何という女だ」
怖ろしい。あれが以前マルグリットが話していた、シャルロットという巫女の亡霊なのか。先帝との恋に破れ、狂気の虜となって皇帝と皇妃に憑りつき、そうとは知らず我が子の生命を奪い(ヴィルヘルムもマルグリットも、皇帝の出生の秘密について何も知らされていない)、未だにアレキサンドラを憎悪し続けている。
「……サファイア……サファイアを助けて……」
「御安心下さい、リーナがお護りしております。あの女も消えました、すぐに皇女様の処へお連れしましょう」
蒼ざめ、かすれるような声で娘の身を案じるアレキサンドラを抱き上げ、ヴィルヘルムは歩き出した。先程まで、森を焼き尽くそうとしていたはずの炎は亡霊と共に消え、木漏れ陽と小鳥の声が戻り始めてはいたが、それでも空気の中にくすぶるような匂いが残っている。急がなければ。いつまた、あの亡霊が戻って来るかわからない。
「産んだお前ですら誰の子とわからぬ娘を、恥知らずにもリステーニイの皇女と名乗るとは」
だが不意に女の言葉を思い出し、ヴィルヘルムの足が止まった。
「馬鹿げている」
ヴィルヘルムは激しく首を振った。そんなことはあり得ない。アレキサンドラが、自分がかつて愛したか弱くも麗しき女王が、今もあんなに愛し続けている皇帝を裏切る真似をしたとは、とても信じられるものではない。
「カイン=イスハルとの子」
本当なのか。サファイアが、『神々の申し子』『女神の生まれ変わり』と称えられるあの皇女が、皇帝ではなく隻眼の宰相との間に生まれた子だと言うのか。けれどもしそんなことが事実だとすれば、あの誇り高き皇帝が不義を犯した皇妃を赦す訳がない。皇妃も宰相も皇帝の手によって、とっくの昔に殺されていてもいいはずだ。
アルレス=ファヴィエ二世、『女神の代理人』『竜の血を受け継ぐ者』のみならず、歴代皇帝の中で唯一『聖帝』と呼ばれた男。それにふさわしく強大な神通力に恵まれ、優れた統治能力を示したあの皇帝が、いくら愛情を注いだ女性とは言え、その誇りを傷付けるような真似をした皇妃をそのままにしておくだろうか。それにカインとて、信頼がより厚いものであればあるほど、皇帝に対する裏切りはそのまま死を意味するものとなるだろう。
ヴィルヘルムは、腕の中で気を失っているアレキサンドラを見詰めた。
美しい。昔も今も女神の呼び名そのままに、アレキサンドラの美しさは格別なものがある。エルヴァレートを離れてから、皇帝の妃となって一人娘を得た今も、以前にも増してその美貌は光り輝くようだ。弊害著しかった老宰相の過去があったにせよ、だからと言ってアレキサンドラの女王としての力量が劣るものでなかったことは、行方知れずとなっていた間も真の女王と慕う者が、エルヴァレートに数多くいたことが証明している。
「……アレキサンドラ」
愛していた。いや、今も愛している。アレキサンドラがエルヴァレートを離れてからの長い年月、胸の奥で人知れず燃やし続けたこの想いを、そう簡単に忘れられるくらいなら初めから愛しはしない。だからこそあの御披露目の儀で、数年振りにアレキサンドラと再会出来た時の喜びは、母親に生き写しの皇女を眼にした時の感動は、それこそ天にも昇るような心地だった。
そうだ。謁見などと称して幾度となく母娘の許へ通い続けたのも、今も尚消えないアレキサンドラへの愛情故のことだ。出来る限り少しでも長く、愛する御方のそばにいたいがために、足繫く水晶宮へ足を運んだ。
エルヴァレート女王、更に今はリステーニイの皇妃でもある女性。だが、それがどうしたと言うのだ。皇帝アルレスは死んだ、自分の邪魔をする者はいない。皇妃とはいえ未亡人であるアレキサンドラを、再び望むことの何が悪い。
何を愚かな。眼を覚ませ、自分は仮にもマルグリット王女の、この御方の妹姫の夫となった身ではないか。執政官としてマルグリットに仕えるようになってから、健気に姉の代わりを務めるその姿に惹かれ、夫として身も心も捧げる覚悟をしたことをもう忘れたのか。姉思いで明るく心優しい女性を、我が生涯の伴侶と決めた御方を傷付けるような、そんな愚かな真似は決してしてはならない。
「皇妃様! どちらにおられますか、皇妃様!」
そこへ突然、アレキサンドラを呼ぶカインの姿が眼に入った。あの冷静沈着な男が血相を変え、必死になってアレキサンドラを捜している。水晶宮の激務から解放され、ようやく大神殿へ駆け付けてみれば、主の姿は見えないのだからそうなるのも当然だ。だが、しかし。
カインというあの男がアレキサンドラを、皇帝の妃を人知れず愛し続けていることは、同じ女を愛する者としてヴィルヘルムにも痛いほどよくわかった。そうだろう、カイン。お前もそのひとつしかない瞳の奥で、皇帝と同じ、サファイアと同じ、何処までも深く澄み切ったあの青い瞳の奥で、アレキサンドラへの燃ゆるような想いを秘め続けていたのだろう。
「ミュラー執政官!」
カインが気付いて声をかけた時、ヴィルヘルムの顔はすでに豹変していた。
「……渡さない」
「ミュラー執政官……?」
「アレキサンドラは渡さない! 皇帝にもお前にも、誰にもアレキサンドラは渡さない! もう二度とこの腕から、アレキサンドラを手離したりするものか!」
渡さない、渡すものか。あの時、諦めずにアレキサンドラを我がものとしていれば、こんなことにはならなかったはずだ。皇女サファイア、その青い髪故に『神々の申し子』『女神の生まれ変わり』と呼ばれる少女。けれど姿かたちは母親に生き写しではあっても、能力者である父親からは何ひとつその力を受け継いではいない。斎宮として巫女達に崇められてはいても、斎宮どころか巫女としての能力は何ひとつ。
唯一同じ瞳の色も、果たして本当に皇帝から授かったものなのか。あの女の言葉通り、皇帝ではなくカインという、眼の前にいるこの男から授かったものなのだとしたら。
「正気に戻りなさい、ミュラー執政官! シャルロットの言葉に惑わされてはならない!」
「黙れ! 皇帝が、お前達が寄ってたかってこの御方を穢したのだ! よくも麗しき『エルヴァレートの美の女神』を、わたしの大切な女王を……!」
「ミュラー!」
カインの耳に、シャルロットの狂ったような笑い声が響いた。
2
「お怪我はありませんか、サファイア様」
ようやく大神殿の近くの森に辿り着いた時、流石にサファイアの顔は蒼白だった。
「ひどい、リーナ!」
リーナの腕から抜け出し、サファイアは叫んだ。
「ひどいわ、リーナ。どうして母さまを置いてきたの、どうして一緒に連れて来てくれなかったの」
「御許し下さい、サファイア様」
激しく泣き出したサファイアを抱きしめるリーナ自身も、顔色が悪い。
「今日は、どうしても力がうまく使えないのです。初めてです、こんなこと……」
シャルロットの禍々しい霊気を浴びて、力が十分に出せないのだろうか。あの場所から大神殿までさほど遠くないはずなのに、何度も瞬間移動を繰り返して、ここまで来るのが精一杯だった。
「早く、早く母さまの処へ行って! 早くしないと母さまがあの人に殺されるわ!」
「お待ち下さい、大神殿はすぐそこです。まずは、サファイア様の身の安全を確保しなくてはなりません」
「あの人は母さまを憎んでいるのよ。そんなことをしていて、母さまが本当に殺されたらどうするの」
サファイアはすっかり混乱している。けれどリーナの立場からすれば、まずはサファイアを安全な場所へ移し、最長老と連絡を取ることが最優先だ。
「リーナが行かないのならわたしが行く! わたしが母さまを助けるわ!」
「落ち着いて下さい、サファイア様」
「どうしてリーナ、どうして。どうして母さまを助けに行ってくれないの。どうして母さまを置いて来てしまったの」
「ああするしかなかったのです。御許し下さい、サファイア様……」
そうじゃない。わかっている、力が出せない原因はシャルロットの影響ばかりではない。リーナ自身が、アレキサンドラの救助を拒んでいるからだ。水晶宮でアレキサンドラが倒れた時には、躊躇なくカインやサファイアをも伴って跳んだのに、今はリーナの身体が激しくそれを拒んでいる。
「あなたにも必ず、あなただけの本当の運命が訪れる時が来るの。母さまの前に父さまが現れたように、あなたの前にもいつか誰かが現れる。その時は母さまの言葉を思い出して、自分の心の声に従いなさい。竜神は娘のあなたにも、あなただけの運命を用意してくれているはずだから」
あの時。森での散策の時、アレキサンドラがサファイアに語っていた言葉。
聴きたくなかった。あんな言葉、絶対耳にしたくなかった。皇妃は、アレキサンドラは『女神の生まれ変わり』と称えられる少女の母親でありながら、どうしてもその斎宮就任を認める気はないのだ。
「母娘水入らずでいらっしゃる処を邪魔しては駄目よ、皇女様もあんなに喜んでいらっしゃるのだから」
女官に厳しく戒められたものの、サファイアを襲ったあの女が再び現れたらどうするのか。サファイアの姉を自負しているリーナとしては、供もなく母娘二人だけで外出させる訳にはいかなかった。そして、あの言葉を聴いてしまった。
いや、そんなことは初めからわかっていた。母親として、たった一人の娘に負わなくてもいい重荷を負わせたくないという、アレキサンドラの悲痛なまでの思いはよく知っていた。けれど仮にも『青い髪の皇女』の母であるのなら、そんな言葉を口にするべきではない。
「だってあなたは、すべてをお持ちなのですもの」
泣いているサファイアを見詰めながら、小さな声でそっと呟いた。
「ひとつくらい、譲って下さってもよろしいではありませんか」
そう、あなたはすべてを持っている。エルヴァレートの女王、リステーニイの皇妃というふたつの高貴な称号も、女神と称えられる類まれな美貌も、皇帝を初めとする数多くの男達の愛も。わたしが秘かに想い続けているあの方の心さえ、あなたは容易に御自分のものとしてしまっている。
敵わない。どうしても、アレキサンドラには敵わない。当たり前だ、あんな高貴な女性に自分のような者が適う訳があるものか。大神殿では、将来を嘱望された優秀な巫女の一人と自負してはいても、ここでは、アレキサンドラの前では何の力も持たない平凡な娘に過ぎない。
どうして、あんな女性がいるのだろう。生まれた時から地位も名誉も、美しさも愛もすべてを兼ね備えた女性。大神殿の巫女よりも女神により愛されているのは、このような御方の方ではないかと思えてしまう。そうでなければどうして、『女神の生まれ変わり』『神々の申し子』と呼ばれる少女の母になることが出来るだろう。
「リーナ……?」
様子を訝しく思ったのだろう、一時泣き止んだサファイアが自分を見上げていることに、リーナもようやく気付いた。
「御心配なのはわかりますが、皇妃様のおそばには今、ミュラー執政官が付いていらっしゃいます」
リーナは、声を励まして言った。
「ともかくまずは、最長老様に御相談することが先決です。サファイア様を無事大神殿へお送りしたら、わたしはすぐ御二人をお助けに参りますから」
サファイアはまだ納得していないようだったが、まだ幼い身では何の役に立つことも出来ない。涙を拭いてリーナに従うしかなかった。
「皇妃様! 皇女様! 御二方ともどちらにいらっしゃいますか、御返事して下さい、皇妃様!」
だがそこへ、ただならぬ女の悲鳴にも似た声が届き、二人の足が止まった。
「皇女様!? ああ、よく御無事で皇女様……!」
「一体どうしたのですか、その御姿は……!?」
リーナも叫んだが、女官はリーナなど眼にも入っていないと言うように、サファイアの前に跪いた。女官の姿は見るも無残な様子で、頭からは血が流れ、服は破れて焼け焦げており、身体のあちこちにもひどい火傷を負っていた。
「大神殿へ戻ってはなりません、皇女様! 今戻れば巫女達に殺されてしまいます!」
「どうしたの、一体何があったの」
サファイアも驚いて叫ぶように訊ねた。
「最長老様はひどい御方です。初めからわたくし達を殺すおつもりで、あの御殿へ御二方を御案内なさったのです。いいえ、わたくし達だけではなく皇妃様も皇女様も、最長老様はすべて殺してしまうおつもりなのですわ!」
「そんな、まさか」
震える声でそう呟いたリーナを、女官は憎々し気に睨み付けた。
「だから、だからわたくし達は反対していたのです! リーナ、お前のような者をあの御館へ入れたりしなければ、皇女様のおそばへ上がらせたりなどしなければ、そうすればよもやこんなことには……!」
「リーナは何もしていないわ」
「騙されてはなりません、皇女様! この娘のそばにいては、皇女様もいずれ殺されてしまいます!」
サファイアを攫うように抱きしめ、女官はリーナを怒鳴り続けた。
「悪しき娘、今すぐこの場から立ち去れ! 皇女様にこれ以上近付くことは許さぬ、お前達大神殿の巫女などに、大切な皇女様を殺されてなるものか!」
「わたしは何もしていません、何も知りません。信じて下さい」
リーナがおろおろしながら答えても、女官はますます猛り狂った。
「お黙り! 皇女様から引き離そうとしたわたくし達を、お前が恨んでいたことくらいわかっている! お前はわたくし達に復讐するため、ここへおびき寄せたのだ! 何という怖ろしい娘、お前も、お前の仲間も……!」
「お願いです、教えて下さい。一体、何があったのです」
悲痛な声で訴えながらも先程の炎が頭を離れなかったのは、リーナもサファイアと同様だっただろう。
「知りたければ今すぐ、その眼で見て来るがいい! 金色の髪をしたお前の仲間の巫女が、あろうことか斎宮御殿に火を付けたのだ! 激しい炎が一瞬で燃え上がり、わたくし達は逃げる間もなかった。炎はまるで生き物のように、女官を一人また一人と飲み込み、何もかも焼き尽くして……!」
そこまでだった。女官は突然その場へ倒れ、リーナが駆け寄った時にはすでにこと切れていた。
3
「リーナ……」
やっとの思いで斎宮御殿へ辿り着いた二人が眼にした光景は、想像を絶するものだった。
「こんな……こんなこと……」
リーナは崩れるように座り込み、不意に叫んだ。
「わたしは何もしていません!」
「リーナ?」
「お願いです、信じて下さい! わたしは何も知りません、本当に何もしていないのです! 確かに女官の方々がわたしを、サファイア様から引き離そうとしていたことは知っています。でも、それはわたしにも責任があることだし、皆様がそうなさろうとしていたのは仕方がないことだったのです」
「落ち着いて、リーナ」
「なのにまさか、まさかわたしが、逆恨みで皆様を殺すだなんて……!」
「リーナ!」
サファイアが叫んだ。
「しっかりしてリーナ、これがリーナじゃなく、あの人のしたことだってわかっているわ。それよりも早く、リーナは母さまの処へ行って」
「でも、こんな処へサファイア様を残して行くなんて」
「早く行って! これは命令よ、アルメリーナ=オルフェ!」
まだ動揺が残っていたリーナは、皇女の凛とした声に初めて我に返り、急いで森へ戻って行った。
「母さま」
だが一人になると、再びサファイアの眼には涙が浮かんだ。先程のリーナに怒鳴った時とはまるで別人のように、サファイアは声を上げて泣いた。何が何だかわからなかった。どうして、こんなことになってしまったのだろう。母と森へ出掛ける時、「お母様とごゆっくり楽しんでいらっしゃいませ」と送り出してくれた女官達が、サファイアが生まれてからずっと心を込めて仕えてくれた人々が、一瞬のうちに一人残らず殺されてしまったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
ミフォン達がしきりに頬をなめてくれたが、涙は止め処もなく溢れて来る。
情けない。大切な人達が殺されたというのに、サファイアには何も出来ない。皇女と呼ばれるようになって未だ戸惑いはあっても、斎宮として扱われることに恐怖を感じてはいても、それでもサファイアは皇女であり斎宮である。それなのにこうして泣くこと以外、サファイアに出来ることは何ひとつなかった。
「父さま……助けて」
どうして、ここにいないの。サファイアのそばにいて、「大丈夫だよ」と声をかけてくれるだけでいいのに。「泣かないで」と優しく抱きしめてくれたら、それだけでどんなに力になるか知れないのに。
そこで不意に、記憶が甦った。
「産んだお前ですら誰の子とわからぬ娘を、恥知らずにもリステーニイの皇女と名乗るとは」
「サファイアの前で、そんなことを言うのはやめて! この子はアルレス様の御子よ!」
シャルロットの言葉に母アレキサンドラは激しく動揺し、しまいには気を失ってしまった。
どういう意味だったのだろう、あれは。確かにあの時、シャルロットはサファイアに向かって「誰の子とわからぬ娘」と謗っていた。わたしが、誰の子かわからない……?
「わたしは、父さまの子供じゃないの……?」
「サファイア、聴いては駄目! こんな亡霊の言葉に耳を貸しては駄目! あなたは間違いなく父さまの、リステーニイ皇帝アルレス=ファヴィエ=サンドリアン二世の娘よ!」
慌ててサファイアは首を振った。そうだ、亡霊なんかの言葉に惑わされてはならない。
サファイアは、肖像画の父の姿を思い浮かべた。館で暮らしていた時、いつもあの肖像画の前で母の様子を報告したり、悩みや相談事を打ち明けたりするのがサファイアの日課だった。直接ふれることは出来なくても、肖像画に描かれたあの青く澄んだ瞳を見詰めているだけで、父の存在を、温もりを、深い愛情を感じ取ることが出来た。
「お前の汚らわしい娘はアルレス様ではなく、カイン=イスハルとの間に生まれた子であろう!」
けれど再びシャルロットの言葉が頭の中に響き渡り、サファイアの身体が凍り付いた。
「カインの子……?」
信じられない。信じたくない、そんなこと。確かにカインのことは大好きだけど、でもカインは父さまじゃない。カインはカインで、父さまは父さま。母さまはカインとじゃなくて、父さまと結婚したのだから。そしてわたしは、父さまと母さまの間に生まれた子供なのだから。
「どう言い繕っても、お前がアルレスを裏切って、他の男と通じた過去を消すことは出来ない」
けれど何度考えても、あの言葉はよくわからない。あの母さまが、父さまを裏切った……? 女王でありながらエルヴァレートのすべてを捨て、竜神の導きで結ばれた恋人を未だに愛し続けるあの母が、父を裏切ったなどそんな馬鹿なことはあり得ない。あり得るはずがない。
「嘘よ、嘘に決まってる」
サファイアは、自分に言い聴かせるように呟いた。
「父さまの御子であることに、いつも誇りを持っていて。あなたは、たったひとつの父さまと母さまの愛の証なのだから」
今よりずっと幼い頃、物心ついたかつかぬ頃より母は、サファイアにいつもそう言い聴かせていた。だからサファイア自身、父と母の子であることを何よりも誇りに思って生きて来たし、そのことに何の疑問も感じたことはなかった。今にして思えば、皇女であることの確認の意味も含まれていたのだろうが、あまりにも当たり前で自然なことに何を疑う必要があっただろう。
「カイン……」
カイン、何処にいるの? カインなら、きっとすぐに答えてくれる。いつも母とサファイアのそばにいて、二人を護り正しく導いてくれたあの男なら。父と同じ、青く澄んだ瞳と濡れるように輝く黒髪を持ったあの男なら。
「父さまと、同じ……」
不意に身体中からすべての力が抜けてしまったように、サファイアはその場に崩れ落ちた。
「あなたの身体にも父さまと同じ、白竜の血が流れているの。あなたの瞳はその証。あなたが父さまの御子であるという、ただひとつの確かな証なの」
サファイアの身体が小刻みに震えて来る。どうして、今まで気付かなかった。あまりにも当たり前で自然なこと過ぎて、二人が同じ色の瞳と髪を持っていることに。
4
ようやく元の場所へ辿り着いた時、リーナは自分の眼を疑った。アレキサンドラは気を失ったまま草場の中に横たわり、そのそばでは二人の男が互いに殴り合っていたからだ。
「カイン様!」
最後の一撃でヴィルヘルムが倒れ、リーナは急いでカインのもとへ駆け付けた。
「気絶しただけだ、心配することはない」
口元の血を拭いながら、息も荒くカインが答えた。
「執政官も亡霊に惑わされて、尋常ではない状態だった。でも大丈夫だ、眼を覚ます頃には正気に戻っているだろう」
尋常ではない状態。二人の男と一人の女。
「姫は何処にいる?」
問いかけられても、リーナはすぐには答えられなかった。
「は、はい。何とか大神殿までお連れしたのですが、斎宮御殿があの亡霊に放火され、女官の皆様が巻き込まれて……」
「何だと?」
カインは急いでヴィルヘルムを肩に担ぎ上げた。
「それで姫は? 姫は御無事でいるのか」
「はい。サファイア様はすぐに皇妃様の処へ行けと、わたしにお命じになりまして」
あの時の大人びたサファイアの顔を思い出しながら、リーナは答えた。
「リーナ、わたし達を連れて跳ぶことは出来るか」
「い、いえ、わたしも亡霊の霊気に当てられたのか、自分一人ここまで戻って来るのが精一杯で」
「では、わたしがこの男を担いで行く。時間はかかってもいい、何とか姫の処まで皇妃様をお連れしてくれ。頼む、リーナ」
「はい!」
名前を呼ばれるだけでこんなにも嬉しい。こんな時にそう思う自分を心の中で罵りながら、リーナはヴィルヘルムを抱えて戻るカインを見送ると、ひと息吐いて急ぎアレキサンドラの処へ行った。
「皇妃様、皇妃様」
声をかけてみたものの、やはりアレキサンドラは眼を覚まさない。顔色も先程より悪く更に透き通るようで、思わず口元に手をかざしてみたが、幸い息はしている。けれどいつまでもこんな処にいては、病弱な皇妃の身体に悪影響を与えてしまうだろう。何よりいつ、あの亡霊がここへ戻って来るかわからない。
その時ふと、アレキサンドラの胸元にリーナの眼が止まった。今日のアレキサンドラは娘との散策のため、館にいた頃のような簡素なドレスとショールに身を包んでいたが、胸元にはリステーニイの皇妃とエルヴァレートの女王である証の、ふたつの首飾りが輝いている。水晶宮へ入ってからは、アレキサンドラはいつもそれらを身に付けるようにしており、リーナもすでに見慣れているはずなのに、この時は何故だか初めて眼にしたような気がした。
「リステーニイの皇妃でありエルヴァレートの女王、そして斎宮の御生母でもある御方」
アレキサンドラ=エレオノーレ、この世の栄誉のすべてを与えられている女性。そして、リーナがいくら望んでも得られないただひとつの愛をも、手に入れている女性。
敵うはずがない。こんなにもすべてを兼ね備えた女性に、わたしなんかが適うはずがない。
駄目よ、リーナ。何を馬鹿なことを言っているの。仮にも、生涯清らかな身で過ごさなければならない巫女が、同じくその生涯を皇帝と皇室への忠誠に捧げている宰相に恋するなんて、正しく女神への裏切り行為そのものだ。ましてや、斎宮の生母であり皇妃でもある御方に嫉妬するとは、あまりにもおこがましく浅ましい。
「でも」
アレキサンドラの顔を見詰めて、リーナは呟いた。
「サファイア様をわたしのものにしても、罪には当たらないはずです」
何もかもを手に入れているあなたからひとつくらい奪っても、あなたが不幸になるとは思えない。
「産んだお前ですら誰の子とわからぬ娘を、恥知らずにもリステーニイの皇女と名乗るとは怖ろしい女よ。しかも不義を働いた相手の男が宰相とは、アルレスも相当馬鹿にされたもの」
突然、亡霊の言葉が耳に甦った。
「リステーニイの皇帝と宰相をその美貌で惑わせ、生まれた不義の子を皇位継承者に据えるなど、これだけの大罪を犯しながらよくも平気な顔をしていられるものよ。こんな汚らわしいお前のような女が、『女神』などと呼ばれていいものか」
「サファイア様が、カイン様の御子……?」
そんな馬鹿な。そんなこと、あるはずがない。
言葉では否定しながら身体が震えてくるのを、リーナは止めることが出来なかった。
カイン=イスハル=キアス。皇帝の信頼厚き宰相として、皇帝亡き後も身命を賭けて皇妃と皇女を護る男。それが皇帝への忠誠のためではなく、皇妃への一途な愛情のためなのだとしたら……。サファイアが皇帝ではなく、皇妃と宰相の間に生まれた娘だということが真実なのだとしたら……。
「嫌! 絶対に嫌! そんなこと、絶対に嫌……!」
赦せない。そんなこと、絶対に赦さない。わたしからカイン様もサファイア様も奪おうとするなんて、そんなことは絶対に赦さない。
アレキサンドラの上に馬乗りになり、その細い首に自分の指が食い込んでいくのを、リーナはまるで夢の中にいるような心地で見ていた。
5
「巫女姫様! しっかりして下さい、巫女姫様!」
いつの間に気を失っていたのだろうか、自分を呼ぶ声でサファイアは眼を覚ました。
「みんな、どうしてここへ……」
「斎宮御殿から出火したという話を聴いて、急いで駆け付けて来たんです」
「御殿が全部焼けてしまって、その前で巫女姫様が倒れているんですもの、本当に驚きました」
サファイアの周りを囲むように、巫女見習いの少女達が集まっている。そばではミフォン達も顔を覗き込んでいて、一同サファイアが目覚めたことに安堵の表情を浮かべた。
「この子達が、ここまでわたし達を案内してくれたんですよ」
「……有難う」
「本当に大丈夫ですか、巫女姫様。御顔の色が良くないです」
「大丈夫よ、心配しないで」
まさか、自分の父親が誰なのかわからなくて泣いていたなんて言えない。
「皇妃様は? リーナ様や水晶宮の方々は、御一緒ではないのですか」
そこで初めて我に返り、サファイアは慌てて起き上がった。
「リーナは母さまを迎えに行ったの。でも」
女官達を襲った突然の悲劇に、少女達の顔が蒼ざめた。
「本当に、巫女の亡霊が皆様を殺したんですか」
「それじゃ、神殿の火もその亡霊が……」
この言葉に、今度はサファイアの顔色が変わった。
「火は、神殿の方にも廻っているの!?」
「はい、先生方や他の巫女様達は皆、そちらへ駆け付けているはずです。わたし達は別殿で待機するよう言われたのですが、巫女姫様のことが心配でここへ」
そうだ、斎宮御殿が襲われたということは、他の神殿や巫女達にも危害が及ぶということになる。茫然としている暇はない。
「わたし、神殿へ行くわ」
サファイアの言葉に、少女達は目を瞠った。
「皇妃様を御待ちしていなくていいのですか、巫女姫様。御心配ではないのですか」
「心配だけど、母さまのそばにはリーナと叔父さまがいるわ。それにカインも」
この名に、思わず言葉が詰まった。
「カインも今日、水晶宮から来る予定なの。だから大丈夫、わたしも神殿を護らなくては。だって、わたしは斎宮なんだもの」
「巫女姫様が行かれるのなら、わたしも行きます」
「わたしも!」
大切な斎宮を一人で行かせる訳にはいかない。少女達は皆、真剣な表情を浮かべてサファイアを囲んだ。
「母さま」
けれど神殿へ向かう時、焼けた御殿の残骸を振り返らずにはいられなかった。
「母さまは大丈夫よ、きっと大丈夫」
繰り返し自分にそう言い聴かせながら、サファイアはミフォンや少女達と共に走り出した。
6
憎い。憎い、憎い。
自分の中にこんなにも一人の人間を妬み、憎む心があったなんて。浅ましいこととはわかっていても、それでも自分を止められない。誰よりも憎い人間をこの世から消し去ってしまわなくては、わたしの心は休まらない。
こんな浅ましいわたしに、もはや巫女と名乗る資格はない。それでもいい、巫女である前にわたしだって人間だ。叶うことはないと知りながらもただひとつの愛を求める、ただ一人の女だ。巫女としてではなく一人の女として、愛する人の前で生きることは本当に赦されないことなのだろうか。
今は嫌と言うほど、あのシャルロットという亡霊の気持ちがよくわかる。こうしなくてはいられない気持ちが、痛いほどよくわかる。眼の前にいるこの女さえいなければ、カイン様もサファイア様も奪おうとする皇妃さえ消してしまえば、もうこんなに苦しい思いをしなくてすむ。
「何をしている!」
突然、リーナの身体が弾き飛ばされた。
「気でも狂ったか! 眼を覚ませ、リーナ!」
けれどリーナはすぐに飛び起きると、再びアレキサンドラに襲い掛かった。
「馬鹿、やめろ! やめるんだ、リーナ!」
正気を失っている者に何を言っても聴く訳がない。リーナの頬に平手が飛んだ。
「リーナ! 眼を覚ませ!」
繰り返し平手打ちを浴びて、ようやくリーナの顔色が元に戻った。
「お、王太子殿下……」
「正気に戻ったか」
流石にハーシェルも激しく息を吐いている。
「大丈夫か。君も、シャルロットの霊気に憑りつかれていたようだな」
訳がわからず茫然としていたリーナだったが、やがてその眼に倒れているアレキサンドラの姿が映った。
「皇妃様!」
急いでそばへ駆け寄ったが、皇妃の身体はすでに冷たくなっていた。
「皇妃様! 御眼を御開け下さい、皇妃様!」
「……リーナ」
「あ……ああ……! あああ……!」
殺した。わたしがこの手で皇妃様を、サファイア様のお母様を殺してしまった。カイン様が、カイン様が生命のすべてを賭けてお護りする御方を、カイン様がこの世でただ一人愛する御方を、わたしが、わたしのこの手で。
リーナの悲鳴のような泣き声が、森の中に響き渡った。
7
炎はすでに、表神殿も左右の神殿にも廻っていた。数多くの巫女達が集まってはいたが、炎の勢いが激しくて誰も近付くことさえ出来ない。そんな巫女達を嘲笑うかのように、炎はますます神殿をなめ尽くすように燃え上がっていく。
「巫女姫様!?」
「近付いてはなりません、巫女姫様!」
少女達の中に青い髪の少女の姿を見付けた数人が、急いで取り囲んだ。
「ここはお危のうございます、どうか早くお逃げ下さい、巫女姫様!」
「嫌よ!」
サファイアが叫んだ。
「わたしは斎宮よ、神殿が燃えているのに自分だけ逃げるなんて出来ない。お願い、出来ることなら何でもするから、わたしにも何かお手伝いをさせて!」
「わたしも!」
少女の一人が続いた。
「まだ『清めの儀式』は受けていなくても、わたし達だって女神リスタニア様に御仕えする身です。このまま黙って見ているだけなんて嫌です、巫女姫様のことはわたし達がお護りしますから、どうか火を消すお手伝いをさせて下さい!」
巫女達は、サファイアと少女達の勢いに息を呑んだ。
「で、でも」
炎に包まれた神殿を振り返りながら、巫女の一人が言った。
「尋常の炎ではないのです。巫女姫様の御付きの方々は皆、あの炎に焼き殺されてしまいました。巫女達の中にも、生命を落とした者や怪我をした者が出ています。万が一にも、巫女姫様や皇妃様にまで危害が及ぶようなことがあれば、わたし達は水晶宮の方々に顔向けすることが出来ません」
「だからよ。これ以上、誰かが死ぬのは見たくないの。わたしはみんなのように巫女の力は何もないけれど、それでも何か出来ることがあるはずよ。わたし、斎宮の務めを果たしたいの」
「巫女姫様」
少女達が、サファイアに寄り添った。
「護られていればいいだけの存在なんて、そんなの嘘よ。わたしも、誰かを全力で護りたい。護られるためだけに生まれて来たのじゃないわ!」
この時のサファイアの姿を、誰もが圧倒される思いで見詰めた。幼い少女の身ではあっても女神リスタニアの姿そのままに、巫女達を導く存在として光り輝くような姿をしていた。
「どうぞ御指示をお与え下さい、巫女姫様」
巫女達が跪いた。
「わたし達も、これ以上犠牲者を出したくはありません。この災害から大神殿を護るために、わたし達も全力を尽くします」
「最長老様がいないわ。何処にいるの」
「行き違いになられたようですね。斎宮御殿の出火を聴いて、皇妃様と皇女様をお捜しに行かれたまま、まだ戻られていないのです」
その答えに一抹の不安を覚えたが、サファイアはそれを振り切って言った。
「あなた達の中で、水を使える人はどれくらいいるの。すぐにこの火を消すことは出来なくても、雨を降らせるとか」
「幾人かいることはいるのですが、このような大火では誰も手を出せず、皆苦悩している状態です」
そういえばリーナもシャルロットの霊気のせいで、さほど長くもない距離を何度も跳ばなくてはならなかった。
「ともかくわたし達は、出来ることを精一杯やらなくてはいけないわ」
サファイアは続けて言った。
「みんなで手分けして、消火をする者と怪我をした人達の手当てをする者とに分かれましょう。そう、参拝に来ている人達を安全な場所へ誘導したり、もし神殿の中から持ち出せる物があれば、それを運ぶ手も必要になるかも知れないわ」
「は、はい。そうですね」
巫女達はにわかに慌て始めた。
サファイアよりも年上の少女や大人ばかりであるのに、巫女達はそれまで、ただ右往左往している者が殆どだったのである。いささか頼りないようだけれど、太古の姿を留める『聖なる森』と同様、大神殿の建造物も数千年の歴史を誇るものであるだけ、誰もがこんな大きな火災に見舞われるとは夢にも思っていなかったから、茫然自失してしまうのも無理はないのかも知れない。
「わたし達はどうしましょう、巫女姫様」
少女の一人が訊ねた。
「奥神殿へ行きましょう、聖堂が心配だわ」
サファイアもまた、自分自身を振り返らずにいられなかった。不思議な気持ち。今、こうして巫女達に指示を出しているわたしは、本当にわたしなのかしら。
わたしは今まで、母さまを護ることしか考えていなかった。それなのに今、母さまを他の人に任せて、わたしはこの大神殿や巫女達を護ることを優先している。斎宮位なんて、あんなに嫌がっていたのに。青い髪をしていながら巫女の力は何ひとつないことに、劣等感を持っていたのに。なのにどうして今、斎宮の務めを果たそうとこんなにも懸命になっているのだろう。
リーナ、あなたが教えてくれたから。
あなたが大神殿や巫女はもちろん、斎宮のことまで熱心に語り聴かせてくれたから、だからわたしは自信を持って、こうして巫女達の前に立っていることが出来るのだわ。
「何度も申し上げていることですけれど、巫女達の中で最強の力を持つと言われる斎宮でも、それだけがすべてと思ってはいけません」
繰り返し繰り返し、リーナは言っていた。
「斎宮として何よりも大切なことは、それにふさわしい心を持つことだと、わたしは思います。力はあってもそれに心がなければ、人々に与えるのは崇敬ではなく恐怖しかないのです」
そうだ、母も言っていたではないか。
「力があるとかないとか、そんなことは少しも大切ではないのよ。大切なのは、その力を使う人の心なの。それに力があることが、必ずしも幸福をもたらすとは限らないわ」
力なんてなくてもいい。そんなことは今、関係がない。大切なのはただひとつ、斎宮として出来ることを懸命に果たすこと。
そうでしょう、父さま。
「きゃあ!」
考え事をしながら走っていたからだろう、サファイアがつまずいて転んだ。
「巫女姫様!」
「大丈夫よ、心配しないで」
「御怪我はありませんか。少し、ここで休んでいった方が」
「本当に大丈夫。それより急ぎましょう」
父さま、あなたを父さまと呼んでいいのかどうか、わたしにはわからない。わたしが生まれるずっと前に、どんなことがあったのかもわからない。でも、わたしはやっぱり父さまが好き。誰よりも、父さまと母さまのことが大好き。
「巫女姫様、あれを!」
少女の一人が叫び、ミフォン達も警戒の声を上げた。サファイア達の眼に映ったのは、今まさに奥神殿に襲い掛かろうとしている、激しい炎の影だった。
そしてそれと同時に、森の中から女の泣き叫ぶような声が響き渡った。
「……シャルロット」
「あ、あれが亡霊の声ですか、巫女姫様」
サファイアの呟きに、少女達の声が震えた。
「可哀想な人なの。誰も、あの人のことを愛してくれなかったの」
答えながらもサファイアは、母もシャルロットのことをそう言っていたことを思い出した。己を傷付け、殺そうとまでしたあの亡霊に対し、どうしてあの時の母は同情的な様子を見せていたのだろう。
「それよりも、早くあの火を何とかしなくては」
サファイアは奥神殿を振り返った。
「巫女様達はここまで手が廻らないのでしょうか、誰もいないようですね」
「きっと、シャルロットの霊気のせいだと思うわ」
「表の方は火が近過ぎて危ないです、裏へ廻りましょう」
「確か横手の方に、非常用の小さな入口があるはずです」
大きな茂みを廻って、少女達は非常口から奥神殿へ入り込むと、聖堂へ向かって急いで走った。昼間だというのに奥神殿の中は薄暗く、煙の臭いが立ち込めていた。
「みんな、大丈夫?」
「大丈夫です、巫女姫様は?」
「わたしも大丈夫よ」
少女達はサファイアを中心に、誰もが小さな使命感に燃えていた。まだ正式な巫女ではないけれど、皆、宇宙に散らばる星々から選りすぐって集められた、言わば大神殿の未来を背負う者達である。しかもそのそばには青い髪をなびかせた、自分達を友人と呼んでくれる斎宮がいる。眼の前に迫る前代未聞の大神殿の危機を、斎宮と共に立ち向かうのはむしろ当然であり、誇るべきことでもあった。
回廊へようやく辿り着いたサファイアの前に、懐かしい聖堂が現れた。驚いたことには、奥神殿の中にまで炎は迫って来ているというのに、ここだけはまるで別世界のように、中央の泉からは花々に彩られた聖水がこんこんと溢れ、以前と変わらず荘厳で清浄な世界を保っていた。
聖堂の周りに少女達が集まった。
「良かったですね、ここだけでも無事で」
「でも、火はすぐそこまで迫って来ています。急がないと」
するとサファイアの隣を走っていた、例の一番年かさの少女が口を開いた。
「こんな時ですけど巫女姫様、わたし達まだ、名前をお教えしていませんよね」
「そう言えば」
もう何度も逢っていながら、一度も少女達の名前を訊いていなかったことを思い出し、サファイアは顔を赤らめた。
「今度御一緒に遊ぶ時に名乗ろうって、昨日みんなで話していたのですけど、今じゃないと巫女姫様がお困りになるかも知れないから、お教えします。わたし、ヘレナと言います」
「ヘレナ、ヘレナね。覚えたわ」
「ずるいわ、ヘレナ。自分ばっかり!」
「早い者勝ちよ!」
一時明るい雰囲気がその場を占めたが、迫る炎がすぐにそれを消し去った。
「ねえ誰か、剣を持っている人はいる?」
サファイアの突拍子もない質問に、少女達は一瞬啞然とした。
「剣って……一体何に使うんですか、巫女姫様」
「お祈りのために使いたいの。似たような物でも構わないのだけど」
「小さい物で良かったら、わたし持っています」
少女の一人が、懐から小さな短剣を取り出した。
「ここへ入る時にわたしのお父さんが護身用にと言って、持たせてくれた物なんです」
「そんな。駄目よ、大切にしなくてはいけない物じゃないの」
「いいんです。巫女姫様がお使いになったと知ったら、お父さんも大喜びします」
「有難う、あなたの名前は?」
「マリーと言います。嬉しい、巫女姫様のお役に立てるなんて」
サファイアは短剣を受け取ると、更に質問を重ねた。
「それから、みんなの中で水を使える人はいるかしら」
「エミリア、あなたの出番よ!」
ヘレナが後ろにいる少女を振り返ったが、エミリアは激しく首を振った。
「嫌だ、やめてよ! 水を使えるなんてわたし、そんな大きな力は持っていないわ! ただ時々、雨をほんの少しだけ降らせる程度の」
「それで十分よ、エミリア」
サファイアが、怯えるエミリアの手を取った。
「知っているでしょう、わたしなんか何の力も持っていないのよ。でもあなたは、雨を降らせることが出来る」
「で、でも巫女姫様」
今にも泣き出しそうな様子のエミリアを、サファイアは励ますように優しく見詰めた。
「わたし、あなたのために祈るわ。何も出来ないわたしだけど、あなたが力を発揮出来るよう、心を込めて女神様に祈るわ。みんなだって、きっと力を貸してくれる」
「巫女姫様、それって」
ヘレナが声を上げ、サファイアが頷いた。
「そう、『調和』よ」
8
「何度も申し上げているように、わたし達巫女が女神様から授けられている力は、その種類も力量もそれぞれ異なります。けれど決して、能力の優れた者がそれより劣る者を軽んじるような、そんな愚かな真似をする者はただの一人もおりません。わたし達は大神殿へ初めて入った見習いの頃から、共に女神様に選ばれその恩恵を頂いた者として、互いに尊重し敬愛し合うことを、数年に及ぶ共同生活の中で自然に学んで行きます」
言葉のひとつひとつに力を込めて、リーナは教えてくれた。
「そしてその中で育まれた信頼と友情が、わたし達にもうひとつの力を与えてくれるのです。例えば何か緊急を要するような事態になった時、皇帝陛下のような強大な力を自在に操れる御方とは違い、巫女一人一人の力は微弱過ぎて、対処することも困難な状況に陥ることが予想されます。そんな時、わたし達巫女が出来ることはたったひとつ、互いの力を『調和』させることなのです」
リーナ、あなたに教わってきたことが役立つ時が来たわ。どうかあなたも、わたし達のために祈って!
「最初に、わたしが聖堂へ祈りを捧げるわ。その後でもう一度、みんなでエミリアのために祈るのよ」
「わたしも少しだけど、風を起こす力があります。エミリア、大丈夫よ。みんなで力を合わせれば、きっと火を消すことが出来るわ。何よりわたし達のそばには、巫女姫様がいらっしゃるんだもの」
サファイアとヘレナの顔を不安そうに見ていたエミリアも、二人の励ましに勇気を奮い起こした。
「わかりました。どれ位出来るかわからないけれど、わたしも精一杯やってみます。巫女姫様も、どうか力を貸して下さいね」
「ええ、女神様に届くよう心を込めて祈るわ」
そう言って泉の前に立ったサファイアは、にわかにその髪を左手に取ると、右手に持った短剣でざくりとそれを切ってしまったのである。
「きゃあああ!」
「巫女姫様!」
少女達が悲鳴を上げた。誰もが信じられない思いで、斎宮が自ら切り落とした青く長い髪を見詰めた。サファイアの腰まであった髪は、もはや首筋の辺りで揺れているのみである。あまりにも突然の出来事で止める間もなく、少女達の幾人かは涙をこぼし、サファイアに短剣を渡したマリーなどは、激しく声を上げて泣き出した。
「泣かないで、マリー」
けれど、振り返ったサファイアの顔は清らかに優しく、輝くような微笑みを浮かべていた。
「わたし、嬉しいの。やっとこうして、みんなの力になれる時が来たのだもの」
サファイアが泉の前に掲げた青い髪を、少女達は息を殺して見詰めた。切り落とされてもそれは尚、溢れる水のきらめきを受け、サファイアの笑顔と同じように光り輝いていた。
「お聴き下さい、女神リスタニア様。わたしは今まで、どうして女神様がわたしにこの青い髪をお授けになったのか、ずっとわからなくて苦しんでいました。巫女の力なんて何もないのに、本当はただの普通の女の子なのに、それなのにどうしてわたしが斎宮なのか、わからなくてずっと、ずっと……」
少女達の眼に、斎宮の頬を流れる涙が映る。
「けれど何処かに、その意味は必ずあるはずです。あなたが、わたしにこの髪をお授けになった本当の意味が。そのために、わたしはこうしてあなたにこの髪を捧げましょう。ですからどうかお答え下さい、女神様。そしてわたしにエミリアを、ヘレナを、マリーを、ここにいるみんなを助ける力をお与え下さい。わたしが本当に、あなたに選ばれた斎宮であるのなら、どうかこの大神殿を護る力をお与え下さい……!」
サファイアの手から、はらはらと流れるように青い髪が泉の中へこぼれ落ちた。そしてそれは泉の中に浮かぶ花々を彩り、やがて水の中へ消えた。
「巫女姫様……!」
「大丈夫ですか、巫女姫様」
「みんな、ここへ集まって」
再び振り返ったサファイアの顔には、もう涙の跡はなかった。
「一緒に泉を囲んで、手をつなぐの。エミリア、大丈夫ね」
「はい、巫女姫様」
先程とは違って、エミリアの顔は明るかった。しかし炎はすでに眼の前まで迫って来ており、少女達の数人が悲鳴のような声を上げた。
「大丈夫よ! わたし達はきっと出来るわ!」
ヘレナが叫んだ。
「巫女姫様を信じて、わたし達のお互いを信じて女神様に祈りましょう。さあ、巫女姫様の仰る通りにするのよ!」
少女達はサファイアを中心に、泉の周りに集まって手をつないだ。するとそれまでサファイアの肩にいたミフォン達のうちの二匹が、エミリアとヘレナの肩へ移った。
「女神リスタニア様」
サファイアが眼を閉じて祈り始めた。
「どうかエミリアが、臆することなく持てる力を十分に発揮出来ますように。ヘレナも、マリーも、ここにいるみんなが、あなたから授けられた力を役立てることが出来ますように。そしてわたしもみんなの力になれるように今、心を込めてあなたに祈ります」
「女神様、あなたにこの祈りが届くと信じています」
少女達も、同じように祈った。
「わたし達一人一人、力を合わせて巫女姫様と共にこの危機に立ち向かいます。どうかわたし達があなたの御導きにより、持てる力をすべて出し尽くすことが出来ますように」
「女神様、あなたを信じています」
まるで、サファイアが最後に呟いた言葉が合図となったかのように、泉の水が大きく揺らめいて、周りの花々も風と共に空へ飛び散った。何より驚いたことにはサファイアの身体が不思議な光を放ち始め、少女達とミフォンを包み込んだ。
不思議だわ、何も怖くない。誰かの声が聴こえる。そうよ、怖れるものなど何もないの。眼の前で炎が猛り狂っているというのに、サファイア達の心を占めているのは互いの信頼と友情、そして安らぎ。
サファイアがそっと眼を開けて空を見上げると、灰色の雲が次から次へと聖堂の上に流れ集まり、やがて冷たいものが額へ落ちて来た。
「雨だわ!」
誰かが叫んだ。
「エミリア、雨が降って来たのよ!」
突然の豪雨に、全員が空を見上げた。それと共に強い風も沸き起こり、炎に立ち向かって行った。
「ヘレナ! やったわ、ヘレナ!」
「わたし達だけじゃないわ、みんなの力よ!」
「巫女姫様! 巫女姫様、本当に出来たんですね、わたし達!」
自分達が巻き起こした豪雨と強風が瞬く間に炎を追い払って行くのを、サファイアも他の少女達も興奮しながら見守った。やり遂げたという思いが、少女達を包んでいた。
「ハーシェル兄さま!」
焼け焦げた森の中から現れた人影を見て、サファイアが叫んだ。
「サファイア、無事で良かった」
「ハーシェル兄さま、わたし出来たの。みんなと一緒に、あの火を消すことが出来たのよ」
「君のことは、ミフォン達を通して伝わっていたよ」
ハーシェルは、サファイアの輝くような笑顔を見詰めた。
「僕に育てられたせいか、このミフォン達は少しばかり精神感応の力がある。だけど君なら、必ずやり遂げるとわかっていたよ」
「わたしだけじゃないわ、わたし一人じゃ何も出来なかったもの。ここにいるみんなが力を貸してくれたから、わたしも勇気を出すことが出来たの」
「そんなことありません。巫女姫様がそばにいて下さったから、わたしも自分の力を出すことが出来たんです」
エミリアが首を振りながら答え、ヘレナも嬉しそうに言った。
「巫女姫様が御髪を差し出して、わたし達のためにお祈りして下さったから、女神様もわたし達に力を貸して下さったんですよ」
「ともあれ君達は『調和』の力で、見事に炎を食い止めることが出来たんだ。おめでとう、サファイア。君は女神に選ばれた正当な斎宮であることを、自分の力で証明したんだよ」
「有難う、兄さま」
だがサファイアはやがて、自分を見詰めるハーシェルの瞳の奥に、深い哀しみの色が宿っていることに気が付いた。
「……母さまに、何かあったの」




