038.はじめての縺輔▽縺倥s
「……え?」
口から漏れ出たのは、場違いなほどに普通の声だった。
意味が分からない。服が赤い。ソファも赤い。母様が口から赤い液体を吐いた。私の服も赤く染まる。そこに不思議な温かみを感じる。液体が垂れ、カーペットまでもが赤く染まる。ナックの剣は銀色のまま。…………剣? ナックの?
「ナック?」
呆然と名前を呼ぶ。
壮年の男性もまた、呆然としていた。
「嘘、そんな、馬鹿な、違う。わた、俺は、こんなはずじゃ」
「なんでなの、ナック」
「夢だ。夢だ、絶対に。刺したのは"鮮血王女"だ、ニアムじゃない」
「答えなさい、ナック!!」
絶叫する。
でもそれでも、ナックは呟くのをやめなかった。
「そんな訳がない。俺はニアムの幸せを、そうだ、幸せだ。幸せなんだ。だからーー」
「ーーもういいっ! うるさい、黙ってろ!」
使った事のない言葉を吐き、ナックと世界を分断するように結界を張る。そちらの方には目もくれず、母様を呼ぶ。
「母様! 母様、大丈夫?」
むせるような鉄の匂いが充満し、吐き気がする。
母様は、ゆっくりと上体を起こした。そしてソファの背もたれに体重を預ける。
「ーー! 起きちゃ駄目、寝て……」
「……まさか、ナックに刺されるなんて、ね」
母様はふっと、ナックのいた方向に目を向け、痛ましげに顔を歪め、また私を見た。
顔が赤く汚れていても、青い瞳は綺麗だった。
「アリアリーシェ」
「……うん」
「カーティスを、お願いね」
それは紛れもない、遺言だった。
ようやっと、現実が突きつけられる。
ここまで血が流れていれば、助からない。
「でも……でも! 神様ならきっと、何とかしてくれるよ! 一度だけなら、叶えてくれるから……!」
『願いがないなら、生まれた後で決めてください』
アルテミスは転生するお礼として、願いを一つ叶えると言っていた。
怪我人一人救うくらい、神なら出来る。
神様、お願いします。母様をーー
「いらない」
母様を助けてーー
「いらないわ」
助、けてーー
「やめなさい」
ーーなんでよ。
「なんでよ!」
癇癪を起こしたように叫ぶ私に、母様は優しく笑った。
母様が作り物じゃない本当の笑みを浮かべる瞬間を、初めて見た。
「アリアリーシェが、何をする気か、知らないけれど、奇跡は、自分のために、使いなさい」
「意味分かんない。使わなかったら、母様は死ぬんだよ!?」
「王族なんて、ほとんど、自分のためには、動けないわ。命も恋愛も、全部、国民のために、費やされる。ならせめて、奇跡くらい、私欲のために、使えばいいわ」
母様がそこまで言って、口から再び血を吐く。
時間がない。母様の言葉なんて無視して、奇跡を起こさないと。
起こさないと、いけないのに。
「アリアリーシェ」
口の端を拭い、私の名前を呼ぶ母様の瞳が、言っている。
同情なんかで、たった一つの奇跡を使うなと。
「……母様だって」
「え?」
「母様だって、同情なんかのために命を賭けたんでしょ! 一緒じゃない!」
母様がさっき私を突き飛ばしたのは、ナックが剣を私に向けていたから。母様が私を庇ったから、こんな事になっただけ。
母様は憐れみのために、さして仲良くもない娘を守った。
「なんで庇ったの! 所詮私達なんて、血が繋がった家族ってだけなのに!」
母様は私を異物として認識していたし、私は母様を実の母だとは思っていなかった。私の母は前世のお母さんであって、母様じゃなかった。
なのに、なんでーー。
「……それだけの相手に、差し出すほど、わたしの命は、安くないわ」
「それって、どういうーー」
「それより、聞きなさい」
母様は私の言葉を遮って、口早く言った。
「まず、カーティスね。ややこしい事に、なりそうだけれど、あの子は、妹想いだから。きっと、なんとかなるわ」
「……」
「次に、あなたの、父様だけれど……多分、面倒臭い、事に、なってそう、ね。でもまあ、なんとかしなさい」
「……『なんとか』ばっかり」
「そうね。あと、フィオレンサ、達は……そこは、わたしには、関係、ないわね。ああ、でも、弟妹には、優しく、なさい」
母様の息継ぎの間隔が、だんだん狭くなっていく。
あとちょっとで、本当に助けられなくなる。死者蘇生は出来ないと、神アルテミスが言っていた。
救うなら、今しかない。ない。
なのに、気付いてしまった。
私が助けたいのは、"目の前で血を流している人間"であって、母様じゃないんだって、そんな傲慢な考えに。
「これから、目を背けたい事に遭うかもしれない。死にたくなるくらい凄惨な事があるかもしれない」
「……」
「色んな人があなたを非難するかもしれない。罪悪感に押し潰されるかもしれない」
「……母様」
「そんな時は逃げていい。隠していい。見なくていい。自分のために生きなさい」
母様は一息で言い切って、肩で息をする。
その顔色は、普段のような透き通った白ではなく、青っぽい白さだった。
「母様。私はーー」
「助け、なくて、いいわ。娘の、ものを、奪って、生き永らえる、なんて、恥晒し、だもの」
「……母様は、未練とかないの?」
「あるわよ」
きっぱりと断言され、息を呑む。
「わたしの、せいで、ナウロン、王国と、ユーガット、帝国の、仲が、悪くなったら、気分が、悪いわ。王太后、として、カーティスの、戴冠式を、見て、みたい。アリアリーシェ、とも、もっと仲良く、なれた、でしょうし、キースと、色んな話を、した、かった……」
「なら!」
「でもね」
母様は、全身を血で汚しながら、それでも口の端を上げていた。
それは私が見たどんな笑みより、綺麗で美しくて儚げな笑みだった。
「たかが、その、程度の、ために、アリアリーシェが、どうこうする、必要は、ないのよ。ましてや、こんな、毒親を、助ける、なんて」
母様はそこまで言って脱力する。そしてゆっくりと、瞼を下ろしーー
「……決めた」
「……何、を?」
「私、母様を助ける」
母様は何も答えなかった。
でも、それでもいい。
「さっきマーシェに、『死んだら出来ない事がある』って言ったんだ」
「……」
「その直後に、私が母様を見捨てたら……マーシェに示しがつかないよ」
「……」
「今はまだ、同情でしか助けられない。でもいつかきっと、好きだから助けられるようになる。母様も、自分が毒親だって思うなら、生きてよ。生きて、いいお母さんになってよ」
そして目を瞑る。
母様が苦笑する気配が、確かに伝わった。
「お願い神様、母様の傷をーー!」
「ーー馬鹿な娘」
「あなたには、教えていなかったわよね」
「わたしの加護は、気絶の加護」
「そのまま、他人の意識を絶つ加護よ」
「気絶って言っても、ほんの数秒だけれど」
「本当なら、使いたくなかったのだけれど、ね」
* * *
意識が、浮上する。
瞬く照明。ソファの感触。鉄っぽい匂い。うるさい静寂。涙の味。赤くなった服。冷たい母様。
「……母様。母様……」
呆然と呟く。
返事は、ない。
「…………そんな加護の事なんて、聞いて、ない、しっ……。ナック、あなたは……知ってたの?」
ぼんやりとナックに視線を移す。
そして。
時が、止まった。
「……え?」
窓の外で輝く月。冷たい冬の空気。心臓の脈打つ音。
「嘘」
背筋を走る寒気。温度をなくした血。胃酸の味。人のいない部屋。原型を留めない死体。壁際に飛び散る肉塊。
「結界が……圧殺……? 壁で、挟んで……」
耳鳴りの音だけが、返事をくれる。キンキンうるさい。
「あ、あ……」
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさいうるさいーー
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
** * **
それが、リンドバーグ邸で起こった全てだった。




