001.暗転まであと七秒
ガシャン、と派手な音がした。
忘れた水筒を取りに階段を上っていた私は、それを聞いて思わず足を止めた。
今の時刻は午後六時過ぎ。ここは中学校だ、こんな時間まで教室に残っているなんて、その上こんな音を出すなんて、そんなにあるだろうか。
疑問と嫌な予感を抱きながら、足を再度動かし、階段を早足で駆け上がる。
男子トイレの横を過ぎ、五月の日差しが作る窓の影を歩いて、『1-1』と書かれた教室に行く。そこは教育実習生の私が行っているクラスだった。多分、この中に私の水筒もあるだろう。
カーテンを閉じ切った教室内の様子は窺えない。中で男子が着替えていた場合、大変気まずい事になる。
しかしーー、
「早くしろよ、イエティ!」
そんな心配など吹き飛ばす、男子の叫び声と大きな音に確信を深め、引き戸を迷いなく開け放つ。鍵はかかっていない。ばんっ!! という音が、夕方の静かな空気を引き裂いた。ドアが軽く跳ね返る。
そこにあったのは、おおかた予想通りの光景だった。
三人ほどの男子が一人の男子を取り囲んでいる。取り囲まれた男子は床に倒れ込んでいた。見たところ外傷はないが、シャツのボタンが取れている。頬には涙が流れていた。
この三人、クラス内でもお調子者と呼ばれる類の子達だ。床に倒れている男子をからかう様子を、何度も見た事がある。
……仲の良さから来る気やすさだと思っていた。でも、今の状態を見るに……。
「何やってるの!?」
間に割り込み、三人のいじめっ子を睨め付ける。三人は気おされたのか他人に近付かれたくないからか知らないが、数歩後ろに下がった。
「こんなのまるで、いじめだよ。どういうつもり?」
そう聞いたのは、『これはいじめじゃない』と信じたかったからだろうか。どこからどう見たっていじめなのに、我ながら甘い事。
しかし、そんな薄い期待は裏切られた。
「そういうつもりですけど?」
代表格らしき男子がおちょくるように言う。
他の二人も、こくこくと頷いた。
「教育実習生さん、ほんとよくないわー。空気読まねー」
「ほんとそれなー」
私は舌打ちしたいのをこらえ、
「高梨風花、だから」
と少し場違いながら名乗る。
男子三人は白けたように顔を見合わせて、そしてさっときびすを返した。
「待ーー」
「イエティ、後でリュック届けろよ!」
捨て台詞を吐いて、去っていく。
イエティーーあだ名だろうか。
追いかけたいが、後回しだ。先に対処するべきなのは、後ろの子だろう。
「……大丈夫だった?」
振り向く。
殴られていた男子生徒は、私と目が合って、何事もなかったかのように立ち上がる。
「……立ち上がって大丈夫? さっき、すごい音が……」
したよ、と言い切る前に、男子生徒は逃げた。
「!?」
止める間もないような、本気の走り。あっという間に私が開け放った教室の扉から出ていく。
なんで? パニックになった? 見られたくなかった? ……いや、どうでもいい!
逡巡を捨て、逃げた男子生徒を追いかける。
しかし、運動神経は中の下である私が、中一男子の全力疾走に追いつける訳もなく。
「見失った……!」
二階と三階の間にある階段の踊り場で、私は立ち止まった。
二階の廊下を見下ろしながら、必死で頭を回転させる。
普通に考えれば、このまま一階に降りるだろう。でも手すりから身を乗り出して一階を確認しても、それらしき影はない。それに正直、一階に降りるのならまだいい。一番怖いのは、彼が屋上の存在を思い出す事だ。渡り廊下から別の校舎に行って、屋上まで駆け上り、扉を開けてフェンスを乗り越える事だ。鍵がちゃんとかかっているならば別にいい。それなら単なる杞憂。いや待て、飛び降りなら四階のベランダからでもーー。
「……ひとまず職員室!」
思考を中断し、他の先生に相談しようと足を一歩踏み出しーー、
ーー背中に、軽い衝撃。
「え」
踏み出した一歩が宙を掻く。体の重心が崩れる。浮遊感に襲われる。階段が、目の前に迫ってくる。
「なん」
で、を言い終える前に、さっきとは比べ物にならないほどの衝撃が体を襲う。
階段から、落ちたんだーーなんてやけに冷静に考える間にも、衝撃、衝撃、衝撃。断続的に痛みが発生する。
私は今、突き落とされた。
どうしてーー
「空気読まないとこうなるんですよ、教育実習生さん?」
ーーさっきの、いじめっ子の声。多分代表格の子だ。ぶつけた頭に響く。
まさか、いじめを止めて怒ったから?
「お、おい、流石にあれはヤバくね? 死にかけてるだろ」
「は? そんなーー」
逆ギレ? そんなの、最悪。
そもそも、私より先に教室を出たはずなのに、なんで私の後ろに……いや、男子トイレ! あそこに隠れて待ち伏せして、私が通り過ぎた後に追いかけたんだ。
いじめられていた男子生徒を追うのに必死で、人の気配なんか気付かなかった。
「ーーな、んだ、これ」
「っ、俺帰る!」
階段を降り切ったか、重力に引かれる感覚が消える。
そうして動けない私の隣で、誰かの靴音が聞こえた。
「あっ、待ておまっ……逃げやがった!」
「こんな、俺は……」
「おい、どうする……どうした?」
「お、俺はやってない!」
「……はぁ?」
……あー、なんだかふわふわする。耳鳴りがすごい。
これが、「死」ってやつ?
死因が逆ギレ……ちょっとなぁ。
「何言ってんだよ? お前が全部勝手にやったんだろうが!!」
「違う、俺はやってない!」
ていうか、これって殺人……。あのいじめっ子三人組、刑務所で上手くやっていけるのだろうか。殺される側だけど、三人のご多幸を願っております。なんてね。
「ざけんな! ああもういい。職員室に先生一人くらい残ってんだろ、呼んでくる!」
「なっ、待てよ!」
「なんでだよ!」
「呼んだら、俺がやったって思われるだろうが!」
享年二十二歳。うーん、短い。就職も結婚も出産も出来なかったのは心残りだ。彼氏もろくに出来なかったし、ここまで頑張ったのに教師の資格すら取れないし。
「だから、お前がやったんだろ! 諦めて認めろよ!」
「違う! 大体、お前だって止めなかっただろ! 同罪だ!」
「そ、れは……」
お母さん五年くらい前に死んでるし、お父さんともそんな仲良くないし……でもやっぱり、少しは未練が残る。お父さん、これまで育ててくれたしなぁ。親不孝者でごめんなさい。
「先生とかに言うなよ。言うんなら、お前だって刑務所行きだぞ!」
「……分か、ったよ」
体温が下がるのを感じる。血の流しすぎか。
あのいじめられてた子、大丈夫かな。自殺とかほんとしてないといいけど。
「帰るぞ!」
「……」
あと何秒で死ぬのかな。数えてみようか。
一、二、三、四、五、六、七、
暗転。




