原初の悪意と、凍てついた復讐心
八咫烏の輸送機が、西東京市の地下格納庫へと滑り込んだのは、太平洋の絶島が地図から消滅してから数時間後のことだった。
「……着いたぞ。降りよう」
俺の掠れた声に、冷たい金属の床に座り込んでいた仲間たちが、重い身体を引きずるようにして立ち上がる。
俺のトレンチコートも、レオンの服も、熱波で半分以上が炭化してボロボロに崩れ落ちていた。髪は焦げ、皮膚には生々しい火傷の痕が残り、誰もが立っているのがやっとの満身創痍だ。
だが、ハッチが開き、地下基地特有の埃っぽさと、かすかに漂う『上の階(自宅)の生活の匂い』を嗅いだ瞬間。俺たちの肺の奥底から、無意識のうちに深い安堵の息が漏れた。
「……帰って、これたんですね」
セリアが、煤で汚れた頬を微かに緩める。
「ああ。五百年のバケモノととんでもねえ原初の地獄みたいな世界の横をすり抜けてな」
俺は、ウロボロスの超再生でようやく痛みが引き始めた右腕を庇いながら、エレベーターへと歩を進めた。
リビングに辿り着くと、俺たちは無言のまま、泥のようにソファや絨毯へと倒れ込んだ。
紅刃は仰向けのまま天井を見つめ、雅は震える手で妖刀の柄を確かめている。翠蓮は、白く変色した髪の毛先を労るように撫でながら、静かに目を閉じていた。
「レオン。あんた、大丈夫か?」
俺が声をかけると、壁に背を預けて座り込んでいた大男は、フッと自嘲気味に笑った。
「……三十年、強いヤツを斬ることだけを考えて剣を振ってきたが。まさか『星の概念』そのものにお目にかかれるとはな。……最高に恐ろしくて、最高に斬り甲斐のある相手だぜ」
レオンの碧い瞳には、恐怖を塗り潰すほどの純粋な剣鬼の渇望が、静かに、だが確実に燃え上がり始めていた。
——その頃。
現世と隔絶された次元の狭間、赤熱するマグマと灰だけが無限に広がる『火の海』の底で。
確かな知性と、途方もなく残虐なエゴを持つ巨大な思念が、ゆっくりと現世(盤面)の様子を覗き込んでいた。
『……五百年の王の魂は、ひどく不味かった。己の身を一切焦がさず、安全圏から理を弄ぶだけの者の魂など、燃やしても何の熱も発しない』
【炎の原初神】。
星の概念そのものである巨大な炎は、退屈そうに揺らめきながら、星の裏側——中東の砂漠地帯へとその『視線』を向けた。
灼熱の砂漠の、さらに冷たい地下深く。
死の呪いに侵され、己の命をギリギリで繋ぐため、分厚い絶対零度の氷塊の中で眠る『一人の男』の姿を捉える。
『——ああ。我が愛おしい、氷の子供よ』
炎の原初神は、歓喜に震えるようにその火力を増した。
数百年も昔。気まぐれに現世に降り立った原初の炎は、暇つぶしのように一組の『神殺し』の男女を襲った。
そして、炎は若き日のレヴィの目の前で、彼が何よりも愛し、背中を預け合っていた『一人の女性(神殺し)』だけを、ゆっくりと、惨たらしく焼き殺したのだ。
『すべてを奪われ、愛する女の灰を抱きしめた時の絶望。そして、我を殺そうと誓ったあの凍てつくような復讐心。……我が与えたその怨嗟を薪にして、お前は実に美しく、強く育った』
原初神にとって、神殺しを狩ることは単なる食事ではない。
極上の絶望と悲鳴を味わうための『遊戯』だ。
『瀕死の底で凍りついている今この瞬間……復讐すら果たせず、愛する女の無念も晴らせず、孤独に死を待つ今こそが。お前の魂(果実)が最も甘く熟した、最高の食べ頃だ』
原初の炎は、自らの分身たる無数の『火の粉(眷属)』を、現世の中東の砂漠へと雨のように降らせ始めた。
愛おしい玩具の、最期の絶望の悲鳴を味わうために。
「……イヴ、中東の状況はどうなってる?」
西東京市のリビングで、俺はホログラムモニターを起動させた。
『中東の砂漠地帯に降り注いだ【炎の眷属】たちですが……彼らはただ周囲を無差別に燃やしているわけではありません。明確な『意思』を持って、ある一点の座標——レヴィさんが自身を絶対零度で封印している地下深くへと、ゆっくりと包囲網を狭めています』
モニターに映し出された赤い光点の群れ。
その異様な動きに、俺は眉をひそめた。
『さらに……この炎の神格の波長。恐らくレヴィさんのお話にあったかつて共に戦っていた一人の『女性の神殺し』を焼き尽くした、炎の原初神かと』
「……ッ!」
その報告を聞いた瞬間、翠蓮がハッと息を呑んだ。
「……そういうことですか。あの炎の原初神は、過去にレヴィの最愛の人を惨殺し、彼に『癒えない復讐心』を植え付けた。……そして彼が限界まで強くなり、かつ、絶望の底に落ちたこのタイミングを見計らって……意思を持って彼を『喰らい』に来たということですか……?」
翠蓮の震える声に、リビングの空気が凍りついた。
「復讐心を……わざと煽って、遊んでたっていうのかよ」
紅刃が、怒りで大剣の柄を握りしめる。
俺の脳裏に、いつも余裕ぶった態度で俺たちをからかい、けれど誰よりも誇り高かった『見栄っ張りの氷王』の顔が浮かんだ。
愛する女性を理不尽な星の暴力に奪われ、その復讐のためだけに強さを求め、ついに死王と幻王という最悪の手駒に敗れて氷漬けになった親友。
——あのプライドの高いレヴィが、いくら死王たちに敗れたからといって、無様に自らを封印して隠れるはずがないのだ。
あいつは、気づいていたんだ。
いずれこの星に『因縁の炎』が再び呼び起こされることを。
だからレヴィは、瀕死の絶望の中でも決して誇りを捨てず——愛した女の仇であるあの原初の炎と刺し違えるためだけに、中東の底深くで、限界まで『絶対零度』の理を研ぎ澄まして待ち構えていたのだ。
「……ふざけんな」
俺の口から、地を這うような低い声が漏れた。
「神殺しの理だの、星の概念だの……テメェらの退屈しのぎのために、俺のダチの人生と、そいつの惚れた女の命を、オモチャにしてんじゃねえぞ……ッ!」
俺は、まだひび割れている右手の拳を、リビングのテーブルに強く叩きつけた。
「イヴ。八咫烏の耐熱装備の予備はどれくらいある」
『全員分、再調整すればなんとか。……ですが、統。今の皆さんの魔力と体力では、中東に到着する前に——』
「行くぞ。今すぐだ」
俺は立ち上がり、血と煤で汚れたトレンチコートをバサリと翻した。
「あのクソッタレな炎の神様が、レヴィの絶望を美味そうに喰おうと口を開けてるなら……その前に、俺たちがその顔面にありったけの泥をぶち込んでやる」
「アタシも行くよ。炎の神様だろうがなんだろうが、極東の喧嘩の流儀を教えてやる!」
「私の剣は、統とレヴィさんのためにあります」
紅刃と雅、そしてセリアも、迷うことなく武器を手に取る。
「ハッ! 準備運動は太平洋で済ませてきたからな。次は中東か、世界中飛び回って忙しいこった!」
レオンが白銀のクレイモアを肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべた。
俺たちは、互いのボロボロの姿を見て、不敵に笑い合った。
五百年の覇王との死闘から、わずか数時間。西東京市の食卓で温かい飯を食う暇さえなかったが、俺たちの腹の底には、何よりも熱い『怒り』が煮えたぎっていた。
『……統。中東へ向かう前に、もう一つ報告があります』
出撃の準備を進める中、イヴがモニターの隅にもう一つの光点を映し出した。
『アフリカ大陸から、中東の砂漠へ向けて……途方もない魔力質量を持った『王』が、単騎で直進しています。この神威の波長——』
「……【獣王(じゅうおうと思われます)】」
俺は、モニターの赤い光点を鋭く睨みつけた。
原初の炎の眷属たちが群がる中東の熱砂に、極東のイカサマ師と、未知なる猛獣が引き寄せられていく。
盤面は、理不尽な星の概念に対する『神への叛逆』へと、その泥臭い闘争のスケールを狂気的に拡大させていくのだった。




