二柱の原初と、深淵からの逃走
空が、燃えている。
覇王アーサーという五百年の理が灰となって消え去った後も、天空に開いた次元の裂け目から覗く『原初の炎』は、ただそこに在るだけで太平洋の絶島をドロドロのマグマへと変えていた。
「……あ、あァ……ッ」
雅が、熱気で喉を焼きながら呻き声を上げる。
八咫烏の特製耐熱防護服を着ているにも関わらず、俺たちの皮膚は火傷を負い、髪はチリチリと焦げ始めていた。呼吸をするたびに、内臓がオーブンで焼かれるような激痛が走る。
『統! 早く島から離脱を! 原初神はまだ完全に顕現していませんが、その『熱の概念』が漏れ出しているだけで、数分後には島が海ごと消滅します!』
通信機越しに叫ぶイヴの声すら、熱による大気の歪みでノイズ混じりになっていた。
「逃げるって言ってもよぉ……!」
俺は、セリアの白銀のギプスが弾け飛び、使い物にならなくなった右腕を左手で庇いながら、空を見上げた。
「迎えの輸送機(VTOL)はどこだ!?」
『上空五千メートルで待機していますが、これ以上の降下は不可能です! 機体の冷却魔術が原初の熱量に耐えきれず、装甲が融解を始めています!』
詰みだ。
アーサーの防壁のように綻びを突く隙もなければ、交渉の余地もない。ただの絶対的な自然災害。
「この規格外の熱は、『龍神(水)』の理だけでは防ぎきれません。……ですから、『旱魃神(熱)』の理も同時に解放し、熱を私の器へ強引に吸い上げます。その隙に——」
「バカ野郎ッ! 同時発動すれば、体内で矛盾を起こしてあんたの魂が砕け散るって言っただろ!」
悲壮な覚悟で前に出ようとした翠蓮を、俺は左手で強引に引き留めた。
「レオン! お前の万物両断で、頭上の熱波を斬り裂けるか!?」
「……ハッ! 無茶苦茶言い上がって! だが、やってやるぜ!!」
レオンが白銀のクレイモアを天空へ向け、己の神威を限界まで練り上げた、まさにその瞬間だった。
ピキィィィィィンッ……!!
空間が、熱とは全く別の要因で『凍りつく』ように軋んだ。
燃え盛る空の裂け目。その真横に、突如として光を完全に飲み込む『漆黒の亀裂』が走ったのだ。
「……な、なんだよ、あれは」
紅刃が、大剣を取り落としそうになりながら愕然と呟く。
炎の赤を侵食するように、絶対的な『闇』が空を覆い尽くしていく。
それは、星が生まれた瞬間に存在したもう一つの極致。すべての光と存在を無に帰す、深淵の概念。
【闇の原初神】。
「原初の神が……二柱、同時に顕現しただと……!?」
翠蓮の完璧な仮面が剥がれ落ち、純粋な恐怖に顔が青ざめる。
ただの一柱でさえ、五百年の覇王を虫ケラのように焼き尽くした星の理。それが二柱同時に並び立つなど、王同士の盤面を完全に逸脱した、文字通りの『終末』の光景だった。
『——■■■■■』
炎の原初神が、自らの領域を侵す闇に対して、星の吐息のような威嚇の波動を放つ。
俺たち極東のクランは、その二つの巨大な概念がぶつかり合う重圧だけで、全身の骨がミシミシと悲鳴を上げ、ガラスの大地に這いつくばるしかなかった。
(……クソが。俺のテーブルは、ここで終わりなのかよ……!)
俺が血を吐きながら意識を手放しかけた、その時。
『……退け、旧き炎よ』
俺たちの脳内に、直接、氷のように冷たく、ひどく傲慢な『意思』が響き渡った。
炎の原初神が単なる自然現象の権化であったのに対し、闇の原初神は、明確な知性と人格を伴って俺たちを見下ろしていた。
『その矮小なイカサマ師の魂は……我が深淵が喰らうと決めた、極上の獲物だ。貴様の無粋な薪にさせる気はない』
「俺の、魂……?」
俺は、激痛に歪む視界の中で、上空の絶対的な闇を睨み返した。
『そうだ。己の肉体を砕きながら質量を【ゼロ(無)】へと至らせ、理不尽な矛盾を星の理に叩きつける狂気。……貴様のその泥臭く歪な魂の輝きは、いずれ我が漆黒の底へと沈め、味わい尽くしてくれる』
俺の【1の目】による質量ゼロの権能。
『無』を内包するその力が、深淵と虚無を司る闇の原初神の目に留まり、最悪な形で見初められていたのだ。
ドォォォォォォンッ!!
炎の原初神が、獲物を横取りされまいと極東陣営に向けて極太の熱線を放つ。
だが、闇の原初神がそれを『漆黒の波動』で相殺し、炎の熱を完全に遮断する『影のトンネル』を、上空五千メートルの輸送機まで一気に繋ぎ合わせた。
『……行け、極東のイレギュラー。この星で足掻き、さらにその魂を研ぎ澄ませ。……我が迎えに行く、その時までな』
「……フザケんな。誰がテメェのメシになるかよ」
俺は、全身の骨が砕けるような激痛を堪え、左手で足元のマグマに【2の目】の斥力を全開で展開した。
「レオン! セリア! 姉貴! 紅刃、雅! 俺に掴まれッ!!」
闇の原初神が気まぐれに開いた、熱のない影の道。
俺たちは、星の理同士が殺し合いを始めるその狂気の空間から逃れるため、渾身の斥力で大砲のように上空へと跳躍した。
ズドォォォォォォォォンッ!!!!!
鼓膜が破れる轟音と共に、俺たちの身体が空へと打ち出される。
足元にあった絶海の孤島が、俺たちが跳躍した直後、炎と闇の衝突の余波に巻き込まれ、太平洋の海ごと『消滅』し、地図から完全に削り取られた。
「……ハァ、ハァ……ッ」
輸送機の冷たい金属の床に転がり込んだ俺たちは、誰一人として口を開く余裕もなく、ただ激しい動悸と痛みに身を捩っていた。
ハッチが閉まり、機体が全速力で極東への帰路につく。
窓の外には、炎と闇という二柱の星の概念が、次元の彼方へと消えていくのが見えた。
「……助かっ、た……のか……?」
紅刃が、床に大の字になりながら掠れた声で呟く。
「ええ……なんとか。皆、生きています」
セリアが、フラフラと立ち上がり、ウロボロスの再生が追いついていない俺の右腕に応急処置の魔力包帯を巻き始めた。
勝ったのではない。星の理の気まぐれによって、生かされただけだ。
五百年の覇王を倒したというのに、盤面はさらに絶望的な様相を呈している。
『……統。皆さんの生還、確認しました。よく、ご無事で』
コックピットのスピーカーから、安堵で震えるイヴの声が響いた。
『現在、アーサーの消滅に伴い、彼が欧州に展開していた神格の支配は完全に崩壊しました。……ですが、新たな問題が発生しています』
モニターが切り替わり、地球儀が映し出される。
赤い光点(火の粉)が、雨のように降り注いでいる座標。
そこは、焼け焦げた砂と、過酷な陽射しが支配する中東の砂漠地帯だった。
「中東、だと……?」
俺は、その座標を見て、心臓が冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。
中東の砂漠。
死王と幻王という最悪の手駒に追い詰められ、極東の欠けたジョーカーである『氷王・レヴィ』が、瀕死の重傷を負いながら自らを絶対零度で氷漬けにした場所。
『……過去の観測記録と照合しました。かつて、レヴィの故郷を一夜にして焼き尽くし、彼に癒えない魂の傷を負わせた神格の波長。……それは、先ほど降臨した【炎の原初神】の波長と完全に一致します』
「……ッ!」
点と点が、一本の冷たい線で繋がった。
あのプライドの高い見栄っ張りのレヴィが、いくら死王たちに追い詰められたからといって、無様に自らを封印して身を隠すはずがないのだ。
あいつは、気づいていたんだ。
アーサーの傲慢が盤面を歪めたことで、いずれこの星に『あの因縁の炎』が再び呼び起こされることを。
だからレヴィは、瀕死の絶望の中でも決して誇りを捨てず——この炎の原初神と刺し違えるためだけに、中東の底深くで、限界まで『絶対零度』の理を研ぎ澄まして待ち構えていたのだ。
「……バカ野郎が。たった一人で、あんな星の理屈と心中する気だったのかよ」
俺は、ボロボロの身体を壁に預けながら、静かに、しかし確かな熱を帯びた声で呟いた。
「イヴ。極東へ戻ったら、最短で体勢を立て直す。八咫烏の物資をすべて中東の熱砂対策に回せ」
『……統。まさか』
「ああ。五百年のバケモノが消えて、今度は原初の神様のお出ましだ。盤面は最悪の泥沼になりやがった。……おまけに、俺は闇の神様に獲物認定されちまってるしな」
俺は、中東のマップが映るモニターを、血の滲む左手でドンッと叩き、泥臭く不敵に笑い飛ばした。
「だが、俺のテーブルにはまだ、一番大事な『氷のジョーカー』が欠けたままだ。……中東へ行くぞ、お前ら。炎だろうが闇だろうが、俺たちのダチをこれ以上好きにはさせねえ」
灼熱の絶島での死闘を生き延びた極東のイカサマ師は、絶望の余韻に浸る間もなく、次なる死地——因縁の炎が降り注ぐ中東の砂漠へと、その鋭い牙を向けるのだった。




