焦げた髪の誓いと、絶海へのフライト
アーサーからの死の招待状を受け取ってから、三日目の早朝。
西東京市の御堂家は、まだ薄暗い静寂に包まれていた。
俺は一人、冷たいフローリングを歩いてキッチンへと向かい、蛇口からグラスに水を注いだ。
一気に飲み干すと、冷水が食道を通って、極度の緊張で熱を持った胃の腑に落ちていくのが分かる。
「……早いですね、統」
背後から、柔らかい声が響いた。
振り返ると、すでに白銀の騎士装束に身を包んだセリアが、静かに微笑んで立っていた。
「お前こそ。……もう少し寝ててもよかったんだぞ。これから嫌ってほど、体力をすり減らすんだからな」
「遠足の前の子供みたいに、目が冴えてしまって。……それに、統に温かいお味噌汁を作っておきたかったんです」
セリアは慣れた手つきでコンロに火をつけ、鍋に火をかけ始めた。
トントンとネギを刻む包丁の音と、出汁の香りがキッチンに広がる。
これから世界最強の覇王と殺し合いに行くというのに、この空間だけは、あまりにも平穏で、優しかった。
俺は、換気扇の下で腕を組み、セリアの後ろ姿をじっと見つめた。
(……この匂いを、絶対に失わせやしない)
神の理がどうであれ、星の運命がどうであれ。俺の戦う理由は、この六畳半のダイニングにすべて詰まっているのだから。
「……良い匂いですね。私も、一杯いただいても?」
不意に、リビングの奥から掠れた声がした。
「姉貴……! おい、まだ寝てなきゃダメだろ!」
俺が慌てて駆け寄ると、そこには、壁に手をついてフラフラと歩いてくる翠蓮の姿があった。
艶やかだった紅のチャイナドレスではなく、動きやすい黒の戦闘服。
そして何より痛々しいのは——彼女の背中まで伸びた美しい黒髪の毛先が、神話の矛盾が引き起こした熱の代償によって、完全に『真っ白』に焼け焦げてしまっていたことだ。
「翠蓮さん……お身体は、もう」
セリアがお玉を持ったまま、痛ましそうに目を伏せる。
「ええ。すばる君が、自分の右腕の骨を砕きながら魔力を流し込んでくれたおかげで……器の崩壊は免れました。少し、髪の色が抜けてしまいましたけどね」
翠蓮は、真っ白になった自分の髪の毛先を指で弄りながら、自嘲気味に笑った。
「笑い事じゃねえよ。……あんたはここで留守番だ。その状態で、あのバケモノの前に立てば、今度こそ魂が燃え尽きちまう」
俺が強い口調で制止すると、翠蓮はスッと目を細め、静かだが絶対に引かない、女帝の覇気を放った。
「……私の可愛い弟と妹を、処刑場へ見送って、一人でこの温かい家で茶を啜れと言うのですか?」
「ッ……そういう問題じゃねえ!」
「同じことです。私は、極東の総帥であるあなたに命と魂を預けると誓いました。……それに、アーサーのあの絶対防壁。私の『武神(二郎真君)』の鋒で少しでも削らなければ、あなたの新しい手札も届かないでしょう?」
翠蓮の瞳には、二百五十年を生き抜いてきた王としての誇りと、家族を守るための凄絶な覚悟が宿っていた。
俺は奥歯を強く噛み締め、やがて、深く息を吐き出した。
「……分かったよ。だが、条件が一つある」
俺は、翠蓮の目を真っ直ぐに見据えた。
「島では、絶対に『龍神(水)』と『旱魃神(熱)』を同時には使わないこと。……武神のサポートだけで十分だ。あとの重たい扉は、俺のイカサマで全部ブチ破る」
「……フフッ。本当に、頼もしい総帥ですね。ええ、約束しますよ」
翠蓮が優しく微笑んだその時、階段の方からドタドタという騒がしい足音が聞こえてきた。
「おうおう! 朝から湿っぽい顔してんなよ! 腹が減っては戦はできねえぞ!」
大剣を背負ったレオンが、ニカッと笑いながらリビングに乱入してくる。その後ろからは、完全に戦闘狂の目をした紅刃と、妖刀の手入れを終えた雅が続いていた。
「統。八咫烏の輸送機の準備が整ったよ。いつでも飛べる」
「アタシの炎も絶好調だ。あの金ピカの成金野郎、骨の髄まで丸焦げにしてやるよ!」
俺は、集まった極東の狂った家族の顔を一つ一つ見渡し、セリアの作ってくれた味噌汁を一気に飲み干した。
五臓六腑に、温かい熱と、生きているという実感が染み渡る。
「……よし。メシも食ったし、行くか。泥棒退治にな」
数時間後。
俺たちは、八咫烏が手配した最新鋭のステルス垂直離着陸機(VTOL)に乗り込み、太平洋の上空を飛んでいた。
機内には、重苦しいエンジン音だけが響いている。
レオンは腕を組んで目を閉じ、己の剣気を静かに練り上げている。紅刃と雅は装備の最終チェックを怠らず、翠蓮は窓の外の雲海を静かに見つめていた。
俺の隣に座るセリアは、俺の左手を、彼女の両手でギュッと強く握りしめていた。
彼女の手は、微かに冷たく、震えている。死地へ向かう恐怖からではない。俺が再び、無茶なチップの賭け方をして壊れてしまうのではないかという、深い愛情ゆえの震えだ。
俺は、その震えを止めるように、握り返す手に少しだけ力を込めた。
『……統。間もなく、指定の座標である太平洋の中心、絶海の無人島へ到達します』
コックピットのスピーカーから、イヴの緊張した声が響いた。
『ですが……異常です。島の周囲半径数十キロの海域が、あり得ない現象を起こしています』
「あり得ない現象……?」
俺が機内のモニターを覗き込むと、そこには、信じがたい光景が映し出されていた。
周囲の海は、深い紺碧色をしているというのに。
その無人島を中心とした海域だけが、まるで真夏のような『暴力的な黄金の光』に照らされ、海水がグツグツと沸騰して大量の白い蒸気を吹き上げていたのだ。
『……アーサーの放つ【太陽神・アポロン】の神格による、常時発動型の熱源結界です。島そのものが、超高温のオーブンと化しています。用意した耐熱防護服を展開しなければ、上陸した瞬間に肺が焼け焦げます』
「……挨拶代わりのサウナってわけか。ふざけた魔力量だぜ」
俺は忌々しそうに舌打ちをし、八咫烏の技術班が開発した、特殊な冷却魔術が編み込まれた漆黒のロングコート(耐熱防護服)を羽織った。
セリアたちも無言でコートを纏い、それぞれの武器を手に取る。
「いいか、お前ら。敵は【絶対防壁】【破壊の雷霆】【豊穣の超再生】【反動相殺の風】……そして、この空間を灼き尽くす【絶対の太陽】を併せ持つ、五百年のバケモノだ」
俺は、ハッチの前に立ち、仲間たちを振り返った。
「まともに撃ち合えば一瞬で消し炭になる。……俺たちの泥臭い連携で、ヤツの完璧な理に、たった一ミリでいいから『致命的なバグ』を引き起こすんだ」
「応ッ!」
レオンの力強い返事を皮切りに、極東のクラン全員の眼光が、凄絶な殺意と闘志に染まり上がった。
『ハッチ、開きます——降下、開始!』
鼓膜を破るような轟音と共に機体の後部ハッチが開き、暴力的なまでの熱風が機内に流れ込んでくる。
俺たちは、沸騰する黄金の海と、狂王の待つ絶望の島へ向けて、一斉にその身を投じたのだった。




