イカサマ師の誤算と、白銀
——西東京市、御堂家・統の自室。
「……あー、クソ。全身の骨がゼリーになった気分だ……」
俺はベッドにうつ伏せに倒れ込み、シーツに顔を埋めながら低く呻いた。
地下訓練室での、翠蓮との狂気的なまでのスパルタ特訓。
新技【超音速質量弾】の極小出力のコントロールを体に叩き込むため、俺は何度も自らの運動エネルギーで右半身をミンチにしかけ、その度に翠蓮の偃月刀で床に沈められた。
不死性の神から簒奪した『ウロボロス』の権能が、断裂した筋繊維や砕けた骨を強引に繋ぎ合わせてくれるおかげで、外傷自体は残っていない。
だが、細胞が破壊と再生を繰り返した『神経の疲労』と『幻肢痛』までは誤魔化しきれず、鉛のように重い気怠さが全身にのしかかっていた。
窓の外はすでに夕闇に染まり、一階のキッチンからは、紅刃や雅たちが夕食の準備をしている賑やかな声が微かに聞こえてくる。
(……五百年のバケモノの首を狩るんだ。これくらいの代償(ベッド額)、払えなくてどうする)
俺は重い瞼を閉じ、浅い呼吸を繰り返した。
その時だ。
コンコン、と。控えめなノックの音が部屋に響いた。
「……統。起きていますか?」
「おう。開いてるぞ、セリア」
ガチャリとドアが開き、部屋に入ってきた姿を見て、俺は思わず「おっ」と小さく息を呑んだ。
そこにいたのは、いつもの凛々しい白銀の騎士装束でも、気合いの入ったエプロン姿でもなかった。
お湯から上がったばかりなのだろう。少し大きめの、俺が以前貸したグレーのスウェットをすっぽりと被り、普段は結い上げている白銀の髪をふわりと肩に下ろしている。
ほんのりと頬を桜色に染め、首筋には微かに水滴が光っていた。
部屋の中に、ふわりと、石鹸と彼女本来の甘い香りが入り混じったような匂いが漂う。
「……なんだ。お前、もう風呂入ったのか」
俺が寝返りを打って仰向けになりながら言うと、セリアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「はい。翠蓮さんたちが、統の看病をするなら先にサッパリしておいで、と。……それより、右腕の調子はどうですか? 翠蓮さんから、特別な薬湯の軟膏を預かってきました。魔力疲労を散らす効果があるそうです」
セリアの手には、小さな陶器の壺が握られていた。
「あー、助かる。ウロボロスでも筋肉痛と神経の痺れまでは取れなくてな……って、おい」
俺が起き上がって軟膏を受け取ろうとした瞬間。
セリアはベッドの縁に腰を下ろし、俺の右腕を、彼女の白く細い両手でそっと包み込んだ。
「私が塗ります。……統は、そのまま横になっていてください」
「いや、自分で塗れるって。お前も疲れてるだろ……」
「ダメです。第一騎士の務めですから」
セリアは有無を言わせぬ真剣な瞳で俺を見つめ、壺から軟膏をすくうと、俺の右腕にゆっくりと滑らせ始めた。
「……っ」
ひんやりとした軟膏の感触と、それを優しく揉み込むセリアの指先の、驚くほどの『柔らかさ』。
そして何より——マッサージに集中するために前屈みになった彼女の顔が、俺の顔からわずか数十センチの距離にあった。
(……おいおい。ちょっと待て)
俺の心臓が、戦闘中とは全く違う、ひどく間の抜けたリズムで跳ね上がり始めた。
至近距離で見るセリアの睫毛は信じられないほど長く、少し開いた胸元からは、華奢な鎖骨が覗いている。いつも戦場で背中を預け合っている頼もしい騎士のはずなのに、今の彼女は、どう見ても『年相応の、とびきり綺麗な女の子』だった。
石鹸の甘い香りが、俺の理性をチリチリと焦がしていく。
俺は、神殺しの盤面で命を賭ける時でさえ完璧に保っていたはずのポーカーフェイスが、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
「……統? どうかしましたか? 少し痛かったですか?」
俺の呼吸が不自然に止まっていることに気づいたのか、セリアがコテッと首を傾げ、上目遣いで覗き込んでくる。
その翡翠の瞳の、無防備すぎる破壊力。
「い、いや。痛くねえよ。痛くねえけど……その、なんだ」
俺は思わず視線を泳がせ、ベッドのシーツを左手でギュッと握りしめた。
「……近えよ、セリア。お前、自分が今どういう格好してるか分かってんのか?」
「え? 格好、ですか?」
セリアは自分のスウェット姿を見下ろし、キョトンとした。
「あ……ごめんなさい。統から借りた服だから、その……変、ですか?」
「違う! そういうことじゃなくてだな……!」
俺は真っ赤になりかけた顔を左腕で覆い隠し、深いため息をついた。
(クソッ、俺は何を動揺してんだ。相手はあの五百年のバケモノでも、原初神でもねえんだぞ。ただの、俺のダチで……家族みたいなもんで……)
——家族。
本当に、俺はこいつのことを、ただの身内としてしか見ていないのだろうか?
出会ったあの日、公園で命懸けで俺を守ろうとした背中。
この家で、毎日俺のために不器用ながらも温かいご飯を作ってくれる笑顔。
失いたくない。このテーブルの、一番大切なピース。
俺が腕の隙間からそっと見上げると、セリアもまた、何かを察したのか、顔を真っ赤にして固まっていた。
「あ、の……統……?」
彼女の手が、俺の腕の上でピタリと止まる。
沈黙が落ちた。戦闘の緊迫感とは真逆の、甘くて、どうしようもなく息苦しい、男女の静寂。
俺は、意を決して顔を覆っていた腕をどかし、セリアの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……セリア。お前、本当に綺麗になったな」
「へ……っ!?」
俺の口から無意識に出た直球の言葉に、セリアの顔がポンッと音を立てそうなほどに沸騰した。
「な、ななな何を言っているんですか統! 私は騎士で、統の剣で、そ、そんな、綺麗だなんて……ッ!」
「事実を言っただけだ。……ありがとな、いつも俺の傍にいてくれて」
俺が苦笑交じりにそう告げると、セリアは潤んだ翡翠の瞳をパチパチと瞬たかせ、やがて、花がほころぶような、とびきり優しくて愛おしい笑顔を浮かべた。
「……はい。私はずっと、統の傍にいます。……何があっても」
「——おーい! ハズレ枠、白銀! メシができたぞー! 早く降りてこないと、新入りのオッサンに全部食われるぞ!」
その時、一階から紅刃のデリカシー皆無な大声が響き渡り、部屋の甘い空気は一瞬にして霧散した。
「あっ、は、はい! 今行きます紅刃さん! ……そ、それでは統、また後で!」
セリアは慌てて立ち上がり、耳まで真っ赤に染めたまま、逃げるように部屋を飛び出していった。
バタン、とドアが閉まる。
部屋には、セリアの甘い香りと、右腕に残る彼女の手の温もりだけが残されていた。
「……はぁ。心臓に悪ィな、マジで」
俺はベッドの上で大きく伸びをし、自分自身の熱くなった頬を両手でパチンと叩いた。
覇王アーサーの陰謀。世界中で顕現する神々。
そして、いずれ直面することになる、千年に一度の星の大掃除。
背負うべき死線の重さは、日に日に増していく。
だが、俺はもう絶対に負けない。
この胸の奥をチリチリと焦がすような、不器用で愛おしい日常——俺の一番大切な『テーブル』を守り抜くためなら、俺は俺の命だろうと魂だろうと、いくらでも盤面に全賭け(オールイン)してやる。
俺は、いつになく軽い足取りでベッドから降りると、騒がしい家族たちの待つ一階のダイニングへと向かった。




