極東の食卓と、血みどろの研鑽
西東京市、御堂家。
朝の陽光が差し込むダイニングには、カツオと昆布の合わせ出汁の、ひどく優しくて暴力的なほどに食欲をそそる香りが充満していた。
「——うおおおおッ! なんだこの白くて甘い粒は! 噛めば噛むほど味が染み出してきやがる!!」
食卓の真ん中で、ボロボロのトレンチコートから清潔なスウェットに着替えた大柄な男——極東の新たな王である『剣王・レオン』が、山盛りの白米をかき込みながら感極まった叫び声を上げていた。
「コラ、新入り! 統のメシより先に三杯目をおかわりしてんじゃないよ! アタシの分のタラコまで食っただろ!」
「まあまあ紅刃さん、落ち着いて。レオンさんは三十年間、世界中の山奥で野宿しながら剣を振っていたそうですから。……ほら、お味噌汁も熱いうちにどうぞ」
「おお! 悪いな、嬢ちゃん! 五臓六腑に染み渡るぜ……ッ!」
紅刃が眉を吊り上げて怒鳴る横で、雅が呆れながらも温かいほうじ茶を淹れ直す。
エプロン姿のセリアは、嬉しそうに炊飯器の前に立ち、空になったレオンの茶碗に四杯目の白米をよそっていた。
「たくさん食べてくださいね、レオンさん。統も、いつもこれくらい食べるんですよ」
「へへっ、すげえな極東のメシってのは! 昨日の夜に入った『フロ』ってのも最高だったぜ。三十年分の垢と筋肉の強張りが、全部お湯に溶けていくみたいだった!」
豪快に笑うレオンの姿を見て、俺は手元の焼き魚を箸でつつきながら、思わずふっと息を吐き出した。
神殺しの盤面に突如として現れた、イレギュラーすぎる最高位【6】の王。だが、その中身は、美味しい飯と温かい風呂に感動する、ただの純粋な剣バカのオッサンだった。
「……どうしたんですか、統。お魚の焼き加減、失敗しちゃいましたか?」
セリアが、翡翠の瞳を心配そうに揺らして覗き込んでくる。
「いや、美味いよ。いつも通り、最高だ。……ただ、少しだけホッとしてるんだ」
俺は、味噌汁の椀を両手で包み込み、その温もりを掌で確かめた。
レヴィという最大のジョーカーを喪失し、アーサーという五百年のバケモノの絶望的な力を目の当たりにした。世界中では、神々が顕現し、盤面の理が軋みを上げている。
だが、俺の目の前には、愛する第一騎士が作った朝飯があり、やかましくも頼もしい家族の笑顔がある。
俺が血反吐を吐いてでも守り抜きたかったものは、このちっぽけで、何よりも尊い『日常の食卓』なのだ。
「……本当に、賑やかな食卓になりましたね」
ダイニングの上座。艶やかな紅のチャイナドレスを纏った翠蓮が、扇子で口元を隠しながら、目を細めて笑った。
だが、その優雅な所作の裏側で。
翠蓮の体内では、ここ数日の激戦による『魂の摩耗』が、音もなく牙を剥いていた。
東欧での覇王アーサーとの対峙、音速機からの生身のダイブ、そして直後の東京湾での海神討伐。愛する弟たちを守るため、彼女は立て続けにメインである武神の権能を限界まで行使し続けた。
その結果——器の底でギリギリの均衡を保っていた『神話の矛盾』を押さえ込むための、彼女自身の魂の余力が、危険なほどに擦り減っていたのだ。
(……くッ)
翠蓮は、誰にも気づかれないよう、静かに、極浅く呼吸をした。
嵐を呼ぶ龍神と、大地を干上がらせる旱魃神。決して交わらない対極の神格が、主の消耗を悟り、内側から器を食い破ろうと暴れ始めている。
肺の奥底から込み上げてくる、泥水で溺れるような『水』の幻覚。それに反発し、全身の血液を沸騰させて灰に変えようとする『熱』の激痛。
不老不死の器であっても、この神話の矛盾による魂の摩耗は、確実に翠蓮の『存在そのもの』を内側から削り取っていた。本来なら、感情を捨てて神の理に同化しなければ発狂してしまうほどの痛み。
(……いいえ。この痛みこそが、私が人間である証明)
翠蓮は、テーブル越しに笑い合う統とセリアの姿を、愛おしそうに見つめた。
この温かい光景の記憶を手放すくらいなら、魂がすり減って消滅する方がマシだ。
「……すばる君」
痛みを完璧な笑顔の裏に隠し、翠蓮はスッと立ち上がった。
「朝食が終わったら、地下へ行きましょうか。あなたの新しい『手札』……実戦で使えるレベルまで、私が徹底的にお付き合いしますよ」
「……ああ。頼むぜ、姉貴。あの覇王の絶対防壁をブチ抜くには、まだ練度が足りねえからな」
俺は、最後に残った白米を一気にかき込み、箸を置いた。
温かい日常の時間は、ここまでだ。
狂ったディーラーの首を狩るため、俺たちは再び、血の滲む闘争の螺旋へと足を踏み入れる。
——西東京市、地下特別訓練室。
「ガ、ァァァァァァァッ!!」
密閉された地下空間に、俺の絶叫と、肉が弾けるような鈍い音が響き渡った。
「甘いですよ、すばる君! 反発力(2の目)の出力が高すぎます! それでは的に当たる前に、あなた自身の肉体がG(重力加速度)に耐えきれずに自壊します!」
数十メートル先。中国の武神『二郎真君』の神威を微かに纏った翠蓮が、青龍偃月刀の柄で俺の体を容赦なく床に叩き伏せた。
「……ゴハッ……! クソ、が……ッ」
俺は床に這いつくばりながら、口から溢れた血の塊を吐き出した。
全身の筋肉が断裂し、右腕の骨には無数のヒビが入っている。不死性の神から奪ったウロボロスの超再生が必死に細胞を繋ぎ合わせているが、激痛が脳を焼き切るように襲ってくる。
俺が実戦に投入しようとしている、二つの権能の共鳴。
【1の目】で自身の質量を『ゼロ(無)』にし、【2の目】の『微弱な斥力(反発力)』で弾き出す。そして、敵に激突するコンマ一秒の隙間に、質量を『無限大』へと反転させる。
俺はこの命懸けの手札を、【超音速質量弾】と名付けた。
だが、人間の肉体は、音速を超える加速と、瞬時の無限大の質量変換に耐えられるようにはできていない。
アーサー戦や奥多摩での実戦では、ヤケクソで放ったため奇跡的に腕が吹き飛ばずに済んだが……狙って撃とうとすれば、少しでも『出力の天秤』が狂った瞬間、俺の右半身は自らの運動エネルギーに潰されて挽肉に変わる。
「……もう一度だ」
俺は、震える足に強引に力を込め、自分の血だまりの中で立ち上がった。
「反発力のベクトルを、さらに極小に絞る……。加速の初速だけを【2の目】で補い、あとは空気抵抗を無視した質量ゼロの慣性だけでトップスピードに持っていく……!」
「……死にますよ、すばる君。今のあなたの細胞は、超再生の限界に近い」
翠蓮が、偃月刀を下ろして静かに告げる。
「死なねえよ。俺のテーブルに、これ以上泥棒を招き入れるわけにはいかねえんだ」
俺の脳裏に浮かぶのは、中東の冷たい砂漠の奥底で、たった一人で自らを凍結させているであろう、あの見栄っ張りな氷王の顔。
そして、他人の痛みなど一切知らずに、安全圏から神の理を弄ぶ覇王アーサーの、あの傲慢で底知れない蒼い瞳だ。
「……それに、あんただって」
俺は、翠蓮の目を真っ直ぐに見据えた。
「さっきから、少し呼吸が浅い。……俺たちの前で、無理して神話の矛盾を隠して笑ってんじゃねえよ。バカ姉貴」
「……っ」
翠蓮の完璧な仮面が、ほんの一瞬だけ、驚きに揺らいだ。
「あんたのその重すぎる代償、俺が隣で肩代わりしてやることはできねえ。……だったら、俺は俺の肉体を削ってでも、あんたが他の手札を切らなくて済むくらいに、極東で最強の切り込み隊長になってやるしかねえだろ」
俺は、ボロボロの右腕を構え、足元の岩盤に【2の目】の斥力を集中させた。
「……来い、翠蓮。俺の骨が粉々になるまで、この手札の精度を上げるのに付き合え」
翠蓮は、数秒の沈黙の後。
フッと、本当に嬉しそうに、そして誇らしげに目を細めた。
「……生意気な弟ですね。ええ、分かりました。お姉ちゃんが直々に、その未完成の弾丸を、神の理すらも撃ち抜く必殺の刃に鍛え上げてあげましょう」
地下室の冷たい空気の中、黄金の炎と、武神の神威が再び激しく衝突する。
来るべき五百年の王との決戦に向けて。極東のイカサマ師は、己の血と骨をチップとしてテーブルに積み上げ、ひたすらに泥臭い研鑽を続けていくのだった。




