欠けたジョーカーと、日常の食卓
——トントン、トントン。
遠くから、リズミカルに包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
それに混じって、出汁と味噌の、ひどく落ち着く香りが鼻腔をくすぐった。
「……ん」
重い瞼を開けると、そこは見慣れた西東京市の自宅の天井だった。
東欧の冷たい鋼の城でも、覇王の絶望的な雷霆の下でもない。俺が血反吐を吐いて守り抜いた、俺の日常だ。
「……あ。す、統ッ! 気がついたんですね!」
ベッドの脇で、洗面器とタオルを持ったセリアが、パッと顔を輝かせて覗き込んできた。
その翡翠の瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。
「……おはよう、セリア。何日寝てた、俺」
俺が軋む体を起こそうとすると、セリアは慌てて俺の肩を支えた。
「丸二日です。ウロボロスの超再生で外傷は完全に塞がっていましたが……魔力と精神の枯渇が酷く、翠蓮さんがずっと気を揉んでいましたよ」
「そうか。……お前がエプロン姿ってことは、下の匂いは」
「はい! 統の栄養をしっかり補給するために、紅刃さんたちと朝食を作っていたところです。……統のお口に合うといいのですが」
少しだけはにかむように笑うセリアを見て、俺は短く息を吐き、彼女の白銀の髪にポンと手を乗せた。
「当たり前だろ。セリアの飯が、一番美味いに決まってんじゃねえか」
「統……っ」
俺は、セリアの肩を借りながらベッドから降りた。
東欧でのカチコミは、結果的に見れば「アーサーによる完全な蹂躙」だった。だが、俺は一番大事な手札だけは、絶対にディーラーの掌から奪い返したのだ。
「おお! 目ェ覚ましたかハズレ枠!」
「統、無理はしないでくださいね。さあ、温かいお茶をどうぞ」
俺がリビングに顔を出すと、食卓に座っていた紅刃と雅が安堵の声を上げた。
「……よく眠れましたか、すばる君。本当に、無茶ばかりする弟ですね」
ダイニングテーブルの上座で、艶やかなチャイナドレス姿の翠蓮が、優雅に中国茶を啜りながら微笑んだ。
「助かったぜ、姉貴。姉貴が空から降ってこなかったら、今頃俺たちは黒焦げのミンチだった」
俺が素直に礼を言うと、翠蓮は扇子で口元を隠し、スッと真剣な眼差しに変わった。
「礼には及びません。ですが……事態は私たちが想定していたよりも、遥かに最悪です。すばる君が寝ている間、八咫烏と私の組織で、世界中の盤面の動きを洗い出しました」
翠蓮は、テーブルの上に一枚の世界地図を広げた。
「あの東欧の城で相見えた、【覇王・アーサー】。……彼が使っていた複数の権能の異常性について、イヴから報告を受けています。防御、攻撃、回復、そして反動の相殺。最高位の【6】を含む複数の権能を同時に、かつノーリスクで回すなど、反則なほど圧倒的だった最古の神殺し。
「ああ。五百年も生きてりゃ、バグの組み合わせ方も極まるってことだ」
俺は、女神から押し付けられた【2の目】の権能の感触を、右手でニギニギと確かめながら呟いた。
「さらに問題なのは、彼の『手札』です。……中東の『氷王・レヴィ』を強襲し、盤面から排除した実行犯。『死王・ゼイン』と、『幻王・ファントム』。彼らは現在、完全にアーサーの庇護下に入り、欧州の巨大な防衛網の一部として機能し始めています」
「王たちが手を組んだってわけか……」
俺は奥歯をギリッと噛み締めた。
アーサーという最古のバケモノを頂点とし、その下に王が2人が2人もつく。
「これが現在の盤面です。私たち極東に対する、圧倒的な戦力差。……正直に言えば、アーサーが本気で西東京市を消し飛ばしに来れば、防ぐ手立てはありません」
翠蓮の言葉に、リビングは重苦しい沈黙に包まれた。
「……ところでレヴィは、その、、死んだのか……?」
俺が静かに問うと、翠蓮は首を横に振った。
「いいえ。中東の砂漠は、彼が命を削って放った『絶対零度』によって数キロにわたり物理凍結され、巨大な氷河のドームと化しています。アーサーの手駒たちは手出しができず撤退しました。……おそらく、レヴィはゼインの死の呪いを抑え込むため、自らを氷の奥深くに封印し、仮死状態にあると推測されます」
「……そうか」
俺は、ふっと口角を吊り上げた。
「やっぱりな。あの見栄っ張りの氷野郎が、あんな小間使いどもの急襲で簡単にくたばるわけがねえ。……俺のテーブルの『最強のジョーカー』
は、ちょっと居眠りしてるだけだ」
「統……?」
俺は立ち上がり、セリアがよそってくれた温かい味噌汁を一気に飲み干した。
「五百年のバケモノだろうが、狂ったディーラーだろうが関係ねえ。俺から『家族』と『ダチ』を奪おうとした落とし前は、盤面をひっくり返してでも払わせる」
俺は、右手で自身の胸をドンッと叩いた。
「俺には今、【1の目】の質量操作の他に、あの運営(女神)が押し付けてきやがった【2の目】の手札がある。カルマやアーサーが見せた『権能の相乗効果』……。ギャンブラーの悪知恵にかけて、俺も極限までブラッシュアップしてやる」
「……フフッ。ええ、その意気ですよ、すばる君」
翠蓮が、扇子を閉じて楽しげに微笑んだ。
「相手が五百年を生きた最強最古の王だとしても、私たちには私たちの『絆』と『イカサマ』があります。……アーサーの首を取るための総力戦、お姉ちゃんも徹底的にお付き合いしますからね」
「アタシもだ! あの金ピカ野郎、絶対に燃やす!」
「統の背中は、私たちが守ります」
紅刃と雅も力強く頷き、セリアは白銀の刀を胸に抱いて、真っ直ぐに俺を見つめた。
西東京市の、騒がしくも温かい日常の食卓。
だが、そのテーブルはすでに、神々のゲームの存亡を懸けた『世界最強の覇王』との全面戦争の舞台へと繋がっていた。
極東の最弱王は、奪われたジョーカーを取り戻し、狂った胴元の首を狩るため、次なる修羅の道へとその足を踏み出したのだった。




