女帝の逆鱗と、覇王の撤退
「……ほう。まさか、上空の音速機から生身でダイブしてくるとはな」
男は、アテナの盾を構え直しながら、酷薄な瞳をわずかに細めた。
「中国の女帝。……お前もなかなかに古株の王だが、二百五十年の小娘が、この我の前に立ちはだかるか」
「ええ。小娘で結構です」
翠蓮は、青龍偃月刀の切っ先を男の鼻先に突きつけた。
「弟の平穏な食卓を荒らす泥棒を追い払うのに、年齢なんて関係ありませんからね。【覇王・アーサー】」
「アーサー……、だと……?」
俺は瓦礫の中で息を呑んだ。
盤面を操っていたディーラーがまさか、500年を生きる最古のバケモノ本人が、極東の俺たちを直接潰しに来ていたなんて。
「退きなさい、アーサー。これ以上彼らに指一本でも触れるなら、中国の黒社会すべてを挙げて、あなたの欧州を火の海にしますよ」
翠蓮の声には、一切の妥協も、恐怖もなかった。
中国神話における最強の武神【二郎真君】を殺し、その権能と自身の中国拳法を極限まで融合させた、彼女の『本気の戦闘モード』。
その密度と殺気は、先ほどまで余裕の表情を崩さなかったアーサーにすら、微かな警戒心を抱かせるに十分だった。
(……チッ。計算外だな)
アーサーは、内心で冷ややかに盤面を再評価した。
満身創痍の極東の王を狩るだけの簡単なゲームのはずだった。
だが、複数の権能を操るアーサーであっても、生存年数二百五十年の実力者とここで死闘を演じれば、確実に無傷では済まない。
盤面を支配する王にとって、想定外の『大きな損耗』は最も避けるべきリスクだった。
「……フン。吠えるな、女帝」
数十秒の沈黙の後。アーサーは、手にしたゼウスの雷霆をスッと霧散させた。
「貴様らのような有象無象を相手に、我が貴重な権能を消費するのは割に合わん。……今回は、その威勢の良さに免じて見逃してやろう」
「……逃げる気ですか。覇王」
翠蓮が刀の柄を握り直す。
「勘違いするな。これは『猶予』だ」
アーサーは、足元に空間転移の黒いポータルを開き、瓦礫に倒れる俺を見下ろした。
「極東のイレギュラーよ。そのボロ雑巾のような体を、せいぜい治しておくことだな。……次に我が盤面を動かす時、貴様らは本当の絶望を知ることになる」
言い残し、最古の王の姿は、黒い霧と共に完全に玉座の間から消え去った。
「……」
アーサーの気配が完全に消滅したことを確認し、翠蓮はフーッと長く息を吐き出し、青龍偃月刀を空間に収納した。
「翠蓮……さん」
セリアたちが、フラフラと立ち上がりながら翠蓮の元へ駆け寄る。
「ありがとうございます……! あなたが来てくれなければ、統は……っ」
「いいんです、セリアさん。私は彼と『義理の姉弟』の盃を交わしたんですから。弟のピンチに駆けつけるのは、姉として当然の義務ですよ」
翠蓮は、いつもの艶やかな、けれどどこかホッとしたような優しい笑顔に戻り、ボロボロの俺の元へと歩み寄った。
「……遅えよ、バカ姉貴」
俺が血まみれの口元で憎まれ口を叩くと、翠蓮は眉尻を下げて、俺の体をそっと、壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「……本当に、よく頑張りましたね、すばる君。……怖かったでしょう。痛かったでしょう。もう大丈夫ですよ。お姉ちゃんが来ましたからね」
その温かくて、少しだけ震えている義姉の抱擁に。
張り詰めていた俺の意識の糸はプツリと切れ、泥のように深い眠りへと落ちていった。
神々のゲームの勢力図が激しく塗り替えられる中、極東のイカサマ師の長くて死闘に満ちた夜は、こうして静かに幕を下ろしたのだった。




