西東京の祝杯と、武神(スイレン)の甘い取り立て
「——極東のイカサマ師と、俺たちの勝利に! 乾杯だァァァッ!!」
獣王ガルドの鼓膜を破らんばかりの咆哮と共に、分厚いガラスのジョッキが豪快に打ち鳴らされた。
神話の終焉から数日後。
俺たちが拠点としている西東京の地下アジトのダイニングには、かつてないほどの豪華な料理が並べられ、極東の家族たちによる盛大な祝宴が開かれていた。
「オラオラ、オッサン! 酔い潰れるにはまだ早いぜ!」
剣王レオンが、樽のようなジョッキでエールを煽りながらガハハと笑う。
「統、お肉焼けたわよ! はい、あーんして!」
「す、すばる様! 私が手作りしたこのだし巻き卵も、ぜひ一口……っ!」
セリアと雅が、俺の口元へ向けてフォークと箸を激しく交差させている。
俺の右手で握りしめているグラスの中身は、琥珀色のお酒——ではなく、黄金色に輝くジンジャーエールだ。
「……たく。世界を救ったってのに、未成年の俺にはアルコールの一滴も回ってこねえとはな。お前ら、胴元の扱いが雑じゃねえか?」
俺が呆れたように炭酸を煽ると、隣でジュースを飲んでいた紅刃が、赤い髪を揺らして鼻で笑った。
「ハッ、生意気言ってんじゃねえよ! アンタは南無三寸で命をすり減らしたばっかなんだ。酒なんて飲んで、また倒れられたらアタシの心臓が保たないっつーの!」
乱暴な口調だが、その瞳には俺の生還を心の底から喜ぶ、温かい光が宿っている。
俺は苦笑し、ジンジャーエールの入ったグラスを、テーブルの端に置かれた『一つの空席』へと向けた。
そこには、美しく透き通った氷だけが入ったグラスと、蒼いマントの切れ端が静かに置かれている。
「……なあ、レヴィ」
俺は、氷のグラスに自分のグラスをコツンと当てた。
「テメェが命を懸けて護り抜いたテーブルは、相変わらず騒がしいぜ。……そっちの居心地はどうだ。少しは、ゆっくり眠れてるか?」
氷がカラン、と溶ける音だけが、不器用で誇り高き王からの返事のようだった。
復讐を終え、すべてを俺たちに託して散った彼のためにも、俺たちはこの盤面(世界)で、泥臭く、騒がしく生きていかなきゃならねえ。
「——ふふっ。すばる君ったら、グラスを見つめて黄昏ている場合じゃありませんよ?」
その時。
ふわりと、極上の白檀の香りが俺の鼻腔をくすぐった。
「お、おい翠蓮……近ッ!?」
いつの間にか俺の隣に腰を下ろしていた翠蓮が、その豊満で柔らかな身体を、俺の腕にピタリと密着させてきたのだ。
彼女が身を乗り出すたびに、チャイナドレスの胸元が危うい谷間を強調し、艶やかな黒髪が俺の肩にかかる。
「南米での『あの大勝負』の前に、私、言いましたよね?」
翠蓮は、悪戯っぽい瞳で俺を見つめ、濡れたような唇を俺の耳元へと寄せた。
「この絶望の盤面をひっくり返せたら……私に一生分のデートと、その心を責任取ってもらう、と。……極東の武神は、一度切った手札(約束)は絶対に引かない主義なんですよ?」
「ぶふぅッ!?」
俺は思わずジンジャーエールを噴き出しそうになった。
死地でのあの言葉は、俺を鼓舞するためのハッタリ(勢い)じゃなかったのか。
「すばる君の命は、一度私たちが拾い上げたんです。つまり、今のあなたの『所有権』の何割かは、私にあるということ……。さあ、どうやってお支払いしていただきましょうか?」
翠蓮は、俺の胸元にそっと指を這わせながら、大人の色香で完全に俺の退路を塞いできた。
南米の荒野で、折れた槍一本で俺を護り抜こうとした、あの凄絶な武神と同じ女だとは到底思えない、甘く、そして逃げ場のない『取り立て』。
「ま、待て翠蓮。支払いって言っても、今は宴会の最中だぞ!? それに俺は……」
ドンッ!!!
俺が言い訳を口にする前に、テーブルが激しく叩かれた。
「ちょっとおおおおおッ!! 翠蓮さん、何どさくさに紛れて統に密着してんのよ!!」
セリアが、顔を真っ赤にして立ち上がり、白銀の盾ではなく、お玉を片手に威嚇してくる。
「そうです翠蓮殿! すばる様はまだ未成年! そのような破廉恥な物理的接触は、武士道に反するどころか、この家の風紀を乱します!! 離れなさい、いえ、私と代わりなさい!!」
雅が、刀の代わりに菜箸を正眼に構えて、ジリジリと距離を詰めてくる。
「アタシの統に手ェ出してんじゃねえよ!! このドデカ女ァッ!!」
紅刃に至っては、嫉妬のあまり大剣を赤熱させ、ダイニングの温度を急上昇させていた。
「あらあら。戦場ではみんなで協力してすばる君の命を拾ったのに、平和になった途端、特等席の奪い合いですか?」
翠蓮は全く動じることなく、むしろ俺の腕をさらに強く抱き寄せ、三人のヒロインへ向けて艶然と微笑んだ。
「勝負事は、先にベットした者が主導権を握るのがルールでしょう? すばる君の初めてのデートは、大人の私がリードしてあげるのが一番安全ですよ」
「ぐぬぬぬ……ッ! 言わせておけばァッ!」
セリア、雅、紅刃。そして翠蓮。
神をも殺した極東の最高戦力たちが、今度は「俺の隣」という小さな特等席を巡って、バチバチと火花を散らす。
「ガハハ! 命懸けの死闘より、こっちの修羅場の方がボスにとっちゃキツそうだな!」
レオンとガルドが、遠くの席で酒を煽りながら腹を抱えて笑っている。
「……ったく」
俺は、ジンジャーエールのグラスを置き、ウロボロスの傷跡が消えた左手で、頭をガシガシと掻いた。
そして、腕にしがみつく翠蓮の頭をポンと撫で、目の前で殺気立つ三人娘に向かって、不敵に笑いかけた。
「お前ら、テーブルのルールを忘れたか?」
俺の声に、四人の女たちがピタリと動きを止める。
「ここは俺の開いたカジノ(極東)だ。特等席が欲しけりゃ、俺を満足させるだけの『極上のイカサマ』を仕掛けてみやがれ。……一生分のデートだろうがなんだろうが、受けて立ってやるよ!」
「——言ったわね、統! 明日の休みは、私と西東京を一日中巡るんだから!」
「すばる様! まずは私と、刀の鍛錬という名の健全な逢瀬を!」
「アタシが先だ! クレープ奢らせてやる!!」
「ふふっ。夜の時間は、私がたっぷりと頂きますからね」
再び勃発する、やかましくも平和な特等席の奪い合い。
神々の大いなる淘汰も、世界の終わりも、もうどこにもない。
あるのは、俺が命を懸けて護り抜き、そして俺に命をくれた、この愛すべき狂った家族たちだけだ。
俺は、騒ぎ立てる彼女たちを見つめながら、氷が溶けたレヴィの空席へ向かって、心の中でそっと呟いた。
(……見ろよ、レヴィ。悪くねえ盤面だろ?)
神話の終わりを越えて。
泥臭きイカサマ師と、彼を愛する極東の家族たちの騒がしい日常は、ジンジャーエールの甘い炭酸のように、これからも永遠に弾け続けるのだった。




