武神の密室と、逃げ場のない修羅場のテーブル
(……なんで俺は、こんなに緊張してんだ)
深夜の西東京アジト。
皆が寝静まった地下の居住エリアで、俺は一つだけ明かりの漏れている扉の前に立っていた。武神・翠蓮の私室だ。
昼間、背後から囁かれた『私のお部屋にいらっしゃいませんか』という甘い奇襲。
最強のイカサマ師を自負する俺だが、こと「大人の女性の誘い」というイレギュラーな手札を切られると、途端にディーラーとしてのペースを崩されてしまう。
コンコン、と控えめにノックをすると、「どうぞ、開いていますよ」と、鈴を転がすような声が響いた。
「失礼するぜ……」
扉を開けた瞬間、ふわりと上質な白檀のお香が鼻をくすぐった。
間接照明だけが灯る、少し薄暗く、アジアンテイストに整えられた落ち着く空間。だが、俺の視線は部屋の中央に座る『彼女』に釘付けになり、完全に思考がフリーズした。
「お待ちしていましたよ、すばる君」
ソファに腰掛けていた翠蓮は、普段の流麗な武神の装いでも、家庭的なエプロン姿でもなかった。
艶やかな青髪はゆったりと下ろされ、その豊満な身体を包んでいるのは、肌の透けそうなほど薄手で上質な、真紅のシルクのルームウェア。
深くスリットの入った裾からは、滑らかな白い太腿が惜しげもなく覗き、動くたびに大人の色香が零れ落ちそうになっている。
「え、あ、翠蓮……その格好」
「ふふっ。夜の自室ですから、リラックスしたくて。……変、ですか?」
小首を傾げてクスクスと笑うその仕草に、俺は柄にもなくドギマギしながら「い、いや、似合ってる」と目を逸らすのが精一杯だった。
「さあ、掛けてくださいな。すばる君はまだ未成年ですから、お酒の代わりに……極上のジャスミン茶を淹れました」
促されるまま、俺は彼女の隣に腰を下ろした。
だが、翠蓮は俺が座るや否や、二人掛けのソファの距離をゼロにするように、ピタリと肩をすり寄せてきた。シルク越しの柔らかな感触と、体温が直接伝わってくる。
「……翠蓮サン。少し、距離が近くないですかね」
「あら? 雅ちゃんとは、もっと『近い距離』で、熱い勝負をしていたのではありませんか?」
「っ……!」
コトリ、とお茶のカップを置きながら、翠蓮は流し目で俺をからかうように見つめてきた。
完全に手の内を読まれている。普段は皆のお母さん、あるいはお姉さんとして極東陣営を優しく見守っている彼女だが、その洞察力は武神の槍よりも鋭い。
「……参ったな。俺のブラフは、アンタには全部筒抜けってわけか」
俺が苦笑いして白旗を上げると、翠蓮の表情からからかいの色が消え、ふと、熱を帯びた瞳に変わった。
「……ええ、お見通しです。だからこそ、ずっと我慢していたんですから」
翠蓮の細くしなやかな指先が、俺の包帯が巻かれた左腕に、そっと触れた。
「私、ずっとすばる君たちの帰る場所(食卓)を守るのが役目だと思っていました。……でも、中東の空で、あなたが自らの寿命を削る『ブラックチップ』を手にした時。……雅ちゃんと同じように、私も怖くて、たまらなくなったんです。……お姉さんぶって、一歩引いている場合じゃないって」
翠蓮の顔が近づく。
白檀の香りと、彼女自身の甘い体香が俺の理性をクラクラと揺さぶる。
「……すばる君。もしもいつか、あなたが全ての手札を失って、神々の盤面で破産してしまう時が来たら。……私がその負債、まるごと肩代わりして差し上げます」
それは、彼女なりの『全賭け(オールイン)』の表現だった。
ただ守られるだけじゃない。共に地獄の底まで堕ちて、業火に焼かれる覚悟。極東の武神が提示した、あまりにも重く、そして美しいチップ。
「だから、私にも……あなたというディーラーに、私のすべてをベットさせてください」
「……翠蓮」
俺がその名前を呼んだ瞬間、翠蓮の柔らかく熱い唇が、俺の言葉を塞いだ。
雅の時の初々しい口づけとは違う。相手のすべてを絡め取るような、大人の女性の深く、甘く、そして情念に満ちた口づけ。
ジャスミン茶の芳醇な香りが溶け合い、俺は抗うことをやめ、彼女の細い腰に腕を回して、その熱烈なコールに全力で応えた。
翌朝。
西東京アジトのダイニングには、相変わらず騒々しい極東の日常が広がっていた。
「おいオッサン! その肉は俺が目をつけてたんだぞ!」
「ガハハハッ! 油断大敵だぜ剣士の兄ちゃん!」
レオンとガルドが騒ぎ、レヴィが呆れ顔でコーヒーを啜る。
俺はと言えば、昨夜の甘い余韻と少しの寝不足で、テーブルの端でぼんやりとトーストをかじっていた。
「すばる君、おはようございます。お茶のおかわり、いかがですか?」
ふわり、と白檀の香りが鼻をくすぐる。
見上げると、いつもの家庭的なエプロン姿に戻った翠蓮が、完璧な「優しいお姉さん」の微笑みを浮かべて立っていた。
「お、おう……サンキュ、翠蓮」
俺が少しだけドギマギしながらカップを差し出すと、翠蓮は俺にだけ聞こえるような微かな声で囁いた。
「……ふふっ。昨夜のすばる君、とっても可愛らしかったですよ」
「っ……! げほっ、ごほっ!」
俺は思わずむせそうになり、顔を背けて熱いお茶を流し込んだ。
そこへ——カツン、と、静かで、ひどく冷たい足音が近づいてきた。
「……すばる様。お加減でも、悪いのですか?」
現れたのは、漆黒のスーツ姿に刀を佩いた雅だった。
彼女は、俺と翠蓮の間にスッと立ち止まり、その大きく澄んだ瞳で、俺の顔をジッと見つめ下ろしてきた。
「お、おう、雅。なんでもねえよ、茶が熱かっただけだ……」
俺が引きつった笑みを浮かべて誤魔化そうとした、その時。
雅の鼻先が、ピクッと動いた。
「……すばる様」
雅の声のトーンが、氷点下まで一気に下がった。
「なぜ、すばる様のシャツから……翠蓮殿の私室の『白檀の香り』が、これほど色濃く染み付いているのでしょうか」
「えっ」
ダイニングテーブルの空気が、一瞬で凍りついた。
死王や幻王の殺気よりも恐ろしい、絶対零度のプレッシャーが雅の全身から立ち昇る。
彼女の右手が、無意識のうちに腰の刀の柄に添えられていた。チャキッ、と鯉口を切る物騒な音が鳴る。
「い、いや、これは! 朝、廊下ですれ違った時にだな……!」
俺がしどろもどろにイカサマ(言い訳)を並べようとした横で。
「あら雅ちゃん。そんなに怖い顔をしないで」
翠蓮が、全く悪びれる様子もなく、クスクスと艶やかに笑った。
「すばる君は昨夜、私の淹れた『特別なお茶』を、私のお部屋で……とぉっても深く、朝まで味わってくださったんですよ。ねえ、すばる君?」
「す、翠蓮サン!? わざと火に油を……ッ!」
「……翠蓮殿」
雅の瞳から、完全に光が消えた。
「それは、どういう意味でしょうか。……すばる様は、一昨日の夜、この私と……私に、全賭けのコールをしてくださったはずですが」
「あら。ギャンブルのテーブルは、掛け金が重いプレイヤーの勝負を優先するのがルールでしょう?」
武神と侍。極東が誇る二つの美しい凶刃が、俺を挟んでバチバチと不可視の火花を散らしている。
俺という最悪のディーラーは、二人の女に同時に「全賭け」された結果、神々との戦いの前に完全に逃げ場を失い、破産寸前へと追い込まれていた。
「……おい、レオン。なんだあの地獄のテーブルは」
「……見ちゃいけねえよ、オッサン。俺たちのボスが、三枚おろしにされようとしてる瞬間だ」
「……フッ。自業自得だな、愚かなイカサマ師め」
ガルド、レオン、レヴィの三人が、俺を助けるどころか、遠くから呆れたようにコーヒーを啜っている。
神々が息を潜める冷戦の時間。
俺は、神の呪いよりも心臓に悪い、極東の狂った「修羅場の盤面」で、冷や汗を流しながら必死の弁明を続けるハメになるのだった。




