凍てつく盤面(コールド・ゲーム)と、不器用な侍のベット(後編)
「今夜だけは……私個人の想いを、あなたのテーブルに、全賭け(オールイン)しても……よろしいでしょうか」
静まり返った深夜のバーカウンター。
グラスの氷が、カラン、と溶けて微かな音を立てた。
俺の胸の傷跡に添えられた、雅の白く滑らかな手。
剣を振るうためのマメがあるその手は、死線に立つ時でさえ決して揺らいだことなどなかったのに、今は小動物のように小刻みに震えている。
俺は、手にしていた辛口のジンジャーエールのグラスをカウンターにコトリと置き、小さく息を吐いた。未成年の俺が、眠れない夜に酒の代わりに喉を焼くための気休めだ。
「……雅。テメェ、ギャンブルの『ギ』の字も知らねえくせに。いっちょ前にイカサマ師みたいな口説き文句を使いやがって」
「っ……! べ、勉強、したのです……。すばる様の、お好きな言葉かと……」
顔をリンゴのように真っ赤にして、視線を泳がせる雅。
普段の隙のない冷徹な侍の姿からは想像もつかない、あまりにも不器用で、健気なベット(賭け)。
俺は、胸に添えられた彼女の震える手の上に、自分の傷だらけの右手を重ねた。
「……バカ野郎。俺のテーブルは、世界で一番タチが悪いぞ」
俺は、雅を真っ直ぐに見つめ返し、低く掠れた声で告げた。
「俺は、自分の手札を失うのが何よりも怖い、ただの臆病者だ。お前たちが傷つくくらいなら、迷わず自分の寿命をテーブルに投げる。……これからも、俺は一番無茶なイカサマをして、お前をヒヤヒヤさせる。そんな最悪なディーラーに全賭けしたって、大火傷するだけだぜ」
「……構いません」
雅は、俺から視線を逸らさなかった。
その大きな瞳に、真っ直ぐな、武士としての……いや、一人の女としての強烈な覚悟が宿る。
「火傷なら、もうとうにしています。……あなたが初めて私に背中を預けてくれた、あの夜からずっと」
雅の言葉に、俺は思わず小さく吹き出した。
そして、堪えきれずに喉の奥でククッと笑い声を漏らす。
「……ハッ。参ったな。こりゃ、俺の完全な負けだ」
俺は、重ねていた彼女の手をそっと引き、丸椅子に座っていた雅の身体を、俺の膝の間へとスッと引き寄せた。
「あ……っ」
不意に距離がゼロになり、雅が小さく声を漏らす。
彼女のキャミソールワンピースから覗く華奢な肩越しに、甘いシャンプーの香りと、ほんのりとした体温が伝わってくる。
「いいぜ、雅。お前のその全賭け(オールイン)、俺が全部受けて立つ(コールする)」
俺は、空いた左手で彼女の腰を抱き寄せ、もう片方の手で、彼女の美しい黒髪をそっと撫でた。
「……だけどな、ギャンブルってのは、テーブルに乗せたチップは二度と引っ込められねえんだ。俺に全賭けしたからには……これから先、どんな死線が待っていようと、絶対に俺の隣から逃がさねえぞ」
「っ……逃げるわけ、ありません……! 私は、すばる様の……っ、ん……」
雅の強がりな言葉を、俺は少しだけ強引な口づけで塞いだ。
ジンジャーエールの微かな辛味と、雅の甘い吐息が混ざり合う。
最初は驚きに肩をビクッと跳ねさせた雅だったが、すぐに俺の背中に腕を回し、その不器用な指先で、俺のシャツをギュッと強く、縋るように握りしめてきた。
世界が不気味な沈黙を保つ夜。
西東京の地下深くで、俺たちは互いの傷跡と体温を確かめ合うように、深く、長い時間、その熱を共有し続けた。
翌朝。
西東京アジトのダイニングには、再びいつもの暴力的なまでの活気が戻っていた。
「おいコラ! ガルド! 私の目玉焼きを勝手に食うなと言っただろうが!」
「ガハハハッ! 隙を見せる方が悪いんだぜ、セリア嬢ちゃん!」
「朝からうるさいぞテメェら……。翠蓮、コーヒーのおかわり頼む」
騒がしい食卓の端で、俺は大きな欠伸をしながらトーストをかじっていた。
そこへ、「失礼します」と凛とした声が響く。
「すばる様。本日の魔力動態のパトロール報告書が上がっております」
現れたのは、いつもの隙のない漆黒のスーツ姿に身を包み、刀を佩いた雅だった。
背筋をピンと伸ばし、表情は極めてストイックな『極東の侍』のそれ。昨晩、顔を真っ赤にしていた女の子とは別人のようだ。
「おう、ご苦労。……どうだ、外の様子は」
俺が報告書を受け取りながら尋ねると、雅は真面目な顔で頷く。
「はい。盤面に残された——死王ゼインと幻王ですが……彼らの支配領域が、突如として『融合』を開始しました。幻王の生み出す無尽の霧が、死王の呪いの軍勢を完全に覆い隠しています」
その報告に、向かいの席で新聞を読んでいたレヴィの瞳が、スッと氷のように細められた。
「……なるほど。幻覚で『死』の気配を隠し、俺たちから標的を絞らせない腹積もりか。原初の灰燼を恐れ、あえて自らの陣地を混ぜ合わせる『絶対同盟』を結びやがったな」
「死王と幻王の同盟ねぇ。……随分とタチの悪い手札を切りやがる」
俺はコーヒーを啜りながら、鼻で笑った。
死と幻覚。相性としては最悪に厄介な組み合わせだ。
だが、俺は知っている。あいつらがいくらチップを積み上げて同盟を結ぼうが、所詮は『同じテーブルに座っているプレイヤー』に過ぎないということを。
「ハッ。だが勘違いするなよ、お前ら。……あの二柱の王を破産させたところで、このゲームは終わらねえ」
俺の言葉に、レヴィやレオン、ガルドの視線が集まる。
「本当に厄介なのは、俺たちにその席を用意し、暗闇から見下ろして嗤っている『胴元』だ。……深淵に潜む、闇の原初神。あの底知れねえバケモノを引きずり出すために、まずは死王と幻王っていう分厚い壁をブチ抜いてやる」
俺が不敵な笑みを浮かべると、レヴィも「……フッ、違いない」と薄く笑い、雅は「はい」と力強く頷いて踵を返そうとした。
だが、その瞬間。
雅の視線が、ほんの一瞬だけ、誰にも気づかれないように俺の瞳と交差した。
『——昨夜のベット、後悔はしていませんからね』
言葉には出さない。だが、その少しだけ潤んだ瞳と、口元に浮かべたほんの僅かな『秘密の微笑み』が、確かにそう語っていた。
「……ハッ」
俺は思わず口角を吊り上げ、報告書で顔を隠すようにした。
雅の報告が終わり、レヴィやレオンたちがそれぞれの訓練や休息へと散っていった後。
一人ダイニングの席に残って作戦書に目を通していた俺の背後から、ふわりと、上質な百合のような香りが漂ってきた。
「すばる君。コーヒーのおかわり、お持ちしましたよ」
コトリ、と温かいマグカップが置かれる。
振り返ると、美しい青髪をサイドでまとめた武神・翠蓮が、俺の背後から覗き込むように身を屈めていた。
彼女の豊満な胸元が俺の肩に軽く触れ、その大人びた艶やかな瞳が、至近距離で俺を見つめてくる。
「おう、サンキュ。……って、翠蓮?」
少しだけ距離が近すぎる彼女に戸惑う俺の耳元で。
翠蓮は、クスクスと優しく、けれどどこか『凄み』のある微笑みを浮かべて囁いた。
「……雅ちゃん。今朝は随分と、お肌の艶がよろしかったですね」
「えっ、あ、いや、それは……」
「すばる君」
翠蓮の細くしなやかな指先が、俺の包帯の巻かれた首筋をツゥ……と優しくなぞる。
「私、ずっとすばる君たちの帰る場所(食卓)を守るのが役目だと思って、我慢していたんですけれど。……雅ちゃんにばかり抜け駆けされるのは、流石に『姉』として、少し面白くありませんね」
ゾクッ、と。
戦闘時とは全く違う、甘く、そして逃げ場のない大人の色香が、俺の背筋を撫で上げた。
「……今夜は、私のお部屋にいらっしゃいませんか? 私もすばる君のテーブルに……少しだけ『重いチップ』を、賭けさせていただきたくなりました」
極東が誇る、流麗にして最強の武神。
その完璧な奇襲を前に、俺という最悪のイカサマ師は、完全に退路を断たれて冷や汗を流すのだった。




