凍てつく盤面(コールド・ゲーム)と、不器用な侍のベット(前編)
八咫烏のステルス輸送機が、朝焼けの空を切り裂いて極東へと飛んでいく。
鼓膜を揺らす低いエンジン音の中、機内の冷たい床には、死闘を終えた規格外のバケモノたちが泥のように眠っていた。
獣王ガルドは豪快なイビキをかき、剣王レオンは愛剣を抱いたまま壁に背を預けている。セリアと紅刃は互いに寄りかかって寝息を立て、氷王レヴィでさえ、長きにわたる呪縛から解放された安堵からか、静かに目を閉じていた。
「……統。お怪我の具合は、いかがですか」
ただ一人、護衛の任を帯びる侍の矜持として起きていた雅が、隣の座席で夜明けの雲を見下ろしている俺に声をかけた。
「ん、ああ。ウロボロスの再生で表面は塞がったが……左腕の死の呪いを引き剥がした反動が、まだ骨の芯で疼いてやがる」
俺は苦笑いしながら、左手のポケットの奥で赤黒く脈打つ『星のブラックチップ』の熱に触れた。
「……無理もありません。中東の空で、すばる様はご自身の命のチップを、これ以上ないほどテーブルに積み上げましたから」
雅の瞳が、俺の包帯だらけの腕を見て、痛ましげに伏せられる。
『——統、皆さん。帰還の途中に申し訳ありません。至急、共有すべき異常事態です』
不意に、コックピットのスピーカーからイヴの緊迫した声が響いた。
機内の空気がピリッと張り詰め、眠っていたレヴィやレオンたちもスッと目を開ける。
イヴが空中に展開したホログラムの世界地図。そこには、赤く点滅する神殺しの王たちの魔力波形が二つ映し出されていたが——奇妙なことに、その動きが、完全に「凍りついて」いた。
『アーサーの消滅と、【炎の原初神】の崩壊。……この二つの事象を確認した直後、死王と幻王は極東を危険視して動きかけました。ですが現在、彼らは自国の国境線で歩みを止め、完全に沈黙しています』
「……なるほどな」
状況を正確に読み解いたレヴィが、氷のように冷徹な声で鼻で笑う。
「星の初期化装置そのものを、物理的に殴り壊す狂人が現れたんだ。神々にとって、盤面の前提が根本から崩壊したに等しい」
「……ビビって、様子見に切り替えたってことか?」
俺が問うと、レヴィは頷いた。
「ああ。得体の知れない極東のイカサマ師に対して、下手に動けば自分が餌食になる。
「ハッ、チキン野郎ばっかりか! 斬り甲斐がねえな!」
レオンが呆れたように笑い、俺も肩の力を抜いて座席に深く寄りかかった。
「そういうこった。世界が勝手にビビってテーブルから離れてんなら、俺たちは西東京に帰って、堂々と休ませてもらうぜ」
数時間後。西東京市の地下アジトに帰還した俺たちは、最高に凶悪な匂いを放つ分厚いステーキ肉で「極東の食卓」を囲んでいた。
ガルドとレオンが肉を奪い合い、レヴィが「野蛮な連中だ」と呆れながらもセリアのスープをおかわりする。
泥にまみれたイカサマ師の群れに訪れた、嵐の前の静けさとも言うべき、奇妙で温かい休暇。
(……平和、ですね)
雅は、賑やかな食卓の端で、そっと息を吐いた。
だが、彼女の胸の奥には、平和とは真逆の『焦燥感』が渦巻いていた。
彼女の視線の先には、笑いながらグラスを傾ける統がいる。
神を騙し、理をぶっ壊す最強の総帥。しかし、彼の戦い方は常に『己の命の全賭け(オールイン)』だ。中東の空で、彼が全身を黒く腐死させながらレヴィの呪いを吸い上げた光景が、雅の脳裏に焼き付いて離れない。
——いつか、本当にあの人がテーブルから降りてしまう(死んでしまう)日が来るかもしれない。
その恐怖が、雅のストイックな武士の心を、ひどく甘く、そして残酷に揺さぶっていた。
「……このまま、護衛の騎士(手札)の一枚でいるだけで、私は後悔しないのでしょうか」
深夜。食事が終わり、皆が自室へ引き上げた後。
雅は自室の鏡の前に立っていた。
いつもは動きやすい戦闘用の和装やスーツだが、今の彼女が身に纏っているのは、以前セリアに強引に買わされた、少し肩のラインが見える大人びた濃紺のキャミソールワンピース。
(……は、破廉恥すぎます……! こんな格好で、すばる様の前に出るなど……ッ)
顔を真っ赤にして着替えようとした雅だったが、鏡に映る自分の、ほんの少しだけ「女の子らしい」姿に、手が止まる。
——死線は、いつだって突然やってくる。
だったら、世界が凍りついているこの平穏な夜の間に。私の、このどうしようもない想いだけは。
「……勝負、です」
雅はギュッと両の拳を握りしめ、刀を持たずに、覚悟を決めて自室の扉を開けた。
夜も更けた、アジトの地下バーカウンター。
誰もいないはずのそこには、シャツのボタンを開け、包帯だらけの身体でノンアルコールでグラスを静かに傾けている統の姿があった。
「……すばる様」
「ん? おお、雅か。どうした、こんな夜中に……」
振り返った統は、雅の姿を見た瞬間、少しだけ目を見張り、グラスを持つ手を止めた。
「……なんか、いつもと雰囲気違うな。似合ってるぜ、そういう服も」
「っ……!」
統の何気ない、けれど真っ直ぐな言葉に、雅の心臓が早鐘のように跳ねる。
「あ、ありがとうございます……。その、すばる様こそ、お怪我の具合は……休まなくてよろしいのですか?」
雅は真っ赤になった顔を隠すように俯きながら、トテトテと統の隣の丸椅子へと腰掛けた。
「ああ。左腕の骨の芯が、少し疼いてな。こうしていた方が気が紛れるんだ」
統が苦笑いしながら、氷をカラリと鳴らす。
その引き締まった筋肉と、ウロボロスの再生でも消えきらない無数の生々しい傷跡。中東で彼が負った代償。
それを見た瞬間、雅の胸の奥で、押さえ込んでいた感情が決壊した。
「……すばる様は、ずるいです」
「え?」
雅は、統の正面に向き直り、その大きな瞳で、彼を真っ直ぐに見上げた。
「いつも、いつも……私たちには『命をチップにするな』と仰るのに。ご自分は平気で、一番重い命のチップをテーブルに投げるではありませんか」
「……雅」
統が、少し困ったような、優しい目になる。
「私は……怖かったのです。中東の空で、すばる様が死の呪いを吸い上げた時。あの黒いチップを握った時。……もし、あなたが灰になってしまったらと」
雅は、震える手を伸ばし、統の胸の傷跡に、そっと触れた。
冷たい剣士の手ではなく、熱を持った、一人の女の子の手だった。
「……すばる様。私は、あなたの剣です。あなたの手札です。……ですが、今夜だけは」
雅は、統の顔を真っ直ぐに見つめ、極東の総帥が使う『ギャンブルの言葉』を、不器用な彼女なりの精一杯の背伸びで紡いだ。
「今夜だけは……私個人の想いを、あなたのテーブルに、全賭け(オールイン)しても……よろしいでしょうか」
普段の凛とした姿からは想像もつかない、切なく、そして熱っぽい彼女の告白。
静まり返った深夜のバーカウンターに、二人の交差する視線と、激しい心音だけが響いていた。




