あなただけの秘密の王国
ファンタジーが生まれる瞬間を考えている。ファンタジーというより、物語りというべきかもしれない。これはいわば人間が想像力によって創作を志す動機とでも言える、なにかなのだと思う。
今年の夏に放送された、カズオ・イシグロの『文学部白熱教室』を先日視聴した。私はその講義のなかで、非常な興味深いことを聞いた。カズオ・イシグロ自身の創作の動機が「私の日本」を媒体に保存するためだったというのだ。彼はもともと日本の長崎に生まれ、五歳になってからイギリスに行き、そこでさらに三倍以上の年月を過ごした。いつか帰るはずだと考えていたのが、滞在が長引き、両親の言葉や思い出から「日本」というものを想像していたのだと言う。この想像上の「日本」は、カズオ・イシグロの初期の作品に表れているらしい。しかしそれは、事実の上での日本とはまるで違うものだったと言える。しかし、そうではない、つまり事実とは異なっていたとしても、独自の真実味と感情、そして記憶によって構築された世界が、ここにはあった。それこそは作者の心象であり、何よりも勝って書きたいと思い続けていた世界なのだった。
私は、こういう想いにファンタジーの本質が秘められているのだと思う。ここで注意してほしいのは、私の言う「ファンタジー」とは、形式的なジャンルの上でのファンタジーではなくて、読後感としての「ファンタジー」だ。これを説明するのは非常に難しいのであるが、読み終わったときに、どっぷりと浸かっていた異世界から引き剥がされて、現実に戻されてしまうような、愛しくて切ないような、深い悲しみとでも言おうか。その本に描かれた異世界にこそ自分の居場所があるように思えてならず、しかし最後のページを捲り了えたとき、えも言われぬ余韻に浸りながら、上手く現実との折衝点を見つけられず、心が途方に暮れてしまうような、そういう感触を持っているものを私は「ファンタジー」だと呼びたい。この定義に随って言えば、秀れて純度の高い恋愛小説や青春小説もまた「ファンタジー」の亜種だと考えることができるし、そこで描かれたことが現実世界との地つづきであろうと、異世界であろうと関係がない。況してや設定の濃密度や世界観の広大さとは一切が無縁なのだ。ひょっとしたら、壮麗なピアノソナタでもそれを感じることができるかもしれないし、一枚の美しい写真からもそれを感じられるかもしれない。「ここではないどこかへ……」そういう想いが、身体を離れて想像の中で結実するような感動こそが、読後感としての「ファンタジー」なのであろう。
その点で考えると、カズオ・イシグロの「日本」も、またある種の「ファンタジー」なのだと考えることができる。ここで注意してほしいのは、「異世界」としてではなく、「ファンタジー」として捉えることだ。事実とは違うものを作るという点ではどちらもジャンルの上でのファンタジーであるが、そこに深い思い入れの有る無しで、私の述べたい「ファンタジー」とは異なる。むろん、創作の観点から思い入れのない異世界などないのかもしれないが、どうしてもそこから離れがたい、私の中だけでは永遠にこびり付いているヴィジョンとでも言うべきものがあって、私はあえてそちらの方を「ファンタジー」だと呼びたい。すなわち、記憶に焼き付けられた一枚の映像のようなものだ。時間とともにいつか風化してしまうのではないか、と恐れを感じつつも、風化して欲しくない、いつかまた絶対に戻りたいと恋い焦がれるような心の故郷のような、それだ。そしてようやく戻ったときに、相変わらず自分の憧れてやまない世界が待っていて、泪したくなるようなものでもある。
しかし、ひょっとすると、創作の上では誰もが「ファンタジー」を求めているのではないだろうか。どうしても書きたいものがあって、それを書き込むための想いがある。その想いが強く輝けば輝くほど、人を魅了し、強く感動させる。物語りとは常にそうした不思議なものを持っている。ある人間はそれをカタルシスと呼ぶことだろう。唯の事実の羅列やプロットを読んで感動することは少ない。そこに含まれた人間的な決意、葛藤、克服、成長、そして時間と時代の変化……こうしたものに覚える感情などを全て含んで、なぜだか知らないが、伝わってきてしまうようなもの……理屈や常識とは違う、個人の、自分中でしか構築され得ない、私だけの秘密の王国……それが実は「ファンタジー」の喜びの本性なのではないだろうか。
私はバトル物のファンタジーは嫌いではないのだが、深い悲しみを帯びた読後感を得られないという意味で、どうしても何か違和感を覚えずにはいられない。ケチを付けるわけではない。バトルは楽しい。娯楽として恋愛とバトルはどうしても欠かすことができないのであるから。しかし、一方で恋愛は美しく可愛らしい女性(及びその人物からの愛情)を獲得するプロセスのように、またバトルは暴力衝動の想像の上での鬱憤ばらしのようになってしまっている感があって、要するに、唯「楽しい」のだ。悲しみや悩みとでも言うべきものが何から何まで欠如してしまっていて、余韻など特に残さなくても気にしないと言った具合なのだ。こういうと妙なのかもしれないが、私はフィクションの中でしか得られない「傷」を大切にしたい。ハッと胸を突かれるようなものではなく、最後の最後までとことん付き合って、深く心の底に刻み込まれた印象というものを失くしたくないと思っている。そうでなければ、しょせん小説や娯楽などは、快楽中枢を刺激するだけの道具に落ちぶれてしまう。この高度情報社会において、虚構や嘘やデマや娯楽が溢れかえってしまった現代において、私たちは楽しければいいのだと目を背けた結果、味付きのこんにゃくを食べているような物語りの消費をしている。娯楽を堪能することを、さながら満足指数を高めるだけの経済活動のように考えてしまっている。そうではないものを得るための読書であり、「ファンタジー」ではなかっただろうか。私はその点について疑問を提出しよう。そして作家ではなく、読み手の側に、この疑問を投げ掛けたいと思う。あなたの「ファンタジー」、心の奥底に隠された、あなただけの秘密の王国は、なんだったのか、と。