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人間批評  作者: 八雲 辰毘古
2015年
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8/15

『ドラゴンボール』の絵のこと

 フリーザというキャラクターがとても気になったので『ドラゴンボールZ』を観た。驚くべきことに、フリーザが倒されるまでにあまりにも長い話数が掛かっていて(何話どころではない何十話だ)、少年ジャンプのバトル漫画の極致を観た気がした。その一話一話の構成があまりにもゆったりしているので、原作の方で確認してみることにした。まあ、この当時からゼロ年代までのアニメは原作からの付け足しやアレンジも多かったので、予想通りと言っては傲慢かもしれないが、原作の方がシーンがすっきりと、スピーディである。アニメは動きがある分、尺や連載との兼ね合いでいろいろ調節したのであろう。

 ただ、原作を手に取るとさらなる驚きがあった。まえまえから聞かされてはいたが、鳥山明氏の絵がとても巧いのだ。ONE PIECEの尾田栄一郎氏や、ジョジョの奇妙な冒険の荒木飛呂彦氏などが口を揃えて言うほどの絵の上手さである。私個人の率直な感想をいえば、ドラゴンボールのアクションシーンはすべてが、余すところなく「活きている」と思った。絵の一つ一つは紙面をはみ出さんばかりの動きが想い起され、動きが丹念に抽出されている。一コマ一コマは動作の要点を突いており、アニメ以上に動的だ。それはコマひとつずつを「ひとつの絵」として見直すだけで明らかだ。そのうえ、どんなにキャラクターが傷つき、世界が滅び掛けて何もかもが混沌に陥っても、それが鳥山明氏が描いた絵だとわかるのだ。


 荒木飛呂彦氏は、自身の『漫画術』のなかで漫画の絵には「リアル化」と「シンボル化」が必要だと述べていた。前者は描く対象がまちがいなく、しっかりと描かれていることであり、後者はその絵が誰の作品であるかがわかるような、絵そのものに滲み出てくる個性のことを指している。つまり、いくらリアルに描いても誰が描いたのかわからない絵は、少なくとも漫画ではウケない。逆に絵が乱雑で上手くなくても、個性的に、シンボル化が出来ていれば膾炙する漫画となれる。あとは世界観やストーリー、構成などで物を言わせられれば云々。

 漫画は絵で表現する。映画は映像で表現するし、小説は文で表現するのが基本だ。この事実はあまりにも当たり前すぎるために創作を志す人たちのなかでは簡単に見過ごされる。私はこういう表現の基礎を「文体(スタイル)」と呼んでいたりするが、三島由紀夫の『文章読本』にあった次の文章を忘れることができない。


《現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます》

(中公文庫版p44-7,8行目)


 この言葉をそのまま置き換えるならば、現代では「彼の絵が素晴らしい」というより、「彼の漫画が素晴らしい」と言われているということだ。我々はかつての時代よりも漠然とした印象で物事を考え、判断しまっているということだ。

 だがそれは人間の意識、というか記憶の構造が、抽象的に覚える機構を持っているからで、例えば物事を判断するとき、「右から四番目に何々があって……」という具合には人はものを覚えない。思い出してみればわかるが、大概は「楽しかった」「キツかった」「散らかっている」「綺麗だった」などという印象、とくに抽象的な印象で覚えておく傾向になっている。よっぽど楽しくて、反復され、丹念に研究された記憶でなければ、細部など覚えてやしない。

 三島は同作のなかで、かつては言葉は貴重なものだったため、泉鏡花などは新聞の切れ端すら大事に取っていたなどというエピソードを紹介している。言われてみれば活版印刷もさほど普及してなかった時代だ。人間の印象を左右する言葉独特の力を「言霊」と呼んでいたころは、まだまだ言葉や文字というものを特別視していたのかもしれない。しかし、現代は言葉に溢れている。ネット、Twitter、本屋、図書館、学校、テレビのなかにも言葉がある。こと現代日本においては、文字や言葉に触れない一日など存在しないし、試しに意識して言葉や文字を使うまいとしても、もはやムリなのではなかろうか。


 当たり前のことはいとも容易く看過ごされる。かつて言葉に魔力があり、有り難がられた時代に比べ、我々は言葉に溺れるようになった。大概の読者は文章など気にしない。自分が読んでいる言葉からイメージが湧くのを忘れて彼の小説が面白いと言う。漫画も絵が丁寧で巧いかどうかを見過ごして、ストーリーが面白いとか、キャラクターが生き生きしているという具合に評価されるようになった。そして、大変面白いことに言葉や漫画には「慣性の法則」のようなものが働いていて、前後の意味の連関さえあれば、大概のものは読めてしまう。的確な表現というよりはノリのよい、なんとなくわかる言葉で小説は紡がれ、正確な絵というよりは、勢いがあって前後のコマ割りでなんとなく動きがわかるような絵で漫画が描かれる。どちらも文脈から切り取られれば、か弱き、瑣末な破片になってしまう。そういうものを気にせず読んで楽しめるのは、我々の文明文化の進歩と見るべきか、それとも基礎の有り難みを忘れたと見るべきか。

 必ずしもどちらかではないだろう。そして当分のあいだは誰の気にも止まらない。文体や画風にこだわる人間は自己主張の激しい気難しい奴だと思われるし、気にせずに楽しい嬉しい喜ばしいとしていれば浅薄な奴だと嫌味を言われる。どちらが正しいというつもりもないが、やはり思うのは、部分なくして全体の完成は成り立たないし、全体の完成なくして部分の驚きはないということである。どちらも捨ててはならないというのは、我儘で強欲であろうか?


 少なくともそれをやったからこその『ドラゴンボール』なのだと、私は思った。

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