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人間批評  作者: 八雲 辰毘古
2015年
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7/15

批評眼批判その1

 良いものを「良い」と云うのは、意外に容易なことではない。そして、悪いものを「悪い」と云うのは、一見簡単なことのようではあるが、対手にそうと自覚させるのは、前者よりも遥かにむつかしいものだと云っていいだろう。と、云うのは、いわゆる「正論」はいくら筋が通っていても、いや、通っているからこそ、人には痛烈なる心のダメージを与えてしまいかねないからだ。これを個人批判のようにとられたらはなはだしい誤解である。これは、まあ評者の手加減がものを言うんだろう。私だってなるべく拾う積りで頑張るが、どうしてもできないときは容赦無く叩く。それは明文しないくらいの良識はある積りだが、まあそれはいいかな。

 果たして、問題は良いものを「良い」と云うことである。大方、「何を今更そんな愚鈍なことをのたまう」と考えられるかもしれないが、実のところ、これは非常にむつかしいことなのである。好きなものを「好き」と云ったり悪いものを貶めるのは、猿にもできる。なぜなら悪いものを「悪い」と云うには、その根幹をなるべく鋭く突かなければならないわけだし、良いものを「良い」と云うためには、その良さの本質をかっちりと掴んでないとできないからだ。それは個人の感想に留まるものではいけないのであって、ここのところを、「良い」と「好き」を能く区別しなければならない。

 そして、本当に良い作品は、その良さを秘めている。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」と言ったところで、実のところ表にはっきり瞭然と広げて見せているものは少ない。むしろそうするとお説教ぽくなるからだ。トルストイは「優れた作品とは表現が明瞭であると同義であるから、たとえ批評家がバカではなくて作品の説明者であっても必要ないではないか」と書いたらしいが、悲しいかな、読者の方はお説教を好まないし、ホラティウスも『詩論』の中で書いているように、「わたしたち詩人の多くは、正しさのうわべだけを見て、それに欺かれる。努めて簡潔さを求めると、曖昧になる。洗練を狙うと、力強さと気迫が失われる。荘重さを表に掲げると、誇張におちいる。あまりに用心深く嵐を恐れる者は、地面を這うほかない。驚くべき趣向を凝らして一つの題材に変化をつけようと望む者は、森に海豚を、海に猪を配して描く。だが、もし技術を欠いているならば、あやまちを避けようとすることがかえって過失につながることもある」ために良いものが唯「良い」と云うことはむしろ珍しいと云っていい。もちろん、宮崎駿のジブリ映画みたいに、かなり多くの人に受け容れられるような傑作があるにはあるが、その見方そのものは多様にならざるを得ない。『ラピュタ』を観て「冒険もののテンプレだ」と観る人もいるかもしれないし、『ナウシカ』を観て「萌え」を感ずる人もいるかもしれぬ。それらを一概に否定する積りはないし、悪いことだとは思わないが、余り建設的な感想ではないとは思う。それらは派生的な「結果」なのであって最初からそこを目指して書くのは悪趣味めいているように思える。

 批評、或いは他者への紹介文(レビュー)を書くとき、実に多くの人がその良さを直観しているにも拘らず、適切な語彙を欠いているがために、似たような文句を並び立てている事態に気が付く。「〜は〜だから良い」「これは稀に見る傑作だ」「第一級」「素晴らしい」「面白すぎる!」などなど。たまに捻りをいれた積りで「一見何々だが〜実はこれこれが良いのだ」と書く人もいる。もはや構文と化している。私はこれに関して揶揄しているわけではなく、例えばグルメリポーターが、食事をしたときに唯「美味い」としか言われなかったら、実に味気ないだろうなあと考えるから敢えて書いている。別に使うなとも言えない。ちゃんと枝葉がつけばこれらの言葉は代え難いほどの効果を表すからだ。

 しかし、こうした賞賛の言葉には、実は唯貶すよりも悪どい弊害が潜んでいる。それは想像力の欠如である。グルメリポーターが唯「美味い」と云って、あとは食べ物それ自体の映像とリアクション動作だけで表現する(もちろん、言葉だけが上滑りしてもいけないのだが)のだけを観ていても、実のところ、その美味しさの本質がまるっきり伝わらないと云うことがあるように、良い作品の良さを説明するときに、客観的に通ずることを目指して事実の報告のように淡白でありきたりな文句に落ち着いてしまうことがある。そうなると人は書かれた通りにしか読まないので、表現を間違えていると云うことがない限りで、全くその微妙なニュアンスを受け取ることができない。できないとあれば、差別化されないために、こと個性を競う表現世界では致命的になる。

 ここはもはや評者の創意工夫に係わるのであるが、私がここで問いたいのは、「吾々は自分の使っている『言葉』の持つ力を、軽視しすぎているのではないか」と云うことだ。例えば、私はここまでに長々しく言葉を書き連ねてきたわけだが、気ぜわしい人は、「要点だけを述べてくれ」と思うかもしれない。だったら冒頭と太字の辺りだけ読んでくれれば良いのだが、その要点が最初から書けるのであれば、そうとしか書かないだろう。それを無理矢理ひと言に収めようとすることは、人の、言葉に掛けてきた心を蔑ろにする行ないであって、ひいては言葉の暴力である。暴言を吐くことだけが言葉の暴力だけではないのだ。むしろ、一見暴言と取られかねない言葉の奥底に、対手への思いやりが有る場合もあるように、一見褒めているように見えて、ときに誉め殺しであったり、或いはその褒め言葉自体がなんの意味も内容も伴わないと云う危険性があるのだ。芥川龍之介やパスカルの警句のように、或る事物を、短く、かっこよく言い切る力を悪いとは言わないが、余程良い言葉の選択を行なわない限り、それは限りなく言葉の暴力にならざるを得ない。言葉を置き換えるのだけでも、作者の心を踏みにじることすらあり得る。言葉そのものと行為そのものを等価値に置くことは、謂わば美辞麗句だけを並び立ててこじつけがましく己れを正当化するほどに危険なものであるが、なるべく言いたい内容と、意味と、言葉を近づける工夫がないと、批評と云うものはむつかしい。

 しかし、良い作品の、良い部分を発見するプロセスや「観」そのものを表すことができれば、人はそこから想像力を働かすことができる。道のないところを人は通らない。だが、一度良い通り方が分かると、人はそこから楽しみを拡げることができる。仮に批評と云うものに価値があるとするならば、こうした作品や対象の楽しみ方、或いは主観と云うものを展開して、人に道標を記すことではないだろうか。その発見は重箱の隅をつつき、揚げ足を取るようなものではなく、より高尚で建設的なものであれば良いものになるだろう。仮に、『源氏物語』の主人公をロリコンマザコン女ったらしと考えるのは自由なのではあるが、そう書いて紹介するのは作品に対する大いなる侮辱に他ならないのと同じ要領だ。親近感を沸かせるかどうかと云う着眼点も必要ではあるが、本質的に「良い」ものを教えなければならない。面白いと思うところは各人によって異なるのは仕方がないにしても、面白いものに辿り着くプロセスが展開されてないといけないと思う。面白い作品が、唯「面白いよ!」と云うのは、あんまりだろう。確かに本当に凄いものは、言葉にはやすやすと置き換えることはできないが、そこに言葉を「近づける」工夫や心が見えない限りで、何も伝わらない。

 では、最後に書いて置こう。その「良さ」とは何か。最近、考えているのは、作品の本質的な「良さ」とは、真善美に関わっているものだと考えている。何よりもそれが嘘偽りでなく、信じられると云うこと。何よりもそれが無私であり、本当に人のためになるか、建設的なものであること。何よりもそれが究められた美しいものであること。この三つな気がします。これらに到る方法は様々で、例えばダンテの『神曲』のように贋悪醜を経由してから辿り着くこともできる。これについては、よくわからないのが現状だ。しかし、真善美はよくわからない、と云うことさえ分かれば、幾分かましな批評眼を持てるようになると思う。どうしてもそこには情緒や感性をどう養っているかと云うことにも関聯するが、真善美がなければ、いかに技巧に富んでいたとしても、作者と読者が偽善やお為ごかしを好んだとしても、それはつまらないお説教や自己満足になるのではなかろうか。そんな曇った批評眼にならないよう気をつけたいものである。

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