遊戯論
「遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん」
これが書いてあるのは『梁塵秘抄』である。そして、人間の遊戯人としての性質から歴史を再検討したのは、ホイジンガである。
では、遊び場は何処に行ってしまったのだろう? 今日では、遊び場と呼ぶべき場所が喪われてしまった。テーマパークやカラオケ、パチンコ、ゲーセンがあるではないか、と言う人が現れるであろうが、私が言いたい遊び場とは、『ドラえもん』に出てくる空き地のようなもののことである。まだ公園の方が好いけれども、公園よりも何もないところだ。おそらく地方へ行けばまだ野原があるだろうが、豊かになった現代では、野原に出なくても、本を読まなくても、遊びと云うものが成り立ってしまう。まあ、それはそれでいいかも知れない。家でコンピュータゲームをするも良し。読書をするも良し。漫画を読むも良し。妙なことをしても良いし、無論外で様々な機械を弄っても良い。
だが、野原に出て、何か遊ぼうぜ、というのは、もうほとんど無くなったのかも知れない。元手はただ、持ち込み可、何をしても良い、無くしても自己責任、そんな遊び場は、もうないのかも知れない。今者の世の中では、遊ぶということは、目的が先にあって、それを消化する運動のようなものになっている気がする。例えば、カラオケ。例えば、テーマパーク。例えば、パチンコ。どいつもこいつもカネの掛かる遊びばかりだ。資本主義社会は、遊びや趣味に付け込んで商売を始めている。金銭の枷を嵌められた人間は、遊びというものを時間やカネの浪費だと考えるようになる。遊びというものを逃避の一部だと考えるようになる。そんなことはない筈だ。食う寝る遊ぶは子供の仕事としばしば言われるのだから、この三つはすべからく欠かすべからざるものでなければならない。それを、「遊んでばかりはいけません」と教え込むのは、息を吸ってばかりで、吐くことを辞めるように述べるのと同じだ。息苦しい。
食う寝る遊ぶ、の三つは、換言すれば、取り込む、熟成させる、取り出す、の三つの形式に置き換えることができる。これはある意味で人間の自然だ。それを遊びだけを抑制してしまうのはどうしたわけだろうか。もちろん、良き情緒や社会性を養うためには、「〜したい」という我儘な意志をコントロールできるようにならなければならないが、それと遊ぶことは違う。「〜したい」の遊びではなく、なんでも楽しく享受できるための遊びを考える、例えば、「寿限無」を暗唱するように円周率暗記大会でも開いてみたり、たかしくん超人物語(http://ncode.syosetu.com/n1537cd/)で算数してみたりすれば、たぶん子供たちは喜んでその科目を好きになってくれるのではなかろうか。こういうところを選ばないで遊び心を目一杯発揮することこそが、一番好いことなのであるが、しかしそのためには、何もない空間を、自由に彩る遊びをしてみた方が好ましい。私はそれを野原遊びだと述べたが、塗り絵みたいなものかも知れない。林檎を黒く塗ると誰もが違和感があるかも知れないが、黄緑色で塗れば少し真新しく感じるかも知れない。そんなちょっとした工夫の力とか、創意を育むのが遊びの本当のところであると思う。考える作業を最も容易にさせるのは遊びなのである。うんうん悩んだり唸ったりすることでもなければ、無表情に算盤をはじくことではないと思う。なあなあで遊ぶことと、真剣に考えることを厳然と区別しては色々不都合があるのではないだろうか。遊ぶことには娯しみが付き物だが、実際のところは娯しめればなんでも遊びになり、娯楽になるのではないだろうか。そもそも楽しくなければ人はそれをやり込もうとは思わないし、極端に何かやれば、なんでも好きになれることがある。それを、最初から「好き」を目当てにしたり、「やり込み」を前提にしたゲームや商品を観ていると、そっちじゃないだろ、て思わざるを得ない。いわゆるファンやおたくにはもってこいかも知れないが、飽きるんじゃないかな。人はファストフードのみで生きるにあらず。パンも食べれば米も食うし、ラーメンだって食う。それと同じように、遊びにも多様性が生きていたっていいじゃないか。なにはともあれ、本気で遊ばないとそれは空虚なもののように感じられてならない。「遊ぶ」をもっともっと真剣に考え直さないと、どんどん息苦しさは増してゆくと危惧するばかりである。




