速さ重視の世の中
「よいものはカタツムリのように進むのです」と、インド独立の父ガンディーは言った。
寺山修司がどこか(確か『書を捨てよ、街に出よう』だった)で書いていたが、近代化が訪れてからこのかた、吾々は「速さ」と云うものに或る信仰を抱くようになった。それは、「速ければ速いほど良い」と云う考え方である。読者は当たり前に思われるかもしれない。もちろん私だって、インターネットの反応が遅ければ苛立つし、のんびりしすぎたがために食べ物の鮮度が落ちて悲しい思いを噛み締めたこともある。しかし、速くなくても良いという場合もあるのではなかろうか。
そも、この「速さ」と云うものが信仰されるようになったのは、アダム・スミスが「分業」と名付けた、いわゆる役割分担による時間の節約によるものだった。「速さ」とはすなわち「時間の倹約」に他ならないのだ。無駄を省くと云う意味ではこの「速さ」を尊重しても良いかもしれないが、ときにそれは「時間の吝嗇」と云うこともある。「時は金なり」と云うよく知れ渡った諺にかけて、「貯蓄は美徳」とされていた時代では、「速ければ速いほど良い」として、人の脚は駕籠屋に、駕籠屋は馬車や鉄道に、そして鉄道は新幹線に取って代わられた。まるで下剋上である。そんな激しい生存競争の中で貯められていった「時間」は、いつしか出し惜しみさるようになった。つまり、人々は常に何かを手っ取り早く行ない、余った「時間」が欲しくなるのである。しかし、「余った時間」とはつまり「空白の時間」のことである。意志さえあれば好きなように塗り替えられる、といえば聞こえは良いが、時間が余ったからと言って、余程のことがない限り、すぐに何か出来るわけでもない。唯「余った時間」だけが蓄積されるばかりである。無目的で、何をしようにも何もすることもない時間だけがだらりと宙を彷徨っている。
すると今度は人々は空白を怖れるようになる。今まで一所懸命に貯めてきた「時」は、実は金ではなく、真っ白な紙切れ同然だったと云うことが分かってしまったわけである。もはや「貯蓄は美徳」に意味はない。人々は今まで貯めてきた時間を、ひたすら何かの遊びに注ぎ込むようになる。ヒマと云うものを怖れるようになる。ネットという道具を借りて、いつでもどこでもお喋りしたり、ゲームをしたりするようになる。内容はさておかれ、手っ取り早く報われることを目指すようになる。努力の成果も「速ければ速いほど良い」と考えられるようになってしまう。
もちろん、人間の時間には限界があるし、無駄使いをするのが良いとは思わない。努力は早めに報われれば、嬉しいだろう。しかし、物事には常に機というのがあり、拍子というものがある。速い人は速い、遅い人は遅いだけだ。遅いということを悪いと考えてはいけない。物理学的に考えれば、速さとは即ち力に換算されるものであって、その力の強いものを良しとするのは、動物的な差別意識に他ならない。より人間的な考え方とは、速いか遅いか、ではなく、いかに機に合い、拍子を合わせているかどうかが問題なのであり、時間をひたすら溜め込んだり、余らせた時間をやたらに使い込むことではない。読書にも創作にも、ユーモアにも毒舌にも機と拍子が肝要なのだ。冒頭の引用では、良いものはゆっくりであるとしているが、要は、良いものは己れの機と拍子を無視してまで急くことを必要としないからそう書いているのである。それをそうと分からない人ばかりが我先にと急いで、ことを荒立ててしまうわけである。




