評価に縛られた社会
相互評価社会、と私は呼んでいるが、とにかく評判ばかりが先行する世の中だなぁ、と思うときがある。もう少しわかりやすく説明するなら、ステータス社会とでも言おうか。成績、学歴、実績、為人、……これら全ては有力な個人の能力を測っているようでいて、喩えればTRPGのキャラクターシートのような役割しか果たしていない。成績は高ければ高いほど良い、偏差値が上の大学であればあるほど良い、実績は多ければ多いほど良い、人伝ての評判が良ければ良いほどその人は良い人である……といった具合だ。
しかし、ここには「無自覚な完璧主義」が悪く働く危険性もある。例えば、偏差値の低い大学に入ってしまったからお先真っ暗である、実績がないから他人に見てもらえない、といった将来への絶望めいた空想だ。本当はそうではないと頭ではわかっていても、偏差値の高い大学を仰いで、そうでないところをなんとなく軽んじてしまう傾向を、もしかしたら一部諸国だけかもしれないが、有しているのではないか。
大学や社会人だけではない。アイドルも歌い手もネット小説書きも、あるいはTwitterでもそうだ。何気なく発していた暗いひと言だけでもフォロワーが減ったりなんやする。かっこいい、可愛い、シリアスというよりは愉快な、……比較的大勢が求めているような姿を、無意識に要求され、答えられなければ「評価」の名の下で事実上の無視を受けてしまう。SNSが発達した現代において、人気になる仕組みは案外簡単だ。拡散しやすく、高評価を受ける内容であればいい。前者については後日書くが、ことに後者については大きな陥穽がある。
評価=内容と考えてしまうことだ。
TOEICや受験を例に取ろう。ああした試験は、本来人間の能力を点数にして評価するシステムだ。そのため、本来的な意義は、TOEICの場合「実践的な英語力を有するものを高評価する」、受験の場合「この学校に入学するに値するだけの能力を、あらかじめ勉強しているかどうかを診断する」に過ぎない。しかし企業や社会参加の過程でTOEIC何百点以上を採用、などと規定された途端、忽ちにしていかに点数を稼ぐか、という小狡い戦略が横行し始める。システムの弱点を突く、という意味では確かにそうした戦略的な方策は頭が良いな、と思う。しかし、小手先だけの戦略では実力は身につかないし、それはシステムの本質には悖る。実力を持たず、誤魔化しが上手い人が平気な顔をして通るというのも、なんとも嫌な話だと感じてしまう。数だけではなく、質においてもそうで、幸運な評価者に恵まれれば上手くゆくが、心無い評価者のもとではその方面の芽を潰されてしまうことだってあり得る。
もちろん、このような「評価」が、ある一定以上の意味を持ってることは否定しないし、たいへん効果的ではあるだろう。しかし、いつのまにか「それがすべて」みたくなっていることに疑問がある。「評価」というのは一つの物差しみたいなもので、どうしても優劣がついてしまうものだ。となると、ある基準で劣っていると見做されても、別の基準では優れていると見られることだってある。気休め程度だろうが、こうした尺度が多様にならないと、どうしても「こうしなければならない」というテンプレートで縛られてしまいがちだ。おまけに自分ではなく他者に「評価」の決定権があるために、自意識過剰になりかねない。私はそうしたものを、どことなく息苦しいと思うのだ。「評価」ばかりが先行してそのものを、自分で視て感じるということをしなくなるのはどうなのだろう。容易に変わるものではないが、問いを投げかけることには意味があるはずだ。




