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人間批評  作者: 八雲 辰毘古
2026年
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14/15

オデュッセウスとソクラテス──詩人が不在の或る映画について

 プラトンの対話篇の中に『国家』と呼ばれる長篇がある。一般的に政治や統治形態の是非を論じた著作と呼ばれているが、その最後がどのようなエピソードでまとめ上げられているかを知るものは少ない。それは「エルの神話」と呼ばれる一種の冥府行である。兵士エルの臨死体験がもたらした死後の世界の物語である。


 なぜ政体を議論する書物の最後でこのような話題が挙がるのかについて、面白い発問をした人はあまりない。私はこれを松岡正剛の千夜千冊から見つけ、以来ずっと脳裡に引っ掛けながら生きていた。その梗概は、ここで乱暴に要約しておくと、兵士エルが冥府で見たあらゆる人間の魂の行末の見聞録に他ならない。

 この物語のエッセンスは、人々が、歴史上の人物が、神話や伝説の英雄が、冥府の掟に従い籤引きで順番を決め、おのおの順番に則ってみずから来世を選ぶ場面に凝縮されていると私は信じる。あるものは自らの善良の持つ怠慢によって、あるいは前世の渇望によって碌でもない人生を選び、あるいは非業の死を遂げた英雄も人を忌み嫌うがゆえに鷲や鹿や猿となる生を選ぶ──そのような人々の列の、一番最後にあった人物こそは、オデュッセウスであった。


「たまたまオデュッセウスの魂は、みなのなかでいちばん最後の順番が当たり、選ぶがためにすすみ出たが、前(﹅)世(﹅)に(﹅)お(﹅)け(﹅)る(﹅)数(﹅)々(﹅)の(﹅)苦(﹅)労(﹅)が身にしみて、もはや名を求める野心も涸れはてていたので、長いあいだ歩きまわっては、厄介ごとのない一私人の生涯を探し求めた。そしてやっとのことで、そういう生涯が他の者たちからかえりみられずに、片隅に置かれてあったのを発見し、それを見るや、かりに第一番の籤が当たっていたとしても自分は同じようにしただろうと言って、よろこんでそれを選んだ」(岩波文庫版、藤沢令夫の訳より。傍点は引用者が付けた)


 その「前世における数々の苦労」を象徴する歌物語こそは、ホメロスの名の下に記された『オデュッセイア』と言ってしまっては、やや強引に過ぎるであろうか。


 オデュッセウスにまつわる物語は、数ある知識人や物語作者の脳裏をよぎって忘れることのできないひとつのイコンである。それは、もちろんオデュッセウス自身の持つ知謀の豊かさに端緒をなすのであろうが、現今遺された彼にまつわる物語の数々が戦争における知謀そのものよりも、その前後や小さなエピソードに終始していることも面白い。『オデュッセイア』はその代表たるものの一つで、出征はしたものの、そこから帰郷するまでの苦難の方が、結果的に語り残されていることの不思議に驚くべきだ。その言葉は英単語のOdysseyが「波瀾万丈の長期にわたった旅」や「(教訓や知識を学ぶ)体験」の意を示す一般名詞として機能することを思い起こせば、わざわざ傍証の余地はないように思える。私はこれを「ゆきてかえりし物語」という形でよくよく了解しているつもりだ。


 もともと物語は遠方に旅立って、見聞録を持ち帰ることによってその知恵をもたらす形式としてよく機能している。それは別にオデュッセウスでなくても、ヘロドトスやマルコ・ポーロもやったことで特段目新しいことではない。しかしオデュッセウスについて語る『オデュッセイア』が特別だったのは、出征の前半部分では十年間のトロイア戦争の経験があり、そのもう半分では数々の怪物たちとの苦難に満ちた帰郷の旅路があったということである。しかも、故郷における夫婦と親子の挿話、求婚者どもをめぐる知謀と争いがあったことも見落とせない。故郷を離れた年月でいえばマルコポーロの方が長い。だがアガメムノンの悲劇を思えば、オデュッセウスほど帰郷が望まれた人物も珍しい。あまりにも語るべきことが多すぎる壮絶な巨大な経験が、オデュッセウスの名の下に凝縮している。


 ゆえに語り部はその語り口に非常に工夫を要したと思しい。物語は、同じホメロスの手になると知られた『イリアス』よりももっと複雑な時間構成をもって語り始められる。アキレウスの運命を語り、その運命が取り沙汰された端緒に遡って語られる『イリアス』の手口は、言うなれば『平家物語』的な叙事詩の常套手段を踏む。しかし『オデュッセイア』は、真っ先にその運命の在処を中空にとどめ、オデュッセウス自身が仙女カリュプソの岩屋で閉じ込められていることを語らせておきながら、まずは息子テレマコスを主軸に据える。主題の人物は途中から現れ、テレマコスの思惑と無関係に自ら帰郷の道を辿る。オデュッセウスをめぐる怪物譚は彼自身の回想によって中盤初めて語られるのである。


 出来事を途中から始め、複数人の回想によって複合的に組み合わせる技法はホメロスが創始者とは限らない。ソポクレスの『オイディプス王』は全てが事後となった悲劇である。彼らは過去の行いを取り調べ、証言を通じて蘇らせることによってその悲劇を現前させる。私はこの手の専門家ではないので細かく言うとボロが出るのだが、『オデュッセイア』の複雑な物語時空の構成はいまに始まったことではないことだけは確かだろう。その点、映画的時間の懐疑の実践者たるクリストファー・ノーランにとって、ホメロスがあらかじめ用意した時系列の複合状況は、その職人芸のもっとも得意とするものだったのだろうと憶測する分には申し分ないはずだ。


 クリストファー・ノーランの映画は『メメント』から『ダークナイト』、『インセプション』、『インターステラー』、『ダンケルク』、『TENET』と見てきたつもりだが、一部の作品には手を付けていない。特に『オッペンハイマー』はあんまり興味が湧かなかった。一律面白いと思う。心酔し何度も見たことあるし、涙を流したこともある。だが非常に観念的であり、自分が物を書く時には参考にせぬように努めた作家の一人であることも、ここに告白したい。

 私は独学で映像鑑賞をしていくなかで、ノーランを〝映画〟の作家ではないということを直観し、それを信じて今日を生きている。彼は超一流の映像作家である。あまりに優れた映像を撮り、カットを結び合わせる編集能力に長けているせいでその作品が映画であると世界中が錯覚する映像作家だ。そう確信している。


 ある意味で、ノーランが生み出しているものは映画史が映像を映画と錯覚する同時代史でもある。だが、ある嗅覚さえ持っていれば、彼の映像は独特な観念を実現するために構成されていて、ヒース・レジャーのような例外を除いて、その作中に現れた俳優は悉くノーランの作品の一部になっていることを知るだろう。これはノーランの作品の不出来を言うものではない。ただ彼が撮っているものが俳優でも出来事でもなく、ただある角度に基づいた映像以外の何物でもないという意味でのみ、言っている。そう言う意味ではノーランの映画の力はヒッチコック的な強烈な個性によって支えられていると言ってもいいのかもしれない。その映像は、時としてストーリーテリングを上回る。脚本そのものよりも遥かに豊かな表現を持つ。ゆえに人々はノーランを映画監督として認めているのである。


 専門家ではないなりに、思い返しながら書いてみると、ノーランの作風とは映画史における映画的時間への懐疑という言い方ができる。不本意な言い方ではあるがそうと言うより他にいい言葉が見つからない。その仕方は『メメント』や『TENET』に顕著な、10分おきに遡ったり、物語の折り返し地点で逆行する時間として表象される。私はノーランのことをよく知らない。だから憶測で書くしかないのだが、彼は映画を時間芸術の一種と信じた上で、その時間を撹乱することによって《時間》という観念が持つ複雑な経験を映像化できると確信した作家だろう。

 つまらないことを言っているかもしれないが、この確信によって作品を作り上げた映像作家はノーランしかいないことは、映画史を顧みれば明らかだ。ゴダールでさえノーランのように時間を解体していない。ゴダールが解体したのは映画そのものであり、その中を流れる時間ではないのだ。その意味で、クリストファー・ノーランは唯一無二の作家なのである。だが、なぜそのようなことを彼がみずからの芸術的命題としたのかについては私も答えを見ることができない。このことをよく見ることができなければ、ノーランという作家の真髄を批評することはかなわないのではないだろうか。


 私はこの点、逃げる。あくまで私が論を進めたいのは『オデュッセイア』についてである。だが叙事詩の持つ時間を、映画の時間に置換する時、それもノーランが独自に感得している懐疑の眼を通した時間によって再構成される時、そこで起こる何かについて私は思いを馳せずにはいられなかった。そのことについて、書く。


 ノーランは映画的時間の懐疑者だと私は書いた。これには幾ばくか注釈が付く。ここでいう映画的時間とは役者がそのフレームの中で演技をする時間のことである、という但し書きだ。映画のカットは年々細かくなっている。黒澤明の映画は一カットが平均的に5秒から10秒近くある。現代の映画における一カットは平均2秒だ。瞬きをする速度でカットが変わることもある。目まぐるしい。このカットの短さを実現した早い例は『007 ロシアより愛をこめて』らしい。私はそれをホイチョイ的映画生活から知った。ノーランの映画はその意味で現代映画の標準的な短いカットの連打によって成り立つ。

 と同時に、ノーランのカットは、特にその状況が緊迫すればするほど複雑なカットバック構成によって成り立つ。残念ながら、ノーランの映像はアクションシーンを撮るのが上手くないと思っている。状況がひたすら混乱していることをまざまざと見せられるからだ。『オデュッセイア』の求婚者の群れと相争うクライマックスを見よ。誰がアクションの主体なのかわからない。マッド・デイモン演じるオデュッセウスが手を振り上げて下すまでの間に、どれだけカメラが揺れて、誰がどのようにして打ち倒されたのかがわからぬ。テレマコスに至っては何をしたのか、どちらが優位で劣勢かを追うことが非常に難しい。この混乱した〝見せ場〟のシークエンスは、ノーランに限った話ではなく、近年のどの洋画を見てもそうなので、私は諦めているが、このようにカットの中に主語と述語のコンテキストを撹乱する──そのことによって臨場感を生む手法を私は好まない。倒置法と体言止めを連打することが美と自負する文体で書かれた前衛小説を読まされている心地がする。その意味で映画の基礎文法を壊しているとさえ言えるのが、ノーランの映画的方法だと仮定してみよう。実際それは、『オデュッセイア』の全編にわたってそれなりに展開する。特に海の荒波に揉まれる場面と、求婚者共との争いの場面において顕著になる。《臨場感》というキーワードでこの二つの共通項を抽出しよう。われわれは混乱した状況を、ノーランが意図した混乱するカットの連打によって、体験する。


 ホメロスの語り口を、ひろく芸術の歴史の一部に加えるならば、歌物語を含んだ古今東西の芸術とは経験を整理し反芻に耐える形式に仕上げる手仕事である、と言ってもいいはずだ。特にホメロスの時代の英雄譚には、現代でいうところの〝史実〟や〝ファクト〟などという概念とは無縁の世界が生きている。しかしそこにホメロスの空想は存在しない。少なくとも現代の市民が、その余暇を駆使して行う創作趣味におけるような空想の介在する余地はない。何かの余興で言い聞かせて耳で楽しむものがなかったとは言わないし、われわれが〝ファクト〟と言うような事実からは離れた事象を語る内容はあるかもしれない。それでもそれは人々がみずからの生きている世界を知るための一個の事実であった。そう考えなければ、『オデュッセイア』は古典たり得なかった──このことを考える人間は年々減ってきている。つまりホメロスだけではない、無数の語り部が推敲して伝えてきた物語は、その語られ方、時系列の進め方とともに、ある生きた事実を伝えるのである。それは、ある意味では極端な事実である。平均的でも一般的でも法則的でもないが、普遍的な事実なのだ。


 ここでいう普遍性、という言葉は、もう少し限定して用いると人間的な事実、と言っても良い。つまり人がその生理のメカニズムにおいて、余裕を持って見て、整然と聞き届けられる分量のリズムと質感を持った事実だ。ノーランの映像は、もし私の憶測が許されるのであれば、その人間的な事実を寸断したカットによって生まれる。それはノーランの映画が非人間的であるということを意味しない。が、非人間的な事実のカット、非生理的な時間の切り口によって生まれる表現が織りなす不思議な幻惑──勇気を持って言えば、ストーリーの生成と言える──は、明らかにホメロスの語り口とは異なる。そのことによってわれわれは、私が《臨場感》と言う言葉で約束した現前と遭遇する。



       ※



 ホメロスの『オデュッセイア』では、語り手が二重になる箇所がある。オデュッセウスが自身の帰郷への旅路を、サイクロプスや食蓮人、セイレーン、スキュラや魔女キルケの遭遇に見舞われながらも生き延びた道のりだ。出来事は生存者の口によって語られる。オデュッセウスは自身の知恵と忍耐力とによって生き延びた当事者だ。その点、「エルの神話」における兵士エルも同様に生き延びた者である。生存者であり当事者なのだ。しかし、それらの物語を総括して語るものは、一方ではホメロスであり、他方ではソクラテスである。ソクラテスの場合はより事態が複雑で、彼の言葉をまとめているのは弟子のプラトンであることも注意したい。このように物語は伝聞推定の形式を取り続ける──その形式を受け継ぐことが、〝語り継ぐ〟ことに他ならないからだ。


 ところが、映画というシステムはこの物語の仕掛けを壊すところがある。なぜなら映像とは見ることを肩代わりする装置によって、構成されるからだ。それは詩人が言葉と、画家が視ることと、音楽家が聴くこととおのおの格闘するようなことと根本的には同じなのだが、その独自の要素はどうしてもある。

 映像作家の場合は、画家が見ることよりももっと複雑な映像的な視覚、見ることの裡に流れる時間と闘わなければならない──映像記録という無邪気で客観的な描写という物は、少なくとも映画を作る人間にとっては幻想に過ぎない。ノーランほどの作り手にもなればそのことは重々承知されていると見ていい。だとしたら、その中で《臨場感》を出すためにどのような工夫を凝らすかが、現代映画における一つのテーマとなって久しいことも、言うを俟たない。


 誰がどのようにしてどの技法を始めたかを決めるのは専門家に任せる。私が言いたいのは、クリストファー・ノーランは、早い段階で、カメラの持ってる客観性を、当事者の目線という主観に被せる二重の演出法を自身選択したことである。例えば『メメント』という作品は、10分間しか記憶が持たない男の主観を追うようにして展開した。ところが視聴者はノーランの編集によって、10分ずつ進んでは遡行する語りに付き合わされる。原因があって結果がある──その脚本の論理の倒置法を見せつけられる。このことで、先に見た「後の出来事」が、どのような「事前の行動」の影響下にあることのトリックを目の当たりにするのだ。それは映像のワンショットが持つ客観性が、続くシークエンスの中で時間的に再構成される手品と言ってもいい。一方『ダンケルク』ではそれは陸軍一兵卒の1週間、海軍の1日、空軍の1時間を一つの2時間弱の映画の形式へ納めることによって、「戦場体験」という全体的な主観アングルを作り上げた。映画は広い意味でいえば編集的事実であるが、ノーランの場合、客観性の装置がなぜか主観や当事者意識を代替しようとしてしまう映像の魔力を、恐ろしいほど熟知している。そのように見える。


 われわれは誰しも当事者として「見た」ということを平然と口にする。例えば盗難事件が起きた。道ゆく老婆の持ち物が若者によって盗られた──この一連の事件を、正しく描写するような視力を持った人間がどこにいるのだろうか。警察は事件の目撃者から無数の証言を拾い集める。あわよくば防犯カメラの映像も取る。人々の証言は必ずしも一致しない。これは、人々が事件を見ようと思って見てないからだ。事件が起こると知っていて見るわけでもないからだ。では防犯カメラはどうか。防犯カメラもまた、事件を予知して撮っているわけではない。ということは、適切な画角で事実が納まっていないことを意味する。画質の粗も加わり、警察は求める情報を得るとは限らない。事実の特定とはこのように難しい。「神の視点」──そのようなものを仮定しない限りは。

 ノーランの作品における映像の、非人間的な事実というのはこのような物だと思われたい。われわれは、注意深く並べられた考古学の成果物を眺めるように、非人間的事実のカットの数珠繋ぎによって、起こってからその事象を理解するという混乱した知覚に放り込まれる。だから、ノーランの作品には基本的に、人物を紹介するという脚本的に意図して構成されたシーンがない。それは『オデュッセイア』においても同様だ。冒頭から、視聴者は「見る」ことの注意を暗示される。「顔(フェイス)……」巧妙に配置されたセリフによって、視聴者は暗示を掛けられる。ある事件の目撃者であることを強いられる。しかしそれはいつ、どのようによって与えられるかわからない。予言を与えられた古代ギリシャの英雄のように、その事実がいつ、どのように現れるのかを緊張して見る。だから、ペネロペイアが、テレマコスが、オデュッセウスが誰なのかということを、余裕を持って見ることを許してもらえない。ただ出来事が、出来事以前のさまざまな事実が衝突し合う混乱の中にあることを、まざまざ見るよりその作品を知ることができない。それは神話的事実ではない。映画的事実でもない。映像的事実なのである。



       ※



 オデュッセウスは、おそらくギリシャ神話の一連の群の中で最も思慮深く知恵に長けた人物として知られる。その知恵の深さは、しかしソクラテスが『弁明』の中で告げたソクラテスの知恵とは異なるタイプの知恵だった。オデュッセウスの知恵は、いわば欺く知恵である。一ツ目の巨人キュプロクスと対峙する時、名乗れと言われて「誰もおらぬ(ウーティス)」と答える知恵、魔女の手料理を食べない知恵、部下の耳だけを塞いで安全にセイレーンの歌を聴く知恵、全員が死ぬ道を突破するように見せかけてスキュラの巣穴に飛び込む知恵だ。あまつさえ飢えを堪えて神の羊に手を出さぬように言い含めつつ、ついには部下を救ってやれなかった知恵である。この知恵には欺きと忍耐という二つの独特な性質が伴う。意図したところ、生存という目的を果たす為に何か自然な物を捻じ曲げ、目的が達成されるまで耐え忍ぶという意志の強さが要されるのだ。

 一方、ソクラテスの知恵とはデルフォイの預言が告げた「汝自身を知れ」という言葉に要約されるものである。これは、言うなれば欺きを解く知恵である。だがそれはデカルト流の懐疑ではない。懐疑ではあるが、それはもっと人間が自分自身に用いた欺きを解く為にある。


 これはひょっとするとプラトンの創意が混じっているかもしれないが、『パイドロス』という対話篇ではソクラテスは神話的事実──つまり、ミュトスが語る出来事をほんとうにあった事実だと信じているかと訊かれる場面がある。これに対して対話篇のソクラテスはこう答える。


「いやたしかに、もしぼくが賢い人たちがしているように、そんな伝説は信じないと言えば、当節の風潮に合うことになるだろうね。(中略)しかしパイドロス、ぼくの考えを言うと、こういった説明の仕方(引用者註:神話の中身を何らかの隠喩や言い換え表現──本文中ではボレアスがオレイテュイアを攫って行った説話を、ボレアスが風の名前で、オレイテュイアを突き落として殺したことを潤色したものであるという見立てとして捉えること)は、たしかに面白いにはちがいないだろうけれど、ただよほど才智にたけて労をいとわぬ人でなければやれないことだし、それにこんなことをする人は、あまり仕合わせでもないと思うよ」(岩波文庫版、藤沢令夫の訳より)


 ソクラテスの知恵はあくまで自分自身にのみ向けられる。「だからこそぼくは、そうしたことにかかずらうことをきっぱり止め、それについては一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄にではなく、ぼく自身に対して考察を向けるのだ、──はたして自分は、テュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢狂暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと穏和で単純な生き物であって、いくらかでも神に似たところのある、テュポンとは反対の性質を生れつき分け与えられているのか、とね」──ここにおけるソクラテスの知恵はなんとも明快だ。ところでオデュッセウスは神話の物語の中の人である。しかしオデュッセウスは、今風に言うならメタ・フィクションのように、神話の中にあって神話の外に出ることを許されたかのような知恵を持っている。少なくともその運命を知り、欺くことを目論む知恵を有している。


 クリストファー・ノーランの映画の中では、オデュッセウスはトロイア戦争の立役者、トロイの木馬の発案者にして実行者であり、トロイア陥落の目撃者にして当事者、そして何より戦場の現実から生還した生存者としての性質を重ねられている。映像のシークエンスは巧みに編集され、オデュッセウス自身も謎めいた人物──少なくとも本心を語らせないようしてある。

 これは、例えばカリュプソが生存者を慈しむような眼差しとはまるで異なる。ある語りの中でのオデュッセウスは知略に長けた英雄であり、別の語りの中では武勇に秀でた王である。それはテレマコスを通じて知らされるひとつの像である。しかし一方で、カリュプソのもとで蓮を貪るオデュッセウスと、戦場から帰らんと行動するオデュッセウス、そして女神アテナと会話するオデュッセウスはみなそれぞれ異なる側面を持つことを気付くものは少ない。それを気づくにはあまりに映画は複雑な時間で構成され過ぎている。


 しかし『メメント』を作った人間が、オデュッセウスを単一の属性に染めると言うことはあり得ない。証言と、回想や、神との会話における複数のシークエンスは、みな一人物の持つ複数のエレメントではなく、複数化した人間的事実の寸断と見た方が良いように思う。

 特に、私はオデュッセウスをPTSDの帰還兵として見る見立ての誘惑には屈しない。仮にそうだったとしても、オデュッセウスはその人間的な自然を欺くことによって帰還をなしえた人物であるということを見逃してはならない。彼は、映画の中では自身の悲しみを乗り越えた後に、乞食に身をやつし、家族すら欺く。用意周到に物事を進め、段取りを決め、妻に言い寄る求婚者共を駆逐する英雄的な行いに及ぶ。あの振る舞いがPTSDの帰還兵になせる技と思うのは、きっと『ランボー』の見過ぎだろう。


 だが、同時にノーランは、この物語を忠実に、そして映画の尺に納まるように再構成しながら《よほど才智にたけて労をいとわぬ人》の仮面をかぶることを厭わなかった。それこそは欺きと忍耐のなせる知恵である。彼はそれまで撮ってきた全ての映画作品のノウハウを総動員するごとく、『オデュッセイア』という物語の中に戦争と人間の業を注ぎ込んだ。それは誰が見ても見誤らぬほどハッキリとその刻印を刻み込んでいる。しかしそれは神話という人間的事実を映像の詐術によって寸断し、欺く知恵に他ならない。その試みは《よほど才智にたけて労をいとわぬ人》にしか叶わない。

 ところで、オデュッセウスは神話の中にいたから神話を解釈することができないのであって、もし彼がソクラテスと同時代人であれば、神話の解釈に暇を弄したであろうか?


 私は、そうではないと考える。



      ※



 プラトンの『国家』は、政体を論じた書物であることを、私は冒頭に書いた。しかしその書物の導入部は決して政治の話をしていない。一人の人間が老いに差しかかり、人生の良し悪しを振り返ると言う境地に立ったことを独白する、その言葉に議論が始められる。やはりプラトンの著作のこの部分に着目して物事を見るものは今日非常に少なくなっている。彼らは生きているうちはなんとはなしに生きていても、老いてきて、いよいよ死期が迫ってくると、冥府の裁きが──人の一生を量刑する裁判官の目が恐ろしくて仕方がないということを話題にする。その人間的感情が、議論の端緒なのだ。

 そこから初めて《正義》と言うテーマが論じられる。なぜならその人がより良い生を生きたと言うことは、一人の人間にあっても、公共の人物としても「良いこと」をしたと分かるように振る舞わねばならないからだ。議論はいくつかの方向を向くが、やがて《正義》を議論する為には国家を論じなければならなくなった。もっと言えば、政治の仕組みが、「何を正しい行いか」を評決するあり方について考えなければならなかった。だからプラトンの『国家』は、ある種の理想国家論として編まれたものではない。人一人が立派に生きることを真剣に考えると、どうにも集団的に正義を決定する統治の機構を論じなければならなかったという議論の議事録のように、私には思える。そこではあたかもあらゆる政治形態が退けられ、《哲人王》という理想的人物によって統治された政体を論じているかのように、人によっては見えるだろう。


 だが、その理想的な国家すらも幻想でしかないということを、少なくともプラトンは『国家』の対話篇の最後で暗示するように記録を残している。「エルの神話」は、最も善良な政治形態によって運営された国家の住民が、来世を選ぶ時に思慮分別に欠けていることを描いた。さながら神の羊を目の前にして、それを食ってはならぬと言われたオデュッセウスの部下たちのように、彼らは知恵者のもとにありながら、ただ従うことによって生きながらえてきたことを、その瞬間に晒してしまう。習慣によって与えられた善良──それは《ゼウスの掟》の名のもとに形骸的に与えられた良識だったのだろうか? 少なくとも、オデュッセウス以外の冥府の魂は、自ら選んだ来世への選択を忘れることによって次の生を受く。そしてオデュッセウスの部下たちも、飢えの衝動に耐え切れず神の羊を食って滅びる。生き残るのも、「厄介ごとのない一私人の生涯」を賢慮によって選ぶのもオデュッセウスただひとりだった。それは、知略に長けただけではなく、苦難の果てに思慮することを身につけたひとりの英雄の姿に他ならない。


 オデュッセウスは、良識の場にありながら、その良識を欺くことによって数々の苦難を乗り越えてきた。ところが、それは前(﹅)世(﹅)に(﹅)お(﹅)け(﹅)る(﹅)数(﹅)々(﹅)の(﹅)苦(﹅)労(﹅)だったということを人は容易く見落とす。「厄介ごとのない一私人の生涯」を来世に選択する為さんざん探し求める忍耐力を持った魂の持ち主であることを、われわれは簡単に見過ごしてしまう。われわれは一方では欺く知恵を持った英雄の物語を、詩人の口によって感受し、もう一方では自問する知恵を持って毒杯を仰いだ賢者の対話を、哲学者の筆によって感受する。その二つを突き合わせてどちらが事実かを問うのは愚問である。私はどちらも真実だと信じよう。そのことによって、私は何ら進歩しない。だが、お陰で忘れの河の水を、渇きによって呑むのを免れることになるだろう。プラトンが示した〝理想国家〟とは、忘れの河の水を、周囲の民に飲ませ続けるための国家であるということを、知らずにいるよりは遥かに良いと信ずるがゆえに。


 プラトンはその理想国家において詩人を追放したが、現代のわれわれは詩を「ポエム」と呼ぶことでその価値を堕落せしめた。

 ならば、われわれはむしろプラトンの負の理想国家の中に生きているとみた方がよいのではないか? われわれはノーランの映画にオデュッセウスの人間的な叙事詩を見る。《臨場感》溢れる映像的事実の芸術を見る。しかし作中で暗示されている歌人は決して画面には登壇しない。勝手に歌わせておけばよい──マッド・デイモンに受肉したノーランはそう言った。それはある種の物語(ミュトス)批判である。映画は『オデュッセイア』という叙事詩からその語り部たる詩人を追放した。ホメロスだけが不在の叙事詩とは一体なんなのか。それは詩を映像にするにあたって、詩人の情熱を排除した映像作家の情熱だったのではないのか。あるのはただ、映像によって語られた映画史の理想国である。


「このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば、それはまた、われわれを救うことになるだろう」


 なるほどオデュッセウスは生きて帰った。だが映画の視聴者は生きて帰れたのだろうか。私にはそのことばかりが疑問である。

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