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人間批評  作者: 八雲 辰毘古
2026年
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鏡史郎の怒り──古本屋で「謎の大量注文」といニュースを見て

 井上靖の小説に『夜の声』という、あまり知られていない長編小説がある。万葉集を個人的に研究する或る老人千沼鏡史郎を主人公とした話で、冒頭その生活の在り方を訥々と叙述していくのであるが、ある大学から慶長本という万葉集の稀覯本を求められた挿話がある。その道の教授の要請であるから譲り渡すのもやむなしかと思った矢先、代理人たる若き助教授がむやみに手に取り「一体、いくらで譲ってくれますか」と切り出した。これに鏡史郎は激怒してお帰りいただいたというものだ。


 少し長いが、その時のセリフが印象的であるのでここに引く。


「柳沢先生からもお手紙を頂戴してあったので、これはお譲りしなければなるまいと、あなたのお顔を見るまではそう考えていました。しかし、いまは考えを改めました。お譲りするわけには行かない。この書物が今日ここまで生き延びて来たのは、代々の所蔵者たちのこの書物に対するなみなみならぬ尊敬の愛情のためである。恐らくどの所蔵者も、虫に食わせまい、火災にも遇わせまい、雨漏りのしみもつけないようにと、この書物のために、いろいろと気を使って来たのである。この書物は京都の素封家にあったものであるが、所蔵者が他界したあと、所蔵品を売り立てるということを聞いて、私が出掛けて行って譲ってもらったものです。その家でも他の骨董品は売立てに出すが、これを出す気はないということだった。ところが私が余りに熱心だったので、それではということで、詰りあなたのような人に持って戴ければ、亡くなった所蔵者も満足だろうということで、買入れた時の値段そのままで譲ってくれたものです。私はこの書物を入手するために三回も京都へ行っています。本というものは、このようにして譲られ、このようにして手に入れるものです。一体いくらで譲るかと言われても、それでは困る。こうしたものには値段はない。人の心から心へと譲られるものです」


 正直この引用が全てを語り尽くしていると思うのだが、話を続ける。


 タイトルにもあるように、都内の古本屋でWEBサイトから謎の大量の注文があったというニュースを見た。次は記事からの抜粋である。


《古書店や業界団体への取材によると、大手のオンライン販売サイトに出品している古書店で注文が増えているという。関係者によると複数アカウントでそれぞれの店舗に対して注文があり、古本の送り先はいずれも岡山県にある物流センターだという共通点があった。

 注文が増えている書籍のジャンルについて、東京都内の古書店は「脈絡がない」と語り、哲学、歴史、医学、法律のほか、例えば「江戸時代の生活・文化」「30年前の政界の話」に関する本が売れたという。「普通は小説やコミックが売れるが、専門書がこんなに一気に売れたことはない」と不思議そうに話した》(Yahoo!ニュースより)


 記事は、近年のAI企業アンソロピックやAmazonが、古今東西の書籍を裁断してスキャンし、廃棄する実態にも触れて、古本屋の大量注文との関連性を示唆している。恐らく事実だろうとは思うが、記事はあくまで推測にとどまる。だからと言ってAI企業やAmazonの仕業でないと言い切れないところにこの記事の本質がある。


 本記事に対する議論は諸々ある。まずは素朴な嫌悪感、冒頭の鏡史郎のごとき激怒の声である。一方で「しょせん読みもしない、買いもできない書物であれば公共の技術の糧にした方が良いのではないか」という声もあり、どちらとも言えない曖昧な無常感に苛まれる声だってある。私自身はAIそのものには懐疑的な人間であるが、AIが世間に認知せしめた影響力は馬鹿にならないとも思うのであって、単に反対して終わりになるほどコトが簡単ではないように感じているばかりだ。


 私は通販を便利に使わせてもらっている人間であるし、正直、冒頭の鏡史郎ほどには本への礼儀というものを持てていない。家には積み本ばかりで、どれがこうというほどの知的節度というものはこれから学ぶより仕方のない人間だという感覚がある。だからAmazonやアンソロピックを一方的にやっつける論法に乗っかることができない。『ラストマイル』というサスペンス映画は非常に筋立ては面白かったけれども、その結末部分にいまふたつ乗れなかったのは、例えばAmazonを使わないで佐川急便や楽天ブックスさえ用いていれば良心的なのかという問いを自問して見て、素直に頷けなかったからだ。この感覚に怒り狂う人がいたとすればわたしには理解に苦しむ。どちらも鏡史郎のような知的礼節というものには程遠い態度ではないのか。


 この問題系には大きく三つほど論点がある。第一はAIという、言語を情報処理する仕組みを有り難がるが余り書物を破壊して良いのかという問題がある。第二は書物を売買する商売において金銭的に食っていかれないと背に腹はかえられぬということである。そして第三の問題は、ではわれわれ自身は書物に対して怒り狂うほどの知的礼節というものを取れているのかという自問の形式であるだろう。


 まず第一の論点である、AIを優位に置くことで書物を裁断して廃棄して良いのかということについては、実はAIに限った話ではない。電子書籍と言うものが出回った時、Amazonが Kindleという装置のために古書や稀覯本を裁断しスキャンし廃棄した時にも同じ議論があった。どちらも書物に対する愛が強い人ほど生理的な嫌悪感があった。今に始まったことではないから今度も大丈夫だろうというほど容易なことではない。本当の問題は、書物という物自体である。Kindleはサービスを停止したら全てがデータとして消えるかもしれないが、書物は単なるデータには留まらないものがある。

 最近Vimeoという動画を保存して配信するサービスが2026年11月20日にプラットフォームごと完全終了するというニュースを見た。YouTubeやニコニコ動画などの動画プラットフォームとは異なる、一種の保管庫として動画記録を残していた強かな配信者もこれには苦労しているらしい。いま書物を最もよく読む界隈ですら動画というものを無視できないでいる。三宅香帆やゲンロンを見ればよくわかることである。ゲンロンの場合、シラスという独自のプラットフォームを設立したがこれは賢明だったろうと思う。ところが時代はYouTube、TikTokがメインストリームと化している。だれもが仕方なしに動画というものを頼らざるを得ない。


 動画という媒体が出回って、例えば顔とか声とかそういうものを伴ったものに親しみを感じる情報環境は非常によく整って来た。だが一方でこの動画というものは、Kindleだってそうなのだが非常に維持運営に労力を要することはあまり知られていない。YouTubeとて日々何十万何千万というユーザーが世界的にアクセスするのであって、その通信を賄うだけの電力や情報処理負荷に耐えるだけの監視や技術的なサポートというものが必要になる。実際、億単位のフォロワーを持つ人間がLive配信をするだけでサービスなど停止してしまいそうなのであるが、これが案外なんとか済んでいるのは技術的努力の賜物と言わざるを得ないだろう。


 ところが、書物というものはそうしたメディアに比してどれだけ維持費がかからないかということも同時に驚く。コスト面の話をしたいわけではないが、結果的に動画サービスやKindle、AIなどが一回機能するたびに発生する裏側のコストと比べればあまりにも少ないことは驚くべきだ。もちろん書物も図書館というサイズになれば話は別だが、それでも単品の書物の持つ「物」という特性には、うっかり削除したら霧散する動画よりもはるかに心強いものがある。


 しかし現代はこの「物」という特性に対して著しい軽蔑がある。断捨離という言葉を見よ。遺品整理という難題を見よ。それらの問題は二十世紀にもあった話だが、二十一世紀になっていよいよ社会問題と化してきたような時代の変化を感じる。かつては著作家の蔵書は一個の公共の文庫となることがあった。練馬区石神井にある五味康祐のアーカイブはその好例である。だが現代ではそのような寄贈はかえって迷惑となる諸事情もある。場所がない。維持費がかかる。そういうことになっている。同人誌を書いて物販をやっている人間からすれば、よくわかると思うが在庫というものもある。作り過ぎたが故に売れずに残る。それ自体がコストであるという考えだ。結局金が無ければ始まらないと、言わんばかりである。


 そこで第二の論点たる、売れるんだったら背に腹はかえられぬということになる。この問題は井上靖の小説にもほの見えることがある。「一体、いくらで譲ってくれますか」というその言葉によく代表されている。金で満足するならいくらでもやるよと言うかのようで、当時の大学にはお金があったのかどうかはさておき、興味深い言い草だと私は感じる。この小説に出てくる人間は、古書に対して〝普通の古本でもめくるように〟素手で触る(皮脂を付けるというのが問題)という愚挙をした。それであの言い草なのだから鏡史郎の怒りを買ったわけであるが、この〝売り言葉〟は自分でついぞ知らずに言葉を売ったということになる。


 現代は貨幣の時代である。そう書くとそんなに目新しいことに思えないかも知れないが、貨幣がここまで観念的に人間の心を占めている時代もまた珍しいと思った方が良いと私は感じる。というのも、お金がないとご飯が食べれないということのリアリティがなによりも増してあるということだ。少なくともひと世代変われば「田舎に帰って畑仕事をする」というような選択肢があった時代といまとでは違う。そう書くと19世紀だってそうだったろうし云々という歴史学者の抗議が入って来そうだが、いくつか遡ると貨幣がそこまで大事でなかった時代があるのを、少なくともわれわれは知っているはずだ。


 貨幣についての哲学をしたところで仕方はないが、貨幣というものを考えると、少なくともこいつとこいつはある一定の数量で交換してもいいという社会の約束がある、ということはわかるだろう。ひとむかし前は120円でコカコーラの500mlのペットボトルが買えた。いまは同じ分量を160円から180円相当で買うことになる。こういうある具体的な数と抽象的な数が相関する社会の約束というものが物価であり、この交換の単位となるものが貨幣──つまり金である。こいつがあまりにも便利になりすぎる時代に生きているということは、金さえあればなんでも買えるような約束を持った社会に生きているということで、そのなんでもというのは本当に〝なんでも〟なのである。Amazonを見ると、書物やグッズだけではなく、家具や電化製品や食べ物まで売っている。指定の料金を支払えば、専用の業者が持ってきてさえくれると言う。この「運んでくれる」というところまで、お金で買っているはずではないか。


 すると、古書をお金で買うと、大事にせず、素手で触って裁断し、廃棄する自由も買っているという自負だって得られるだろう。われわれはそれを〝所有権〟という言葉で正当化する。だが同時に、その用途があまりにぞんざいだと生理的なまでの嫌悪を催すのも冒頭挙げたとおりである。だがこれは、何か知識や情報を金で手に入れるというプロセスをたどるとなんらかの形でついて回る呪いのようなものである。現代は、あまりに無料で何かを見ているものだから、「真実価値のあるものには相応の対価を払え」という道徳が横行するがこれ自体ある種の倒錯なのを知る人は少ない。〝身銭を切る〟という言葉で正当化しようと思えばできるがこれだってある種の言葉のアヤというものである。そもそも「身銭を切る」とは公共の費用を自らの財布から費用として負担することの謂である。世間が共同で負担するべきコストを自ら引き受けるということである。フリーで作品を情報化して発信することの、どこに公共の費用があるのか。サーバー代でも負担しているのだろうか。


 そんなことはいい。われわれがあくまで考えるべきことは、金が無ければ生きていかれない現代社会と、金を払ってくれるんだったら仕方ないという二律背反である。そのことが、大企業に書物を持っていかれて裁断され廃棄されることのやりきれなさと関係があるということだ。古本屋は古本を売るのが商売で、現代の商売がインターネットを用いた通販として全世界に開かれている以上、このようなことは論理的帰結として至極矛盾のないものだ。だが、それでも何か嫌なものを感じるというところにわれわれが本来書物とそれが伝え残してきた知のあり方の問題があるはずなのだ。


 さて最後の三番目の論点であるが、これが一番問題である。大問題だと言っていい。つまりわれわれ自身が、例えば鏡史郎のように書物と向き合えているのかという問いである。当たり前だが、大多数の人間にはそのような態度は存在しない。井上靖がその小説を書いていた当時であってもそのように接していた人物は少なかったのである。それは文士か否かを問わない。誰かが書いたものを大事にする文化に生きていたのであれば、今日のような情報社会などはあり得なかった。そのことをまず知らねばならない。


 かつてプラトンが残した対話篇の中で、言葉に対する文字の発明が、人間の記憶力を弱めて知を衰えさせると論じたものがある。われわれはそれを『パイドロス』という名前の書物を通じて読むことができるが、作中でソクラテスが嘆いたような知の衰えというのは、あったとしてもわれわれは気づくことがない。むしろわれわれは記憶力というものを軽んずるようになった。暗記よりも想像力、想像力よりもクリエイティビティを大事にするようになった。だが注意深く創作に取り組んでいる人間には、想像力のためには一定の記憶力が要ることなど了解済みである。自分が何かを思いつくことと、自分が過去経験してきたことから何かを引き出す知的な運動とは本質的に同じ脳機能であるからだ。そのために用いるものが、話し言葉なのか書き言葉なのかということについて、区別を問うことにそこまで重要な定義はないと私は思う。


 だが、話し言葉と書き言葉には、少なくとも同じ言葉と言っても微妙な性質の違いがある。文語体にどことなく硬さや格調というものを感じるのは、話し言葉とは違うリズムによって書き言葉が生きていることを仄めかしている。われわれはインターネットとブログによってたくさんの書き言葉を浴びることになったが、そのことによってかえってそれまで書物に記された書き言葉の品を壊すことに面白みを感じる感性を身につけたと言ってもいい。今更旧仮名遣いや古めかしい文体で書いたところで無駄である。われわれは話し言葉風に書かれた文字しか、読めない心の惰性を身につけたのだ。


 情報化社会とは、あらゆるものが情報化した社会のことである。これは言葉遊びでもなんでもない。ここでは誰かの「見たこと」が、自分で「見ること」と相似関係を持ち、誰かの「聞いたこと」が、自分で「聞くこと」の代わりを成しているのに、それを気づかずに済む仕掛けのもとに成り立っている。例えば或る動画を撮るとする。カメラはその写す人物の外見を撮り、その人物の話す声を音声として記録する。機材の良し悪しは多少はあるが、直に会って話すことと同じような感覚でわれわれはその人の顔を見て、その人の声を聞くだろう。だが、実態は、カメラが撮った映像と記録され再生された音声を聴いているに過ぎない。その再現があまりに高度だから、それ自体と取り替えてしまっても差し支えないという風に生きている。これは貨幣が物と交換して同じ価値を持つことを約束することに似ている。それが情報処理技術、通信技術によって約束された、そういうことが情報化社会だと言っている。

 このような情報化社会において、例えば小説を読むことはテキストを読むことだということで納得させられている。青空文庫などを見れば瞭然だが、古今東西の古典は〝テキスト〟として、インターネットに繋げばいつでも閲覧できる──そういう約束を守ろうとして奮闘する社会が、情報化社会の本質である。われわれはテキストを、〝読解〟という言語の知的操作を通じてその内容を了解し、その意味を汲む。ところでこの読み方は、昔からそうだったのか? 私にはその自信は持てない。


 鏡史郎の言葉に戻ってみると、慶長本という万葉集の写本には、慶長年間から今日まで続く時間の堆積というものがある。それはそんじょそこらの古書よりも、古いというただそれだけのことによって価値がある。価値と言っては烏滸がましい。ただ死蔵してるわけでもないからだ。お金で替えようのないものなのだ。われわれがコストとして認識してしまうあらゆる維持保存の努力を、それぞれの所有者が必死にやってきたこの歴史が書物それ自体に宿っている。それを知っているからこその畏敬があるはずだ。この畏敬をおいそれと無視してはならない。鏡史郎はこれを三顧の礼によって得た。だが、それは得たというのでは足りないものがある。彼は「人の心から心に譲られる」と言った。鏡史郎が三顧の礼で示したのはその心であって、物自体に宿った価値ではない。その書物を大事に扱い、引き受けるという心を行動によって示した、その経緯を、単に現代風に「物語があるから価値があるんだ」とさかしらに言ってしまってはバチが当たるというものであろう。


 かつて一つの書物に向き合うことが学問だった時代がある。ある地域ではそれは聖書やクルアーンに向き合うことが一個の学問だったのであり、ある地域では論語や仏典に向き合うことが一個の学問だった時代がある。いく千年も読んでいて内容に異同がある書物というものを、少なくともわれわれはインターネットの流行り物の中から見つけることは難しい。少なくとも、われわれは創作物には一個の意味があり、一個の内容があり、それが正しく伝達するかということにやけに執心している。これは、実は情報通信処理技術に関わる人間の技術的関心と相似していることに気づくものは少ない。ましてや、あるテキストや画像、動画から〝内容〟というものを引き出し、その〝真意〟とか〝隠された意図〟だとかを知ろうとする知的態度が極めて現代人の現代的な慣習であるということに気づくものはもっと少ない。作者の意図を踏み躙った解釈だから許せないだとか、発信者の示そうとした意図とは異なった感想だから無意味だというような倫理観を、われわれは当たり前のように受け止めているが、では論語や聖書の作者の意図とはなんなのだろう。その真意なるものはなんなのだろう。それがわからないから数々の教派が生まれ、訓詁学や神学が生まれたのだと言うのはその通りだが、それにしては死人が出過ぎていやしないだろうか。聖書についての歴史は、ひょっとしたら解釈をめぐる争いで生まれた死人たちの歴史であると言ってもいいくらいだ。


 一個の書物は、書かれた言葉は、書かれた時点で語り手の心から離れて何か別のことを表現する物となる。死物と言っていい。少なくとも話し言葉によって当事者間で交わされた心のやりとりは、原理的には存在しない。もしわれわれが書かれた言葉からその書き手の心が伝わると思うのであれば、それはわれわれが言葉の中に心を感じるからだ。われわれ自身が心を用いてそれに接する努力をしているからだ。その努力がある限り書き言葉は何かを語りかけようとしてくれている。もちろん書物を記す前の人間にも心があるわけだが、その心にはもう出会えないかもしれないのである。それを補うには、平たく言えば想像力が要る。心が要る。三顧の礼に等しい情熱と礼節が要る。単に空想するとか、いい案を思いつくというような素振りでは駄目だ。そのような態度では、単に古典を素材に教訓をでっちあげたということに過ぎないではないか。読書系YouTuberや人文系知識人の過半数がこの罠──温故知新と言いながら、その実「知新」ということしかしていない事態を見る目があれば、それは明らかなのである。


 多くの人々は、鏡史郎のようには一個の書物に接していない。私もそれを反省するところであるが、しかし一方で現今有り難がられている書物は、もはや本の形をしているとは限らないのだ。本の形をしているから偉いとか、偉くないとか、そういう話をしたいわけではない。だが、本の形をしたまま残されてきた物のことを思うばかりだ。温故知新の温故を、形から入ると言えば情けない話だが、祖先から受け継いだ物自体を、本質や要点だけ受け継いであとは無視してよいとわれわれが平気で言うことそれ自体が情報化の特質だということは言い過ぎてもいい足りないくらいなのだ。われわれはあらゆる物を情報として読む癖がついている。だからテキストの読解にまつわる知的能力を、情報処理能力の相似として扱う心の習慣を持っていることを忘れてはならない。


 最後にAIについて、ひいてはLLMについて思うことを書く。数学についての厳密なところを了解しているわけではないが、私はLLMの仕組みはよく出来ていると思う。あまりに出来すぎていて、ひょっとすると人間は言葉をこのように扱っていたかもしれないと錯覚するほどである。だが、これは時計というものが時間を計測することとよく似ている。われわれは円を周回する針の動きに時間の経過を察知し、デジタル時計の数字の変化に時間の残量というものを気にするようになった。知性というものもその本質は時間と同じで目には見えない。だが、いったんそれが目に物見せてもらったとたんにそれが知性そのものであるかのような感覚になる。人工知能という言葉はその点非常に魔法のような響きを持っている。人の手で作られた知能──その振る舞いを見ることで、すでに知能の良し悪しを判断するかのような形質を得ているではないか。実態としては無数の0と1を、目にも止まらぬ速度で計算し、一つのモデルを駆け巡った結果の出力を眺めている当たり前の事実をすっかり見落としてしまうわけだ。しかし、一方でこれは単なるよく出来たモデルだということも何度となく思い出していいはずだ。われわれは古代社会の巫覡や骨占いによって社会の指針を定めた国政の仕方を、心のうちでどこか軽蔑しているが、あの社会において非常によく出来たモデルだったということを平気で失念する。


 いまAI企業がせっせと書物を生贄に捧げる儀式をしているのは、現代が持つひとつの迷信の、極端な表れかもしれないのだ。それは反AIだとか、反知性主義だとかを口にしたところで始まらない。むしろAIの、その背後にある巨大な知的体系と同じ地点に自ら立脚して生きていることを思い出すべきである。いま私が打っているスマートフォンも、広く言えば情報化社会の産物の、その恩恵に過ぎまい。であれば、われわれが書物の文化の荒廃を嘆くその舞台が、情報化社会の真っ只中で情報化の装置によってなされることの皮肉を思えば、われわれは人のことを論難するに難しいのである。


「本というものは、このようにして譲られ、このようにして手に入れるものです。一体いくらで譲るかと言われても、それでは困る。こうしたものには値段はない。人の心から心へと譲られるものです」


 さて、われわれは自ら心ありとすることができるだろうか。これは非常に難しい問題である。

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