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人間批評  作者: 八雲 辰毘古
2026年
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13/15

「批評は偉そう」とか言う世迷言

 十年ぶりにこの話を再開します。まさかよりによってこんな不届なエッセイを再開せねばならんのかと思うと恥を知る心もあるのですが、急になんとなく思うにつけ考えることも増してきましたので、創作というのでは無しに書かせていただこうかという次第です。


 この話を書き始めた当初、わたしは〝批評家〟であることは良いことだと思って随筆をしたためておりました。ただその後、人との出会いがいくばくかわたしの考え方を変えたのも確かです。「あなたは創作者なの? それとも批評家なの?」という質問には身をえぐられる思いがありました。その言葉の奥には「お前さん口先ばっかりで結局自分の名前を冠した創作物を持っていないじゃないか」という冷たい問いかけがあったわけですからね。結果的にわたしはまず創作者でありたいと思い、いくつかの小説を書きました。そのうちいくつかは高評価をいただきましたが、長篇・大連載を描くにはぜんぜんダメでした。社会人になってからなんども書き直してはいるものの納得のいく形にはならず、かなり創作の道を迷ったものです。いまもまだその渦中にありますが、ある気づきがあって、以前よりもためらいというものが減ったのでした。


 その気づきについて語る前に、そのきっかけになった出来事として、本当に最近あった話なのですが、某所で書かれた『批評はなぜ「偉そう」なのか』という副題の記事が公開され、たいへんガッカリしたというのがあります。


 経緯は説明しないと伝わらないのですが、ここにそのすべての経緯を書くわけには参りません。ただ明らかなことだけを述べると、記事が書かれたということ、そしてその記事の内容が字数に反してあまりに空疎に感じたということの二点のみです。これだけならしょせんは感想ということに過ぎない。よろしい。わたしはこの感想をもとに話を進める。そう言う勇気を改めて得たということが、ことのきっかけです。


 記事を書かれた方は、一方では自らを謙遜し自らの無知があれば論破してくださいとの物言いを或る相手に向かって投げかけていますが、これは論破するとかしないとかの類いのものではない。記事の書き手の主張と、その姿勢は明らかです。自らの思い込みで語るなかれ。事実を検索し、エビデンスに基づいた正しい推論によって作品の評価をなすべきである。そういう次第ですが、これこそが批評という振る舞いとは無縁のものだという基本的な事が見えていない。だから「偉そう」という言葉になる。記事には「権威主義」とか「制度化」というような言葉を使ってはいますが、あまり意味がない。「偉そう」であることの言い換え表現に過ぎません。


 では実際に偉そうかといえば、いまご覧になっている文章はきっと「偉そう」なのです。なぜか。それはこの文章が他でもないわたしの価値観に基づいて語られるからです。そこに独断と偏見がないわけがない。そして、わたしはそこにエビデンスを示すつもりもない。あくまでわたし自身で語るつもりです。そうなると、何もかもが掛け違ってしまう。そこに論破などというものが発生しようがないのです。


 現今、特に創作を趣味とする界隈にはある通念があります。それは「眼高手低」という言葉で暗示される、「批評眼は優れてるけど何も生産していない」ということへの蔑みです。この意味は由来となった「眼高」や「手低」という語彙を持つ文章の用例と適合します。つまり、良い悪いをよく言うが実作者としてはダメだな、というような人間はいつの世にもいたわけでしょう。

 ただ、わたしはその言葉の陰に隠れた現代の暗黙の了解、というものにも目を向けたい。それは、「目が高い奴」は〝いけすかない〟ということと、「手が低い奴」は〝見ていられない〟ということです。当たり前なことを言うなと思われるかもしれませんが、この二つはもともと別物です。実作者としてダメな人間も山ほどいるし、目が高くてあれやこれやと良し悪しを口さがなく言い立てる人間も山ほどいます。統計学など用いずともああそうだと思うようなものがあります。こういう人間を嫌な奴だと思うのは難しくはないが、なぜ嫌だと思うのか。そういう自省のある文章にはわたしは巡り会えたことがありません。わたしはこの無条件に結びつく部分に、現代人の暗黙の了解を察知します。


 真面目に考えてみれば「目が高い」ことは悪いことではない。物事の良し悪しが見えることの何が問題なのだろうか。よく魚屋でイキのいい魚を見当てて「お目が高い」と言われるのは褒め言葉のはずだ。そして、物事の判別力のある人間を「目利き」と言う。もちろん「目が高い」フリをする、そういう見栄や虚勢はある。あるにはあるが、なぜそうなるかといえば元は「目が高い」ことが〝良い〟と見られる属性にあるからにほかなりません。

 では、「手が低い」とは見ていられないことなのか。たぶん見ていられません。自分が「上手」と思い込んでいる下手はなお見ていられない。だが、たんに謙遜した「手の低さ」は慎重に接して見ることはできる。ここまで論じれば「眼高手低」とは「目が高くて下手な奴」であり、それが〝いけすかない〟ということに変わりはないと納得されもしましょうが、ここではたと立ち止まります。眼高だけならまだ悪いとは言い切れない。問題なのは眼高なだけで下手であること、つまり眼高によって自らを〝上手〟と己惚れているのが気に入らないのではなかろうか、と。


 ここにもうひとつ反問があります。では、「眼低(﹅)手高(﹅)」なるものがあったとしたら──それは理論を持たない実作者ということになる。この存在は無条件に現代では肯定されるのではないか、と。おそらくこれは肯定されます。現代はつべこべ言わずに物を生み出す人物を一等高く評価する傾向にありますね。では論理式ではないが、「眼高手高(﹅)」というものがあるとしましょう。それはしぶしぶ認めざるを得ないでしょう。あなたほどの人が言うなら……という気持ちで聞くことになる。そういう人が誰なのかは意見が分かれるでしょうが、そう仮定することはできる。そして「眼低(﹅)手低」なら見向きもしない。あまりにありふれているからです。

 だとすると、目の高い低いは関係なくて、実際には上手か下手かを問われている。現代ではここに〝生産性〟という言葉が味方に付きます。おしゃべりばっかしてないで仕事しな──という声も聞こえてきそうです。悪口としての〝暇人〟もここに加わります。目利きを自負し、それでいながらやってみろと言われて出来ない。これでは格好が付かないということで、次第に「批評家」という言葉には悪い印象を貼るための魔力が備わる。もちろん現代「眼高手低」の名を貼って批判される人物の中には非生産的な人物がいます。誰かどうかは詳しく言うつもりはありませんが、「そういう言い争いに躍起になるくらいならもっと違うことに手を使う方が良いのに」と思うような残念なことをしてしまう方はいる。ただ、これもまたひとつの〝批評〟です。この批評・価値判断の裏にはやはり〈生産性〉という魔物がいます。


 生産性という言葉は翻訳的に生まれた概念です。あんまり遡るとなんなので英語に留めますが、それはproductivityという綴りで示すことができる。productやproduceという言葉に縁のあるもので、「何かを生み出している」という意味を司る用語です。もちろん経済学やその他諸々の専門用語としてはより厳密に定義された言葉ですけれども、すべての人間が定義された通りに言葉を使ってるわけではないですから、大雑把に「何かしらを生み出している」ということでいったんの筋は通る。少なくともこの意味で言葉を借りるなら、「批評は非生産的である」という暗黙の了解があるのだと言えるわけです。


 われわれが暗黙に結びつけている言葉のつながりを辿っていけば、批評とは「目が高い」ということである。それは確かに「何かを生み出している」わけではない。何かを生み出すには「手を動かし」ていなければならない。そして手を動かせば自ずと上手いか下手かがわかる。出来上がったものの良し悪しを見れば、わかる。よろしい。では結果を出そう。成果を見せろ──と、そう言うことはできますね。

 しかしここで奇妙なことが起こります。出来上がった物を見る目はどこにあるのか? 誰がその良し悪しを判断するのか? もしかするとそれこそが「批評家」の役割だと言うかもしれない。そうかもしれない。しかし「批評家」なるものが非生産的だと蔑みながら、一方では出てきた物の良し悪しが判断できずに「批評家」に任せるより他はない、というような心理がある。そういう意地悪で物事を見ることができる、と言った方が穏当かもしれませんが、結局批評というものがなければ、ただ手をバタつかせた運動しかないということになる。そこには良し悪しはない。意味もない。無際限な生成処理があるだけだ。生産ということを考えると、受け手が良いと感じた/悪いと感じた──そういう物を、結局無視することはできない。でないと上手も下手もわかりっこないのですから。


 これはいったいどういうことなのでしょうか? しかし結論を急がないようにしましょう。われわれはいつしか固有の「批評家」というものを必要としなくなりました。例えばある映画が発表された。あるアニメが放映された。ある作家の新刊が出た。それらを買おうか見ようかと思い悩む時、個々の「批評家」を探すことは滅多にしない。われわれが探しているのは「レビュワー」であり、欲張って「評論家」ではないか。評論家という言葉でさえ、現代では「批評家」との区別が付かなくなっています。むしろ必要とされているのは「考察屋」であり、暗黙のうちには〝鑑定士〟を求めているとさえ言えます。

 一般的な意味合いでいう〝批評〟というのは、良し悪しの判断に関わる言葉です。つまり、その作品が良いのか悪いのかということは前もって知りたい。これは作品の鑑賞や読解に金銭がまとわりついていることと裏表の関係にあるようには思うのですが、それはいまは傍に置きます。要するに、その作品は良いのか悪いのか。言われなくても分かる物はいい。それは好き嫌いの話だ。だが、それを超えて世間が騒ぎ立てるようなら無視しないわけにはいくまい。それで見に行く、読み始めるという心理をわれわれは有している。最終的な判断は自分で決めたいからその事前情報をくれというのが、たぶんその本当のところである。そう考える。


 である時、初めて「批評家」は邪魔になる。個々の「批評」的な結果──つまり「良い」と思う声、「悪い」と思う声を見漁り、データとして認識しているからだ。われわれの判断は決して数量的ではない。仮に「批評」の判断が二値的な物であったとしても、例えば「良い」という声が観測した全体の八割以上であるからその作品を見るというような判決を下してはいない。ただ、漠然と数量的に見て、印象的に決を取る。「賛否両論だが賛が多そうだ」とか、「否が多いからかえって面白そうだ」というふうにおのおの判断している。もちろん実際には個々人の中で揺れ動く個別の心理がある。その仔細には立ち入らない。


 この「立ち入らない」という判断は、実は「批評家」の批評家たる所以を排除する。批評家の個性はこの個々人の中で揺れ動く個別の心理に対する開かれのなかにこそあるからだ。逆にいえばこの個別の心理を開くつもりがない〝批評〟というものは、まことに身勝手なものでしかない。それは「批評家」という属性が持つ、みなが一律に思うような〝いけすかない〟イメージと一致する。「俺は良くないと思ったね。だってさあ……」──そういう「俺が」「俺が」というような、まるで作品をダシにして己語りを始めるかのようないただけない感じです。「批評」の中で嫌われているものは〈己語り〉だ。お前のことなんかどうでもいい、作品のことを教えろ。そういう話も何度繰り返されたことでしょう。


 つまり、ここにもうひとつ批評が「偉そう」であることのもうひとつの隠されたテーマがある。〈客観性〉です。正確に言えば、「批評」という行為の中にある〈客観性〉の欠如です。むしろ主観性の膨張と言ってもいい。批評と呼ばれる著作物の中には著者の持つ個性の価値判断があらかじめ内包されているが、読んでいる人間としては価値判断の主導権は自分が握っていたいという欲がある。わたしはあえてこれを〝欲〟と言います。そして、判断の主導権を書き手に取られたまま気ままに進む文章に、あるタイプの読者は耐えられない。「この人は何が言いたいんだろう」「なんで分かりやすく言ってくれないんだろう」「要するにこういうことじゃないの?」いろんな憶測を噛ませながらその読者は批評というテキストを読む。その想像は悉く蹴散らされ、うっかりすれば好きな作品や信念にまつわることを根拠なく言葉でめちゃくちゃに罵倒される。だから批評は「偉そう」なのだ。逆にいえば、批評はそれ自身が非常に個性的で主観的であればあるほど、「偉そう」に見える。独自の価値判断によっていろんな物事を裁くのだから、「偉そう」じゃないわけがない。その〝偉そうさ〟というものを自覚しない批評家なるものは、なるほど覚えめでたいものではありませんが批評家──それこそ文芸批評の歴史に名が残るような人物は、その「独自の価値判断」にこそその人の偉大さがあり、仕事の実績があるということが見落とされてしまっている。わたしはそう思う。


 つまり、批評の持つ「偉そう」な観念の反対側に位置するものをゆっくり炙り出していくと、そこには「生産的」で「客観的」な議論がある。したがって〈生産性〉と〈客観性〉を持たない言説には意味がない、という無自覚な批評的判断を、「批評は『偉そう』」という感想の中ですでに下しているということになる。これはわたしは先の文章の展開で、われわれが求めているものは実は〝鑑定士〟であり、「考察屋」であるという直観と符合します。いうなれば、作品に対価を支払う価値があるか否かを事前に知らせてくれるものと、鑑賞という経験を言語化し豊かにしてくれるであろうもの、です。あえてわたしは丁寧に書きましたが、乱暴に言えば作品の〝生産的〟で〝客観的〟な評価分析を「批評家」という言葉に希望しているわけであります。

 では「批評家」は、その「作品に対価を支払う価値があるか否かを事前に知らせ」、「鑑賞という経験を言語化し豊かにして」くれているのだろうか? そうではないから嫌われるし、「偉そう」だと思われているのではないですか? ある「批評家」がある作品に対してこう言う。「見た。俺にはちょうど良かった」──これだけでも批評です。良し悪しを言っている。でもそこには一般的な意味での〈生産性〉も〈客観性〉もない。


 ですがここに謎が生まれます。では、「生産的」で「客観的」な批評なるものは何か。正確には、どのように書けば「生産的」で「客観的」な批評として認知しうるのか。


 われわれが暗黙の了解の上に用いている用語に置き換えて話をしてみます。つまり「批評家」という言葉を用いているが、実際に求めているのは〝鑑定士〟と「考察屋」であるということです。両者は役割は違いますが、共通しているのは〝誰にでも分かる〟部分を指し示し、これによって根拠づけていくというロジック・プレゼンテーションをなしている。「この壺のこの部分をご覧なさい、人為的に手が加えられた箇所があるでしょう」という口調と、「この漫画のこのコマの隅に描かれたこの部分を見てください」という口調は、論理の立て方としては同じ仕方だということはご理解いただけないでしょうか。

 ところで個々の表現・著作物について〝鑑定〟するというのは奇妙なことだ。「この作品にはこれこれこういう客観的価値があります」というようなことをどのように保証できるというのでしょう。例えば一個の小説作品について。何をいうか、文章の出来不出来、人物や出来事の尤もらしさ、完成度の高さ、シナリオの構成力や伏線回収、節々におけるファンサービスの多さなど、観点などいくらでもあるではないか。そう言われればそうかもしれません。「批評家」とは作品の中にありながら、多数の人間が見落としている事実を拾い上げ隠された意図や価値を暴くものである──そういう命題も立ち現れるかもしれません。少なくとも〝鑑定士〟としての役割を期待されている場合、その命題は成り立つ。これを支持すると「批評家」というのは大多数の持つ判断力の弱さを代行する専門職ということになる。これは「偉そう」ではないのか。


 おそらくある一点さえ注意すれば、この〝鑑定士〟としての批評には「偉そう」なものは付き纏わない。それはエビデンスと呼ばれるものだとわたしは考える。エビデンスがあり、それに基づく(飛躍の少ない)推論が続けば、それは〈客観性〉を保った結論を導き出す。例えばある文学作品において頻出する特定の単語について。その言葉が頻出していることをまず明証してからその言葉が著者にとって重要な意味付けが行われていることがわかる。では……と続く。その出発点は、別の人間がその本を手に取れば、同じページの同じ行をたどれば必ず見つけられる。そういうものでなくてはならない。そして著者の導き出した結論が、ある文学作品の文中に〝書かれた〟ことと矛盾さえしなければその結論は受け入れることができる、と。


 一見なにを当たり前のことを、と思われた方もいるかもしれませんがこの確認の仕方は、思っているよりは煩瑣な手続きを踏んでいるということを見落としてはなりません。いま書かれたようなことを当然と思う、それはよろしい。では自分自身が振り返ってみて、何かを「あ、いいな」と思ったとき、同じ手続きを自分でしているかどうかを確かめてみましょう。それは個々人の心の裡で起こることなので、客観的な事実、物的証拠として現れるものではありません。


 したがって人が何かを「あ、いいな」と思った時、そのいいなと思ったきっかけとなった物を遡って見つけるという作業が必要だ。例えばある詩的な表現に心惹かれる。そのフレーズを読んだ途端に心が開かれるような爽快感を味わう。まず直観するのは〝爽快感〟の方であって、それを起こしたきっかけになった言葉の羅列に目が向くのは後だ。そのフレーズを何度も反芻し心惹かれる想いが確かであればそれは確信になるだろう。しかし何度も見返すうちに、ああ気のせいだったと思えばその程度です。

 この例で言うと、何が自分にとっては重要な言葉が目の前をよぎって、心に強い反応を起こしたことだけは確かだ。しかしその反応は再現するのかということがまず心の裡で問われ、実験される。その検証を繰り返し、間違いがないことがわかるとその根拠を外に広げる。どうやら著者は小説の中でさりげないフレーズを、繰り返し意味深に用いているらしいという仮説を立て、また検証する……この試みの果てにどうやら著者はある観念を作品の中に込めたのではないかというような発見をする。これが、まあどちらかというと「考察屋」の思考の手順ではないかという気がする。


 ただし、「あ、いいな」と思うのはここで字数を費やしたよりは遥かに早い心の動きだということを、われわれは忘れている。感動とは非論理的な精神の運動である。それを論理的に再構成し、検証して「客観的」なものにするうちに、われわれは感動の或る性質を語りうるかもしれないが、それがかつて遭遇したものの似姿であることをわれわれは気付こうとしない。

 われわれがこの活動に求めているのは〈再現性〉である。批評的判断の〈再現性〉とは、〈客観性〉のうちに含まれた、誤解の少ない形式的なエビデンスと、それに基づく理屈の〈整合性〉を問うている。そしてその〈整合性〉にしたがってエビデンスから出発すれば再度その結論が見出されるという〈検証可能性〉や〈共有可能性〉がなければ批評は著作物にならない。ところでこれは科学的事実を扱う手つきになんと似ていることだろうか! ここに「人文〝科学〟」という一分野の奇妙な呼び名の真髄があるわけです。


 われわれが「客観的」だと思っているその批評というものがあった時、それが半ば無自覚に科学的なプロセスをたどることは偶然でしょうか。意識的に選択している場合もありますが、そうではない、というのがわたしの考えです。つまりわれわれは「事実」という時、暗黙の了解として科学的事実のことを言っている。言葉遊びがしたいのではない。科学が事実を特定するような手つきで、主観を排し観察によって、特定の条件を満たせば何度でも再現する、法則性をともなった事実というものを確かな物だとする約束を無意識のうちにしている。こうした「客観的」な批評──価値判断の仕方が、なぜそうであると同時に「生産的」であるという観念と結びついているか。わたしはあえて問いたい。


 だが、答えは案外簡単なのだ。「客観的」な批評というのは、その手続きを他人に適応して再現する感動にのみに効用を求めているというのが、その答えだとわたしは確信する。科学的事実を扱うような手つきで作品経験を事象化し、心の裡に蘇らせる手段を〝技術〟として配布する──これが現代人が「批評」という活動に暗黙に期待する背後に控える観念なのです。《科学》と《技術》。この隠喩が、わたしたちの物事の価値判断に介在しているのです。


 現代、科学と呼ばれる物の基本的な態度はフランシス・ベーコン以来の経験哲学、そして実験科学からアイザック・ニュートンの理論物理学と、そして情報科学の分野の知見の複合体から成り立っています。つまり、物質と精神をいったん分けて考え、主観(偏見)を挟まないように気を付けながら、繰り返し実験と検証を行い、法則性と再現性を伴う客観的で絶対的な事象を調べる。わたしは反知性主義でも反科学主義でもありません。だから、科学のもたらしたその成果物は本物だ。自然現象を説明するには鋭く効果的な方法だと思う。それは信ずる。

 ところがその方法で、心の動きや人生を説明する時に、奇妙になる。われわれは心理学という言葉を知っている。知っているし、その成果物を享受すらしている。ダンパー数とか単純接触効果とか、囚人のジレンマと呼ばれる心理学的な言葉をわれわれは引用して、実生活の中に法則性や再現性を確認する。たぶんその心理学の観察は、現実にも似たような事象を発見する手掛かりにはなるだろう。だが、そこにあるのは法則性があり、再現性があり、そして一般性があるできごとである。それがどうしたと思われるかもしれない。しかしそこには「わたしはわたしである」というごくありふれた、そして揺るぎのない事実を取りこぼすことになる。


 人は生まれ落ちてから、何とは無しに名前を与えられる。時折り同姓同名ということはあるが、その顔立ちや生い立ち、育つ環境や周囲の大人から受ける影響は計り知れず、意識的にも無意識的にも感受することが絶え間ない。喜びも悲しみも、苦しみも儚さも経験する。その時間の果てにある現在ここにいるわたしという存在は、例えば「生物学的にはヒトである」とか「性別的には男性である」とか「国籍としては日本人である」とか「社会学的にはこれこれの所得層に位置する」し「性格的には気難しい」などというふうにさまざまな属性・性質を語ることができるだろう。語るというのは言ってみれば言語化である。われわれは、自分という存在をそのように理解し、その上で自らの行動を決する。

 ところでそのような存在をいくら言語化したところでキリがない。〝単純接触効果〟だけで自分という人間の嗜好など説明しきれるわけがない。先に好きになるという経験があってから、あとから何度もあの人に会って接してきたというような振り返りによって、単純接触効果が真実だと納得することがあるだろう。そういう人間にとって、「単純接触効果」という名前でラベルされた実体験が記憶される。確かにこの名前の由来になった心理学的研究において、一定の精度と条件のもとでの再現性はあるのかもしれないし、ひろく一般性を持った用語であることは否めない。だが、これは同時に、一万人が同じコマーシャル映像を繰り返し見た結果として広告商品に愛着が湧くというほどの確実な物を意味するわけではない。ただ、自分がそうなってしまったという経験を、説明しやすくするための補助具として設けられた用語であるということを、言ってみれば、自己理解を手助けするためのないよりはマシな言葉の一つに過ぎない。


 科学は無数の真理を、法則を、一般的な現象を、物質的にも心的にも起こりうるさまざまな出来事を記録し、説明するべく試みを続けてきた。その営為には敬意を表する。しかし個別の真理を求める知的探究と、われわれひとりひとりが自らを生きていくなかで用いる言葉としてのそれのあいだには限りない距離がある。われわれが「物理的に不可能だ」と冗談めかして言う時、その〝物理〟とはニュートン物理学的な時間と空間によって制御され、その観念に基づいて定義された世界に生きている。しかしこの時間と空間は科学的探究において扱いやすいように定義された或る性質に過ぎない。その性質は誤りではない。だが、「正しい」とされる性質をいくら寄せ集めても、われわれが〝時間〟や〝空間〟という言葉に託してきた物を全て意味するということには決してならないのだ。

 三秒で百メートルを走りなさいと言われたら「物理的に不可能だ」とわれわれは試さずに答えることができる。なぜなら平均的な人間の走行スピードはいくらで、現在の人類の百メートルの最高記録は……だ。だからわたしにはできない。それは、実験した成果としての不可能ではなく、自らが理解している物理学的な〝科学〟的知識がもたらした、観念的な推論の結果に過ぎない。遠い将来人類にそれができると言うことが言いたいのではない。ただ、われわれはそのようにして実体験ではないことを、知識を組み合わせて〝自明のことだ〟と判断する能力があるという事実を照らし出している。


 自然現象、特に物理的現象に関してこの点、仮定し計算することで生活上誤りを少なくすることができるのは疑う余地はない。ところで心的事実はどうだろう。ある人間を好きになる。ある詩的なフレーズに心動かされる。映画や音楽に反応して涙を流す。そうした不思議はどうだろう。われわれはあまりにその点賢くなり過ぎて、まるで一定の水準に達しさえすればなんだって分かるかのように振る舞うことができる。そう信じているかのようです。もちろんある感動を、既出の「考察」を通じて理解し直す努力はできる。その内容を信じて、それによって自分の感動を説明することもできる。

 だが映画評論家の言葉を借りて映画の面白さを説明する時、自分の感動や作品の良し悪しに関する自己の判断を裏付けるための言語化のはずなのに、他人のオーソリティによって自己を隠してしまっている。そう思ったことはないでしょうか。少なくとも自分は自分の心的事実に近い言葉を選んだつもりで、先行する誰かの言葉を〝使った〟という自負がある。しかし実際には借りた言葉に〝使われている〟というような印象を周囲にばら撒いてしまう。これもまた不思議なことだ。人は自分の心を、唯一無二の、似てる物を探すことはできても決して同一ではないおのおのの心を持っている。にも関わらず、それを伝えることにおいて言葉が陳腐であったり、借り物であったりすることで非常に真心がこもっていないように感じられる。これは、科学的事実によって説明をしたところで変わりがない。むしろ科学的事実なるものを使用すると自己の一般性・法則性・再現性などの性質しか強調されえないという実態に、誰も気付こうとしていないことをわたしは驚く。


 わたしは他ならぬわたし以外の何者でもない──この言葉は同語反復ではない。個人主義や個性の尊重という言葉が観念化してあまりにも久しい昨今、その言葉は何度繰り返してもそのれっきとした意味を自覚するにはあまりに難しい物になってしまった。これは遺伝子の差異を強調する言葉でもなければ、自己を知ることの不可知論を語る言葉でもない。そもそも自己を指す語として「わたし」という言葉がある。その言葉の意味をたぐるために無数の類語をたどって類推するという思考をわれわれは必須とするが、しかし似ているから別の言葉に置き換えていいというような雑さを、表現は持っていない。表現というのはそれがその表現でなければならなかったという物だ。無知や制約やその作る時期の一過性によって成立する刹那の花なのだ。われわれは花が美しいと感じることはできる。しかし花がそこに咲いていることを、自分がそれを見ているということに対して疑義を挟めないはずなのである。


 ところが現代の「批評」という行為は、そこに花が咲いているということに正しいかどうかとか、その花が咲いている土壌がどういう性質なのかとか、そういうことを分析し、これを美しいと思うわれわれの心の仕方が誤りだとするような判決を下すことがある。下手をすると「もっといい花がある」と言って別の物を引き合いに出すことがある。あれがいい、むしろこれがいいという話をするのも広義の批評なのでそれはそれで構いやしないがそうなるとますます批評ということがややこしくなる。そもそもその作品について知りたいにも関わらず、作品を分析するのではない話がひろがる。他人の価値観の押し付けになるかもしれない文章を、「批評」と呼ぶことができるのであれば(そしてそれは言うことが可能です)、批評の中に確実な物がどこにあるのかを検証することはより一層難しい。しょせんは他人の勝手な価値判断だと言ってさえしまえれば全てを一蹴してしまえるような矛盾を、批評は最初から持ち合わせているのです。

 しかし、批評がひとつの著作物としてそのオーソリティを認められるとするならば、その批評家は「批評」の中に自らの〝勝手な判断〟以上の精神の動きや観念の連動を汲み出す努力をしているとも言えるでしょう。ところがそれは科学的方法によってなされるわけでもなければ、技術的になされるわけでもない。このことに気付かれている方は思いのほか少ない。


 どういうことかと言えば、その手法は極めて分析的に行われるのは事実であるけれども、人間が自分の精神において〝実験〟することも〝再現〟することも〝検証〟するということも、しょせんは言葉のアヤに過ぎないのであって、そんな物は初めから目に見えないものを、取り扱いしやすいように言葉を借りているだけだということを忘れているはずだ。つまり、われわれが心を「実験する」という時に、科学が実験的に事実を探り当てるように、それを観察する。科学技術的に再現するかのようにその心の現れを確認する。そして他のエビデンス、それも可能な限り入手可能なテキストとの照合によって矛盾のないものとしてそれを捉える。われわれはこの方法の中に《科学》と《技術》を模倣する。

 われわれの心が《科学》や《技術》と似たような仕組みを踏襲できるのは、心そのものを科学や技術によって解明できるという意味では決してない。繰り返しますが、わたしは反知性主義でも、反科学主義でもありません。先人たちの知恵が真であることを疑うわけではない。しかし同時に、われわれは先人たちの知恵の形骸を生きているのだと言うことは指摘できるでしょう。〝先人の知恵〟というのはその個々の先人の精神の中にあって発揮された知恵の、その成果物の利用や、形式的な手続きの模倣でしかないという実態を、われわれはいかにも容易く見落としてしまうのです。そこで例えば、ニュートン物理学における時間と空間は、アインシュタインの物理学が発見した時間と空間よりもかなり限定的な条件下において成立する狭い真理だということを容易に忘れるし、ニュートン以前にあった「時間(time)」と「空間(space)」がどのようなものだったのかを思い出すことができなくなっている。言葉はそれ以前からある。だとしたら同じ言葉で同じ物を認識しているはずだという、それ自体が現代を生きるわれわれの錯覚ということになるのではないか。それを古くて誤りがあるから廃棄されたのだと言うこともできるかもしれません。しかしそこには新しい物が良いものだという暗黙の価値観があります。


 このようにして、批評の営みは己の中に蠢いているさまざまな社会的科学的個人的心理的な通念、あるいは観念というものを見る。俗に〝客観的〟と認知され、〝生産的〟と思われている議論の仕方にすらメスを入れる。そのような仕方には必ず自分ではない何かによる価値判断がある。そのことを自覚することから批評の戦いは始まる。ヒューリスティックという言葉を使いたければ使うがいい。重要なのは、そのことを通じて〝客観的〟な価値を示すことではない。他ならぬ自分自身が何に価値を見出そうとしているのか、見出した価値に自分以外の何者かの判断が加わろうとしてやいないか。そのことを自問自答することによって自らの価値を確かな物に変えていくという仕事である。

 これは自分以外の誰にも勘付かれない価値かもしれない。だが、価値を示したからと言って〝生産的〟とは限らない。妄想かもしれない。それを恐れながら書くわけだから、自然と批評の文体は奇妙な自己撞着に陥る仕草になっていく。このような仕方でなされた批評とは、他ならぬ自分自身の精神によって確かな物として受け入れられた言葉によって判断された価値を示す。批評の力とはまさにここにある。しかしこのような仕事を通じてわれわれはいかに通念によって、観念によって物事を安易に処理していたかを知らされる。それを〝偉そう〟という言葉でやっつけてしまうのは、他者の中の思考の屈折を、受け入れようとするメンタリティの不足を感じてしまうのは、さすがにやっかみに過ぎるでしょうか。


 わたしたちの時代は「個性を尊重する」という意味において、おそらく最高レベルに意識された時代です。人の心事に口を挟まない、丁重に接する、できないものは口をつぐむ。そういうことが〝礼儀正しさ〟の観念で押し通る世の中に、わたしたちは生きています。

 ところがそれほどの丁重さをもってしても、個性という物が自分自身、行方不明になっている。「自己肯定感」や「私らしく生きる」なる言葉がSNSで横行する様を見れば一目瞭然だ。個性が明確に尊重されているのなら、なぜ自分で自己を肯定しなければならないのか。どうして私らしさなる物を自ら定義しなければならないのか。ここには情報技術社会の持つ一つの巨大な集団観念が関わっていますが、それは後日明らかにするとしましょう。重要なのはわれわれは、自らの狭い視野に引っかかる個性しか認められないということです。その個性とは自己の利益になるような個性だ。つまり〝生産的〟な自己だ。ところが批評という物は、その純度を高めれば高めるほど、自分自身に近づき、それを見る他者の目にとって意味のわからない、利益となりづらい物になるわけです。


 もし優れた批評という物と出くわした時、あなたはむしろ喜びよりも困惑が先に訪れるでしょう。というのも、その批評は優れて健全な懐疑によって、われわれが通念として理解する物を遥かに迂回するからです。物事を決して直接的には語らない。しかしだからこそ、その手続きは科学や技術に関係ない、真に個性的な物として──つまり〈他者〉として出会う。〈他者〉というのはわれわれの友でもなければ敵でもない。そういう当たり前のことを言わなければならないほど、いまわれわれが生きている情報社会は容易に敵と味方をつくる。「信頼できる人にしか自分を明かしたくない」。そういう気持ちは平気で人を敵か味方か判断する。

 この判断を自覚できない人間に、批評のテキストはあまりにも高圧的に見える。なぜならその〈他者〉は、自覚によって通年を乗り越えた、その位置から語りかけるからに他ならないからだ。それがたとえ、《科学》や《技術》であったとしても、安易に結論を出す観念の装置として利用している限りにおいて、その人間は自らの個性に仮面を被ることで自分自身から逃げていることを批評は突きつける。


 これでもう、なぜ批評が〝偉そう〟などという印象が付きまとうのか、だいたいお分かりになられたのではないかと思われます。もちろんこうした批評を達成する人間は少ない。批評家もどきもたくさんいます。そうした方々の、分析に見せかけた自分以外の物に自分を委ねてしまった価値による裁きということも否定はしません。ただし、それはやはり〝正しくありたい〟という欲に負けた自分を露呈するだけにすぎません。反論する必要などないのです。ただ自分は自分以外の価値に振り回されないように、明晰であることに努めれば良い。自らにとって明らかであること、というのは、《科学》でも《技術》でもない、己の剥き出しの精神にとって、決して揺るぎのない物事によって、そこから自らの確信を得るということです。いまそれは正しさや《科学》や《技術》、《ポスト真実》や《社会不安》などの様々な観念によって非常に難しくなっている。「個性を尊重しよう」というスローガンを、「だから個性を侵害しないように何も言わないようにしよう」という矛盾の中に生きている。その中で自分の確信だけを頼りに語られた言葉が、〝偉そう〟でないわけがないのです。


 しかし、この、他でもない自分自身でしかあり得ないということを承認し、そこから得た確信という物は、言ってみれば自らの人生を統覚し、生きている世界を認める精神の現れです。自己肯定感や私らしさというような物とは無縁の生きる価値です。そこから紡がれた言葉が示す評価こそが、良き判断としてのクリティック(批評)に他ならないのであります。


 このことをわからないようでは、批評が〝偉そう〟で権威主義で制度的と思われても仕方ない。しかしそれは、上記のことを思った時、むしろ逆だということになる。それは自らの精神が物事を価値づけるという責任を、《科学》や《技術》の持つ透明性によって回避し、自己を譲り渡した価値なのです。そこに自らの生を生きている、不可避な自分はない、ということを、いま一度われわれは考えなおさないといけない時が来ている。そのことを、思い出す縁となるようなことをこれから気まぐれに書いてみようと思うわけでありました。

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