食品サンプルのリアリティ
合羽橋の商店街を歩いていた。あそこには様々な食器やら調理器具やら、看板、小物、食品サンプルなどが置いてあり、独特の趣向と値段を楽しめるようになっている。主に業務用なのは言うまでもない。商店街にあるものを継ぎ接ぎしていけば自前の店舗が出来そうなくらいなのだ。
ベンヤミンではないが、こういうのはある種のパサージュだ。商品は物神となり、通り沿いのショーウィンドウや、ガラス棚に陳列されたそれらは、小さな宇宙を形成する。今風に言えば、商品それ自体が一種の仮想現実を作り上げていると言っていい。ショッピングモールが現実とは異なる夢幻のごとき世界であるのと同じように、そこには夢がある。その夢の可能性は、手持ちの金銭の使用上限に比例するものの、通販にはない実感をもたらしてくれる。例えば、商品そのものを手に取り、重さや質感を馴染ませることだ。
このとき、ふと思ったのが、食品サンプルという存在だった。見た目は本物と見紛うほどに生々しい。しかし、手に取れば、プラスチックだったり、蝋だったりする。あるいは、じっくりと凝視めてさえいれば、それらが本物の料理ではないとわかる。だが、見かけは本物のようなのである。いや、本物よりも本物らしいとも言える。もちろん職人の腕が物を言うのだろうが、ことよく出来たものに関していえば、そうだと確信を持って言えよう。だが裏を返せば、視覚以外の要素については、本物であることを放棄している。飽くまで食品サンプルとは、視覚的な造形によってのみ、観る側に本物を呼び起こすのだ。要するに、食品サンプルとは食品に対する精緻な仮想現実なのだ。
仮想現実なる概念がパソコンの中にしかないと考えている人間は非常に多い。だが、言ってみれば我々はみな等しく加工された現実の中で生きている。例えば家の中、自室などは、空間を自分の趣味や生活に彩った結果だと見えることができよう。日常の知識はすべて体験ではなく、一部は他者の編集を経たニュースや、他人の言葉で綴られた文章から得られたものだ。小説や音楽、映画などの娯楽メディアも、ある種の仮想現実だろう。なぜならどのメディアも、五感のすべてを刺激しないからだ。映画の場合、視覚と聴覚に特化しているし、音楽は聴覚以外の感覚を意図的に排除している。小説に到っては五感というべきものは事実上存在せず、それらを抽象化した言語を介して、想像することによって初めて意味をなすものが多い。むろん、傑れた作品は、それらが人工的な仮想現実であるにもかかわらず、目の当たりにしたような実感をもたらす。しかしそれは必ずしも五感を直接的に刺激するものではない。問題なのは、五感を直接刺激するわけではないのに、刺激されていると錯覚する我々自身の作用にある。要するに我々は「現実」というもの一つすら、明確に掴んでいないのだ。
ある事物を、「リアルだ」と感じるこのこと自体が、錯覚から成り立っているとしたら? ある意味漫画というメディアはこの事実をよく理解している。ワードアートのように実体化した擬音が作中の音響を作り、振り付けを描き込まれた静止画が動きを作る。実は、作り込まれた作品というのは、メディアの区別にかかわらず、こうした共感覚じみた仕掛けを至る所に有しているのだ。食品サンプルとてそれは同じだ。食品サンプルのリアリティとは視覚だ。観賞に耐える造形を持つことこそが、その作品の有する唯一無二の仕掛けである。目から入った実感は、想像力を触発し、様々な他の感覚に翻訳され、さらなる想像を膨らませる。食欲に唆る。これは食品サンプルがリアルだからではない。食品サンプルの「リアリティ」が我々の脳髄に訴えかけるからだ。要するに錯覚を誘発する、込み入った仕掛けを施されたからに他ならない。「リアリティ」とは影響力のことなのだ。我々の感覚にまで浸透してくる、徹底した表現こそが「リアリティ」を作り上げるのである。




