あの頃夢見た未来は
二十年も年を取れば、成人式になる。主に旧友との再会を楽しむためにあるようなこの催しだが、小学生以来地元の人間とは付き合いが無かったので、ほとんど浦島太郎のような気持ちである。こいつ誰だ? と思えばあああの時の、と最初は思うものの、あまりにも年月が経ち過ぎていて、なにを話せば良いのかわからぬ。「元気?」とか、そういう間抜けな言葉しか出てこない。目の前でベチャクチャ喋ってるのだから、訊くまでもなく元気なのだ、しかし、それ以外に気の利いた言葉が出てこない。共有していた時間が、長くないのだ。何か話そうにも通じる話題があるわけでもなく、結局ろくに思い出せない記憶をネタにして喋る他ない。
こうして思い出を漁りなおしたとき、ふと気がついたことがある。小学生の頃の私たちと、いまの小学生とはやはり異なる常識と価値観のもとに生きていたのである、と。要するに時勢が違う。私の少年時代は(読んでなかったが)ONE PIECEとNARUTOとBLEACHが少年ジャンプ三大筆頭連載だったし、ゲームと言えば任天堂関連は64、GC、Wii、SONY関連ならプレイステーションが1、2、3と出てきており、ゲームボーイアドバンスからDS、PSPと画期的かつ充実した新作が飽きもせずやって来ていた。おそらくポケモンなら金銀クリスタルからルビーサファイアで、遊戯王やデュエルマスターズなどのカードゲームが、目立って流行り始めた頃でもある。また当時は、公園のお砂場で遊べたし、ガラケーを持ってるだけでも珍しく、ケータイは学校に持ち込み厳禁だった。
それが、いまはどうだ。NARUTOは連載終了し、ゲームはWiiU、PS4はあるものの、スマホゲームにユーザを奪われ、ポケモンはXYともはやサブタイトルは色とは無関係だ。当初151匹だったポケモンもその四倍以上となり、それに取って変わらんと妖怪ウォッチが寝刃を合わせている。カードゲームは相変わらず遊戯王だが、もはや自分たちのやっていたころには信じられない複雑なルールと化している。何より、いまや衛生上の理由でお砂場は閉鎖され、小学生がスマホと諭吉を持ち歩くご時世でもあるわけだ。さすがに時代とまでは言わないが、自分たちの生きてきた常識と価値観が、このわずか十数年で大きく様変わりしているのに、気が付かずにはおれない。どうもこの頃の子供は、タッチスクリーンに慣れすぎたためにテレビ画面などを触ってしまう習慣が付いてるというではないか。自分たちの幼年期には、ゲーム脳と散々言われてきたものの、ここにまた新しい価値観の違いが浮き彫りになってるわけだ。
近未来を舞台としたサイエンス・フィクションを読むとき、比較的気にすることがある。それは、常識や価値観がどこまで現代と変わっているのか、という点だ。科学技術が進歩したとされる未来において、その生活感覚は殆んど確実に現代とは違うはずなのだ。自動車がない時代の旅行がどんなものだか想像できるだろうか? 電気のない時代の灯りがどんな性質のものだか想像できるだろうか? そして、SNSが無かった時代のコミュニケーションがどのような形であったのか、思い出せるものはいるのだろうか? 我々はいとも容易く新しい科学技術に順応し、テレビや雑誌で読んだと言うように、Twitterに流れてきた内容を会話のネタに用いる。分からない言葉は、まるで百科事典を開くようにGoogle検索をして意味を知ることができる。欲しいものはAmazonで頼めば大体手に入るし、音楽や映像はYouTubeを始め動画サイトで限りなく無料でアクセスできる。……これらの要素を、過去よりも便利になったというのは簡単すぎるし、また同様に、人間から教養や表現力を失わせ、退化させたと嘆くのもまた容易い。問題なのは「変化」だ。自動車が、電灯が、スマートフォンが普及して、どう人間の生き方が変わり、ものの見方が変わったか? これは、空想小説だけの問題ではなく、我々の生きる上での問題でもある。
情報社会と呼ばれている今日の世界では、あまりにも出来事が頻出し、記憶する暇もなく、出来事ばかりが目のまえを通過する。これは過去にもそうだったかもしれない。要するに、科学技術が都合の良い忘却を阻害し、かつては見過ごされてきたことを積極的に取り沙汰しているから、出来事が頻出しているように見えるのだろう。しかし、記憶する側である人間は、大して変わりはせぬ。出来事をよりよく記憶するために人間は情報を編纂するが、それは厖大な情報の渦を整理するどころか、より一層情報の厖大さを助長するだけだ。かくして諸説が入り乱れ、正否が行方不明となったとき、我々は生き方を、自分自身の常識や価値観を見失ないかねない。となれば我々は我を忘れて、流行り廃りに振り回されるか、記憶にしがみ付いて現世を嘆くしか出来ぬのではないか、そういう不安にふと駆られてしまう。新しさの前には思い出は悉く淘汰され、面影のみが亡霊のように我々の感性に取り憑いて、錆びた金属が軋みを上げるように、喜びや悲しみを曇らせようとする。果たして小学生の自分に、このような寂寞感が理解できたものだろうか、はなはだ怪しい。しかし、あの頃延々に続くと思っていたものがいまや見る影もなく亡び去るのを、記憶は忘れさせてくれないのだ。恐らく、これが年を取ることである。「変化」を悲喜交々に自覚できるようになることこそが、本当に年月が自分の内側に降り積もるということなのだろう。
あの頃に夢見た未来の姿を、いまの私は知らない。しかし、歩いてきた道を振り返り、愕然と気付いた「変化」こそは、夢の残滓であるというのは、いまさらでも気付けて良かったとは思う。ニーチェはその思想の中で未来と過去を否定したが、思うに、現在という幻影は過去と未来の狭間にこそ見出される。つまり、思い出として残されるものの中に。




