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温かい夢であったなら


 ――ここは、どこだろう?

 誰かが名前を呼んでいる?でも、とても優しい声だった……。

 目の前は真っ白い世界で、遠くの方に何かが見えるけれど霞んでいて認識できそうにない。ただこの中は頭をなでてもらっているように心地よくて、幸せな気持ちになり、優しい眠りへと誘う。そうだきっともう少しで、この優しい声を思い出せそうだと頭でわかっているのに、これより先にはまだ進めそうにない。

 でも卑怯なことに、もうちょっとでいいからこのまま休んでいたいなんて思ってしまうから……私はいい人とは言えないんだ。

『見てごらん?きれいな桜の花が咲いてくれたわ――』

 また優しい声が耳に響く。とても優しい声。

 ――そうね。とても綺麗だった。いつでも。そう、あの時だって――。


 そこでプチンと、暖かな光の世界は消えた。


  ゜***。***゜***。***゜


 遠くで水の音がして、ゆっくりと瞼を開ける。

 (ああ、そうか……私、寝ちゃったんだ)

 部屋は真っ暗で、眠る前まで一緒にいた芭流がいないことから、芭流はお風呂にいっているのだと、寝ぼけた頭で考えた。辺りを見回せば少し開いた扉の隙間から小さな灯りが見えるだけで、窓の外は静まり返っていた。それに何かの夢を見ていた気がするけど、はっきりと思い出せなかった。

 起き上がると毛布が掛けられていた事に気が付いて、葉澄は微笑んだ。道理で寒くないわけだ。

 (芭流が掛けてくれたのね……)

 背もたれに身体を預けたとき、ちょうど上手な歌声が聴こえてきたから、寝起きでも無意識に耳を傾けてしまう。

 (やっぱり、とても上手だ)

 もしかしたら、芭流の新曲だろうか。聞いたことがない歌だった。

 そういえば、あれから芭流は十日近く家に居座っていて――世間的には『長期休暇』となっているらしいけれど。それにしても、『熱愛報道』をもっての『休暇』なんて、見え透いた回避手段だと言える。彼の事務所も考えた結果だろうと思うけれど、また何を書かれるか分からないのに。とは言え今頃、芭流の周りの人達は対応にアクセク働いているのだろうか……。

 でも芭流にとっては、桜区(ここ)は安全地帯なのだ。

 『桜区(おうく)』――ここは、この国の中で治外法権と言っても過言じゃない場所だ。この区内で騒ぎが起きたとしたならば桜家が黙ってはいないだろう。それだけ桜家(おうけ)は力を持つ家だった――。

 その他にそういう家があるかといったら、【籐家(とうけ)】や【梅家(ばいけ)】もそれに入るだろうけど。よほど頭の悪い者でない限り、自ら喧嘩を売る者はいないと言える。それが他の貴族たちとは明らかに違う点で、私たち【華三家(はなさんけ)】の(ことわり)なのかもしれない。

 立ち上がって閉められた帳を開ければ、窓の外にはちょうど月が訪れる時刻だった。

 (――今は何時だろう?)

 そういえば、今夜も父様は帰りが遅いと言っていた。ちゃんと、お夕飯を食べているか心配だけど……。そんなことを思いながら月を眺めた。まるで誰かに食べられてしまったように、綺麗な光が欠けている。

「あと少しで、お城へ行くのね……」

 そう呟いて、葉澄は帳を閉めた。


 すると突然、パッと室内が明るくなって葉澄は後ろを振り返り、現れた相手に微笑み返した。

「暗いのに灯りも()けないで。調子、どうだ?」

 声の主の髪は濡れていて、衣服は少し肌けていた。まさに湯上がりといった感じ。

「葉澄?」

 何故か心配そうな表情で近寄ってくる彼に葉澄は小首を傾げた。それと同時に口もとにはしょっぱい水が流れ込む。

「どこか痛いのか?どうした?」

 優しく頭をなでてくれて、彼は優しく問いかける。葉澄は目をパチクリさせて首を横に振った。

「だ、大丈夫だよ。これはそういうのじゃ」

「じゃあ、怖い夢でも見た?」

「それとも、ちょっと違う。怖いというよりも不思議な夢だったの。温かくて懐かしくて、優しい声が聞こえて。でもそれが誰のものなのか明確に思い出せなくて、悲しかった。それだけだよ。心配かけてごめんね」

「いや、それならよかった」

 指の腹で頬の涙を拭ってくれながら、彼の顔が和らいだ。近づく彼の動作と同様に沈む椅子の感覚が心地良い揺れを身体にもたらす。

「……ああ。もう俺が我慢できなくて、このまま弱みに付け込んで襲っちゃうって言ったらどうする?」

 ドキッとするこの声音は世間を賑わす彼のものであり、そして今、目の前にいる彼のもの。

「ダメ!ゼッタイ!くすぐって笑わされるのだけは無理だから」

 身を引いて腕で防御のポーズをとると、何故か芭流は腹を抱えて笑い出した。我ながらお子様みたいなことをしてしまった感は十分あるけれど、あのこちょこちょ地獄の苦痛から逃れられるなら恥ずかしさは二の次でよかった。

「ねえ、何がそんなに面白いの?私、そこまでおかしいことしてないよ」

「ごめんごめん……。葉澄には通用しないんだと思って」

「何が?」

「さあ?なんだろね」

 そう言って芭流は意地悪気な顔をして立ち上がる。

 少し離れた円卓の上に置いてあった、いつも彼の飲んでいる手作りフレッシュジュースが視界に映った。今晩は朱いから柑橘系や人参が多いのかもしれない。

「ちょっと今の意味深な顔は何?気になるから教えてよ~」

「あ~。そんな簡単に男に『教えて』なんて言ったらダメだって。ましてや俺なんかに」

「お茶を濁さないで!芭流は頭がいいから、私は言葉じゃ太刀打ちできないの。それは後でいいでしょう。早く答えて!」

 葉澄は毛布を退けて即座に椅子から飛び上がり、芭流の手にするカップに手を伸ばす。けれど背の高い彼に叶うはずもなく、それと同時にリーチの長い彼に振り回されるのがオチだった。

「もういいだろ。飲みたいんだけど」

「だって教えてくれないから……きゃっ!!」

 上を向いていたことが災いしたのだろう。備え付けの小さな椅子の脚に気付かなかった葉澄は床に向かって前のめりに一直線だった。これは痛そうだ。

 けれどその予感は当たらなかった。そう、全く痛くも痒くもなかったのだ。それは嬉しい事ではあるけれど、ちょっかいを出して、挙句に自らこけそうになった愚か者の腕を引いて助けてくれた恩人の顔をどんな表情で見ればいいのかわからない。そして今も下敷きになっている芭流は葉澄の身体を支えながら起き上がる。

「ああ……ごめん」

 頭上からそんな言葉が聞こえた。謝るのはこっちの台詞だというのに耳元には謝罪が届く。意を決して仰向くと、彼の美しい大海原のような青い眸と視線が重なった。

「わたしこそ、ありがとう……それとごめん。謝るのは私のほう」

「ジュースかかったって言ってもそう言える?」

「えっ?」

 言われた通りに自分の髪を触ってみると甘い香りが漂って、首元から滴る水滴が胸元を伝い、重力を使って衣服を染めていく。彼の手にしているカップの中にはもうほとんどジュースは残っていなかった。

「あ……。でもすぐに洗えば大丈夫。そんな事よりどこも痛くはない?もう、芭流のほうが大事な体なのに」

「平気だよ。心配し過ぎ」

 そう言って芭流はまた葉澄の腕を引いた。

「なに?どうしたの?」

「今度好きな服買ってやるから、少し付き合って」

「何を?」

「服、暴れたせいで肌蹴てる」

 谷間から下に伝う冷たい感覚とおかしなほど甘い言葉に頭がマヒしそうだった。それに見つめられる視線で火傷しそうだ。

「じ、じゃあ放してよ。恥ずかしいから」

「この状況は無理……」

 そう言うと、彼は甘い香りを頼りに首筋に顔を近づける。

「ば、芭流……っ!!」

 葉澄の絶叫なんて聞く耳も持たずに、まるでもったいないとでも述べるように優しく口付けながら、彼が甘い香りを舐めとるのだ。まるで正真正銘の恋人同士が行うような触れ合いに、慣れていない葉澄は対処できずに混乱して。その中で彼の息遣いや彼の触れる熱がくすぐったくて何故か心地いいと思ってしまう心は彼を求めている証拠なのだろうか。それと同等に恥ずかしさから逃れたい気持ちとの葛藤で動作に変換することもままならない。

「抵抗しないの?このままいくと服脱がせちゃうけど」

「いっ、いま押し退けようとしてたの」

「どう?気持ちよかった?評価聞かないとやめれない」

「もうやめて。何でそうなるのよ!」

 芭流の肩を両手で押して距離を取ると、葉澄は乱れた自分の胸元の衣服を慌てて掴む。気づかない内に谷間の辺りまで伝っていた朱いジュースの残骸は消えて無くなっていた。理解するというものは恐ろしいもので、先程までの状況よりもこの目に映る結果のほうが顔を赤らめさせる要因になった。

「優しくしてやったのにどうして怒るの?気に入らなかったならもう一回しようか?でもこのままいったら、ほんとに襲っちゃうかもね……。ねえ、『欲しがってた答え』、理解できた?」

「わ、わかったから!」

 葉澄は熱を持った顔を見られたくないあまりに、動物ですら驚くほどの速さで部屋を出た。結局は、お風呂に入らなくてはいけないから別にいいのだけれど。でも、見たところ芭流も少しだったけどジュースを被っていたし、本当に悪い事をしたと思っている。

 (でも、お風呂を先には譲ってなんかあげない!) 

 葉澄はいつもの如く美しく磨かれた洗面台に手を付きながら、大きな楕円形の鏡を覗き込んだ。

「……はぁ、疲れた。芭流のバカ……」

 やっぱり顔が真紅に染まっている。芭流に見られずにすぐ飛び出してきてよかったと思い、自らの衣服を掴む。湯上りの衣服はこの場に備えていたから、そう考えるとこういった場面では助かった。

 そして、そそくさと濡れて汚れた服を脱ぎ、葉澄はまた鏡を見た。下着の谷間辺りからじわじわと染まって、あの朱いジュースは綺麗なグラデーションを作り上げていた。でも少しべたべたして気持ちが悪い。

「あれ……?」

 先程は気がつかなかったけれど、鎖骨の下、胸の上あたりに心当たりのない赤い痕があった。虫に刺されたにしては少しおかしい。

 (これって、もしかして……)

 そしてまた葉澄は顔を染めた。

 彼と触れ合う事は嫌じゃない。彼はああいった事には慣れていて、きっと上手で、そして気を遣ってくれる。

 付き合いだしてからはたくさんの触れ合いやキスを求められて、断ることのほうが多かったかもしれないけれど、自分なりに受け入れもした。

「でも……好きになったらだめ……」

 鏡に映った顔はどう見たって恋をする乙女の表情だと語っているけれど、そういっていつだって葉澄は自分に言い聞かせる。

 彼を好きになってはいけない――。

 だからまた、このドキドキとする鼓動と火照る頬に無視をしてから、葉澄は下着を外して浴室へ続く扉に手を伸ばした。


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