移り行く時を告げる鐘
「雅茜?今夜は満月なんだね~」
「そうみたいだな」
「そういえば今年は例年より暖かい気候だって、予報で言っていたよね」
「……そうらしいな」
――もう何回こんなやり取りをしているだろう?
隣で、いかにも楽しそうに笑顔を振りまく男は返事をしなければしないで、独り言のように話しを続けている。そして雅茜は溜息を吐いて、呆れて話を無視した。
この雅やかで未だに馴れない街並を歩いて行けば、艶美な女人たちが通り過ぎざまに色目を送り、知り合いの多い隣の色男は彼女らに何かを手渡されていた。
そしてこの酔ってしまいそうな視線に大半の男たちは翻弄されてしまうのだろう。
(ここへ来ると、本当に疲れる……)
雅茜は髪をくしゃくしゃっと掻き乱した。
「相変わらずだな、この街は……」
「少しは慣れた?たまには君も、慣れるために来たほうがいいかもよ?」
往来を歩けば、辺りには気稟のいい薫りが漂い、でもそれが作られたものなのかそうで無いのかは判別がつかない。そして『和む香り』という言葉が合うのかもしれない。けれど自らの意見としてはこの状況に浸っているようで気に食わないので、雅茜は非現実だとにこの場を捉えるようにするのが先決だった。
ただこれが、何かの花の香りに似ていることは確かだ。
「鶯蕾。お前の場合は自粛したほうがいい」
「……はぁ、いい気分なのに殺がないでよ、雅茜。ここでは小言は無しだよ?」
やれやれと肩を落とした鶯蕾は気に入りの女物の肩掛けを靡かせながら、黄色い声に向かって愛想よく手を振っている。
この男は街の常連で、きっと妓女の顔と名を全て把握しているに違いない。だが、この男はただの軽い男というわけではなかった。
『王の剣』と称される、剣術に秀でた梨家の血を引く男――梨鶯蕾。彼はこの若さで隊長職を務めているが、容姿を見ただけではその貫禄は一欠片も見受けられない。もしその腰に刀をさしていなければ、どこぞの商家の放蕩息子にしか人の目には映らないだろう。
「雅茜、なんで無視しているわけ?もしかして、無理やり連れてきたから怒ってるとか?」
「――違う。何で椿燐街で宴なんだ?いつもなら後宮で開催されるはずだろう……誰が決めたんだか」
鶯蕾は微笑みながら、横目で親友を見た。
(な~んだ。ちゃんと逆鱗に触れてたわけだ……)
うっかり口に出してしまいそうな思惑を封じ込めて『危なかった』と、鶯蕾は笑ってしまった。だってもし口から洩れてしまったら彼を余計に怒らせてしまうから、心の中だけに留めておくことにする。
「雅茜。それなら苺羅様だよ。確か理由が『鳥籠の姫百合には申し訳ないけれど、たまには籠の中の胡蝶たちも愛でなければかわいそうだからね』だそうだよ。ほんと彼らしいけど。ただ単に、椿燐街のほうが彼は好きだっていう単純な話だろうね。王城にはお偉方がたくさんいるし。それにここの実権は今現在、彼が握っているようなものだしね~。まあ、とりわけ別にいいんじゃない?」
鶯蕾はかなり際どい事をさらりと口遊んだ。――恐れ知らずのお坊ちゃんだ。
話題にのぼる男、凰苺羅も若くして国の中枢を担う人物だけれど、あまりいい噂を耳にしない。それに加えて、出自に関しては謎に包まれた男だった。この椿燐街は長年、凰家が管理してきたが、今は彼の養父である丞相の凰羚碧に代わり、彼が街の采配をしている。
養子という身だけれど丞相には一目置かれている人物だというのは間違えなく。そして、長命を望む官吏たちは苺羅の暗黙の了解に触れてしまわないように、常に気を配る必要があるのだ。
「いいんじゃない、って……まあ、花見に椿燐街を使うという発想はいかにもあの方らしいけど。今、彼はあまり出歩かない方がいいだろ……」
鶯蕾が振り向く気配がする。もとより本業は武官だ。察しくらいはつくだろう。
「全く君は心配性のお兄ちゃん過ぎるよ~。だいじょうぶ。私が腕を認めてるんだから、安心していいよ」
「それもそうだけど。主役のくせに何処をほっつき歩いているんだか……」
「年頃だからね。一人になりたい時もあるんだよ、きっと」
鶯蕾はそう言って話を誤魔化して鼻歌を歌い出し、一足先を歩く。ふと、時を告げる鐘の音がして天を仰げば、雅茜の目前にふわりと何かが舞い降りた。小さな白い欠片はひらひらと、何故か細やかな温もりをくれる。
「……桜?」
不意に後ろからぽかんとした声がした。仕事中なら、決して垣間見ることはないだろうと思い、鶯蕾は笑みを浮かべた。
眉間に皺を寄せて、苦しんで考える必要なんてない――。鶯蕾はいつだって、しっかり者の雅茜に対してそういう感情を抱いている。
一つ年下のクセに年かさのように落ち着いていて、何よりよく人を構う変り者で。自らよりも他人のことばかりを思っているお人好し。だから、有能で完璧なお兄ちゃんでなくたっていい……。でも雅茜は出会った時から、何かと気を張る傾向がある。
鶯蕾は立ち止まった雅茜のもとに歩み寄って、嬉しそうに口を開いた。
「きれいだね~。多分、鬱金香の桜じゃないかな?――あれ?そういえば……最近、椿燐街で話題になってたことがあったな~。聞いてくれる?」
(たしか、その娘も桜の簪を挿していたような……)
同じくらいの背丈の雅茜の肩に腕を回し、目的の場所へと鶯蕾は誘う。そして、並んで歩く雅茜の機嫌が悪くないと見て取ると鶯蕾は言葉を紡いだ。
「あの鬱金香の前の噴水広場、君も知っているだろう?そこでね、なにやら二胡を弾く少女が出没するっていうから会ってみたくて。その時刻に行ってみたらとっても上手な音色が聴こえてきてね……」
雅茜は腕を振り払う気も失せて、はあと息を吐いた。今夜は普段の何割増しかと感じるほどに機嫌がいい。
いつも以上に饒舌になっている同期の姿を見て、まさかまた仕事をさぼったか、もしくはもう飲んでいるのかと雅茜は首を捻った。鶯蕾のゴキゲンな話を普段なら何気なしに聞いているだけの雅茜はその歓喜な姿に目を向けた。こんなにも嬉しそうに話す彼の姿は本当に久しぶりだった。
「彼女と話してみたんだよ~。もうホント可愛くて。でもその娘、妓女じゃないっていうから驚いたよ」
「妓女じゃない?なんでそんな娘が椿燐街にいるんだ?」
思えばその噂の広場が見えてきた。今はその美しい二胡の音色も聴こえない、がらんどうで物静かな場所だ。
「なんかね、ここなら聴いてくれる人がたくさんいるから、って嬉しそうに話してくれたよ~。名前は『蝶々』って言っていたかな?」
白い花びらが、また視界に入り込む。たしか今の話を雅茜は昔どこかで聞いたことがあった。
鶯蕾は返答を求めもせずに話を続けている。
『……雅茜兄さま!私ね、大きくなったら椿燐街で二胡を弾きたいの。聴いてくれる人がたくさんいるんだって。楽しみ~!』
(あれは、いつのことだっただろう……)
思考を巡らせていれば大きな扉の前に辿り着いた。きっと一人の力で動かすことは困難だろうなどと思うが〝椿燐街〟ではそれは無粋な感情で、豪奢で緻密な細工に目を向け、饒舌に褒め称えたほうがここでは達者で『正解』だ。
その華麗な細工の施されている扉が開き、見知った美しい女性が現れる。
「お待ちしておりました。今宵はゆっくりしてくださいませ」
「翡翠、今晩は。今夜は君も舞を見せてくれるの?」
開口一番に鶯蕾は囁いた。全く、よく動く口だと雅茜は厭きれ返る。彼の応対力は知ってはいたが半端じゃない。
「はい。今宵は少々。お気に召して頂けたら嬉しいですわ」
慣れた手つきで、鶯蕾は彼女の柔な手の甲に口付けを落とした。それは交わされる挨拶のようにあまりにも自然な行為だった。
「翡翠?何だか今夜の貴女は少女めいて、危険だよ。惹かれてしまっても、いいのですか?」
「それはまたご謙遜を。鶯蕾様はいつでもお優しいのね。お持てになる理由がわかりますわ」
「いいえ。本当にそう思っているだけですよ」
後ろの高い位置で一つに結ばれた鶯色の艶めいた髪が彼の肩の辺りで揺れている。
〝街一の美女〟に会うとき、鶯蕾は最高の表情を浮かべるなと雅茜は近頃になって気がついた。見せかけの笑顔でもなければ、安っぽい流し目でもなく『つくらない表情を』。
そんなことを傍から見て思いながら、招かれて敷地内へ入って行けばもう鶯蕾は若い妓女たちに囲まれていて、彼女たちにも同様に紳士な態度を取っていた。
……本当に、自粛したほうがいい。思いながら雅茜はふと立ち止まった。
(そういえば、さっきの鶯蕾の話……)
ふと思い出した疑問を問うために、鶯蕾の姿を見て麗しく微笑んでいた翡翠に声をかける。
「翡翠さん、少し訊きたいことが。さっき鶯蕾が話していたんですが……そこの広場で二胡を弾く少女っていうのは――」
そこで雅茜は口を止める。それは翡翠が人差し指を口許にあてる仕草をして、聞こえない声で『しー』と言ったからだ。
すると彼女は優しく微笑み、佳麗な花で彩られた頭を頷かせた。
それによって、あの世渡り上手な男のようにこの街を訪れることが多くなってしまうのかもしれないと、雅茜は『この時』なぜか悟ったのだ。




