花びらと共に揺れる心
「こんばんは。葉澄、います?」
耳に届いた声は数年前よりも低く艶のあるもので、聞き慣れた声に男は訝しく眉を動かした。久々に早く帰宅したというのに、実の娘の声より先に若造の声を耳に入れることはまっぴら御免だった。
赤毛の長髪を後ろでまとめた三十代半ばの男は視線を書類から出入り口に移した。調子のいい口調とは反して疲れているのか、彼は若いくせに扉に凭れ掛かっていた。
「いいや。まだ帰っていないらしい。だが、なぜお前がいる?呼んだ覚えはないが、芭流」
名前を口にされると、苦笑しながら彼は歩み寄る。
「朱那様。夜分遅くにすみません。なぜいるとおっしゃられても……。まあ、強いて言うなら『夜這い』ってやつですかね。――許嫁のもとに」
(――全くもって、こいつは威勢がいい)
朱那は垂れる前髪をかき上げるようにして、大きく溜息をついた。
普通、父親の前へ来て『夜這宣言』はしないけれど、彼は違った。知らずに羞恥を口にするならただの愚者だろうが、彼の場合は見越した上で言っているのだから何とも性悪な男だと朱那は認知している。
「許嫁?笑わせるな。それは(仮)を付けるべきだろう?――まあそんな事はどうでもいいが。こんな莫迦なことをしていていいのか?『芭流』といったら今、世間の注目の的だろう。奴らに尾行でもされているだろうな?」
それを聞くと芭流は整った顔を少し歪めた。きっと彼にとって『一番好きで、一番嫌いな話』なのだろうと思うから、朱那も容赦なく口にする。
「別に勝手にさせておけばいいんです。ありもしない事を書いているだけで、彼らは楽しいらしいですから」
そう述べると、芭流は扉へと歩を進めた。
またいつものように、葉澄の部屋の窓から侵入したに違いなかった。彼は若さに加えて、全くそういう事だけはやたらと上手い、厄介者だ。
「葉澄の嫌がることをしたら……解っているだろ?芭流」
威圧的な牽制を聞いているのか、いないのか。芭流は帰りざまに朱那を見て、口許を微かに笑ませた。
゜***。***゜***。***゜
「……あの、私は桜葉澄といいます!」
瞬間、『やばッ』と思った。
『誰だ』と訊かれて、条件反射だったとはいえ、名前を名乗るなんて筋違いだ。
――ゼッタイに、彼は怒ったはず……。
俯いた顔を上げると、目の前に遠目に見ていた彼がいた。
背は高くて、すらりとした体格で。たぶんだけど、年も身長も芭流と同じくらいだと葉澄は思った。
「あ、その……」
「――桜家の者か?」
言葉に詰まっていると何故か質問をされてしまって、葉澄は拍子抜けしてしまった。悪気はないけれど、なんだか謝りたい気分だったからそうしようとしたのに、これはどうすれば……。
葉澄はぽかんとした顔になる。だって、こんな質問をされたのは初めてだったから。
「……ええと、はい」
「天女かと思った……それが羽衣のように見えて」
そう言って、彼は肩掛けを指さす。
(……いや。こっちこそ……)
まるで似たような事を考えていたから、葉澄は先に言われて少し恥ずかしくなったけれど、ほっと息を吐く。
(でも、怖い人じゃなさそうでよかった……)
辺りには、桜の爽やかな香りが通り過ぎて、捕まらないように追いかけっこをしているように散らばっていて。そして、意地悪な風に吹かれて散った花びらたちは、まるで柔らかい絨毯みたいで、この感覚は踏み心地がクセになる。
「つい長居をしてしまった。……桜には満月が似合うな」
ふと耳に届いた声音は淡々とした口調だけれど棘は無くて、優しく澄んだ声だった。でも笑ったらきっととても素敵じゃないかなと葉澄は少し残念に思った。
葉澄は上向いて、絵に描いたような彼の顔を見る。
(――さっきの、見間違いだったのかな?)
泣いていた気配なんて全然なかった。
「桜、好きなんですか?」
無意識のうちに声が出ていた。葉澄は自分でも驚いたけれど、それはとても自然な口調だった。
「ああ、とても……」
「私もです。でも夜桜もいいけれど、朝陽を浴びた桜も格別ですよね」
桜の木を見上げながら呟くと、葉澄は微笑んだ。のんきに思い出し笑いなんてしていたせいだろう。次に起こる出来事を予期できなかった。
香水とはまた違った心地の良い香りがして――。涼しい外気から、温かな体温が身体を包む。
(……あれ、なに?懐かしい香り……)
顎が持ち上がり、綺麗な瞳と視線がぶつかった。
「変わらぬ、そなたは……」
掠れた囁き声に気を取られ、数秒、何が起きたのかも葉澄はわからなかった。
「……んっ?」
でも、手や耳はとても冷たいのに口もとだけが熱いのが不思議で、身体中が熱くなっていくのを感じて。そして頭がはっきり動き出してきた頃に彼の綺麗な瞳と唇が優しく放れていく。
何かのお酒の味がした……。バカみたいにそんな事を葉澄は思って、そしてはっとする。
(これを誰かに見られていたら、なんて言い訳しよう……?)
出会ったばかりの知らない人とこんな事をしてしまうなんて、きっと現行犯逮捕だ。そんな事を思った矢先、彼の大きな手が優しく冷たい頬に触れて、その長い指先が離れていく。
「単なる挨拶だ。またな……桜家の娘」
そう口にした彼は、少し笑った気がする。
束縛されていた腕から逃れると、こんなにも外気は寒かったのだと知った。行ってしまう彼を呼び止めたかったけれど、また体が動かなくて、その後ろ姿を見ているだけがやっとだった。
(彼は、誰なんだろう?)
あんなに綺麗な人だから、もしかしたら椿燐街の人だろうか?それに唇を奪われてしまった……。
(あいさつ……)
世には変わった習慣があるらしい。葉澄は魂が抜けたようにその場にただ立ち尽くしていた。
「葉澄!やっと見つけた……」
背後から聞き慣れた声がして葉澄ははっと振り返った。月明りに鮮やかに光る橙色の髪が目に映って、ほっとする。
きっと周りに誰かいたなら『なぜ彼がここに!!』と大観衆と同じ対応を取るだろうけど、今、それは必要のない事で。誰も周りにいなくて、こうして二人きりで会うのは久しぶりだった。
「どうしたの?こんな所まで」
「迎えに来ただけ」
見ない間に、彼の髪は後ろで結べる程度に伸びている。どのくらい会っていなかっただろう。もう季節は春になって、桜の花が満開に咲き乱れている。
「でも芭流、大丈夫なの?」
「あれ、本気にした?話題になっているよな」
(なんだ。案外、他人事って感じ……)
芭流は葉澄の頭についていたらしい花びらを取りながら髪に指を絡ませる。それは、とても優しい手つきだった。
「まさか……だってあり得ない」
それを聞いてほっとしたのだろう。表情を解すように微笑む彼は優しく葉澄の身を包むように腕を回す。
菊芭流。彼は、国内で最も人気を誇る《豹鈴香》という四人組のグループのいわゆるエース的な存在で。三年ほど前に《豹鈴香》は結成されたけれど、今では国内で知らない人はいないくらいに有名な人になった。
街を歩けば、彼らの物販や宣伝紙は数多く出回り。年頃の女の子たちは、キラキラな《豹鈴香》の事が何よりも好きなのだ。
「よかった。叱られるかと思った。……ん?葉澄、顔赤くないか?なんかあった?」
言われて、葉澄は咄嗟に顔を両手で包み込む。頬っぺたは、あの出来事の影響で火照っていたらしい。
(……ま、まずい)
見られたくなくて顔を背けると、近くに設置してある大型の石椅子に即座に座った。
「さっき……走ってここまで来たから、そのせいじゃない?」
すごく、焦っているのが見え見えの言動をとっている気がして、葉澄は横目でちらっと芭流を見ると彼は隣に座ってくるではないか。
(――お願い、バレませんように……)
「桜、そんなに見たかったのか?本気になりすぎ……」
そう言ってふっと笑いだした芭流を見て、葉澄は胸を撫で下ろした。久しぶりだった、こんな笑顔を見るのは。近頃の彼の撮られた写真といったら気難しい表情のものばかりだったから。
けれど、安心したのも束の間だった――。知らぬ間に彼の身体が自然と近づく。
「……キス、しない?」
甘い声で囁かれて、葉澄は慌てて飛び退いた。
「――えっ!?何で?」
「その顔……誘ってるようにしか見えないけど。実際、どうなの?」
葉澄は動揺した。さっきの今で、同じような展開になってしまうなんて断固としてお断り!!心臓がもたない。
「そういう雰囲気だと思ったけど。嘘、その気がないなら……これでいいから」
不意に芭流は右手をとると、指先にちゅっとわざとらしく音がするように口付け、それでも視線は意地悪く葉澄を捕える。
――くすぐったくて、恥ずかしくて……葉澄は逃れたい気分だった。
「あ、あのねぇ……」
――絶対に!!自覚が足りないと口に出して言いたい。だからいつも芭流は大変な目に合うんだ……。
根が優しくて面倒見のいい彼の事だから、その過程で相手が卑猥な感情を抱いてしまったのだろうとしか思えない事の内容だったけど。現実にはその良心が裏目に出ることになる。
「芭流。ここまでは記者の尾行はないと思うけど。私……――」
また強い風が吹き、桜が舞うのが見ようとせずとも見えてしまう。
「なに?なんて言った?」
芭流はいたって単純な疑問を訊いてきた。それはまるで答えを求める幼い子どものようにも思えて、自分よりも遥かに大人に見える彼が二つしか年が離れていないと葉澄は思い出す。
そして芭流を捉える以外の視界には踊らされる花が白く降り。それとは反対に、目立たない天空が闇の色を増していく背景が広がる。
この美しい光景にもし言葉が負けたのなら、『勝ち』はそれらに譲ってしまえる。しかも、この何とも表現のし切れない不可思議な心の内を、二度も同じように伝える勇気も彼女にはなかった。
「何でもない。それより――」
葉澄は気を紛らわせるために広大な桜を眺め、口を閉じた。思えば、彼とこの桜を見るのは何年ぶりだろう。……忙しがっていると、時が過ぎるのは早い。
「久しぶりだね。最後にふたりでここの桜見たのっていつだっけ。その間に芭流はすっごく有名になって。噂も絶えないし」
「それ、ケンカ売ってる?」
別に彼は怒っている訳ではなかった。喧嘩を売っているつもりも更々ない。ただ、時が流れるという事はみんなが未来に進んで行くってことだ。情況はいつも同じではいられない。
だから時がこのまま止まってしまえばいいのにと思う。そうすれば、この美しい景色は無くなる事もなく、この優しい時間が終わる事もない。
けれど、それは絶対無理なことだと誰だってわかっている。わかっているけれど、一滴の望みを抱いてしまうのだ。
――このまま止まってしまえばいいのにと。
そうすれば、この先の道を進む必要はないから。
芭流を見遣れば、普段はちゃんとしているくせに気を抜くとすぐにだらけて、今だって自宅気分で寛ぎながら桜を見物している。でもこれは彼が安らいでいる証拠。
「ちがうよ。『私たち前に進んでいるんだね』って、言いたかったの」
見なくても芭流が見てくる気配がわかるから、葉澄は視線を返した。言葉のかわりに向けられた瞳は繕わない素の彼のものであり、そんな姿を見られるのは、きっと今だけだ。
――知っている。彼は誠実だってこと。だから居住まいを直して、ちゃんと話を聞いてくれる。
「葉澄、どういう事?」
「私はね、ここに来るといつだって幸せなの。何もかも私の大切なものが詰まっていて、ここの空気が大好き。だからつい、また来てしまうの。……芭流。私に気を遣わなくていいんだよ?忙しいのにごめんね」
(何を言っているんだろう、私は。言いたいことはこれなの?)
「気を遣う?何でそう思う?」
「芭流は優しいでしょ?だから私を構ってくれる……。だから甘んじてそれに縋るんだよ、私」
葉澄はただそう囁いた。気持ちなんていうものはお構いなしに、それがただはっきりしているだけ。
「俺がただ単に誰かを構うと思う?俺だってそれは区別してる」
ふと隣を向けば強い眼差しとぶつかって、時が動いていることさえも曖昧な感覚になって……瞬きをすることも忘れてしまったように、瞳が瞬く間に潤んでくるのがわかった。
彼の真剣な眼差しは本当に前から大好きだった。この眸はいつだって恋しい。
(芭流……。やっぱり優しいよ)
葉澄は潤む瞳をどうにかしたかったから目をぎゅっと瞑る。
「なあ葉澄……俺の気持ち、わかってる?」
はっと目を開けた時には彼の顔が目前にあって、唇が触れ合う前に葉澄は顔を逸らす。
「俺が触れたいのはお前だけ。信じてくれないの?」
「違う……そうじゃないよ」
「でも、近づくと逃げるだろ?それとも無理強いすれば頷いてくれる?」
(……ずるい。芭流は嘘吐きだ。絶対にそんな事、しないくせに……)
それなのにこうして甘い言葉を呟いて、そわそわさせて。まるで羽毛のように優しく包み込む。
「……ごめん、度が過ぎた」
「……え?」
芭流は立ち上がり様に小声で囁いた。そして彼は振り返ると、優しい表情で口を開く。
「帰ろう。送ってくから」
一瞬戸惑ってしまった。だからその所為で、ぱっと勢いで立ち上がったかもしれない。久々に会うとやっぱり幼馴染みとはいえ芸能人なわけだから、緊張してしまうのも無理はない。葉澄は無言のまま隣をついて歩いて、けれど彼の方が歩調を合わせてくれていることは目に見えていた。
「ねえ、芭流?どうして家まで来たの?出歩いていたらまずいよ」
そう訊いたのは、会話が無い状態も嫌だったというのもあるけれど、『菊芭流』は今、都外にいることになっているから。
「会いたかったから。それじゃ、理由にならない?」
よく見れば前より痩せた気もするし、あの理不尽な内容の対応に尽力していたのだろうとも思うのに。それなのに私はどうして、へそを曲げた子供のように嫌な態度しか取れないのだろう。
「……まあ、桜区は安全だよね。誰も芭流を傷つける人はいない。……だから芭流はここにいればいいと思う」
ゆっくりとした時の流れだった。開いてしまった距離感を窺いながら詰めていくような、緊張して手に汗が滲むような空気が広がる。
「葉澄がそう言ってくれるならそうする。俺の居場所、今は無いから」
葉澄はその声を彼から二、三歩先へ行った所で聞いていて、空を何となく見上げながらふうと息を吐いた。冷えてきた空気は容赦なく肌に痛みを残す。
腕を抱える仕草をすれば、ふわりとした温もりが身体を包み込み、芭流が自分の上着を後ろから掛けてくれたのだとわかった。振り向いて隣を見上げると、彼の気に入りの香水の香りが何気なく漂って、それはいつだってざわついた心を穏やかにしてくれた。
(この国に知れ渡る彼を追い詰めていくのは、果たして誰なのだろう?)
それは優しさも微塵も感じない言葉を連ねる記事の内容なのか、彼に異常に熱狂的な世間の目なのか。もしかしたら、愛とは程遠い感情を見せる自分なのかもしれないと思ったりもするけれど。
見えない〝異状〟は彼を第一人者にし、そして無情にも彼の心を無視して突き放す。それでも彼を守ることは、こうして寄り添って歩くように簡単にできてしまう事ではなくて。きっぱり離れることも、葉澄にはまた出来はしない。
「散ってしまったのか……」
指先でつまんだ桜の花びらをいじりながら、それに話しかけるように呟いた。
先ほど出会った、可憐な少女の頬の肌触りと似ていて、歩きながら後ろを振り返る。
さらさらした蜂蜜のように透き通りそうな髪をした、愛らしい瞳を持つ少女――。触れても口もとが紅くべたつかない口づけは、思えば久々だった。
地面まで着きそうな美麗な色の外套を靡かせ、その頭巾を深く被った男の口許だけが不意に笑んでゆく。
「……桜、ようちょう……」
そうして優しい風が吹くと、小さな花びらは掌から暗闇に舞っていった。




