桜そよぐ夜
優しく暖かい風が去ってから、広大な私室にぽつんと忘れられた落ち葉のような気分に、彼女は少し暗い表情をした。普段ならば見せることのない姿だろうけれど、その様子でさえ女性らしく麗しいというのは、やはり〝花街一の美女〟と言えるだろう。
そして、翡翠は無意識に大きな格子窓へと近づいた。
窓の外の景色はいつも通りに賑わいでいて、少しほっとしたような顔をする。
きっと《この街》の外はもう静まり返る時刻で、星の輝く夜空とともに皆は温かい眠りに着き――それはとても優しい温もりなのだけれど、そんな当り前のことも彼女にとってはそうでは無い。
「外でも、もう桜が見頃なのかしらね……」
誰に向かって発したものなのか、それは彼女にしかわからない。けれど返事を求めるような表情ではなかった。
椿燐街で暮らす者は一様に、外の様子を知らないという事が当たり前で、それは自身の階級が上がるにつれて、比例してその度も増していくのかもしれない。
そして、いくら知識や情報を持っていたとしても揺れる心に嘘は吐けなくて、実に空虚で何にも伴わなく、物足りないものばかりの移り行く日々は心が空っぽになりそうになるけれど、『気持ち(こころ)』という何よりも大切なものを妓女たちは今も必死で守り続けている。
「――っ!」
翡翠は慌てて振り向こうとした。けれど後ろから腕をまわされた状態では、首を動かすだけで精いっぱいだ。
「苺羅様?声をかけて下さればそちらに行きましたのに。……私はてっきり、お眠りになっているものと」
「私はずっと起きていたよ?君と少女の会話も、可愛い独り言も知ってるんだから」
苺羅は後ろから優しく囁き、少し力を強めて抱きしめる。
全く、国の高官ともあろう方が故意に盗み聞きなんて……と翡翠は思うけれど、長年つき合ってきた中で、調子を合わせると体力を消耗するだけだと学んだので、彼女はため息を吐くだけだった。
「……苺羅様、そろそろ茶番はよろしいのでは?鬱金香はその様な所ではありませんし、お望みならば別の店を手配いたします」
「ふふ。翡翠らしいね。今みたいな顔を他のお客にも見せれば、もっと好感度が上がって面白いことになるだろうに。なんて勿体ない」
からかうように彼は耳元で囁くと彼女の耳朶を甘噛みし、それに対して翡翠はいつものごとく押し退けた。
『街一の妓女』に向かって、彼は冗談事を述べるのだ。そして悪びれる様子もなく、ただそれは〝遊びの中の一つでしかない〟というように〝気まぐれな接し方〟をして――感情のこもらない態度をとる。
ただお気に入りの人形を愛でるように、それは一方的な愛情であって、相手には『感情』というものは必要なく。ただ楽しむ事が出来れば――彼にとってはそれだけで十分なのだ。
すると苺羅は何を思ったのか束縛を解放し、翡翠はほっとしたけれど。すぐに振り向かされて、名残惜しそうに頭上に口づけを落とされた。
不意にふわりと甘い香が鼻をくすぐる。――これは彼の気に入りの花の匂い。
「ねぇ、翡翠?君は『運命』を信じる?」
上から聞こえた声に反応して彼女が上向くと、実は今日始めて彼と目が合ったのだとわかる。
それにあまりにも唐突な質問だったので翡翠は少し首を傾げたけれど、まさに彼らしい話題だったのでしっかりと答えることにした。
幻想的で何とも甘美で――本当に、この人にはぴったりのお話しだったから。
「貴方は、どうなのですか?私はその様な事もあるのではと思いますわ。――苺羅様との出会いは、きっとそれに入りますもの」
翡翠はやっと苺羅を押しのけ、背を向ける。
ここで、他の娘たちのように上目づかいで可愛らしく、『わたしたちの出逢いは、運命でしょう?』と媚を売ることが出来ればどんなに心が楽なのだろう。けれど彼には嘘は通用しない。その所為でいつでも心は掻き乱される。
彼女は咄嗟的に窓枠に手をついた。
それにしても、今にも『過ち』が起こりそうな相手を前にして何とも感情が震えないのは、この彼のように実は変わり者なのかもしれないと翡翠は密かに思った。
「ふーん、そうか。私たちは〝それ〟なんだ。じゃあ、これからは信じることにしようかな。……これからはね」
そう言って離れていった彼は座面の柔らかい長椅子でまるで飼い猫のように寛ぎだす。翡翠は溜息を一つ吐いた。
苺羅は椿燐街で最も『有名』と言っていい人物で、何かと浮いた噂が数多く飛び交う中で、なぜか好んでここへ来る彼は本当に変な方だとは思うけれど。それももう慣れるほどに翡翠はこの街に馴染んでいた。
「どうした、翡翠?今夜は君らしくないね。もしかして、さっきの娘が気になるの?少しの間、離ればなれになってしまうみたいだね」
本当に話を全部聞いていたらしく、苺羅は心配そうな顔をして訊ねる。別に彼に至っては聴かれても問題ない話だけれど、あまりいい気はしない。
だから翡翠はゆっくりと瞬きをして苺羅に歩み寄り、麗しい瞳で彼を見つめた。日頃の鬱憤を晴らしても、今夜は見逃してもらえるだろうか。
「女の子のお喋りを盗み聞きなんて、善い趣味とは言えませんわ。女子には聞かれたくないことがありますもの。苺羅様でしたらわかるのでは?」
「そう?翡翠の知られたくないことっていうのは、例えば何?私は知りたいよ。君のことなら何でもね」
翡翠は眉を顰め、口を噤んだ。
手を引かれ彼の隣に座れば、また甘い言葉が耳元で遊ぶからだ。
でも、この優しい手は平気で嘘偽りを口にする男のもの。――絶対に信用してはいけない。
そうでなければ、美しい翅は彼の艶やかな糸に搦め捕られ、逃げられなくなってしまうから――。
頬に冷たい指が触れて、翡翠は彼の美しい光を放つ眸を見ることしかできなかった。
「……申し訳ありませんが、そろそろ宴の準備をしなければ――」
「あの娘を、どうして帰してしまったの?もう少しで彼は来るのに」
囁かれたその言葉に、翡翠は何も答えられなかった。
それはきっと、意表を突かれたから――そう言い聞かせて。
「翡翠?彼はきっと、あの娘を気に入るだろうね。だからあの娘を『本当の妓女』にしないのかな?」
心を読まれているような感覚に、翡翠は怖いほどに優しい眸から目を逸らす。
(いつだって苺羅には及ばない。考えは全てお見通しだから……)
彼にしてみれば、他国にも名を馳せる『翡翠』だからといって何も価値を待たなかった。彼にとっては、偶然出くわした街を歩く《他人》と昔から馴染みのある《知人》とでは大して差はなく――けれどその中でも、最も目に残るものを彼は逃がさない。そうして、いつでも彼の思い通りになってしまうのだ。
「彼女ならきっと、この先も上手くやって行けます。だから何も……」
不意に苺羅の瞳の色彩が変わって、翡翠は息を呑んだ。
動けないでいる翡翠に彼はにじり寄る――興味深いといった表情で。
「それは嘘だよ。やっぱり『いつも通りの君』とは違うよね……」
この甘い声に気付いた時には、『もう遅い』とわかる。考えてみれば、今夜は彼のためにお酒の用意もしていなかった。
――本当に翡翠らしくない。
「私は、嘘吐きは嫌いではないけれど、翡翠が嘘を吐くのは嫌いだよ……。知っているでしょう?」
普段よりも低くなった囁き声がした後、腰のあたりから鈍い音がして、重たい枷が身体から外れていくのを感じると、翡翠は口を引き締めて長く可憐な睫毛を伏せる。
――これがもし運命の悪戯ならば、もうちょっかいを出さないで。お願いだから……。
形の良い唇が重なり、習慣のように触れる肌の熱を感じながら翡翠は切に祈った。
そしてこの後、彼は誰にも気づかれないところを見つけては、あかい痕を残してゆくのだろう。自分の玩具を無くさないための印をつけるように――。
捕えるように見つめる、この麗しくて残酷な色彩の瞳から逃れられる術を見つけることができたなら、どんな先が待っているのか。知らず知らずのうちに濃くなってゆく関わりをなかったことにできたなら、きっと何も不自由なく、感情のままに生きられただろうに。
それなのに……それなのに今でもなお、猫のように気まぐれな彼から【翡翠の胡蝶】は脱け出せないでいる。
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椿燐街からの帰り道、いつもなら鼻歌を歌いながら歩いて帰る道を、『今夜はもう遅いから』という理由で翡翠に馬車を手配してもらった葉澄は、家に辿り着く前にお供の人にお礼を言って馬車から降りると、ある場所に向かった。
何となく立ち寄りたいと思っていたし、さっき聞いた話の整理をしたいというのもあるかもしれない。
今夜は月明かりが綺麗で、辺りが見渡せるほどだった。満月の夜はこの美しく澄んだ光を浴びたくて、外へ足を向けたくなる。月を見上げながらそぞろ歩けば、微かな砂利の擦れ合う音がまるで奏でるように耳に届く。
(でも本当に話の内容にはビックリよ……)
まさか生涯で行けるなんて考えた事も無かったし、しかもそれが〝内密に〟というのなら発言には気をつけなければならない。葉澄は視線を奪う月明りから目を放し、立ち止まって遠い一点を見つめる。何も見えないその先には、この世で最も美しいとされる宮城が佇んでいるのだ。
「それにしても……どーして、わたしが??」
専属芸妓を任されるなんて――しかも、仕える主は……王様!?
急な展開に頭は置いてきぼりをくらっていて、何がどうしたのかもう分からない。それに、翠お姉さんの『お願い』には弱いのだ。
「……あの月が無くなったらってことは……あと半月」
父様たちには『翠お姉さんの侍女を住込みですることになった』と言っておこう。心配はかけたくないからね……。でももしかすると、私はとても失礼な理由で王様にお仕えすることになるのかもしれない。
「王様って、どんな人なんだろう……」
葉澄の父親の桜朱那はお城に勤めてはいるけれど、王家のことをそれは嫌っていた。その影響を受けているかは知らないけれど王様にそこまでいい感情を持っていなかった。信頼する父の言うことだから甲斐甲斐しくもずっとそう思い続けているのかもしれない。ほとんどの女性は大喜びで引き受ける仕事のはずだけれど、葉澄には全く無縁の感情だった。
確か二年ほど前、前王様が療養のためにその子息が若くして王に就くといった話が湧いた。けれどその話にはさほど興味がなかったから、試験に出るくらいの情報だけを仕入れて周りの会話に加わる気はしなかった。
「……うう、さむっ」
肌寒い風が吹き、葉澄は羽織の襟元を掴みながら縮こまった。春だからといって油断は禁物で、でも早足で来ていたおかげで体が温まってきて良かったと微笑んだ。この時季は日中との気温の変化は激しいから、衣服は考えなければならない。
月光を頼りにそそくさと歩き、葉澄は目的の場所に足を踏み入れた。
そう。『着く』というより『踏み入れる』といったような、威厳のある表現のほうがここには似合っている。それに加え、闇に射す月明りによってその魅力は増しているに違いないと思った。
住宅地を少し離れた公園にはもう人気はなく、奥に大きな桜の木が見えるだけだった。綺麗に整備されたこの場は石畳に月光が反射し銀色に輝いていたから、まるで自分が何かの物語のヒロインのように思えて、その贅沢な気分に葉澄は酔いしれた。
「いつ見ても綺麗……」
物心ついた時から桜吹雪の舞う様を見て、ずっと目に焼き付いている。高大で真っ白な綿帽子は今も変わらず何かを守るように大きくて。それにこの桜の木は大好きなお伽噺の発祥の樹だから……大好きだった。
辺りを流れる静かな小川の音に、囁くような葉擦れと、遠慮がちに耳に届く沓音だけ――。本当にそれだけしか聴こえなかった。さっきまでいた所とは全く大違いで、でも――。
(思いに耽るには丁度いい……)
……そう、そう思ったけれど……。
今なら、それどころじゃ無かったと思える。だって、目に飛び込んできた風景に圧倒されてしまったから。
葉澄は目を見開いた。
――月明りって、こんなにも明るかっただろうか?
そう疑問に思えてしまうくらいその煌めきは眩しくて、虜になった。大木の陰から見えた景色はまるで誰かが描いた美しい絵画のようで……。
ただ立ち尽くしているとその人が気づいて振り向くのがわかる。でも、金縛りにあっているみたいに動けなかった。
(私はただ、桜を見に来ただけなのに。どうして……)
風に煽られ舞い散る花びらを視界の端に入れながら、一番きれいな輝きを目で追ってしまう。だって……吸い寄せられて、はなれられない。
まるで使いものにならなくなった頭で考えられたのは、その人は静かに泣いていたんだってこと。男の人が泣いている姿を見るのは初めてだから、どうしたらいいのか分からないのかもしれないけど。ずっと眺めているだけで、立ち去ることもまたできない……。
「誰だ……?」
響いた低い声色に葉澄の思考は完全に止まってしまった。頭の中が真っ白になって、何の言葉も出てこなかった。
そしていつの間にかその人は目の前に歩み寄っていた。




