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夢幻の都と淡い音色

 夜の帳の下りる頃、その街には人が群れ、まるで時の流れさえも忘れてしまいそうな甘い香りが漂い始めると、豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な佇まいの高楼から辺りの様子を(かんが)みる。

 やはりこの場に見合った高雅な衣装を身に纏った者たちが(つど)っていた。

 この豪奢な花の都【椿(ちゅん)燐街(りんかい)】も、傍から見れば特異なものなのだろうが、国自体がそうであるなら話は別だ。

 【夢幻の都】――そう(うた)われる朋鸞国(ほうらんこく)は、まず目に入る美しい花々や類なき素晴らしい芸術の数々に恵まれ、その存在を保持し、人々を魅了してきたと言っても過言はない。

 そして夢幻の国を訪れた者は、口を揃えてこうのべるのだ――。

 『迷い込んでしまったら、抜け出すことなどできない』

 もとより、暮らしている者たちからすれば全く意味の通じない言葉なのだろうが、謎は容易く説くことができる。ただ単に〝迷路〟という話ではない。きっと彼らが表現したいのは、いつの間にか〝陥ってしまっている〟ということで、例えるなら、蜘蛛の巣に捕まってしまった可哀想な蝶だと私は思う。

『至福』という幻想を見せられるのだ――。

「…………っ」

 ふと、聴き覚えのある美しい音色が耳に入り、男はそちらに意識を向けた。

 彼は見るからに怠惰なありさまで、今にも脱げてしまいそうなほど衣服を着崩していたけれど、一目見ればその着物が高価なものだとわかる。

 窓枠に頬杖をつきながら、その二十代半ばほどの男は嬉しそうに耳をそばだてた。

 夜風に乗りながら生み出される音色は、耳だけで受け取るにはもったいないもので、心を満たしてくれるものだ。

「いい曲だね……」

 和んだ表情で彼は呟いた。

 流れる音は緩やかだけれど、時に水面に残る波紋のようなときめきを与えてくれる恋の詩は、耳を傾けずにはいられない。――きっと、誰もがそうなのだろう。

 魅力的な舞や虜になる音色の陰には儚くも美しい物語が眠っているように、それは通り過ぎる風の如く見落としがちだけれど、人はどこか安らぐような感覚を懐かしく思い、そして、大切に扱われてきたものだからこそ人々は愛おしく思う。そうしていつの間にかその気づかぬうちに(ひそ)かに魅せられ、やがて夢中になっているのかもしれない。

 欠伸をしつつ何気なしに窓下(そうか)の通りを見下ろすと、いつの間にか人集りができていた。

 そして「ああ」と微笑みながら頷いた。それが何に対してのものであるかは、彼にはすぐに理解ができたからだ。

 日の下で美しく咲き誇る美麗な花が今はもう色彩を消し、《夜の華》が自然と目に入る時刻……。椿燐街はいつも通り控え目な灯火に包まれ、優しく響く音色だけが耳に残る。

「この曲は確か……」

 (どこかの家の美しい姫君と幻の鳥との、深く切ない愛の曲だったかな……)

 流れ込む曲は、曲調からは想像もつかない切ないお(はなし)だけれど、その噺がこの(つむ)がれる曲だということはあまり知られていない。だからそれを知っているものはごく僅かだろう。

 そしてその音の先は、いつでも椿燐街の中心部からだった。

 最も豪華な楼閣の前の広場は、近頃では自然と人が集まるといった様子が習慣になり、その群衆の見つめる主役はいつでも同じ可憐な少女で、まさか彼女がこの麗しい音色を編み出す張本人だとは、誰一人として思わなかった。

 そして曲が終わりを告げる。すると静かに聴き入っていた観衆から盛大な拍手が贈られ、少女が頭を気恥ずかしそうに下げながら、頬を赤らめる。そんな姿は、ここでは奇妙なほどに珍しいものだった。

 その初々しい少女は桜葉澄(おうようちょう)という名で、最近の新たな名物になっている。

 店の者や妓女たち、客として街を訪れる豪富たちですらわざわざ足を運ぶほどの腕前は噂にならないはずもなく――当の本人は神出鬼没なために〝珍名物〟として知れ渡っているという方が正しい。

 彼は酒杯を(もてあそ)びながら次の音色を待っていたけれど、一向に流れてくる気配は無かった。首を捻るとまた窓枠に肘をついて窓下を見下ろし、少女がすでに二胡をしまっているのを確認した。

「ふふ……」

 愉快なものを眺めるように小さく笑うと、彼は「そうか」と物事を理解したように呟く。

 (〝少女(こども)〟は帰る時間だよ……)

 そして白々とした月の明かりの中に怪しく、杯の火色が鮮やかに揺れる。丸く輝く月光に導かれ、世界がざわついている。

「……始まるね」

 誰にも聞こえない声で、男は何かにそう囁いた。


  ゜***。***゜***。***゜


 いつにも増して切り上げを早くした葉澄の向かった先は、椿燐街で随一の楼閣【鬱金香(うこんこう)】だった。趣のある建物は目を惹かれ、一度はぽかんと立ちつくしてしまうだろう。異次元に足を踏み入れたような環境は椿燐街ならではだけれど、やはり時が止まってしまったようなこの太古の世界を感じられるのはこの【鬱金香】は絶大だった。

 そしてその花の名の通り、選りすぐりの美姫が集められ、他とは比べることなどできない妓女たちは確かな品格を持ち――女人からなら憧れの的という存在で、男性から見れば高嶺の花というのは間違いないだろう。

 けれど、何故そのような所に年若い少女が遠慮なく入っていけるのかといえば、長い話になってしまうので――ここでは、知人から〝お呼び〟がかかった、ということだけ伝えておこう。


 葉澄はきっちりと正装した男性にいつものように案内され、見知った扉の前に辿り着いた。

 どこよりも美しい造りの外装にはいつも感動してしまうけれど、中の様子を知っている葉澄にとっては、それだけで『満足』なんて言えなかった。なぜなら、扉の向こう側には目を疑うほどの栄華が待っているのだから。

 葉澄は案内の男性にまたいつものようにお礼を言って、「(すい)お姉さん。葉澄だけど……」と中に声を掛けた。

 返事を聞いて中に入れば、やっぱり何度だって立ち止まって驚いてしまう。それ程に雅やかだった。

 まるで深海を思わせる綺麗な垂幕をくぐり抜ければ、生活感を感じさせない調度が目に入り、洗練された淡い色彩の室内はこの部屋の主にとても相応しいと常々思う。それに揃えられた家具は猫脚仕様で可愛くて、それは幼いわけでは無く『大人っぽい』という言葉がやっぱり当てはまるものだった。

 葉澄が一通り見尽くして視線を落とすと、美しい刺繍の施された着物を着た美女が椅子に麗しく座って微笑みかけていた。彼女はこの椿燐街で最も気高い妓女として知られる女性だった。緩く波打った漆黒の長い髪は優しい印象を与え、翡翠のような瞳は本物の宝石のようで見惚れてしまう……。

「葉澄ちゃん、いらっしゃい。ごめんなさいね、呼びつけたりしてしまって」

 このドキリとしてしまう声色や表情にきっとみんな負けてしまうのだと、憧れを抱く葉澄はいつだって思うのだ。

 目の前に現れた美しい女性は、名を(とう)(ほう)(すい)と言って――彼女は藤家という名門のお姫様だけれど、この椿燐街に引き抜かれた。それもそのはず、椿燐街でもその容姿や心遣いでは抜きんでる者もいないと断言できるほどに完璧な人だ。そして椿燐街は本当に端整な人々で溢れている。

「翠お姉さんから話があるなんて、びっくりしちゃって。気になって、ずっと上の空で。曲の弾き間違い、大丈夫だったかな……」

「それは大丈夫、完璧だったわ。私も聴いていたから」

「えっ!そっか……。でもこれって、続けていてもいいのかなって、思うんだよね。やらせてもらっているのはすごく嬉しいけど、私っていつも、中途半端だよね……」

 芳翠は手際よくお茶を淹れてくれて、葉澄に差し出してくれながら、目を瞑って首を左右に振る。手元に現れたのは、湯気の立ちのぼる優しい香りのした花茶だ。

「私ね、よく話を聞くわ、葉澄ちゃんの。『前の広場の二胡弾きの少女はどこの店の娘さんか知っている?』『彼女にお願いをしたら、好きな曲を快く弾いてくれてね』って。近頃では、葉澄ちゃんの話で持ちきりね。――でも、最後にはこうお答えしているの。『ここは椿燐街ですから』って……」

 芳翠はまるで精霊のように麗しく、何も欠けることのない微笑みを葉澄に向ける。

 『ここは椿燐街』――そう、ここは夢裡(むり)の街。

 ――この街に『真実』は必要ない。必要なのは、美しく飾られた光景と心を癒す時の流れだけ。だから皆、この街の人々は『元の世界とは違う自分を演じ続ける』。

 だから誰も、相手の真の正体を知らない――。

「……うん、ありがとう。すごく助かるよ……」

 葉澄はぎこちなく笑った。

 自分は『翡翠』というこの街で一番の妓女の本当の名を知っているけれど、翡翠という美しい名を持つ美女は世の憧れの的であって、手の届かないほどに丁重に扱われる人なのだ。こうして話ができるなんて、本当はあり得ないこと。

「葉澄ちゃん、私は思うわ。椿燐街はやはりあなたの実力を発揮できる絶好の場だって。それに私のように正体を知られずに済む……。私はあなたが楽しんでいる姿を見ているのが大好き。それに反響の声を聞けるのは私も嬉しいわ。……実はね、お話ししたいものもそのことで、私も考えはしたのだけれど、これは私が決められることではないから葉澄ちゃんに言わなくてはと思ったの」

「……うん。何の話?」

 葉澄は膝に手をつき、神妙な面持ちで言葉を待った。

「葉澄ちゃん。あのね……唐突だけれど、後宮に行ってみない?」

 余韻のようにほどよく優しい花の香りは漂い、辺りに満ちていた。


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