夢のような『夢』の終わり
寝静まった嬢花宮。ここは一人ひとり部屋がわかれ、様々に伸びる階段を辿ると小さくて可愛らしい形をした扉へと行き着くようになっている。月明りだけが差し込む回廊を歩いていると、アーチの道が光輝く。向かう場所は『姫の宮』だった。
なぜ真夜中に出歩いているのかと言えば、着けばわかる話で、見回りも兼ねながら長い道のりを進む。
『彩華宮』『嬢花宮』『胡桃宮』――他にもまだ後宮には宮があるけれど、中でも一番美しいと思うのは、やはり姫の住む『胡桃宮』だと思う。
ひっそりとしていて、目に見えて華やかなわけではないけれど、初めて目にしたときは言葉を失ってしまう惹きつけられる存在だ。
コツコツと履く靴の音が耳に響きこだまする。
何を話し、何を告げるのか、そんな事はもう決まっている。事態が起きるであろうということは前々から想像していたから。
久々に足を踏み入れたと、この時思った。相変わらず綺麗な装飾に囲まれ、生活感は微塵も感じない。
けれど、ふぁさっと風に煽られた絹の帳を目にして、時の動きを感じた。
「不躾で申し訳ありません。勝手に入ってしまいました。もうお休みでしたか、苺羅様」
姿の見えない相手に対し、茶燗は口を開く。これは普段と同じ女官としての対応だった。
「珍しいね。君から私を見つけてくれるなんて。どういう風の吹き回し?」
ぬっと上半身が起き上がると、長椅子の背から頭が覗く。背の高い彼をすっぽり隠せてしまうから、それは遠目でもとても大きいとわかる。
「苺羅様も変わった趣味をお持ちで。私の耳環は何処へ消えてしまったのでしょうか?教えてくださいますか?」
するとクスクスと笑う声がした。何がおかしいと言うのだろう。茶燗には全く理解のできないことだ。
「さあ、わからないね。もし見つけたら、しっかりと返すよ」
「そうしてもらわないと困ります。あれは私のものですから」
そう言ったところで、開け放たれた扉窓から強い風が流れ込んだ。それと共に小さな影も飛び込んできた。それは美しく飛行し、彼の傍に留まる。
「でも、大事なモノは誰かに渡しちゃいけないよ。茶燗?そうじゃない?だってもう一つはどうしたの?」
茶燗は口を開かなかった。沈黙とはとても静かで、何もない。
「そう言えば、前にした〝お願い〟は、守っていてくれたんだね。あの子は彼の事を未だにわかっていなかったよ。やっぱり、わからないものなのかな」
「彼女はこの国の事まで知る必要はないでしょう。苺羅様こそ、あの子に余計な事を吹き込まないで下さいね。取引の条件としては対等ですよね?」
暗闇の中、その飛び跳ねる鳥の色は定かではなかったけれど彼と関わっている以上、共犯なのは決まりだろう。
「そう……いいよ、決まりだね。それじゃあ、君の大切なものは彼女に返しておくから」
ここは『姫の宮』。けれど今は、その姫はどこにもいない。
――下弦の月があんなに高いところで笑っている。
葉澄は自室に戻りながら、毎日形の違う月の様子を眺めて微笑んだ。
(――さて、どうしようかな)
この日は本当に特別だった。
王様も後宮へ来なければ、茶燗からの頼まれごともない。
だからひとまず、夜のお散歩を楽しんだ。スリルがあって案外面白いかもしれない。
王様のあの切ない感情を知ってしまってから、毎晩のように同じ夜を過ごしていた。あの晩の事は頭から排除しようと本能的にあの気持ちに触れないように努める。
王様は感情がない人ではないことはわかっている。
でもきっと、感情を無くさなくてはならなかったのだろう。何があったかは知らないけれど、無くさなくてはならない理由がきっとあったんだと思う。
そして毎晩、目が冴えてしまって心地良く眠ることができていない。彼の言っていた、『守ってくれる人』とは、どういう意味だろう?
くるりと辺りを見回すと、葉澄の知っている外の街とここは遥かに違っていて、美しく静まり返った印象だけを残すし――相変わらず夜になると、人気は感じられなくなる。
けれどもの悲しさはまるで無かった。それはここが、にぎやかなところではないということもあるのだろうけど、風が通り過ぎれば心地よくて、静かならなおさら耳を澄ませて美しい自然の声を聴きたいと思える。――後宮とはそういうところだった。
葉澄は嬢花宮への道を行こうとしたところで立ち止まった。
不思議なことだった。
(――あれ?人がいる……)
普段はいない警備の人が立っていた。今まではここまで手が回らなかったのだろうか?
葉澄はその背の高い人に軽く会釈をしたが、不意に手首をつかまれて葉澄はびっくりしてその人を振り返る。
警備の人はみんな顔が隠れる仮面をつけ、頭も被り物をつけていてどんな人だかはわからない。けれど唯一覗く口もとだけが、ゆっくりと動くのが見えた。
「お嬢さん?女性が髪を乱していてはいけませんよ」
触れられて一房垂れた髪を確認すると、葉澄は頭を下げた。
「あっ、教えてくださってありがとうございます」
葉澄はそう言って髪を直そうと思ったところで、また声を掛けられた。
「夜道は危険です。お送りしましょう」
「えっ?でも……」
「宮女の安全を守る事も私たちの勤めですので」
「ありがとうございます」
葉澄は頭を下げた。
自分の野暮用に付き合ってくれるなんて、どうやら王城の武官の人はとても親切らしい。
「ところであなたは、ここが好きなのですか?」
すると優しく、少し悲しい響きの声が耳に届く。似ている声を聞くことが多々あるけれど、その人は絶対にここにはいない人だ――。
「はい……好きです。とても綺麗なところだし、ここに来てみたかったんです。小さい時に一度は見る女の子の夢じゃないですか」
葉澄は微笑んでそう彼に答え、ともに嬢花宮へ向かった。
(――えっ?)
視界の隅で何かが動いたような気がして振り向くと、葉澄は目を疑った。
「うそ……」
こんな時間に、絶対にありえない……。
目に飛び込んできたのは紛れもなく、このところ血眼で探し回っていた『あの子』だ――。
「どうかしましたか?」
仮面の裏から問いかけるような眼差しが届く。
「えっと私、用事ができてしまって。すみません――」
そして葉澄は途端に走り出した。
「――葉澄、待て!」
その響きは無我夢中に走り去る少女には届かなかった。
葉澄は頭の中で思いを巡らせたけれど、解決にそう時間はかからなかった。――即決だ。
すぐに出た答えは、捕まえることではなく、あとを追って住処を見つけること。そうすればきっと、あの盗られてしまった耳飾りに辿り着くはず――。
それにこれを逃すわけにはいかない。
そう思い立った葉澄は今夜の予定を変更して、小鳥の後をつけた。
その小鳥はどうやら苺羅の言っていた通り、『嬢花宮』を離れ、『胡桃宮』の方へ向かうようだ。けれど、これは考えものだった。王様や筆頭女官である茶燗は鍵を持って入っていけるだろうけれど、ただの臨時宮女である葉澄が入って行ける場所ではない。
すると、ぽつりぽつりと雨が降り、服に冷たく跡を残す。
小鳥は脇にあるあの大きな池を通り越して、遮られた胡桃宮の中へと消えていった。
胡桃宮は張り巡らされた水路に囲まれ、橋を渡っても鍵の掛かった厳重な門があり、中には入れないようになっている。
葉澄は「う~ん」と考えたところで、思いもしなかった事を思いつく。
――もしかしてこの水路は中に通じているのでは、と。
(どうせ雨が降るのなら濡れてしまうし、同じことよね?)
葉澄は腕や裾をたくし上げて、水の中へと飛び込んだ。水中は少し冷たかったけれど、凍えるような寒さではない。葉澄は緩やかに流れる波に乗って泳ぐ。この中は水がきれいだなと思っていたら案外深さがあるようだ。
半円型の橋の下を通り抜けて葉澄は一生懸命に泳ぐ。けれど思うようには進まなかった。服を着たまま泳ぐのがこんなに大変だったとは思わなかったのだ。しかも足の届かない水中とはこんなにも体力の消耗するものだとは。ぷかぷかと浮かんでいるだけでも大変だ。
けれど、そこは気力で乗り切るしかない。あの鳥を追って行けば目的のものにありつける。
流れに乗って向こう岸に辿り着くと、目前には鮮やかな花々が辺り一面に広がった花壇が映り込んだ。
――美しいあれは何だろう。雛罌粟の花?
暗いのに色が見えたのは、使われていないにもかかわらず灯っている外灯と神々しく光を反射させるこの宮殿のお陰だろう。
びしょ濡れになった重い身体を感じながら水から出ると、葉澄は地面に手をついて立ち上がった。衣服からは大量に水が溢れ、滴り落ちる。体にぴたっとくっつく感覚が少し気持ち悪かった。そんな事を気にしながら歩いていると、近くで何か物音がした。
そちらを振り向けば人影のようなものが近付いてくるのがわかった。けれど、葉澄は何も不思議には思わなかった。きっと武官の人だと思ったから。でもこの姿では誰とも会いたい気分ではなかった。
(……あれ?)
そう言えば、鍵がかかっているのにどうやってここに入るの?
それに何だか様子がおかしい。あんなにおぼつかない足取りって……。
そして次の瞬間、と表現するのが望ましいのかもしれない。こんなに一瞬の出来事が長いと思ったのは今まで巡り合ったことはない。
目前を閃光が走った。光ったものはとても長い切っ先だった。
(だめ。逃げなくちゃ……)
葉澄は慌てて走り出した。暗くてここが何処なのかもわからないし、何が起こったのかもわからない。ただ美しい花だけが視界に映った。
何羽かの鳥が飛び立つ音がする。身体は重くて、降り注ぐ雨も身体を容赦なく湿らせる。駆ける足音、何か鈍い音がそれに加えて聞こえた気がした。
そして誰かの声が入り混じり、奇声がどこからか響き渡る。雨も強まって視界がはっきりしない。
そして何かに躓いてしまった葉澄は立ち上がれずに、冷たい雨に打たれそのままの体勢でじっとしているしかなかった。
誰かが脇を掴んで立ち上がらせてくれるけれど、足が震えて力は入らなかった。
(怖い――)
「大丈夫か」
心配そうな顔が間近にきて、葉澄ははっと意識を取り戻し、顔を上げる。
「陛下、どうしてここに……。私……」
葉澄はこの説明をしようとしてやめた。理由はどうあれ、自分のしようとしたことは許されることではない。けれど、王は怒っている声ではなかった。
「よかった」
「陛下……」
よく理解ができなかったけれど、王は安堵したような顔で葉澄の体を抱きしめた。その身体は必要以上に衣服が体にへばり付いた何とも言えない奇妙な感覚で、葉澄は徐々に彼の体温を感じた。
「何もなかった。よいか?何もなかった」
抱きしめる力が強くなって、葉澄も鸚染の尋常ではない雰囲気を察した。
何がどうなったのか頭では理解できない。何もかもが本当にわからなかった。
そしてその言葉が頭の中でこだましながら葉澄は意識を失った。
「……釉梨。お遊びももうこれで終わりだ。葉澄はこれでもうここにいる必要はない」
「まさかこちらに来るとは予想外だった。巻き込んでしまった」
「葉澄、ごめん。俺がいながら情けない」
芭流はそう囁くと彼に支えられながら眠っている葉澄に上着を掛けて身体を包むと背中とひざ裏に腕を回し、鸚染から引き寄せて抱き上げる。
「芭流。今回は世話になった。そなたがいなかったら苦戦していた。礼を言う」
「王が一庶民に頭を下げるのはどうかと思う。狂っていたけど、標的はただの素人だ」
「ああ。そのようだ」
芭流は濡れた葉澄の額に口づけた。その後ろ姿を鸚染はただじっと眺めていた。
「その娘を大切にしているのだな。無垢で、純真で。だが運命は変わらない」
「わかってる。だからそばにいる……」
冷たく降り注ぐ雨粒が顔を伝い顎から滴り落ちる。
゜***。***゜***。***゜
――夢を見ている……。
だんだんと鮮明になる景色には、見覚えがあった。とても思い入れがある場所だ。
辺りを見回すと、何もかもが背伸びしたように長身になっていた。いや、違う――自分自身の目線が低くなっていて、手のひらは柔らかくとても小さかった。
『夢だからあり得ることなんだ』。そう割り切っているのか、頭は至って冷静で。この稀な状況を楽しもうとさえしている。どうやらこれは幼い時の夢のようだ。
そしてこの幼い自分の心はウキウキと嬉しそうに、小走りまで始める。
(――でも、どこへ向かっているのだろう?)
けれど考えるまでもなかった。だって、とても見慣れた――昔から好きな場所だ。
そう。あのとても大きな桜の木は、春になれば薄桃色でいっぱいになって、風が吹けば周りが見えなくなるくらいに一斉に花を散らす、桜色というものになる。目で春を教えてくれる、そんな豊かな存在だった。
そして、その姿が大きく立派になっていくと、優しい声で名前を呼ぶ声が聞こえた。
幼い自分は両手を挙げてそれに応え、大股で走って行く。
(あの声は?)
言葉ははっきりわかるに声の認識が出来ないし、名を呼ぶ主の姿は霞んで見えず、走っても、走っても近づけない。――辿り着きたいのに……。
(――誰?どうして私を知っているの……?)
その疑問だけを残して、葉澄はまた深い眠りに落ちていった。




