『紅花藍蝶』
(芭流がここにいる訳がないのに……)
でもあの懐かしい匂いを間違えるだろうか?
今夜は王様が後宮に来る。忙しいであろう仕事が一段落したのかもしれない。
そもそもこの間の話になるけれど、あの『紅花藍蝶』を持ち帰って、王様は何を知りたかったのかずっと疑問に思っている。どうもあの真剣な様子からすると、とても重要な感じがしたけれど。
(何か手がかりが掴めたのかな?)
そんな事を思いながら王様を待った。
いつもの指定席で軽く二胡を奏でながら、ふと思い立った。もうすぐ後宮ともお別れなのだと。
だからかもしれない。この場から帰らなくてはならないから、自分のもといた世界の香りが蘇る。芭流を近くに感じるのは、この世界から帰る時に悲しくならないように、温かな帰る場所を指し示しているのかもしれないと。
「蝶々、待たせたな」
ふと背後から、声音が聞こえた。
――この声を聞くことができるのもあと少しで終わりになるのだ。
「いえ。今夜はどんな曲にしましょう?」
「この本の曲は知っているか?」
差し出されたのはあの『本』だった。椿燐街の中で繰り広げられる、禁断の恋物語――。
「あ……いえ。私も先日知ったので、わからなくて」
「そうか。いや、私はこの話を昔から知っていたけれど、その時は何とも思いもしなかった。ただ残酷な話だと思っただけで」
王はその本を手にしたまま寝台にゆったりと腰かける。
「だが、今一度見れば頷ける。そなたの言うようにとても美しい話だ」
ちらりと向けられる視線はとても優しいものだった。
「あ、あの……」
「先日はすまなかった。泣かせるつもりはなかった。私は寝相が悪いらしい」
「いえ、そんな事は。私こそすみませんでした。起こすつもりはなかったんです」
ぺこんと頭を下げた。王様から謝らせるなんて、ありえない。
すると頭上から、微かな囁きが届いた。
「蝶は何を思って美しく舞うのだろうな」
葉澄は顔を上げる。彼は何の話をしているのだろうと。
「私は蝶の名を持つ者と縁が深いらしい。だが私は『蝶』を守れない。そなたを守るのは、果たして誰なのだろうな」
葉澄は口を挟めなかった。口調はいつものままなのにとても切なそうな表情に見えたから。
「誰が書いたものなのかは知らないが、この話、私も思い当たる点がある」
そして切なく彼は微笑んだ。




