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『彼』の香り

 今夜もまた一日があっという間に過ぎて行き、月は動きと共に私たちを眠る時刻へと誘う。

 部屋で葉澄は一人、音楽でも流しながらいつものように静かに読書をしていると、コンコンと扉をたたく音がしたと思えば茶燗が顔を覗かせる。

 最近は茶燗と夜の時間を過ごすのが日課だった。

「葉澄ちゃん。最近は王様の所に行かなくて退屈じゃない?夜はずっと部屋に閉じこもっているけれど、就寝時間までは出歩いていいのよ?」

 どうやら茶燗は葉澄が静かなことに心配して、暇を見つけては見に来ているようだ。

「あ、うん……。いろいろしてると時間忘れちゃうんだよね」

「そう、それならいいけど。寂しいんじゃないかと思って。王様と仲良くなったっていうのに。だってもうすぐ期間が終わっちゃうでしょ?」

 そう言って茶燗は向かいの椅子に座り、葉澄を見つめる。

 真紅の唇の映える淡い寒色の服を身に纏い、茶燗は珍しく普段は結っている髪を垂らしていた。

「うん、そうだね……来月になったら、また勉強が忙しくなっちゃうだろうし。頑張んないと」

 う~んと、手を突き上げて伸びをすると茶燗の声がまた耳に届く。けれどこれは、葉澄にとって想定外の質問だった。

「葉澄ちゃん、これは『芭流(かれ)』の声よね?一人(ソロ)の歌なの?」

「うん。みんなで歌ってる曲や激しい曲は人気もあって私も大好きだけど、芭流はバラードがすてきだから好きなの」

 葉澄は少し俯いてから言葉を続ける。

「……生で聴くとほんとに心が震えるよ」

「そう。じゃあ、どちらの『彼』が好き?葉澄ちゃんは」

 不意打ちだと思う。茶燗はこういったところが上手で、その上、葉澄は話を誤魔化せるほどの器量を持ち合わせていない。

「ばあ君は昔からカッコイイ子だったけれど、今は増して美青年になったわね。彼の名前を目にしない日なんて無いくらい有名にもなった。……ねえ?葉澄ちゃんはどんな彼が好きなの?」

「えっと……芭流はすごく優しいんだよ。仕事が忙しいのに、少しでも時間が空いていたら私に会いに来てくれて、私を構ってくれるの。多分、私が『寂しい』と思っているから、見透かしているの。……優しいよね」

「そうね、ばあ君は優しいわ。優しいところが好き?」

「うん……でもね、たぶん違うの。ズルいの、私。今までの関係を崩したくなくて、甘えて、この先に進もうとしない。……だから差し伸べられている手に(すが)るだけで、芭流に返すちゃんとした言葉を見つけようとしないの。頼ってばかりじゃダメだよね。わかってるのに……」

 すると茶燗は優しく微笑んで、そっと頭を撫でてくれた。

「そうね、頑張っているんだ。でも葉澄ちゃんは偉い子だから、きっと大丈夫……」

「茶燗ちゃん……。私、まだ芭流の気持ちに向き合える自信がない」

「そうか。でも彼はどう思っているのかしらね。葉澄ちゃんとどんな関係になりたいのかな……?」

「え?どういう……」

 葉澄は少し首を傾げ俯いた。普段一緒にいるせいで深く考えた事もない質問だったから。

「ちゃんと気持ちを伝えればわかってくれると思うわ。だって離れていたって、彼の声をこんなにも聞きたいんでしょう?」


「聞こえましたよ、全部。聞こえるようにしゃべりましたよね」

「あら、盗み聞き?よくないわよ、そう言うの」

 茶燗は隣の自室に戻ると、足を組んで堂々と居座る人物に微笑みかける。

「葉澄ちゃんとは会ったの?」

 芭流は少し黙ったが、微かに口を開く。

「ええ。葉澄は誰にも渡さない……」

「ばあ君……」

「葉澄は俺がちゃんと連れて帰りますから」

「ええ、そうね。よろしく……」

 開かれた窓からちょうど中に入ってきた茶炉を迎え入れ、茶燗はそう囁いた。


 入って行った部屋はすでに静まり返り、光は差し込む月明かりしか見えない。

 奥へ進むと、すやすやと安らかな寝息が聞こえてきた。近付くと微かに見慣れた寝顔が見える。

「葉澄。おやすみ……」

 そうして芭流は少し微笑んだ。



 扉が開いた――そう思ったのは錯覚だったのだろうか?

 眠気が少し浅くなると目が覚めてしまうことがあるけれどまさにそれで、眠いのに夜中ぱちっと目が覚めてしまった。けれど今回のこれはいいと思えた。いつもの嫌な感じとは少し違って、起きてもいいと思える要因があったから。

 葉澄は辺りを見回し、ため息を吐いた。夢の中に彼が出てきたからその所為なのかもしれない。

 薄っすらと浮かんだ彼のその表情は哀しそうだった。だから、「どうして?」と訊こうとしたけれど、夢はすぐ覚めてしまった。心には、むず痒く引っ掛かる感情を残して……。

 起き上がった状態のまま何をする事もなく、少しの間、葉澄はただぼーっと室内を眺めていた。この柔らかいお布団の沈み具合や囲まれた天蓋(てんがい)の隙間をぼやけた目で確認しながら、頭を動かすのだ――。

 だって正直な嗅覚は、なぜか芭流の好きな香水の香りを感じ取ってしまったから……。


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