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美しい花と蝶のお話

 〝あの出来事〟があってから、葉澄はまた穏やかで正常な毎日を過ごしていた。

 至って何も変わらず苺羅のもとへ赴けばからかわれるし、技術を磨くために暇を見つけては二胡の練習をして知らなかった物語や小説も読んだ。

 それでも、気分は晴れない――。

 あの切なそうに知らない名前を呼ぶ彼の顔を見たのを最後に王様の顔も見ていないし、話しをしてもいない。彼の、泣いた子供を(なだ)めるような言葉を最後に、あの日の記憶がはっきり言ってなかった。

 次の日に朝日を浴びて目覚めれば、彼はもう仕事に出かけた後だったから。

「はあ……」

 葉澄は何の解決にも至らない気持ちにため息を吐いた。

「どうしたの?春の景色がこんなに素敵なのに」

「そうですね、綺麗になりましたよね。苺羅さんには本当に驚かされてばかりです。これ全部植え替えさせたんですか?」

 葉澄は欄干に頬杖をついて、両頬を手で包み込むようにしながら呟く。

「どうして綺麗なお花を見てそんなに元気がないのかな?お姫様はため息まで吐いちゃって、似合わないね」

「いえ、元気ですよ?元気です、ものすごく。そういえば、苺羅さんはいつも以上に楽しそうですね。何かいいことでもあるんですか?」

 葉澄が後ろを振り向くと、いつものように四阿で寛いでいた苺羅と目が合った。

「そうかな、普通だよ。普通に楽しんでる。そうだ、お姫様。君は来月には帰ってしまうんでしょう?君の居場所(・・・)に」

「場所って言うか、家に帰りますけど……。あっ、まさかそれで喜んでいるんじゃ!もしかしてそうなんですか?うるさい小娘がいなくなるって」

 苺羅は珍しく驚く素振りをしてから微笑んだ。

「そう思っているの?違ってはいないけれど、ごめんね。半分しか当たってないよ」

「半分?どういう意味ですか?どうに違ったの……?」

 葉澄は顎に手を当てて、首を傾げる。

「言っておくけれど、お姫様は全く邪魔にはならないよ?どちらかと言えば、愛犬のようにずっと眺めていたい気分だからね。ずっと居てくれてもいっこうに構わないよ」

「は、はあ……それは何よりです。嫌われてないだけマシでした……。あの、話しは変わるんですけど。あれって、椿燐街のお祭りの時に使う仮面ですよね?」

 葉澄は会話についていけないので、四阿(あずまや)の端にある大きな長椅子の上に無造作に置かれている、キラキラと美しい宝飾のついた仮面を指さした。まさにそれは彼を表したような色鮮やかなものだったので、よく苺羅がお昼寝をしている長椅子の上にぽつんと置かれていてもとても目立つものだった。いわゆる『隠すため』の仮面の意味があるのかは、葉澄には分からない。

「もうすぐお祭りが始まるから作ったんだよ。ねえ、そういえばお姫様はどう思う?そういうのって」

 葉澄は何に対しての「どう思う?」なのかと一瞬ひるんでしまったが、一応、現時点では仮面の評価をしてみた。

「苺羅さんらしくて、綺麗で、きっと似合うと思います。こんなに凝っているってことはお祭りの常連さんなんですか?」

 葉澄は近付いてそれを眺めながら訊く。すると後ろから、嬉しそうな声が聞こえた。

「ねぇ、お姫様?今年はより一層楽しいお祭りになればいいね。君もいるのならそうなるかもしれないよ?」

「毎年楽しいですけど……どうしてですか?」

「今年は君もいるし、彼も来るだろうからね。きっとそうなる」

 苺羅はいつものように、けれど何かを含んだような笑みを見せた。

「どなたですか?」

「さあね。後でのお楽しみかな~」

 そうやって、いつものごとく彼の柔軟な言葉遊びに葉澄は巻き込まれてしまうのだった。



 葉澄が今日も今日とて苺羅に茶化されているとも知らず、この場には穏やかな時が流れていた。どちらかといえば二人とも自ら騒ぐような性格ではないから、二人でいる場合、会話は少ない。

 王直属の武官――梨鶯蕾は騒がしい人物だけれど、それは特定の条件が揃っている時だ。

「主上、知っていますか?今、朝廷で囁かれている『怪奇事件』とは違った、もう一つの噂を」

 読書をして寛いでいた鶯蕾は、何の気なしに口を開く。

 いつも王の仕事を手伝いにくる世話焼きの雅茜は自分の仕事が忙しいらしく、近頃はあまり顔を出さなかった。そのお陰と言ってはなんだけれど、静かで優雅な時間が執務室には流れていた。雅茜は鶯蕾には何故か厳しいから。

 鸚染は多数の部署からの報告書に目を通し、それらに印を押している最中だったけれど、鶯蕾の話に耳を傾ける。

「噂とは?そういったことには疎いから知らないだろうな」

「とても不思議ですよ。それも急に広まって、大半の人が信じている。信憑性の欠片もないのにおかしくありません?」

「さあ、噂話が好きなのは国民性だろう?」

 鶯蕾は掛けていた眼鏡を外し、それを聞いて何故か少しぎこちなく微笑む。

 彼は美しい装丁の厚い本をぱたんと閉じると、それを手近な卓へと置く。それは先日、後宮から持ってきたもので、先に読んでいた『蝶々』に頼み込んで借りたものだ。見るからに美しい紅い花と雅やかな藍色の蝶々が舞っているという気品あふれる、彼女の好きそうな『キラキラ』な本だ。

「ええ。それもそうですけどね……。それって実は主上の言っていた〝花〟と同じなんだと思うんですよ。何故かその話が出回っていて後宮にあるらしいです。『秘密の花園』が。でも、私たちの解釈とは少し違うようで。……彼らにとってそれは〝貴重品〟なんです」

 鸚染はその言葉に反応した。何かがカチッと嵌まった音が聞こえた気がしたから。


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