彼女のまだ知らない世界
――しっかりと睡眠を取ってもらう事。それは今の『仕事内容』の大半を占めている。
後宮の『図書室』を後にした王と芸妓は、夜道を語らいながら彩華宮に向かう。
今夜は後宮に来る予定ではなかったにしても彩華宮は容易に入ることのできる場所だった。いわゆる忘れ去られた隠れ家のようなものだからだ。
いつものようにこじんまりとした可愛らしい扉を開けると手燭を頼りに次々と明かりを灯してゆく。何だか道しるべのように光り輝いて、見ているだけで葉澄は心が落ち着いた。
王様は葉澄の読んでいた『紅花藍蝶』になぜかひどく興味を持っているようで、ここへ来るまでの大半はその話に費やされた。葉澄は首を傾げながらも内容を語り、どの場面が好きなのかを事細かく説明していった。恋愛ものの本の話を男性相手に語るのも気恥ずかしいけれど、それには部外者は知りもしない重要な秘密が隠されているのだろう。
一通りの話が終われば彼は悩むように眉根を寄せたけれど、「助かった」とお礼を言ってくれた。
そして今に至るけれど、王様は湯浴みをしに浴場へ行ってしまって、葉澄はひとり、肘掛けのついた椅子にぽつんと座って時を過ごしていた。
かろうじて二胡はこの場にあるので緊急でも対処はできる。あとは眠気を抑えるだけだった。
けれど葉澄はそれに負けた。待っているのも辛くなるほどの眠気が襲ってきて、王が来たら起きれば大丈夫と、仮眠のために目を閉じた。
微睡みの中、爽やかで優しい香りが鼻腔を癒す――。
温かく包まれる感覚にゆっくりと目を開けると、自分のいた椅子が離れた所に見えた。月明りが差し込んで、そこには二胡がぽつりと置いてあるのが窺える。寝心地の良い肌触りの上に横になっているのに気付き、丈夫な腕が身体を包み込んでいるのもわかった。
けれど驚く事は何もなかった。これは習慣になっていたことだから。
寝返りを打つと整った顔立ちの人物の寝顔が目に入り、それが誰なのかなんてことは一目でわかる。あの桜の下で一目惚れをした本人だ――。
やっぱり、彼は寝顔も美しかった。安心しているのか、普段よりもその表情が和やかに思える。
一目惚れというと恋とか、そういうものを連想してしまうけれど、この感情はそれとは違っている。どう表現したらいいか、上手く言い表せる言葉が見つからないけれど、本当に神秘的で綺麗だと葉澄は心から感じた。
葉澄は少しの間、身動きせずにじっと彼を眺めていた。疲れているであろう『王様』を起こさないために。けれど、彼の顔をこうやって眺めていたいという気持ちも多少なりとあったのかもしれない。この国の王様だけれど、心から安らぎを与えてあげたいと思える相手だ。
「……ん」
吐息が聞こえた瞬間、葉澄は目を閉じた。王様が目を覚ましたのかもしれないと思って。そして狸寝入りだとしても、目が間近で合うよりも恥ずかしい事は無いから。
でもこれから、想像もできないような予想外の事が起こってしまった。
「……愛している。そなただけを……ずっと」
目を閉じてから聞こえた声に驚かされた。吐息だけで紡がれたような甘い声音をまともに聞いて、心が揺れない筈がない。
目をぱっと開くと、彼の霞んだ瞳とぶつかった。
きっと彼は寝ぼけているんだろう、葉澄はそう言い聞かせるけれど。彼の冷たい手は火照った頬を包み込む。唇が優しく触れ合う前に口が動くのが見えた。何と言っているのかはわからなかったけれど、とても愛のある響きだったように思う。
この艶美に満ちた雰囲気に呑まれ、身じろぎすら出来ずに、ただ誰かに向けられた心温まる気持ちに何故か涙が溢れた。目の当りにしてしまった身震いしてしまうような感情は、決定的に自分に向けられたものではないとわかっている。
本当に動けなかった。吐息が熱くて、酔ってしまいそうな雰囲気を壊すことも出来なかったし、この危うい幻想を覚ましてしまったら、何か取り返しのつかないことが起こりそうで怖かった。けれど考えてみれば、この思い人は誰なのだろう?
一筋に、誰かに向けられたこの想いは――。
とても幸せで、逃れようとするよりも観察してしまうなんて本当にどうかしている。
「……鈴蝶」
「りん……ちよ?」
思わず言葉が漏れてしまって、彼の瞳が見開かれる。幸せな夢が覚めてしまったことを告げるように。
「蝶々……か」
「陛下……」
頬を伝って涙が流れていった。彼にも見えてしまっただろうか。このうれし涙ようで切なくて、可哀相な雫の行方を。
「すまない……悪かった」
王様は泣き止むまでそっと抱きしめて頭をなでてくれた。なぜ涙が溢れて来るのかはわからなかった。けれどとても悲しかったことだけは覚えている。
そしてその後、いつ眠りに着いたのかは自分でもわからない。
腕の中で少女は安心したような表情で寝息を立て始めた。
そして奇妙とも思える軋んだ木々の擦れ合う音が静かな空間に嫌に響いた。
今夜は本当に静かだった。何の音も聞こえない。いや、聞こえるのはこの傍らですやすやと安らかに眠る可愛らしい少女の、これまた可愛らしい穏やかな寝息だけだった。
そして今夜はその時だったのだろう。ここへ来ていることは前々から感づいていたことだけれど、どのくらいぶりの再会だろうか。彼は『本業』の傍らで世間を賑わせている人物だ。
それは夜目でもわかる事で、すらりとした長身の目許に付けていた仮面を外せば、目鼻立ちの整った表情が窺え、世間の女性たちを魅了していることにもこれには頷ける。
彼はすたすたと近寄ると、腕の中で眠る少女に視線を落とした。
「すまない。彼女を泣かせるつもりはなかった」
すると彼は無感情に海色の眸をこちらへ向ける。
「王の特権で妓女に手を出して。それでいて昔の女の名前を口に出すなんて、まるで愚王だ」
「ああ、そのようだ。余は何を言われても構わない。所詮はその程度の王であることは自覚しているし、情に溺れるのもその所為だろう」
緊張感の漂う室内でそれを感じさせないものがあるとしたならば、隣で安らかに眠る少女だけだ。けれど、こんなにも安心して眠る少女を誰が襲おうと思うだろう。
正直に言えば、初めて彼女に触れた夜それを考えなかった訳ではない。汚れていない麗しい肌は心地良く、まっさらな身に痕を付けたくもなった。
けれどそれは一生できないことだった。
彼女の美しい世界を踏みにじり、彼女の夢を壊すことは理由を語る以前に出来ることではない。
きっと彼も同じことを思うから、こうして身を焦がしているのだろう。
「では、私は帰ることにする。調べたいこともあるからな。彼女はそなたに任すとしよう」
やはり彼女はこれらの会話にも気付くことなく、安らかに眠り続けた。
「釉梨。葉澄はお前の玩具にはさせない。これは仕掛けられた遊び(ゲーム)だ。勝つのはお前たちじゃない」
「……ああ。勝つのは私たちではない。勝つのは『頭のいい誰か』だ」
そして部屋を出た。
あの感情は何処から来るものなのだろう。とうの昔に捨ててきた自分にとって、彼の感情はわからない。それは彼女に対しても同じことが言える。
執着や依存、色欲などではなく、その他の思いが芽生えることはこの先あるのだろうか。
そして、先程とは打って変わって優しい響きの声音が不意に聞こえてくる。
(そうか……)
きっと彼は彼女をまだ手にしていないのだろう。それは身も心もどちらとも言える。
早く手に入れればいいと思う。そうでなければ、彼はある意味で過保護に彼女を大事にし、またある意味で、危ない賭けをさせているのだから。
この世は矛盾の重なった幾重にも及ぶ策略で成り立っている。それは碁盤の駒と同様に勝手に操られ、力を持つ駒でさえ自由はないのだ。




