何かが騒めく夜
静かな夜だった。本当にこのまま穏和な時が過ぎればいいと思っていた。
彼が現れるまでは――。
靴音がして、仕事に没頭していた脳を切り替えて意識をそちらに向ける。――実に不愉快だ。
扉が開いて、その嫌気は増した。そしてどのくらいの間、その人物の顔を見ていなかったかという思考も生まれる。本当に会う機会なんて無かったように思いながら。
「久し振りですね。お元気でしたか?仕事が順調そうで何よりです」
入ってきて早々、彼はうわべの挨拶を述べる。この、まともな本性の居所などわからない相手こそ、【王の番犬】として最も相応しい人物だ。
「何か御用ですか?あなたが訪れるなど並大抵のことではありませんね」
朱那が嫌味のように口を開くと、彼は何故か嬉しそうに少し微笑んだ。
「相変わらずですね、あなたは。わかっているのではありませんか?あなたのことですからね。本当に遅くなって申し訳ありません」
絶対に愛娘にはさらさないであろう蔑むような目つきで彼を見た。そして話し相手をする気も更々ない。
「――主上は彼女を気に入っているようで、やはり彼女を呼んだのは正解でした。とても純粋な娘さんのようですしね」
「私の娘ですから、当然ですね」
「そのようですね。あなたの妹さん同様、桜家の女性は芯の強い方が多いようです。とても助かります」
目の前の男を見る眼差しが自分でも察知できるほど、怪訝な色に染まった。
(わざわざ来てまで、一体、何が言いたい?)
「実は先王も、あなたの娘さんが気になるようです。『どんな姫なのか』と……」
変わらぬ微笑みもその穏やかな口調も、偽りなのか本物なのか、区別することも不可能だった。それは興味のない自分にはできないことだ。
「私の娘はそれはお伽の国の姫のようで。私に似ずに本当に良かった……ですが――」
そして絶対零度の眼差しで続ける。
「娘を『あなた方に』くれてはやりません。娘は今回、『人質』ですが、きっと解放させます。あなた達の手から。だから早く、『頭の冴えない王』に助言をしたらどうです?それが【王の番犬】である、あなたの務めでは?」
絶対零度の視線を浴びても怯むどころか、クスクスと笑うような余裕まで彼からは感じ取れた。この彼の雰囲気が本当に嫌いだった。
「そうですね、その通りです。ですが今回は、彼らに任せようと……そう思っているのです」
近頃、目が冴えてしまって寝つきが悪い。その時間も勿体ないと思って、がばっと布団から起き上がった葉澄はとある場所に向かった。隣の部屋に行けば、茶燗が心配して一緒にのほほんとした時を過ごしてくれるだろうけれど、彼女の仕事を邪魔することも出来なかった。彼女が遅くまで起きているのはやる事がたくさんあるからだ。
回廊は薄暗くて物静かで、それは子供の頃を思い出すような真夜中の冒険だけれど、行き着いたその場所もきっと子供時代にはもっと心が躍って、これまた目が冴えてしまうような、夢物語の世界にいるような気分になれる所だった。
壁一面に本が収まり、けれど図書館のようにただ本が置かれている殺風景な感じではなかった。言うなれば、広くて高級な子供部屋にいるようで、置かれている本たちも本屋さんでは見ないようなものばかりだった。
ここは後宮の中に設置されているけれど、どうも使われている感じが無く、近状で使用しているのはもしかしたら自分一人かもしれない。
葉澄はいつものように同じ本棚に収まっている本に手を伸ばし、足の低い椅子にちょこんと座ると、黙々と続きを読み始めた。
貸し出されていないので自分から足を向けないといけなかったけれど、それはまったく苦にはならなかった。話の内容がとても面白かったからだ。
つい先日、苺羅さんが話していた『美しい花と蝶の話』を何となく探していたら、彼の持っていた本と同じ表紙の本を見つけてしまったので、こうしてちょくちょく読みに来るようになった。本当の題名は『紅花藍蝶』。決して結ばれることのできない男女の、美しくて切ない恋物語だ。
手燭を机の上に置いて読書に熱中していた葉澄は、近づくもう一つの光に気付くことはなく、その光はちょうど葉澄の隣の席に辿り着く。
「隣、いいだろうか?」
久しぶりに聞いたその声に、葉澄は意識を向けた。
「へ、陛下っ!!あ……すみません、大声を出してしまって……。どうなさったんですか?」
葉澄は少し躊躇いながら、けれどその顔を見つめ、手で『どうぞ』と促す。簡易な装いに上着を羽織った格好で、普段と変わらず優雅な身のこなしで彼は隣の席に座った。
「まさか、そなたがここにいるとは奇遇だな。明かりが見えたから誰かと思ったのだが、会えてよかった」
「よかった?どうしてですか?」
一拍、彼は黙ってしまった。そして優しく呟く。
「そなたといる時は心地が良いから、今夜も会えてよかった」
葉澄は恥ずかしくなって俯いた。まるでこれでは愛の囁きではないか。けれど彼にはそのような意図は全く持ってないのだ。
前にちゃんと「親密にはならない」と釘を刺されているのだから。
「それは何よりです。すみません、今夜は二胡を持っていなくて……」
「いや大丈夫だ。それより夜な夜な何を読みに来ている?」
「あ、それは……」
(なんだろう……)
花の甘い香りじゃないけれど、それに似た爽やかで心地の良い香りが鼻をくすぐる。
この状況は自分の知っている言葉を使えば直感で、まるで学生のようだと思った。隣に座って本の内容を見合って、肩が触れ合いそうなくらい身体が密着しているのもやっと今になって気がついた。けれどそれは後宮では夢の中の出来事と同等の意味を持つだろう。
だってこの香りはそれとは違う。この香りは夜の優しいひと時に夢の中で香る匂いだ。
隣に座っているとよくわかるけれど、彼はやはり男の人で座高が高い。普段、一緒に座って語らうなんて状況がないからかもしれないけれど、何故かいろいろな情況が連鎖して頬が熱くなった。
この状況でいつものように抱きしめられたら、夢の世界から抜け出して『自分の現実』と繋がってしまって正気じゃいられないだろう。それは後宮だからこそ自分の中で許されているのだ。この王の『鳥籠』だからこそ――。
そう思えば、彼にとっては王城が現実で、例えば城下の生活は夢の中の話になるのだろうか。
それならば、今読んでいるこの本の内容にも通じるところがある。
――いる世界の違う二人の出会いだという事。
「どうかしたのか?」
「あ、いえ。これです。夢中になって読んでしまって。あっ……」
開いたまま机の上に置かれた読みかけの本がバタンと勝手に閉じる。王様が何故か驚いた表情でそれを見つめていた。
「これ、陛下も知っていますか?とても面白い内容の本だったので、つい時間を忘れてしまうんですよね。切ないけれど、素敵なお話です」
「ああ、知っている。余もこれを……探していた」
その表紙をじっと見つめたまま、彼は囁いた。
相変わらず静かな夜で、耳に入る音といったら夜風に揺れる葉のささめく音色に、あとはどこからか優しく聞こえる曲の旋律だけだった。
たどり着いた部屋では、ちょうど大きな翼を持つ夜鷹が舞い降りた。
その留まった先は、頑丈な手袋をはめた男の元だ。そうして彼は夜鷹を籠に戻しながら、振り向きもせずに言葉を発する。
「どうやら彼らは『謎に一歩』近づいたようです。あなたも助言したのですか?苺羅」
ちらっと目だけで苺羅を見ながら、彼は言葉を続ける。
「今回はどうでしょうね……彼は〝姫〟を気に入るのでしょうか?冒険を楽しんでいるようで微笑ましいですが、友情止まりの関係でしょうかね……」
五十も近いその男は眉間に皺を寄せて、いかにも悲しむ素振りを見せた。
「そう言ってあなたは周りを思うままに操作して、見て楽しんでいるようにしか思えませんけどね。私は楽しませてもらっているけれど――」
苺羅はゆったり歩を進めながら長い異国風の緻密な織りの上掛けをなびかせ、皮肉の混じった笑みを浮かべる。
「でもそれはおかしいですよ、羚碧様?『あのお姫様は私のもの』。誰にも譲ってあげる気はありません。見つけたのはこの私ですから……」
苺羅は懐から紅の扇を取り出すと、緩やかな風を作り出す。
「『自分のもの』だと、あなたが言うのならば厄介ですね。手強いあなたから大事なものを奪い取るのは、厄介です。……彼女は魅力的ですか?あの大事な〝あなたの蝶〟よりも?」
一瞬だけ、苺羅の煽ぐ手が止まったように見えたけれど、苺羅はより楽しむような笑みを作って口を開いた。
「それを訊くのですか?私に……。私は美しいものが欲しいし、綺麗なものほど興味を示す。……だから譲れませんね」
閉じられた扇から切っ先の鋭い刃が覗き、羚碧の首元に冷たく当たる。これは昔々に作られた、からくり仕掛けの扇だ。
「私を刺しても、美しくも綺麗でもありませんよ。ただあなたの手がまた一つ汚れるだけです。よいのですか?」
羚碧はまるで優しく説教をするように穏やかに囁く。刃など、まるで無いもののように――。
苺羅の目は真剣そのものだったけれど、ふと緊張が解けるように微笑むと、またいつものような彼に戻った。
「はあ……あなたはおふざけに乗ってくださらないので、楽しくないですね。……あ~あ、もっと面白いものを探さないと。……では、羚碧様」
そう呟くと、苺羅は何もなかったかのように手を振って去って行く。実に優美な猫のようにしなやかに……。
羚碧は苺羅を見送ると衣服を正し目を落とすと、いつの間にか机の上には先程までこの首を貫こうとしていた刃の源がぽつんと置かれている。まるで忘れ去られた誰かのように――。
羚碧は久々に目にしたその美しい扇を、取り出した古めかしい木箱にそっと戻した。




