波立つ暗紅の風
(……また、あの人は)
芳翠は紅を落とした唇でため息をつく。
扉に鍵を掛けてもどうしてか中へ入ってくるから、もうどうすることも出来ない。
管理の厳しい椿燐街でセキュリティ問題が浮上してしまったら、妓女たちにとって死活問題でもあるだろう。
仕切ってある美しい綾絹の帳も今はぼやけて見えないけれど、芳翠は勘を頼りにそれを手で開けて足を進めた。
――彼がいるのは、あの気に入りの定位置。
「苺羅様。いらしているのですね?……悪戯も程々にしてください」
――誰かが立ち上がる音がする。
ふわりと甘い香りが漂って、腰に腕が回るのがわかった。
「苺羅様……やめてください」
「でも、こうでもしないと君は触れさせてくれないだろう?」
(この甘い香りは……たしか)
鼻腔は正体をつきとめることが出来るのに、視界では定かではない。
逃げることのできるくらいの力で回された腕は、優しく身体の形を確かめるように背をさまよい――きっと彼はそうして反応を見て楽しんでいるのだろう。
「眼鏡を返して下さいますか。そうでなくては、あなたのお顔が窺えませんわ」
「いいよ、それでも。今夜は私が君を見ていればいい。――この街で一番美しくて、凛として誰にも囚われない蝶を独り占めできるんだからね」
体が宙に浮く感覚がしたと思うと、苺羅は芳翠を抱きかかえたまま歩き出した。
(……どこへ向かっているの?)
芳翠は押し退けようと試みるけれど、見た目以上に彼は力が強くて、逃れられそうにない。扉の開く音がしたかと思うと、柔らかい感触に降ろされた。
「さっきね、〝いい香り〟を嗅いできたから、抑えられないかもしれないな……」
「苺羅様?今のお言葉、きっと使い方が違っています。私がなびくとでも?」
この状態で口に出す言葉でないとわかりながら、この先もまるで話しの噛み合うことのない二人は平行線のまま、偽装の見つめ合いを続けてゆく。
「……芳翠?私はね、素のキミのほうが好みだよ」
彼が長い指で素の唇をなぞりながら、芳翠はそれに対して聞き入れるしか選択権はないから。標本にされてしまった昆虫ように、『凛と美しく、儚い蝶』は何て哀れだろう。
いつものように厚い衣服に身を包んでいるわけでないのなら、彼の言う通り、仮の存在の通用しない『素』の状態だった。
「ですが、皆様は『素』ではない私を好いて下さいます。『つくられた美しい花』を、人は好むものですから」
「そうだね。でも私は手折れない花がいいから。他とはまた違っていた方が、やっぱりいいよ……」
彼は優しいふりをして、逃げ場なんて甘いものは用意していないから。逃げ道をつくるのは、彼の気分次第と自らの行動次第。
会話をしながら薄い着物の上を緩やかに腹部へ下りていく彼の手は、蝶々結びにした帯を外そうとして。どうしてもこういった面で上手な彼の事が芳翠は苦手だった。そして芳翠は、その手を捕まえて阻止する。
「苺羅様。ここから先は別料金です。……それに時間外手当も、ですよ」
小さく笑う声がして、芳翠は唇を噛み締めた。
「それは私が決めることじゃないの?だって君は、『私の可愛い蝶』だよね?」
「……いえ、蝶も選ぶ権利があります。美しい翅はすべてを魅了する為にあるのですよ?そして儚い生涯を力の限り生きています。……あなたならば、お解りになるでしょう?」
何も言わずに冷たい手のひらが頬に触れて、芳翠は目を細めたけれど――次には視界が戻ったので眼前の男を睨みつけるのだった。苺羅の瞳を見つめるけれど、いつもの色とは違っていて――これを目にしたのは久しぶりで、普段より優しい人柄に思える。
「君の大事なものはすべて奪いたくなってしまうから、いけないね……。とても楽しかったよ、翡翠」
(そう……これで、普段通りよ……)
自然で、きっと他の誰かにもしているように、何の気持ちも感じない優しい口づけを落として、苺羅は離れていく。無くしたと思っていた蝶の簪は、彼の耳元でちらついていた。
芳翠は、背を向けて室を出ていく苺羅を起き上がって眺めた。
よくある茶番に付き合って、意味の無い甘い時を過ごすというのも『夢裡の街』の言葉を使えば、絵物語のようで『風流』なのだろうか。
けれどその美しく着飾った『風流』はこの胸に優しく触れて、チクリと甘い傷みを残す。
「……身勝手な人……」
冷たい室内で、芳翠は小さく呟いた。




