届かぬ声
「はあ、おいしい」
一日終わりのこれは最高においしい。お風呂上りの冷たい飲み物を片手に、繋がった露台から隣の茶燗の部屋の窓をたたく。するとそれに気づいた茶燗に室内に入れてもらい、葉澄はのほほんと心地のいい椅子に腰かける。
「今夜、陛下は後宮には顔を出さないみたいね。二人とも年が近いから仲良くなれればいいのだけれど」
「うん……そうなれればいいけど。私って嫌われてるのかな、そんな感じがして……」
「どうして?何かあったの?」
茶燗は何か仕事をしていたみたいだけれどそれを中断して向かいの椅子に座る。どうやら彼女は机の上に常備してある砂糖菓子を食べに来たようだ。
「ううん。大したことじゃないんだよ。ただ、王様が冷たい印象だったってだけ。でも、それもそうだよね。王様みたいな人が、たかが芸妓ひとり相手に気なんか遣うはずもないよね」
「葉澄ちゃん……陛下はね、いい方よ。だから、あまり真に受けないであげてね。嫌いにはならないでほしいわ」
少し哀しそうな表情をして、茶燗は優しく囁く。
「まさかっ!『嫌い』ってわけじゃないよ。ただ、偉い人ってどうしても節度のある接し方を心掛けなくちゃ、って思うからどう接していいのか、距離感がわからない……」
「う~ん、そうね……でも葉澄ちゃんのままでいいと思うわ。どうしても私たちは仕えている者として彼と距離を取って接してしまうけれど、そうでなくあの方と付き合える誰かがいてもいいと思うの。私はね」
「王様なのに『友達付き合い』なんて考えられないよ。だって次元が違う人だもん……」
すると茶燗は意味深な微笑みを浮かべた。誰かを想うような、そんな表情だった。
「葉澄ちゃん、聞いて?あの王様はね、とても心の綺麗な人。ただ、今はその事を見失ってしまっただけなのよ。……それは、わかってあげてね」
「どうして、私にそんな事……」
「彼の事もあなたの事も、小さな時から知っているから。彼にはあなたみたいな子がきっと必要なの。何にも左右されない、無垢な心のある子がね……」
「茶燗ちゃん、何で私なの?王様は私なんかいてもいなくても平気でしょ?」
「そうね……どうかな……。ただ、期待しているの。ごめんね、無駄話しちゃって。ゆっくりしていって」
両手で包み込んだ冷えた水を飲むのをやめ、葉澄は違和感のある言葉を口にして戻った茶燗の後ろ姿を、ただ眺めていた。
さざめく木の葉と誰かの靴音が静かにこの場に響いた。
「彼女を連れてきたのは羚碧、そなただな?父上はそのことを知っているのか?」
「ええ、彼の事です。すべてお見通しですよ。何より、楽しむことが好きな方ですからね」
回廊に冷たい声音と、それを包むように広がる音声が落ちる。
「彼女は朱那殿の娘だと聞いた。何故また?彼女を寄こした理由は?」
そう告げると、問いかけられた彼は下げた頭を上げながら柔らかく微笑む。
凰羚碧。彼はこの国で最も力を持つ官吏。今は隠居のように表舞台に顔を出さずにいるけれど、裏では国を確実に支えている権力者だ。そして何より、鸚染の育ての親でもあった。
目が合うと、落ち着いた声で羚碧は口を開く。
「今だからですよ。彼女は可愛らしい娘さんになりました。そして、今を変えるには絶好の機会です」
「変える?何を?」
月の光が目に眩しく降り注ぐ。外に面したこの回廊は窓がない代わりに高雅な風が舞い込み、月明かりが直接この場に舞い満ちる。陰影がより濃いのは灯のないこの場ならではの景色で、刺さるように降り注ぐ美しい月光は二人の姿を描き出す。
「陛下ならば、すぐお気づきになられるでしょう」
王にはその言葉の意味が何もわからなかった。言葉の意味を王が理解するには、この時はまだ『答え』に埋まる欠片が足りなかったから。
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(ふざけてる……)
やっと時間が作れたと思ったら、もう半月も経つ……。回廊を慣れた足取りで進み、とある扉の前で立ち止まった。一度、深呼吸をして、芭流は中に声をかける。
「失礼します。芭流です」
すると間も無く、優しいとは到底いえない声が返ってくるのを聞くと扉を自ら開ける。忙しいであろうその人は、やはり家にいても仕事をしていた。まあ、娘がいない今、それだけに集中できて、逆にいい効果なのかもしれないけれど。
「朱那様。夜分遅くにすみません。どうしても話があって」
すると朱那は顔を上げた。どちらかというと、こちらも機嫌がよさそうとはいえない表情だった。
「なんだ?まさか、まだ居座っていたわけではないだろう?……手短に話せ」
芭流は頭を下げる。
「なぜ葉澄を後宮へ送り出したのか、理由を。……御史台の長官は愛娘までも危険に晒すんですか?止められたはずですよね」
朱那は思う。きっとこんな男が傍にいるなら、娘は安心して笑顔を絶やすことなくに何の差し障り無く生きていけるんだろうと。絶対に口に出して言ってやったりはしないけれど、きっとそうなのだろう。
「危険に晒す?私がそれをするのか?馬鹿馬鹿しい。葉澄が自分で決めたことに私が介入する必要はない。それが何かに巻き込まれる可能性があったとしても、彼女の気持ちを揉み消すことは本意じゃない。その後をどうするかが私たちの役目だ」
「……わかっています。葉澄は俺が守ります……」
朱那はちらりと芭流を眺めた。面白い発言だと、口の端を持ち上げる。
「チャラチャラした芸能生活のほうが、お前にはお似合いだと思うが。心変わりでもしたのか、芭流」
「納得いってないからです。ふしだらなあの若い王の所に葉澄がいることを想像するだけで、虫唾が走る。王はどうでもいいので早く終わらせましょうよ。そうすれば丸く収まる」
久々にこの青年の本気の目を見て朱那はますます面白いと顔を歪める。芭流を本気にさせると後が恐い。
「ふしだらなのは、お前も大した差はないと思うが。……わかった。好きなようにすればいい。侵入するなり、変装するなり……その方が早い」
「ありがとうございます。何かあったら茶燗さんを頼りますよ」
それだけ言うと芭流は立ち上がり、踵を返した。けれど後ろから聞こえた声にすぐに振り返る。
「だが『仕事』を続けながらでなければ承知はしない。そうでなければ、葉澄に示しがつかないだろう?」
芭流は笑みを零した。……まさに、その通りだ。
「ええ、そのつもりです。葉澄は俺が仕事をしていると嬉しくて、幸せらしいですから……」
芭流は木細工の扉をゆっくりと閉め、息を吐く。
立ち寄った主のいない部屋の扉からは灯りがこぼれる事も無く、しんと静まり返っていた。この間までは会話の絶えない室内だったのに。
「……葉澄。今、何してる?」
消え入りそうな声に返ってくる声は無かった。




