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優雅な時に、儘ならない気持ち

 二胡の音色が響き渡る。

 静寂と言っていいほど静かなこの四阿は葉澄の見つけた穴場スポットで、ひとりで考え事をするにも、こうやって二胡の練習をするにも最適な場所だった。

 でも、さっきから弾いている曲たちはノリのいい曲じゃなくて、しんみりとしたものばかりだ。葉澄はふと弾く手を止める。

「……はあ」

 まさか、あの日のキス魔が王様だったなんて、どんなオチなの……?それに、私の顔を覚えていなかった。

 (それもそうだよね……)

 あの時、彼はお酒を飲んでいたんだから。それも少しどころじゃないと思うし。

 (……でも、ちょっとショックだな。キス、されたんだし……)

「なんだか、モヤモヤする……」

 ぼーっと、光の反射したキラキラと輝く大きな池を眺めながら、ポロっと不意に零れた声が余計に感情を揺さぶる。

 すると突然、頭の上に何かが乗る感覚がした。手を伸ばすと柔らかい感触とぶつかり、その柔らかい物体はぴょんと指に着地する。

「なんだ!びっくりした、チャロだったの。どうしたの?もしかして、私を捜してくれていたの?」

 可愛らしく左右に首を振っていた茶炉は言葉を聞き終えると、コクンと頷いた。

 (そっか。もうそろそろ、帰らなくちゃ)

「ありがとう。じゃあ、一緒に帰ろうか。茶炉」

 朗らかに心の和んだ葉澄は、明るい声でそう言った。茶炉を撫でている時に池の方で何かが跳ねる音が聞こえた気がしたけれど、気に留めることもなかった。



 午前の澄んだ空気が気持ちよく、和やかな風に乗り流暢(りゅうちょう)な音色までも聴こえてきた。露台に設置した長椅子で眠っていた苺羅は欠伸をして起き上がる。

「ふぁあ、珍しいね……こんな時間に」

 後宮の一角で苺羅は階下を見下ろした。美しいと噂されるこの後宮には美しい庭園に、引けを取らないほどの美しい宮殿が立ち並んでいる。

 後宮はいくつかの宮から成り、この場は中でも奥地にある――あまり使われることのない、いわゆる『姫君の住まい』は穴場だった。後宮は全体的に桃色がかった装飾や内装で可愛らしいとは思うけれど、〝主役〟がいなければ役に立たずに放置されてしまう。庭一面に綺麗なお花畑が広がる中でも、見てくれるものも今ではそういないかもしれない。

 のどかで清涼感のある風は嫌いではないけれど、音をかき消されることにはあまりいい顔が出来なかった。

 (……池の畔からかな?)

 苺羅は立ち上がり、露台の豪勢な手摺りに肘をついた。

 『王のもとへ、妓女が来たらしい』――あの可愛らしい二胡姫が。

 毎晩と言っていいほどこの音が流れていた椿燐街の夜は、やさしい音色がいなくなって淋しくなっているかもしれない。耳をすませば彼女らしい温もりのある音は変わらないけれど、一番彼女の奏でる美しい音ではなかった。

 苺羅は頬杖をつき、呆れ返るほどに咲き誇る鮮やかな色合いを眺めた。

「きれいだね、相変わらず。でも……この本物の音色にはニセモノの君たちは勝てない、かな……」

 色とりどりの色彩に冷たい目を向けて、苺羅は映像を遮断する。最後に目に映ったのは、狂おしいほどに咲き乱れる美しい花たちだった。


  ゜***。***゜***。***゜


 春の日差しも日に日に増して行く。日の光がいつにも増して明るい気がした。

 ――外を眺めながら溜息を吐けば、ひやりとした室内は目に入る世界とは全くの別物に感じて、腹立たしい思いがふつふつと湧き起こる。

 そこへ。氷河と火山を()い交ぜにしたような危険な一角に、入室者が現れた。小細工の利いた扉の開く音とともに、外の空気も一緒に入って来るように感じる。

「戻りました。しっかりそのまま伝えましたよ」

 淡白な声の先を見遣れば、片手の指の数ほど年の離れた次官が歩み寄る。中肉中背で、普段は眼鏡を掛けているからわからないが、その奥には海のような色の瞳が隠れていると知る。そして黒炭の髪のせいでその存在は何時しかどこかへ眠ってしまうのだ。能ある鷹は爪を隠そうと故意にせずとも隠せてしまうのか。彼を見ていると騙されているのかそうでないのか、他人なら首を捻ることも少なくはないだろう。

 眺めていると、入室するなり彼はやれやれといった風に両手を頭の高さまで上げ、何かを表現をした。そして辺りを見回し、肩を落とす。

「……朱那様。これでは発している気が蔓延して体に毒です」

 そう言って彼は閉め切られた窓を次々と開けていく。

「おい、舞琳(まりん)。私は今、機嫌が悪い。あまり勝手なことをするな」

 睨みつけ、朱那は言い放った。それでも舞琳は聞き流すように手を止めなかった。

「……はあ、全く。外の温もりはあなた様とケンカしようなどとは一切思っていませんから、安心して下さい。怒り奮闘のあなたに勝てるはずもないですから。ただ気持ちを和らげようとしているだけですよ」

 あまりにも真面目に仲裁をする副官を見て、朱那は引き退がるほか手段はなかった。なぜかと言えば、開かれた窓から暖かな風が吹き抜けて、どんよりとした空間を清掃していったからだ。

「舞琳。王には、一語一句違(たが)わずに伝えただろうな」

 朱那は怒りを通り越して執念に近い声色だったので、舞琳はまた肩を落とすしかできない。上司の扱いには苦労しない方だったが、今回は諦める。きっと何を言っても耳に留めないだろうし、だからこの場合は訊かれた事に対して答えるだけにしたほうが賢明だった。

「一応、王の御前(ごぜん)ですから敬語に変換しましたよ。それに関しては怒らないで下さいね。あの言いようでしたが王はちゃんと『わかった』と申していましたし。……はあ。あれでは脅しにいったようで」

「何だ?別に王を脅してはいけないという決まりは無いと思ったが?それに向こうには葉澄がいる。あんなもので気が済む訳がない。あの男の息子だぞ?秩序に欠ける、そして……『心を持たない王』だ」

「ええ……そうですね。ですが前の王と違って、(にん)は果たす方ですよ?平気なのではないですか?」

 歪な感情でいるにもかかわらず、朱那の耳には小鳥の(さえず)りが届き、葉がささめいてもいたのだと分かる。閉め切られたままでは、到底知ることもなかったことだ。けれどその何もかもがどうでもよくなって、今のこの状況を一から全部壊したくもなる。

「……娘は巻き込まれた。それに(おう)らは呑気に何も知らずにいる。謎も解けない頭なら身を滅ぼすことになるのにな」

 黙って休憩のお茶の用意に取りかかっていた舞琳は朱那の言葉に耳を傾けはしたけれど、返事をすることはなかった。


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